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『もの派』の外縁 柏原えつとむ論 

『もの派』の外縁 柏原えつとむ論  坂上しのぶ
(2009年 第1回所沢ビエンナーレ カタログ掲載)

 

序章

「『もの派』にあらずんば、作家にあらず。」
1970年代の日本の現代美術状況をふりかえる際、時代を揶揄する表現として筆者がしばしば耳にしてきたこの言葉は、当時を知らない私達の世代にも、いかに『もの派』的な作品が世を席捲していたかを想像させてくれる。(注1)第二次世界大戦という大きな節目を挟み、戦前から戦後にかけて日本の美術状況は、依然として既存の公募団体が強い勢力を保ってきた現実がある。その中で『もの派』の時流というものが果たして実際にはどのような位置を占めていたのか。もしかしたらそれは大きな美術という大河の中では、局部的に発生した小さなはしかのようなものに過ぎないのかもしれない。しかしながら『もの派』の存在は現在、今を生きる私達世代にとって欠かす事のできない歴史的事実であり、そして『もの派』という、今や日本でも世界でも非常に名高い日本の芸術運動の語源が一体どこにあるのか、それに対する考察はほとんどされないまま今日に到っている事実もある。
筆者は当時を体験していないが、残されてきている『もの派』文献を紐解きながら、『もの派』周辺に位置していたにもかかわらず、これまで開催されたいかなる『もの派』に関する展覧会にも取り上げられず、しかし当時『もの派』的な動きに対して徹底して批判的な立場を貫いていた一人の美術家に焦点を当て、『もの派』の語源とそれを取り巻く当時の状況を考察していきたいと思う。


『もの派』の語源
そもそもいつ『もの派』という言葉が出現してきたのだろうか。
美術評論家の峯村敏明は「もの派はどこまで越えられたか」(もの派とポストもの派の展開展覧会カタログより)の中で以下のように述べている。

「……もの派の呼称の起源を特定することはできないし、またその必要もないだろう。なぜなら、それは1970年前後、遅くとも72年あたりまで、もの派を批判的に見ていた作家や批評家の間で自然発生的に、ごく自然に用いられていた言葉だからである。」

1968年秋、第一回須磨離宮公園現代彫刻展で発表された関根伸夫の《位相-大地》を『もの派』の出発点であると位置づけたのは、当時美術評論をしていた李禹煥である。(注2)『美術手帖』1970年2月号「特集=発言する新人たち 出会いを求めて」でそれを語ると同時に掲載された座談会(「特集=発言する新人たち ⟨もの⟩がひらく新しい世界 座談会 小清水漸、関根伸夫、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗、李禹煥」で、《位相-大地》を基点にして『もの派』の枠組みを各氏が発言したことで、『もの派』の思考は、李の論拠に基づく理念として決定的となった。
《位相‐大地》の誕生からそこにたどり着く約一年半、『もの派』的な作品、すなわち、石や木、鉄などの素材にほとんど手を加えずに提示した作品群を目にする機会は、海外の作品を含めて次第に増えていた。つまり、『もの派』的な作品は決して日本だけのものではなく、海外にもある、むしろ海外の方が早い。それが日本に移入され持ち込まれるわけであるが、その流れは、日本では、1970年の大阪万博へ向かっていくお祭りムードの拡大への一種の反動とも言うべき“ニヒル”で“クールな”流行として展開している。クールな、と書いたのは、『もの派』へ向かっていく大きなうねりというものが、万博や反博運動のように熱くヒートアップしているのでは決してなく、それよりはむしろ人生に対する一種の諦観のようなものが含まれていて、国民全体が盛り上がっている現実への倦怠感が鬱的に発露されている感覚である。
この“脱力”的な状況は、当時の美術雑誌の論調を見ていても十分に汲み取る事が出来る。芸術の王道を突き進む、というよりは、傍目から傍観している、そういう感覚は、『もの派』的な作品の論説のほとんどに通底している。本来、芸術とは個人性を最大限に押し出して人間の創造力の崇高さを表現するものである。(注3)それに対して熱くなれず、冷ややかに傍観をしているのが『もの派』的な動きであるわけだから、(もちろん万博に向かう流れが王道の美術というわけではない)つまり『もの派』自体が美術の王道というよりは、傍流の美術の流れであると言えるのではなかろうか。
当然のことながらそのような表現は当時『もの派』とは呼ばれておらず、一時期『ボソット・アート』という言葉で表された時期がある。ボソット・アート-すなわち水だの炭だのが出来るだけ意味なく、ただボソッと置いた作品の提示として、東野芳明は1969年6月号の『芸術生活』に「批評家の眼6 ボソット・アートの誕生」として状況を次のように論じている。

「……高松次郎、田中信太郎、成田克彦、関根伸夫の四人は「グループ・4・ボソット(Groupe 4 Bossots)」を結成、(今年のパリ青年ビエンナーレの)グループ活動の部門に参加することになった。ボソット-BOSSOTS-意味は簡単である。すなわち、水だの炭だのが、出来るだけ意味合いなく、ただ、ボソッと置いてある、というだけのこと。これだけでは、花も実もある仮説を展開しなければなるまい。結論を先にいってしまえば、それは、いかに表現的な要素を排除することに人間が堪えられるか、という精神の冒険である。……」

