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80年代考~80年代ニューウェーブをめぐって

80年代考~80年代ニューウェーブをめぐって
(2008年 所沢ビエンナーレ プレ美術展 カタログ掲載うち抜粋)

80年代序章としてのパレルゴン 公安の監視の目を逃れるように部屋の死角にはチェ・ゲバラの肖像が掲げられている。画廊に行けば、ただそこには石がゴロンと転がっているだけ。これは何ですか?というと作家は答える―これは芸術です、と。70年代の画廊のある日常の一コマだ。70年代前半の巨大な運動体“もの派”の台頭は、「もの派にあらずば人にあらず」と言われるような多大な影響を当時の美術界に及ぼしていた。多くはその影響力から逃れられず、そぎ落として成立させる部分を含んだそれらの美術の動きは“ものをつくらない”方向へと向かい、70年代末期の美術状況はまさに窒息的な閉塞感に満ち溢れていた。
 しかしその状況を内側から打破しようとする動きがまるでなかったわけではない。70年代に登場した作家で、80年代の予兆をその70年代後半の早い段階で強く意識させた作家の代表として、彦坂尚嘉や小清水漸の名が挙げられる。(注1) 小清水は、もの派の作家として括られる機会が多い作家であるが、1971年秋のパリ青年ビエンナーレへ参加し、ヨーロッパを旅行した折、ヨーロッパの作家は各自それぞれが抱えている歴史や文化を認識し、それらを表現の根底に据え、血肉としているのを感じ取り、それを日本の現代美術に欠落していることへの痛烈な批判精神として真摯に受け止め模索した作家のひとりである。小清水は、75年頃から発表しはじめた作業台や素焼きの容器に水を溜め、木を浮かべたシリーズ等を通し、華道や茶道、能、書など簡潔さの中に美を見出す日本人の感性をそそぎ込むことにより、新たな表現を切り開いていく。彦坂は、57577の和歌の規律に乗っ取って造形した木の彩色したウッドペインティングシリーズを通し、制作の復権、色彩と形象の復権を、日本においておそらく最初に主張した。(注2) 『美術手帖[美術年鑑]』1978年1月号増刊号「いま、あえて < 制作>を」須賀昭初、高木修、たにあらた、彦坂尚嘉4氏による座談会にそれが明確にあらわされている。彦坂は78年よりBゼミの講師となり、当時Bゼミに在籍していた若い世代の新しい動きに着目し展覧会を企画する等、80年代を牽引する前世代の代表としても挙げられる。当時の状況を彦坂は以下のように語っている。

「所謂68年のパリ5月革命を頂点に近代が沸騰してくるわけですが、その動きの中で“《象徴界》の抑圧”がどんどん外れていく。この《象徴界》という言葉は、ジャック・ラカンというフランスの構造主義の精神科医精神分析家の用語です。彼は人間の精神を、《象徴界》《想像界》《現実界》の3つで考えました。近代社会と言うのは、フーコーの言う《規律社会》であった訳で、各自が自分を律して行く“規律”を内在化させており、この“規律”を成立させていたのがいわゆる《象徴界》であった。つまり人間精神の3つの側面の中でこの《象徴界》が強く支配した時代が“近代”という時代であったということですね。それがベトナム戦争の激化の中で、近代特有の《規律社会》を形成していた《象徴界》が崩壊し、規律が壊れてきて“解放”されて、放縦な生活にみんなが夢をいだくようになっていった。その“解放”の代表的なものが、性的な抑圧です。67年にはデンマークで、69年にスウェーデンがポルノを解禁する。こうした潮流が、日本社会にも非常に大きな影響を及ぼしているんです。例えば日本では73年に中学生で14歳の山口百恵に《性典路線》と言われる性的な歌を歌わせて、日本中が今日の悲惨なロリコン性犯罪や幼児売春につながる退廃を、無思慮に拍手喝采で迎えました。こうした性的堕落化と平行して、モダンアートのハイアートの禁欲的な戒律が緩んできます。モダンアートというのは次第に偶像崇拝を禁止してイメージを排除し、《抽象美術》が追求されて来たのですが、そうした《象徴界》の“禁止”の力が弱くなって、《想像界》に文化の主流がシフトを始めた、つまり《想像界》の肯定化の中、《抽象美術》はエネルギーを失い、イメージが復活し、偶像崇拝的なローアートの時代に地滑りをしたというわけですね。
 
73年にはオイルショックが起こりました。ちょうど今日の石油高騰と似ていますが、石油に依存していた近代の物質文明そのものへの反省と転換をみんなが意識するんです。そうすると例えば神田の画廊でそれまでは一週間に1000人来ていたお客が一気に600人に減った。するとみんな言うんです、「さむいな」って。それで作品もどんどん停滞していく。それまで元気だった吉村益信をはじめとするネオダダ系のアーティストの大半が退場して行くし、もの派も関根伸夫をはじめとするオリジナルもの派の作家が衰弱して、李禹煥がペインティングを打ち出して、李禹煥、菅木志雄の後追いでもの派を模倣して登場した第2次もの派の時代に移行する。社会学で言う所の「模倣と横取り」ですね。もの派が、後追いの模倣者に横取りされて行ったんです。
 
70年代後半から全世界的に沸き起こってくる所謂ニューウェーブの動き、その早い時期の出現は73年のパリ青年ビエンナーレに見ることができると思います。スイスを中心にまとめて出現してきた女装した人たち、紙類に描いたものとか、ターザンがおちんちん出して立てていたり、生理のタンポンみたいなものをだーっと並べるといったボディアート系の退廃芸術です。それまでの芸術が絶対的に保持してきていた抑圧性みたいなものが急激にほどけて取れてしまったんですね。73年のパリ美に出していた北辻良央は帰国してきてからその作品が、コンセプチュアリズムから具象的、物語的な表現になって行ったのも、そういう動きを敏感に感じ取ったからだと思います。(注3) 
 
75年にアメリカがベトナム戦争に敗けると、沈鬱したムードは決定的な流れになってきます。彦坂史観でいうと、この1975年で、近代という時代は終わりました。(注4) この近代の終わりで、日本美術は、外から刺激が全く入って来なくなって鎖国に近い状態になります。アメリカがベトナムで負けたって事が世界の空気を変えたんですね。いわゆる左翼の退潮って状態。アメリカがベトナム戦争をやってるときは戦争に反対してべ平連とか新左翼の反戦運動がものすごく盛り上がったのに、アメリカが負けたら一緒に退潮してしまった。20世紀の事を、アメリカ人は「アメリカの世紀(アメリカンセンチュリー)」と言うように、アメリカが近代主義を牽引してきたわけで、芸術の歴史もまた、アメリカ美術が、第2次世界大戦後の美術状況を圧倒的に牽引してきた事実があるわけで、そのアメリカ芸術が追求してきたミニマル・アートまで行き着いていたモダンアートっていうのは、かなり抑圧が強い芸術運動だったわけですから、ベトナムで敗戦したことで、それまでの芸術を批判する論調が台頭してきたんです。その代表が、トム・ウルフの『The Painted Word』で、これが1975年です。(日本出版は、『現代美術コテンパン』高島 平吾訳、晶文社、1983年)それと姉妹編の「バウハウスからマイホームまで」が1981年。合わせてモダニズム批判の代表的なものであったと思いますが、過大評価すれば、このトム・ウルフの著作によって、ニューウエーブとデコンストラクションの建築が登場してきた。(注5) こうして、 “抑圧”をしないでいいんだという流れが出て来たわけです。この時代からシンディ・シャーマン、メープルソープ等の映像作品が出てきたし、小説では1974年に長編『キャリー』でデビューをするスティーヴン・キング等のモダンホラーが確立された。このモダンホラー小説が登場する背景としてはアメリカ社会の荒廃があって、1970年代に入ると、アメリカでは町の中で子どもが一年間に1000人くらいの子どもがさらわれるようになるし、さらわれた子どもの親は全米を捜して歩く。ハロウィンパーティで子どもがキャンディもらって歩くみたいなのがあったのに、それの中に毒が入っていたりかみそりの刃が入っていたり。恐怖が日常的になって、社会がものすごく荒廃したんですね。それまでは外部のベトナムを攻撃していたサディズムが、敗戦によってアメリカの社会の内側に折り返された。その一番弱いところの子どもに矛先が向けられていったんです。そうすると親は子どもを車に乗せて学校等を往復するようになるし、地下鉄はレイプが横行して地下鉄一両に一人ずつ警察官が乗る。ハリウッドでも75年を過ぎてくると幽霊ものの映画が登場してくる。それと迷信や占いですね。日本でも80年代に入るとそういう雑誌がどんどん増えてきたし、それが結局オウムに繋がっていくわけですが、迷信で人が動くようになってきた。抑圧がなくなってきたから幽霊も解禁になったんですね。まあ、そういうのを背景に75年以降のアメリカ美術が登場してきたわけ。
 