ボソッとものを置く、この感覚、例えば学校のクラスの中でも、学級委員が中心にいて公明正大に正しい事を発言した内容よりも、それを聞いたクラスの端っこにいる普段目立たない生徒が何気なく“ボソッと”それに対する非難をささやかにこぼしたその中にこそ、真理があるように感じてしまう感覚とどこかで似ている。具体の吉原治良が「精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその物質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする。」と宣言し、手を加えた作品よりも、絵具のしたたりの方が美しいとして“つくらない”ことを賞賛した事。榎倉康二や高山登ら芸大系もの派と称される作家の先生である山口薫が、つくった作品よりも教室の隅っこに絵具が無雑作に飛び散った光景を美しいと賞した言葉……人間の手を離れて物質が裸になっている姿に美の領域を見てしまう、そのことで“つくらないこと”を肯定したこれらの論もある意味では“ボソット”論の先駆と言えるであろう。(注4)
この1969年パリ青年ビエンナーレ展の為に結成された「4ボソット」、そして同年8月19日~9月23日に京都国立近代美術館で開催された「現代美術の動向展」に出品されたいくつかの作品、具体的には、吉田克朗の鉄板がしなった作品《Cut-off No.2》、小清水漸の紙袋の中に石を入れた作品《かみ》、李禹煥が割れたガラスの上に石を置いた作品《現象と知覚B》等の登場は、この時代の“つくらない芸術”の存在を決定的なものにしたと言われている。
さらにそこへ向けて「つくり続けていくことに疲れた」作家たちが注いだ熱い眼差しは、作り続けてきて、もうありとあらゆる表現が出尽くした時代への閉塞感と、新しく熱いコンピューター時代の未来主義に参入しきれず、人間が科学的発展をし続けてきたことへの虚無感への合理的論理を「つくらないこと」の肯定へと結びつけていく。しかし、ここで大量の作家が「つくらない」芸術に雪崩こんでいった事実は、人間が創造し、個人個人の厳しい努力と研鑽とともにつくってくることで発展してきた歴史への反省と、そこで生じた矛盾と欠点に目を向け、そこで欠如している問題点に正面から向き合っていったからというよりは、むしろつくらない方が楽だから、という安易な理由が大きいだろう。そこに高度な論理が追求されるならば、決して多数はなびいていかないからだ。

 

柏原えつとむの登場

柏原えつとむは1941年、兵庫県神戸市に生まれ、1965年に多摩美術大学斎藤義重教室を卒業、関根や吉田克朗らの先輩に当たる人物である。(注5)柏原の現在に続く実質的なデビューは、1967年に発表された「サイレンサー・シリーズ」で、この作品は四角くくぼんだように描かれた空間が奇妙に飛び出して見えるように描かれている、いわば錯視的表現であり、当時流行っていたトリック・アートの作品として評価されている。(注6)しかし、柏原自身はトリックを前面に押し出し、絵画のイリュージョンを観客に伝えるいわばエンターテイメントとしての表現の模索をしていたというわけではなく、むしろトリックを組み込むことで、現実世界に対する懐疑を顕わにしようとしているのである。つまり柏原の表現を通して言える事は、「今、私達が目の前にしているものは必ずしも確実なものではない」そういう主張である。さらに柏原は、《Mr.X》(1969年)を発表。柏原と小泉博夫と前川欣三の三人の合作で、三人の顔を組み合わせ、この世に存在しない第三者の顔を出現させたこの作品は、人間が人間の顔を“顔”として認識していく際、ただ漠然と顔を見るのではなく、目じりの端や鼻先といった部分を“認識点”として認識していることを見出したもので、例えばひとりの人間の顔の認識点と他の顔の認識点をつなぐと、画像が無理なく複合出来る事を応用して、ペンギンと人間を組み合わせてペン人をつくってみるというような事をやってみせた作品である。一種の合成写真の原形ともいえる論理の先駆的な表現であるが、この世のものではないものを出現させたという意味で《サイレンサー》と共通している。
ここで非常に重要な論文、1968年、『WAVE68夏号』に掲載された柏原による論文「⟨サイレンサー⟩について」を引用しておきたい。(注7)

柏原えつとむ「サイレンサーについて-絵画は絵画の現実に-」
「私たち人間が神にもなれず鬼にもなれない中途半端な存在であるように、絵画には絵画の現実があります。どんなに超人的な天才が描いたとしても、絵にかいたモチは食べられませんし、どんなに歴史的な名作でも、「モナリザ」の後ろ姿は絶対に見ることが出来ません。けれども、人々は天才には超人的な術を、名作には物理的な現実を超えた何かを求めます。もちろん私も、人々が食べられるモチの絵や、後ろ姿を見せる「モナリザ」を求めているなどと言うつもりはありませんが、よく使われる⟨芸術的⟩という言葉の中味に、それに似た馬鹿馬鹿しさを感じるのです。良く分からない絵でも⟨芸術的⟩だと言われると、何だか立派なものに思えて、「分からない」と言うことが恥ずかしいような気になります。⟨歴史的価値⟩というのも、同じような響きがこめられています。いろいろな立場の人が、それぞれの価値観で作品という物体を見るのは、自由なことですから私はとやかく言うつもりはありませんが、それを立場の違う万人にまで押しつけられたのでは、たまったものではありません。いっそのこと「私は魅力を感じる」と、でも言ってくれたなら、「僕は感じない」で済ませることができるのですが…。これはもう、作品という物と人間との関係ではなく、人間同士の心の問題です。もともと中途半端でしかない人間が、どうして自分の価値観を人に押しつけることができるのでしょう。一体誰に他人の感性を支配する権利があるのでしょう。⟨芸術⟩という特別な価値を求めたばっかりに、こんなおかしなことが生まれたのだと私は考えます。このことを私は⟨芸術幻想⟩と呼んでいるのですが、今、美術の世界では私だけではなく、多くの若者たちがこんな⟨芸術⟩に反発して作品を作り始めています。
絵画とか彫刻とかいう枠を超えて、造型作品と呼ばれるものを作る人もいますし、ポップ・アートという新しい絵画を描く人もいます。ポップ・アートというのは、まるでポスターや広告看板のような絵ですが、先に書いた⟨芸術性⟩を鼻にかけない新しさがあります。造型美術の中には、電気仕掛けで動くものや光を放つ作品などもあって、⟨芸術⟩だなんて考えないでいい楽しさがあります。
しかし、私は絵画の現実の中にとどまって、⟨芸術的⟩にならない道を探すべきだと考えています。なぜなら、中途半端にすぎない人間がその現実の中で、「動かない女」や「たべられないモチ」に生身の女性や実際のモチにない魅力を発見したからこそ、人間と絵画の歴史が始まったのだと考えるからです。発見と認識こそが絵画の面白さだと思うからなのです。その意味では絵画とは人間にとって、とても魅力的な世界であることには、今も昔も変わらないのです。だからいけないのは絵画ではなくて、⟨芸術的⟩などという訳の分からない言葉で他人を支配しようとした一部の人間なのです。
さて、私の作品ですがこれは一年余り前から続けている「サイレンサー」というシリーズ作品のひとつです。写真では立体物にしか見えないと思いますが、実は平面に描いた絵なのです。実際に見てもどちらか良く分からないほどに、立体的に描いているのですが、見る人をだますつもりでそうしているのではありません。絵画と人間との最も素朴な原則を守りたいからです。現に、この作品を立体だと見違えたのちに、自分の眼で平面であることを発見した人々の多くが、その魅力を感じ取ってくれているようです。そして、立体に見せる方法が少しも特別なことではなくて、私でなくても、誰がしてもそうなるだろうという事も私が厳守したいことのひとつです。なぜならそれは私の魅力ではなく、絵画の持つ魅力だからです。技術や構成も、烏口やコンプレッサーを使って、出来る限り厳密に進めるように心掛けていますが、これは厳密に見てくれることを求めるためではなく、逆に自由な気持ちで見てもらうためです。物が物として厳密であればあるだけ、それに向き合う人間は自由な安心を得られるものだと、私は考えています。作者の感性が生々しい画面は、動的な想像力を刺激しますが、想像の距離感と拡がりに乏しくなります。作者の感性が見えないほど画面が厳密であれば、見る人々の想像力は時間感覚と距離感をともなって、遠くまで自由に拡がっていけると私には思えるのです。
もうひとつ、写真では分り難いのですが、立体に見える頂点にいくつかの穴が描かれています。これは私が夢想するイメージの世界で、極めて私流に描いています。文章の中の会話体の部分のようなものです。ですから、ここには私なりの思い込みが、いっぱい詰ったイメージの穴です。ひたすら静かで音もサイズも分らない空洞を……という私だけの世界です。
以上のような二つの世界の兼ね合いが、人間と絵画の素晴らしい関係を取り戻すための、ひとつの手掛かりになればと願って、作っているのが、このサイレンサーなのです。」

 

つくらない美術への挑戦状

柏原えつとむ「造ることへの反逆者たち-現代美術の動向展・京都国立近代美術館」
「かつて⟨物⟩を使って表現することの美術があった。それは芸術家が⟨物⟩を自分のものとして個人化しようとする幻想であったとも言える。しかし⟨物⟩はやはり⟨物⟩、作者とはあくまで別の存在であると気付いた時、その幻想は破れた。そしてこんどは科学知識やテクノロジーを武器に、⟨物⟩への征服を試みたのである。それは造ることであり、アポロ計画よろしく、人は懸命に造ることで⟨物⟩へ挑戦したのであったが、今、それも単なる幻想ではなかったかと、反問する作家たちが登場しはじめた。造っても造らなくても⟨物⟩は⟨物⟩、すなわち造るということは、作家の偏狭的解釈の中へ⟨物⟩を閉じ込める自己満足に過ぎないと、造ることを否定した反逆者たち数名が、京都国立近代美術館で催された現代美術の動向展へ出展した。
会場には石、鉄、紙、木、ガラスなど、造られることから解放された⟨物⟩たちが、造らないことの作品として、ほとんど原形のまま並べられている。例えば1辺30センチ角、長さ6,7メートルもあろう角材の上に、それぞれ厚みの違う鉄板4枚をならべ、鉄板のしなりは鉄板自身の重さにまかせた吉田克朗。床に敷いたガラス板の上へ岩を乗せることで、割れるままにした李禹煥。1トン以上もあると思われる御影石を紙袋の中におさめた小清水漸など。これらの作家は造ることをやめ、⟨物⟩自体の存在状況だけを正視しようとする。これには作者の解釈はもちろん、鑑賞者の解釈も登場の余地はない。あるのは提出された⟨物⟩の状況と、その状況から触れることのできる⟨物⟩自体の存在なのであるが、これを明確に提出するためには、作者の⟨物⟩に対する的確な概念の把握と、鋭く吟味された方法が要求される。造ることへの拒否から生まれたこれらの作家たちは、⟨物⟩と人との対決を余りにもきびしい限界線上に選んだと思えるのだ。人は⟨物⟩を造り得るという過信から目覚めた時、我々が避けるを許されない対決であることは分かるのだが、こういう限界線上で⟨物⟩と⟨人⟩とのかかわりの構造を明らかにした後、続けるべき仕事の難しさを憂慮せざるを得ない。このことは例え偶然にせよ、吉田、李、小清水の仕事、それに箱根の彫刻展における関根伸夫の作品が、同じ方法論で成り立っていることを考え合わせる時、増々難しく大きな壁を、行手に感じてしまうのである。作品の完成より先に、方法論が完成してしまうことは苦しいことである。
以上の作家たちが⟨物⟩と⟨人⟩とをその存在位置で対決させぬのに対し、「造らないこと」をつくることによって始めようとする作家たちが居る。美術館の壁と同質の壁をつくり、壁としてあるべきと思われる所へ設置することで、作品を消滅させる成田克彦や、Paperと印刷した紙を無造作に積み上げ、紙として提出する飯田昭二らである。飯田は概念と実体とをくるめて⟨紙⟩にしてしまい、成田は与えられ、動かすことのできない実体を、観念のプランの中に組み込んで見せる。ここには、人と物とをゼロ点での対等な位置から対決させるきびしさはないが、観念の操作によって人間の側から、再び⟨物⟩への挑戦を試みようとする、新しい道を見い出せるような気がするのである。
(『三彩』1969年10月号)