アメリカの敗戦によって一群の政治家、元々は革新、左翼出身であった民主党の政治家が、アメリカのベトナム敗戦に失望して、共和党へと転向していくんだけど、それらがネオコンになっていくんです。そしてそこに悪意が登場してくる。それまでの“世界を良くしよう”と言う考えがアメリカの中から消えていった。そんな状況のなか、例えばそれまでアメリカが開発してきたものを日本が器用に真似て大量生産を図りそれが成功してくるとアメリカの経済は反対に停滞するわけですから、そういう中で強力に知的所有権を主張してきたりとか、世界戦略が見直された。
 
多くの要素が加わってくるから、どれが原因かというのを言うのは難しいけど、この頃、世界を取り巻く社会構造がどんどん変ってきているのはひしひしと自覚してましたね。そんな状況の中、僕は、1975年にパリ青年ビエンナーレに行って(注6) フロアイベントを展開するわけですが、パリでの二ヶ月間、田窪恭治と同室でしてね、二人の会話の中で東京芸術の不在に対する危機意識っていうものを強く意識して、帰国後、堀浩哉、高見沢文雄を誘って「TOKYO GEIJUTSU 4」を結成し、アバンギャルドの終焉をはっきりと宣言したんです。自覚的に。それが僕が80年代的なものへと移行していく背景だったと思います」
 