柏原の論文を引用したことで、柏原の論理というものが少しわかっていただけたであろうか。「ものだけでは、美術はとてもできないと思う。同じように観念だけでも芸術はできないと思う」(注8)これが柏原の中に一貫しているスタンスである。
文章中、柏原は、人間の根源にある「つくること」への生理的な欲求を全面的に否定した「つくらない芸術」に対し、痛烈な警鐘を打ち鳴らしている。また、『もの派』的な作品、すなわち石や木、鉄などの素材にほとんど手を加えずに提示した作品群が大量に出品されたこの段階で、はじめて具体的に「物」という言葉を登場させ、意識的に使ったのも柏原えつとむである。
柏原は、目に見えている現実空間の在り様に疑問の目を向け、はたしてそれは真実であるのかどうか、その疑念を《サイレンサー》を通し、現実にはありえない想像の世界を二次元空間に置き換えていくことで、紋切り型の現実世界に挑戦状を叩きつけた。さらには《Mr.X》を通し、人間は漠然と物を見て物事を判断するのではなく、ひとつひとつの認識点の統合によって物を判断していくのだというシステムを発見・開発した。そのように人間の認識を複数の角度から捉え“相対化”させていく柏原は、それまでの近代芸術が拠り所にしてきた個の作家性という“エゴ”を打ち消し “非人称化させた”作品を発表していくことで、“「つくらないこと」をつくることによって始めようとする作家たち”の一人でもある。それと同時に《Mr.X》の為に、延べ数ヶ月にもわたって複数回の討論をするなどして「なぜ人間はものを作るのか」「芸術とは何か」と、徹底的に人間の認識について突き詰めていく事で、安易につくらないですむ作品に流れ込んでいく状況におそらく日本で最も早く徹底抗戦をしかけた作家でもある。
この頃、アメリカのウォーホルは「誰もが似たことを考え、似たことをしているのだ。…だから努力しなくてもうまくいくはずじゃないか」と半ば居直った発言をしている。ある意味で「つくらないでいい」的流れに向かう先駆的表現とも言えるこの発言は、それまでの作家性、個性を全面的に押し出し、大げさな身振りで感情豊かに作品に命を吹き込んでいく、例えは抽象表現主義のような、それまでの「イズム」の芸術が、アメリカではついに行き着くところまで行き着いてしまっていた状態、そこに生まれた一種の倦怠感からの発言である。
同様に日本でも、やはりある種の表現に対する倦怠感がはびこるわけだが、そこで「つくらないこと」を本当に「つくらないで」成立させようとした、『出会いの芸術』が李禹煥の論理であり、それに対し柏原は反旗を翻した。

 

出会いの芸術への挑戦状

柏原えつとむ「概念と物との隙間より」
1970年5月イメージと認識展へのステートメント《概念と物との隙間より》
「例えば私の前に提出されたひとつの物、それが何を意味するのか、あるいは造形的にどうなのか、という探索は私には興味はない。表現と造形を越えた時点から自分をとりまいている物の群れにどう対処すべきなのかがもっぱら私の課題なのである。「我々は物を概念化することによって、物との出会いを失っている」と言って「出会いの美術」を説く作家たちに、あえて反論するつもりはないが、ただし、物への概念化がそう簡単に解きほぐせるものだとは私には思えない。そこに限定的な妥協もしくは自己満足などがない限り、概念を取り払ったはずの物へ新たに概念を導入しているという事実を、考えねばならないのではないか。
むしろ私は自分の概念を実在としての物へ直接ぶつけることにより生ずる概念と実在物との隙間から物への探索の新たな糸口が発見できるのではないかと考えている。」

当時、時代を牽引していた美術家としては、李禹煥と高松次郎が挙げられる。二人の影響は多大であり、美術評論家としては東野芳明と中原佑介、少し距離をおいて時流の推移を見守っていた針生一郎と、依然として御三家の思想展開と論説が大きな力を持っていた。ジャーナリストとしては『美術手帖』編集長として福住治夫が、リアルタイムに時代の動きを発信し状況に与えた影響は極めて大きい。
しかし1970年2月美術手帖誌上で語られた出会いの芸術に対するこの柏原の批判は『もの派』批判の一番早い段階で発表されている。柏原はそういう意味で、当時、美術評論をしていた李に対抗できる、この時期最も着眼点が鋭い分析家であり、評論家でもあり、作家でもあった。柏原の論が大きな注目を浴びたとは言い難いが、しかし時代の深層において、当時の美術評論が、実は美術評論家でも美術ジャーナリストでもなく、李と柏原という二人の美術作家によって牽引されていたという構図も見えてくる。
李禹煥は『出会いを求めて』の冒頭で、石に荷札をつけて送ることで作品化されている石に対し、“石は石を語らず、送り主の意図や観念を示すだけのもの”、川原の石ころに定められた数字を書き込んだことで石が“自らの容姿が数字の背後に隠れてしまう”として、石本来の姿を隠す「物への概念化」を否定する。しかし「物への概念化」とは、例えば月を見て「月にはうさぎが住んでいる」と思う感覚、木目を見てそこに人間の顔を当てはめてしまうというような、本来、人間が生まれついて持っている生理的な衝動である。その肯定の上に立たなければ、人間論は成立しない。
人間は何かを「つくらずに」生きていくことは出来ない、ウォーホルのような居直りや、つくることの完全な放棄は人間存在としてありえない事であると柏原は主張する。それと同時に、ものをつくり続けていくことで発展してきた人類の歴史の中で置き去りにされてきた、“創造する存在としての人間相対化”の必要性も同時に問いかけている。つまり、人間の創造力がさまざまなものを生み出してきたという人類の美術史を肯定しつつ、近代以降、次々とイズムをでっち上げて、個性を我が物顔に全面に押し出してきた芸術の有り方を否定したのである。そして産業革命以降の芸術の有り方を“人間のエゴ”であると断じ、「イズムをつくり続けてきた」ことで虚無感を覚えている当時の状況を踏まえ、“今必要なことは、人間がつくり続けていくことで表現をしている存在であることに改めて目を向けること”、それにイズムと付するのではなく、“ひとりひとりの人間は生まれながらに多様であり、ひとりひとりが違う表現をすることは当たり前の事実を認識すること”と論じていく。そこでの非人称性、つまり誰もが多様に表現をすることができ、それを肯定した上で「そういう表現を美術と呼ぶことは勝手だが……」という言い方で、芸術の相対化を試みたのである。
《Mr.X》の際、柏原えつとむ、小泉博夫、前川欣三の三人は「作家にとって、作品とは何か。果たしてオリジナル、創造は可能か……」このことを半年以上も討論しあい、認識を問う実験を繰り返していく事で、これらの問題を乗り越えようと格闘する。その論争は分厚いファイルに残されており、当時の日本の美術シーンを取り巻く情況が以下のように説明されている。

・脱絵画、脱彫刻の動きには、形式の拡がりだけを主眼とし、再生と再発見への志向は皆無である。その点において彼らは仮面を変えただけの形式主義者である。
・万博作家に代表されるテクノロジーアートへの流れもまた同様である。彼らは新しいクレヨンに目を見はる小学生レベルの感動だけを原動力にしているように見える。
・関根伸夫氏が私に語った「大いなる無⟨原存在?⟩」へのゆだねは、はるかに精神的ではあるが、その⟨ゆだね⟩によって、発見と再生の方向はせまく規定されてしまう危険がともなう。「大いなる無」への志向は、合理主義からの脱却はあっても、それ以上に手ごわい⟨絶対⟩への志向をはらんでいる。或いは彼らは本質的に⟨絶対主義者⟩かもしれない。……
(1969年2月28日「MR.X思索ノート 5 変化と流動について」より)

遡って1968年、関根伸夫が《位相-大地》を発表した頃、多摩美を卒業した柏原は京都に住んでいたが、柏原を慕う東京に住む多摩美の卒業生達は、頻繁に柏原宅を訪ねている。そもそものきっかけは、柏原の《サイレンサー》を齋藤義重が褒めたので(注9)、1967年の柏原の個展に、関根が吉田克朗など数名を引き連れてやってきて、床に車座に座り込んで仲間と議論をしたことが最初らしい。以降、それを契機に関根はひとりでよく京都へ行っては柏原宅に泊まるようになっていった。関根は、論が立つ柏原に作品や美術を取り巻く状況について話しかけていくことによって自己の内面を整理していたのかもしれない。この頃、関根は、『消去シリーズ』と付した、切り貼りされた女性が宙に浮いているような絵画作品を制作している。例えば「イスにすわる人物像」の写真を元にイスだけを消去してしまうという、何かが消されているイメージの絵画である。その後、上下が切れた筒のようなものが宙に浮いているトリック・アートの絵を発表するようになる。無重力に浮遊している女性を二次元絵画に描く感覚、立体と平面との関係を作品化する点、柏原の強い影響を感じるが、おそらく柏原との議論がそれらの作品(特に時系列的には『位相』作品)をつくるきっかけになったのであろう。そして彼は《位相-大地》(1968年10月-11月、須磨離宮公園現代彫刻展 朝日新聞社賞受賞)に到達する。《位相-大地》の下見段階、制作前後も、関根と吉田は柏原のアトリエに行っている。
ところが《Mr.X》制作中(注10)、柏原が東京で関根とばったり出会ったとき、「最近、韓国人の評論家と知り合いになって盛り上がっているが、一緒に会わないか?」と誘われたと言う。忙しいからと断ったが、関根の変化を実感したのと、その論理が《Mr.X》とはなじまないことを柏原は直感し、以来、関根とは作品についての話をあまりしなくなっていった。
そして関根の言う「大いなる無⟨原存在?⟩」へのゆだね」への傾斜は、その後急速に現実化していくことになる。
「想像力と生産の構造を開拓しないまま、形式と価値観のみの相対化を進めるなら人間はどれほど、その状況に耐え得るのであろうか?」(注11)柏原の警鐘は容易に無視され、形式と価値観のみの相対化こそが後に『もの派』と名づけられる流れの主要な問題になる。多摩美の後輩に当たる作家たち、つまり関根達は「李禹煥という凄い人がいる!」と言って次々に我こそが李の論に乗っかるぞと集まりはじめ、『出会いの芸術』についての勉強会が始まり、『出会いの芸術』がいかなるものであるか、それぞれの口から出会い論が語られ始めていく。関根の言葉を借りれば、それは“ものの表面に付着するホコリをはらい除けて、それとその含まれる世界を顕わにすること” “大いなる無へのゆだね”である。李の論に乗ることで、自分もその形式の上に乗っかった作家として一旗挙げていこうとする出世意識も刺激され、作家たちはそれぞれが福音を伝える弟子たちのように、それぞれの言葉で語られていく『出会いの芸術』は、急速に一般化していく。そしてつくらないことを肯定した芸術が、結果として安易な形に形式化されていく現実を柏原は目の当たりにすることになるのである。

 