70年に大阪で万博という大きな盛り上がりがあった最中もよど号ハイジャックがあったり、72年には連合赤軍あさま山荘事件が起こるなど日本の社会状況が一気に沈みこみ沈鬱としたムードに包まれたと同じように、現代美術の状況においても、美術家は素材に対峙してものを作り出していくというよりは、例えば8ミリカメラを足元に向け、何時間もただ自分の足を映し続けたり、身の回りのものをとりこんでその物質の変化をただ見つめ続けたような作品を発表してきたりと、(注7) 万博反博でお祭り騒ぎ的に盛り上がっていた気運は一気に水を差したように沈み込み、それまで自分たちが当たり前のように享受してきた“認識”を自分自身に向かってもう一度問い直すような動きが主流になってきた。皆がそれまで何の疑いも持たずに享受してきていた社会観や芸術観に対し疑いの眼を持ち始める。
 そういった状況がしばらく続いた後の70年代後半の日本の現代美術状況はというと、大きな流れで言えば、西欧が築いてきたモダニズムが展開してきたミニマルに代表される還元主義的芸術というものが袋小路に落ち込んで、もう終焉を迎えているのをなおも延命しようとする動きと、それを懐疑的に受け止める動きとがせめぎあいながら、なお、その束縛から解放されず精神的な自由を獲得することができない、というような沈鬱ムードが既に飽和状態に達していた。しかし画廊では、石がただひとつごろんと転がっているだけというような状況はまだ通用していたし、完璧につくりあげられた箱のようなものが、完璧につくられすぎてもはや箱の用途をもたない芸術としてしか成立しない箱を画廊に置いて、それを芸術として鑑賞する眼をもつ観衆が集まってくる、そんな状況がまだまだ成立していた。抑圧の近代はまだ未完であった。
 そんな中、当時の美術評論をリードしていた美術評論家たちが率先し、『美術手帖』紙上で、1977年4月号「絵画の平面と平面の絵画 平面が絵画になるとき」平野重光、中原佑介、峯村敏明、たにあらた、藤枝晃雄 や、1978年2月号「絵画と平面の相克 絵画自身に向かって」藤枝晃雄、李禹煥、山田正亮 等(注8)、もう一度美術家は描くことについて取り組むべきだと言う絵画の復権キャンペーンを行っている。しかしこのキャンペーンや彦坂、小清水らの動きはともに直接大きな流れに結びつくことは無く不発に終わっている。だが確実に新しい時代への変化を捉えていた、または変化をせざるをえないことを大きく意識させたこれらの特集は、80年代に誕生してくる新生児たるニューウェーブの動き…同世代同士が枠組みをこえてネットワークで結びついていく動きの前段階に、前の世代の美術家や美術評論家が前の世代的な方法で新しい方向を模索していたことをあらわしている。
 同時に社会は、あらゆる理念がもはや限界に達していた時代の末期的現象として、巷ではオカルティズムやノストラダムスの大予言に代表される世紀末思想が蔓延し、世の中は倦怠感を共有するある種の沈鬱感に満ちていた。音楽の世界ではセックスピストルズが登場し、パンクの中で社会情勢への不満を吐き出していたし、第三世界からレゲエが登場してくるなど、それまで西欧主導であった世界の構造は変わり、代わりに新しい時代のあり方、多民族性、多重性、多様性、シンフォニーに置き換わったポリフォニー等の新しい考え方が一気に浸透しはじめていた。
 思想家のミシェル・フーコーが、単一の切り口による断面ではなく、複数の様々な様式がパラレルに存在している多様な関係、すなわち「継起的な諸偏位の複合的関係」を《エピステーメー》(注9) と定義した新しい価値観としてのエピステーメーは、そのまま雑誌の名前として1975年、芸術と科学と哲学が戯れる劇場(創刊準備号後記より)として創刊された。※ この『エピステーメー』は現代哲学や現代思想論文が掲載されている硬派な雑誌だが、装丁を当時、工作舎が発刊していた「遊」(注10) の表紙をデザインしていた杉浦康平が担当し、難しいことをファッショナブルに取り上げるその感覚が時代のファッションとなり、70年代末の美術大学や美術予備校の学生は皆それを小脇に抱えて町を闊歩(注11) 崇高なる哲学は、デザインやファッション等の若者の風俗と結びつき、延命装置がつけられていたもののもはや死に体となっていたフォーマリスティックな価値観や芸術は表層から総崩れになった。これが80年代の序章にあたる。
 80年代前半、“ニューウェーブ”と呼ばれる主に1950年代後半~60年代前半に生まれた若い作家たちの発表の場として機能した画廊パレルゴンは、1981年2月16日神田にオープン。「パレルゴン」というその名称は、『エピステーメー』誌にも訳出されたデリダの同題論文から採られたものである。「エルゴン=作品」に接頭辞「パ=そば、傍ら」が付され、作品の傍らや縁に付されたものを意味し、額縁や台座など、作品の脇や縁にあるが作品ではないものを指す。同画廊を主宰した藤井雅実は、額縁や台座のない現代美術における結界=縁としての画廊を、この語で示唆したという。まさに80年代前半の作品は70年代までのものに比べ実にパレルゴン的である。モダンからポストモダンへの劇的な過渡期のエルゴンとして今日まで語られることが殆どない80年代前半の芸術運動を的確に表現する言葉である。この時代を代表する作家としては関東では、関口敦仁、岡崎乾二郎、宮島達男、大村益三、吉川陽一郎、荻野裕政、前本彰子ら、関西では中原浩大、石原友明、山部泰司、杉山知子、松井智恵等が挙げられる。今もなお一線で活躍するこれら作家の胎動期たる80年代前半の活動や作品が殆ど知られていない事もこの時代の美術をパレルゴンたらしめている所以である。