⟨物⟩から⟨もの⟩へ

『もの派』の危うさをいち早く見抜き、それへの懐疑を誰よりも早く発言した柏原えつとむ。しかしながら柏原の論は、出会いの芸術の流れに飲み込まれていくだけでなく、以降の『もの派』論の中に、違う形で丸呑みされていく運命をたどっていくことになる。その組み込んでいく急先鋒となったのが、多摩美の柏原の後輩で、文芸部の後輩に当たる作家の菅木志雄である。
菅は1944年岩手県盛岡市に生まれ、1964年多摩美油絵科に入学する。「絵は好きであったが自分の才能が信じられず、むしろ、文学がやりたくて、奥野健男氏が顧問の文芸部で詩作などをする」ような学生であった菅は、1966年、斎藤義重教室に進み、翌年の1967年8月には、当時の若手の登竜門であった第11回シェル美術賞の一席を受賞する。 受賞の知らせは旅先の京都で知ったと言う。(注12)
それまでのシェル賞は、“画壇に新人を送り出すと同時に新しい絵画の創造に積極的に寄与 ”する機能を持つ反面、過去十年にわたる審査のうちにシェル賞の“形式”が生まれ、応募する作家たちはそのシェルの形式を意識しすぎて、その枠にはめ込んだ作品ばかりが搬入されてきていたようで、この年のシェル賞は、形式化してきたシェル賞に新しい風を吹き込むべく「日本絵画の可能性の開拓」をテーマに京都で審査が行われた。
その搬入も兼ねて菅はこの時京都にいたのだろう。当時の斎藤義重教室の学生の多くが柏原を慕い、柏原の方法論を手立てに多くを学んでいったことは前述の通りである。齋藤が語る柏原の存在が関根や菅たちには大きかったのだろう。それだけでなく柏原と菅は多摩美文芸部でも先輩後輩の関係であり、菅は柏原の次の次の部長であり、菅が新入生として入部したとき柏原は4年、幸村真佐男に部長をゆずったばかりであったが、クラブつながりでたびたび話をしていた。おそらく《位相-大地》のとき柏原のもとを関根たちが訪れていたのと同様、シェル賞受賞時、菅は柏原を訪ねていたかもしれない。菅が柏原から多くを学んでいた事は当時を知る人達の多くが認める事実である。ちなみに菅の初個展は五反田辺りの喫茶店で、柏原は彼にその作品の手法などにはアドバイスした覚えがあると言う。
そういう手探りの段階でシェル賞を受賞した菅の “遠近感を錯視させたイスと洗濯機のシルエット”が描かれた作品も、そういう柏原のアドバイスの延長上の作品であり、菅が「自分の世界」と言い切るのは、はばかれるもののようである。柏原と菅の距離がかなり接近していた事、菅が柏原に大幅に傾倒していたことは事実である。
いずれにしろ当時まだ『もの派』という言葉は無かったわけで、そういう『もの派』らしき形式へ一番最初に警鐘を鳴らした前出の柏原の論文「造ることへの反逆者たち-現代美術の動向展・京都国立近代美術館」は、「物」という言葉を引っぱり出し、「物」をキーワードに、「つくらないことの肯定」への疑念として『三彩』1969年10月号に発表された。その4ヵ月後に発刊された翌年2月の『美術手帖』上の座談会が『もの派』の形式を決定付けたのであるが、その折、菅は「発言する新人たち 状態を超えて在る」という論文の中で、「物」という言葉を多発しながら、『出会いの芸術』論を擁護している。

菅木志雄「特集=発言する新人たち 状態を超えて在る」美術手帖、1970年2月
「……「もの」を造る場合において、造る認識を捨て切ることがまず必要だったというのは、人を主体においた「もの」の見方でしか対象物を客観的実在としてとらえられなかったのである。「視る」以前にまず「在るように在る」という、人と並んだ時点で感知しなければならないものだ。人は、視るという客観性において、人が「もの」を「視る」という一方的な見方でしか「ものの在り方」を認知できない。「もの」が「もの」としての在り方を念頭においた認識ができないならば、「もの」は常に「もの」そのものでない状態でしか感知できないことになる。
「もの」を「もの」で否定する一つの方法は「もの」のもつ先天的な特性をそれらのものでしか表象できない「現象」として表出することである。……「未知のもの」をさぐりあてるもう一つの方法は、「もの」の質量形体、容積あるいは時間性なり空間性なり物質性を同質の素材をもちいて変容させ、明らかに「異なるもの」としての感性を表出する仕方である。……規定され認知されていた一つのあるものが、一つのあるものを切りくずし、別のあるものへ変容する。実在から実在へ、「もの」が決して「もの」の概念からのがれ切れないところで、「もの」としての変容を試みるのである。
虚構から実在の世界へ、虚体から実体へ、観念から実体へ、またその逆もしかり。われわれは常に相対的に何かを基準にしながら表象することを思考して来た。ここに来てはじめて「もの」が「もの」自身の基準でそれを否定する意思をもち始めたことを知り、観念が「もの」と「もの」を、「作為と不作為」をはかりにかけた時に、われわれはすでに何かを「造らねばならない」という前近代的な創造思考の弊害に落ち込んでいるのだ。
人だけでなく、もしもあらゆるものが批評精神をもつとしたら、「もの」が人を、「もの」が「もの」自身を批判していいはずである。「もの」を造る意識が何らかの抵抗の意思表示であるなら、できた「もの」が造った自分も含めて、その創造意識や作用というものを、それに平行している行為動作というものをあからさまに批判の対象にしていることを知らねばならない。われわれは造るものをあまりに信じすぎているために、「もの」の本質、「行為」の本質、「視る本質」そして「認識」することの本質をみやぶれない。……」

柏原が「⟨物⟩と人との対決を余りにもきびしい限界線上に選んだ」と語った⟨物⟩の存在は、4ヵ月後に発刊された『美術手帖』で菅によって⟨もの⟩へと置き換えられる。この⟨物⟩から⟨もの⟩への変換は極めて大きい。本来厳密に取り扱うべき⟨物⟩の存在はひらがなに置き換えられることで観念化され、⟨もの⟩と変化することで意味が曖昧になり、誰もが非常に使いやすい言葉に変えられた。⟨もの⟩が大衆化した一瞬である。
そして⟨もの⟩の存在、「在る」ものをそのものの極限的な「在る」状態に置きかえることを説いたこの論は、言い換えれば「既にあるものをさも新しいものに見えるようにほどこす」事である。これは個人性を最大限に押し出して人間の創造力の崇高さを表現する本来の芸術、さらにはそれを踏まえて柏原が主張する「人間がもともと持っている創造性や好奇心」の構造を「芸術という幻想」つまりは近代以降の形式化したイズムを相対化していくことでいかに乗り越えていくかという人類の芸術の限界線上での戦いをいとも簡単に脇へと追いやり、柏原がいどんだ論争そのものまでも闇に葬り去っていく。
当り前だが、難しい論争には多くの人は参加しない。人間は安易な方に流れていく動物である。「つくらない芸術」は以降、急速に一般化・大衆化し、「もの派にあらずんば、作家にあらず」と言われる程に拡がりの様相を見せていく。つまり柏原の論を闇に追いやって⟨もの⟩が登場したこの地点が『もの派』の語源の出発点に当たるのである。
菅が論文を発表した1970年2月の『美術手帖』の締切りは、推測するにおそらく前年の年末あたりだろう。前年、京都国立近代美術館で開かれた1969年現代美術の動向展で発表された李、小清水、吉田等の作品は当時の話題作として多くの注目が集まっており、かなり多くのメディアや美術評論家が取り上げている。それに寄せた柏原えつとむの三彩の文章が、実際に多くの人々の目触れたのかどうかは別としても、菅と柏原との間の個人的な関係から推測するに、菅はおそらく目を通しているのではないだろうか。李禹煥の登場以降、関根らと柏原との間では作品の話は出ないようになっていたようであるが、柏原は依然として論客であり、かといって柏原は東京に住んでいるわけではなく京都在住なので、メディアの中央からは距離があり、そのアイデアや思考が盗み出しやすい存在でもあった。
「面白い人がいる!」と言って、李の周りに集まっていた「つくらない作家」たちは、同時に「つくらないことに疑問を放つ」柏原にもおおいに傾倒していたわけだから、『もの派』を語っていく上で、柏原えつとむの存在は絶対に欠かしてはならない。そういう深層の部分だけでなく、表層の部分でも、柏原は『つくらない芸術』に最初に警鐘を鳴らした人物であり、『出会いの芸術』に対して真っ向から戦いを挑んだこれもまた最初の作家である。その記録はきちんと残されている。しかし現実はこれまで何回か開催されてきたいずれの『もの派』展にも柏原は呼ばれず、またそこで論じられる文章にも一切名前が上がっていない。柏原と『もの派』の関係性をたった一言でも書いた『もの派』論も存在しない。
物質へと還元していく時代の流れにかき消されていくように、柏原の論理はかき消され、『もの派』的な作品は、以降、今度は当時の状況を反映させた展覧会として登場する。「1970年8月展」である。参加作家は、狗巻賢二、大西清自、河口龍夫、小清水漸、菅木志雄、高橋雅之、高松次郎、田中信太郎、成田克彦、本田真吾、矢辺啓司、吉田克朗、李禹煥の13名。ここで東野芳明が論じている文章は⟨もの⟩が多発し、⟨もの⟩が市民権を得、流行語大賞的なノリで使われている。

 

⟨もの⟩以降

「ものだけでは、美術はとてもできないと思う。同じように観念だけでも芸術はできないと思う。」として、芸術とは何かを問い、芸術の相対化を追い続けた柏原えつとむ。しかし、本来の芸術の中枢論を展開していたかもしれない「創造」の構造を問うていた柏原の論は、いつのまにか圧倒的な『もの派』の流れの傍流と化してしまった。“『もの派』の外縁 柏原えつとむ”である。
反対に本来、芸術の傍流であるはずの『つくらない芸術』は、逆に本流となって流れ込み、現在の現代美術の状況を生み出し、日本の現代美術史上、『もの派』は、具体と並ぶ巨大な運動体として日本はおろか海外でさえも名前が知れ渡る存在になった。
個人性を最大限に押し出して人間の創造力の崇高さを表現する本来の芸術の王道が、日本の現代美術の世界の中では傍流としての存在であること、煙たがられていること、そしてさらには「オタク」という傍流が、日本では本流のように扱われ、現代美術の救世主ともてはやされて、さらには国を救うと国立“マンガ”センターまでが取りざたされる程になっているという、安易な方向にいとも簡単に流れていくのが、日本流なのだ。『もの派』はその先祖なのである。

この論を発表するにあたり、柏原えつとむ氏に目を通してもらったところ、柏原氏より「もの派に対して『柏原えつとむ』を重く計測し過ぎている危険を感じる」という感想を聞いたことを最後に付しておく。「雲の峰 佐渡によこたう 夢の跡」。昔「芭蕉の句はパズルのようにバラバラにしても並び替えても芭蕉の言葉になる」と、柏原が後輩たちに語ったときの句遊びであるこの言葉。生きた時代も違い、当時を知らない筆者が、残された文献をパズルのように並び替えた結果がこの文章であるわけだが、物事を歴史化させていくことの暴力を承知で、しかしこれまでの暴力に対抗する暴力があって、人間の歴史は動いていくのではないだろうか。

 

(注1)      この言葉は筆者が京都の現代美術画廊で働いていたときに、画廊オーナーが当時の時代を説明するときに使った言葉であり、同席していた幾人かの当時を知る作家たちも同調を示した言葉である。関西では少し前に「具体にあらずんば作家にあらず」という揶揄もあったというから、この言葉も生まれたのであろう。初期『もの派』の作家として取り上げられている作家たちは皆東京周辺に住んでいて、はたしてこの言葉が東京で使われていたのかどうかは不明であるが、公募展の力が依然として強かったとはいえ、70年代全般に流れる現代美術をとりまく時代の空気が、多くの作家たちを『もの派』的な作品づくりに駆り立てたことは事実であり、また『もの派』について当時を知らない筆者が深く興味を持った引き金にこの言葉があることがまぎれもない事実であるため、この言葉を文頭に取り上げた。

(注2)      《位相-大地》を最初に論じたのは、彫刻家の堀内正和である。池坊の機関雑誌『華道』1969年1月に「彫刻の垣根1」(堀内正和『坐忘録』1990年、美術出版社 再収録)と題して掲載されたその文章は平明かつ非常に的を得た視点で書かれている。しかしこれまでのもの派文献には登場していない。ここに掲載したいところであるが、かなり長くなるので無理なのだが、ぜひ目を通して貰いたい。

(注3)      ここで言う芸術とは、明治以降、西欧から輸入された芸術の考え方である。(西欧)文明の発展は、模倣や自然性を悪徳とし、個人性を最大限尊重してきた結果の上に成立しているものである。それゆえ過度な個性尊重は近代においては人間の理念の限界点を指し示していて、文明は行き詰まりの体を見せている現実がある。現代美術の歴史として、その状況はミニマルの登場に表わされるだろう。ミニマルは人間理性の到達点であると同時に限界点でもあり、そこのターニングポイントとして自然性を全面に押し出す『もの派』的な流行が世界的に広まったのだろう。