原形と現象からUENO‘80へ この頃、第三世界の文化が徐々に紹介されはじめ、欧米の芸術もまたそれぞれの国家や民族性を主張しはじめたこの時期の日本における“ほぼ記録が残されていない”80年代ニューウェーブの動向を筆者は、「前世代による顕在化への主導期」と位置づける。それは、もの派の作家の多くが多摩美の斉藤義重の周辺から登場したように、80年代前半をつくり上げていく作家の多くがアカデミズムのある特定される教室周辺から現れてきているからだ。それは東京藝術大学の榎倉康二、Bゼミの彦坂、宇佐美圭司、柏原えつとむ、多摩美の東野芳明、峯村敏明、李禹煥の3人の批評家、武蔵野美術大学の若林奮等である。
 日本の美術シーンにおいて、そのもっとも早い段階で80年代ニューウェーブ的な表現が画廊街に登場してきたものとして、筆者は、1978年8月7日~12日に村松画廊で開催された「原形と現象」展を挙げる。多分に70年代的なタイトルであるこの展覧会は、当時Bゼミで講師をしていた多木浩二と彦坂尚嘉が企画し、Bゼミの学生だった芥哲也、井上清仁、荻野裕政、金安美智子、北村義博の5人が出品している。なぜこの展覧会が企画されたかについては以下の企画主旨を読んでいただければ分かるだろう。
「企画主旨」
Bゼミの卒業生と学生によるこの展覧会を、彦坂尚嘉と私とで考えたのは、今年のBゼミ展を見ていて、見なれない徴候に触れる思いがふとしたからである。選択した作品が、従来の美術とはちがった形式を確立しているとか、完成度をもっているとかいうのではない。むしろある意味ではその逆であるが、現代美術風の形式を踏む作品より不思議に眼についたのである。ときとして50年代の美術を連想させたり、名づけようのないプリミティーヴな場合もあることは否定できないが、かれらはかつての様式に還ろうとしているのではないことは明らかである。こうしたいくつかの作品を集約してみるとどんな現象がみえてくるだろうか。それは放置すれば大海のなかの泡のように消えていくものかもしれない。あるいは全面的な変化につながるかすかな予兆なのか。いずれにしろ、これだけで判断するというような性質のものではない。
少なくとも、これらの若い美術家たちが、絵画という形式も質も無視して、それらを破壊しようという原始的な情熱に駆られているとはいえない。力量不足、奇怪な思い入れはあっても、もし形式ということばを使うなら、その確立を遅延させてしまうなにかが、かれらのなかにあるというべきではないか。矛盾やパラドクスにもみちている。たとえば一方では、むしろインテグレートする軸が強いのだが、このインテグレーションは、芸術の概念や美術の自律的な形式を、可能なかぎりのひろい視野で書き直そうとする意図ととなりあっている。様式対様式という継起のなかに身をゆだねるのではなく、そのような次元からは語りえないものとの関わりに生きている。だから、歴史という忘れられたファクター、芸術の内的構造と文化的な価値の相互作用についての関心、表現の主体、情念など多様なものが同時にあらわれている。かれらの作品が、表面の形式よりも深層に関心をさそうものを含んでいるのは、そのような理由からであろう。だからといって、根源的なもの、原形への還元作用だろうか、還元的というよりも、むしろ構成的なものではないか。その身振りは、それぞれかなり特異な地点で、現在にむかって炸裂するものを求めてはいないだろうか。」(多木浩二)
 