(注4)      そもそも自然性を尊重する考え方を芸術的に高めた先駆者は、千利休ではなかろうか。日本(東洋)には、もともとそのような思考が息づいていて、それが、個性の尊重が限界点に達したこの段階であらためて露呈してきたと思われる。

(注5)      斎藤義重が多摩美教授に就任したのは柏原が4年生のときで、実際に授業を受けたのは後期のみである。柏原が卒業後、斎藤は渡米。アメリカから持ち帰ったスライドに関根伸夫らは興奮していたという。斎藤教育が稼動したのは、帰国後の関根世代からだということだ。

(注6)      柏原の初個展は1966年で、後に《サイレント・ボックス・シリーズ》と名付けられた、浮かぶ箱の絵画の発表である。《サイレンサー》より、《サイレント・ボックス・シリーズ》の方が評価された記憶があると柏原は言うが、1968年になると《サイレンサー》が代表作として取り上げられるようになった。学生であった1964年頃から空中に浮かぶ逆遠近法の箱など、絵画でしか表わせない空想世界を前面に押し出した作品を描いていたが、もともとトリックという概念は柏原の内には無く、「こう描けば飛び出して見える」と試してみた結果が《サイレンサー》であって、石子順三が柏原の宇治のアトリエへ「トリック アンド ビジョン展」の企画を持って来た時は、「これもトリックともいえるのか?」と思ったと言う。

(注7)      『WAVE』というのは、当時、滋賀県の大津市あたりの商店街に置かれていたフリーマガジンであったらしい。編集メンバーに東京の美大(たしか武蔵美?)の卒業生(?)がいて、「今の美術と自作をわかりやすく書いてください」という依頼であったとのこと。(柏原談)

(注8)      柏原えつとむ・寺山修司(インタビュアー)「自作を語る 方法としてのモンローを論じる」芸術倶楽部 1974年8月 の際に語られた言葉。今も続いているスタンスである。

(注9)      柏原が斎藤とはじめて話をしたのは、卒業式後の謝恩会の席。「柏原君は君だね、作品に世界があって面白いよ。」その言葉しか柏原自身は覚えていないという。以降、斎藤は良き相談相手、理解者としての存在へと発展していく。

(注10)   暑い日で、柏原が赤坂プリンスのロビーで涼んでいると、偶然、関根が通りかかった時と柏原は記憶している。しかし内容からいって、《位相-大地》1968年秋以降翌年2月以前であろう。(柏原談)

(注11)   《Mr.X》討論中での発言。

(注12)   菅木志雄『菅木志雄1988-1968』1988年 かねこあーと より。柏原自身の記憶では、柏原は斎藤義重宅で、柏原、幸村真佐男、小泉博夫、菅の4人でいたときに、菅受賞を知ったという。受賞の報告に来た菅と、三人(幸村真佐男、小泉博夫と柏原)が、偶然鉢合わせしたとも考えられる。

 

特に参考にした文献

・吉原治良「具体美術宣言」藝術新潮 1956年12月号
・「記録 第11回シェル美術賞入選者決る」美術手帖 1967年10月
・「新しい遠近感 一席の作品 “京都での審査”西日本に明るい支援 第11回シェル美術賞展」夕刊京都 1967年9月8日
・山田竜平「日本絵画の可能性にいどむ 第11回シェル美術賞展」京都新聞 1967年9月9日
・柏原えつとむ「サイレンサーについて」WAVE 1968年夏号
・堀内正和「彫刻の垣根1」華道1969年1月、池坊
・柏原えつとむ「MR.X思索ノート」1969年2月~3月
・東野芳明「批評家の眼6 ボソット・アートの誕生」芸術生活 1969年6月
・関根伸夫「創らないということ」数学セミナー 1969年8月
・関根伸夫「“もの”との出会い」小原流挿花 1969年9月
・柏原えつとむ「造ることへの反逆者たち-現代美術の動向展・京都国立近代美術館」三彩 1969年10月
・李禹煥「特集=発言する新人たち 出会いを求めて」美術手帖 1970年2月
・菅木志雄「特集=発言する新人たち 状態を超えて在る」美術手帖 1970年2月
・ 「特集=発言する新人たち ⟨もの⟩がひらく新しい世界 座談会 小清水漸、関根伸夫、菅木志雄、成田克彦、吉田克朗、李禹煥」美術手帖 1970年2月
・柏原えつとむ「概念と物との隙間より」1970年5月イメージと認識展へのステートメント
・東野芳明「70年8月……展企画の弁」1970年8月現代美術の一段面 カタログ
・李禹煥『出会いを求めて』1971年 田畑書店
・柏原えつとむ「個展への招待<作為>と<私>の自立の試み」公明新聞 1972年6月25日 
・柏原えつとむ「Mr.Xとは何か1」美術史評2次2号 1973年4月
・柏原えつとむ「Mr.Xとは何か」美術史評2次3号 1974年4月
・寺山修司(インタビュアー)柏原えつとむ「自作を語る 方法としてのモンローを論じる」芸術倶楽部 1974年8月
・ 『関根伸夫1968-78』1978年 ゆりあ・ぺむぺら工房 
・峯村敏明「モノ派とは何であったか」1985年 モノ派展カタログ 鎌倉画廊
・峯村敏明「もの派はどこまで越えられたか」1986年 もの派とポストもの派の展開展覧会カタログより
・『菅木志雄1988-1968』1988年 かねこあーと
・堀内正和『坐忘録』1990年 美術出版社
・高山登「山口薫先生の思いで」 2007年 生誕100年記念山口薫と山口薫に学んだ作家たち カタログ 表参道画廊

 

今回執筆するにあたり、青木正弘氏、柏原えつとむ氏、彦坂尚嘉氏、福住治夫氏には、質問に答えてくださったりと協力してくださったことを感謝します。

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