前章冒頭に書いたように70年代末期、作品は石ころが一つ画廊空間にゴロンと転がっているようなものが多く占めていたし、絵を描く、色を使う、例えばりんごの絵を描いてみるようなことですらできない「失画症」的逼塞状況はピークに達していた。この「失画症」という言葉は、当時、多木、彦坂と同じくBゼミで講師をつとめていた宇佐美圭司が1980年に出版した『絵画論―描くことの復権』(筑摩書房)でつかった言葉である。この「原形と現象」展は、1978年からBゼミ(注12) で講師をはじめた彦坂(以前から非常勤では勤めていた)が実質企画をした展覧会であるが、美術評論家の多木浩二を企画者の全面に押しているその形式は、70年代的、つまり美術評論家が展覧会に名前を連ねることは近代の約束事だからいれている、というスタイルである。(注13) てかてかとした表面をもった芥哲也や、鉛筆か何かで自分の自画像を描いていた金安美智子の作品など、作り物ではなく本当に心理的悩みが表現されていて良かったという。(注14)
 この展覧会の評価はともかく、いわゆる80年代的な、新しい時代の到来を知らしめる展覧会は78年と79年には殆ど見当たらない。しかし、78年には榎倉康二が東京芸大や東京造形大などの臨時講師をつとめるようになり、79年には学生等の署名運動によって榎倉が東京芸大の油絵科講師になり、ニューウェーブと呼ばれる海外での新しい動向が続々と若い学生等に紹介されるようになるなど水面下で着実に地殻変動は起こっていた。(注15)
 1980年1月8日~30日、東京藝術大学大学会館展示室で、学生企画による展覧会「UENO‘80」(注16) が開かれた。出品作家は、秋山隆、鹿沼亮輔、小林亮介、佐川晃司、田代睦三、坪良二、保科豊己、築瀬寛之、杉全直、池田雅文、柏井良友、川俣正、千崎千恵夫、古川流雄、三宅康郎、榎倉康二、海老沢功、黒部晃一、小西修、酒井信一、関口敦仁、田中睦治、中村一美である。ニューウェーブより2~3年上の世代の川俣正、佐川晃司、保科豊己、中村一美らが自分達でつくった展示室で、講師の榎倉康二を巻き込み、芸大の現代美術系の学生等に声をかけ実現した展覧会である。芸大アカデミズムと言われる古い体質ではない新しいタイプの展覧会として評価されるものであるが、基本的には、もの派っぽいものや具象か芸大風抽象画、ベニヤをつかった作品群で絵画系の現代美術は二人くらいしかいなかったという。(関口敦仁談)この展覧会で注目すべきは、このメンバーの中に当時大学三年生であった関口敦仁が参加していたことだ。彼は80年代ニューウェーブを代表する作家のひとりであり、以降その動きのフィクサーとしての重要な役割を果たしていくこととなる。
 この年、いくつかの注目すべき展覧会が挙げられるが、特筆すべきは以下である。
 1980年11月15日~12月17日 西武美術館、東京「ART TODAY‘80 絵画の問題」企画:藤枝晃雄 出品作家:辰野登恵子、根岸芳郎、依田寿久
 1980年11月16日~30日 横浜市民ギャラリー「今日の作家‘80 感情と構成」企画:藤枝晃雄 出品作家:川俣正、須賀昭初、中上清、中村功、根岸芳郎、福島敬恭、山田正亮
 70年代、ストライプや連続点線などでミニマルな表現をして注目を浴びていた辰野登恵子の“転身”と揶揄された、画面にS字のようなものが描かれ、多様な色彩が重層的に表現されたいわゆる“表現主義”的な絵画の登場がある。この衝撃は大きく、抑圧から解き放たれ感情豊かに表現されはじめた世界各地の作家の数々の作品図版とともに、次年1981年1月号の美術手帖は「80年代美術 動き出すニューウェイヴ」(注意17) という特集が組まれた。執筆者は藤枝晃雄、峯村敏明、平井亮一、那賀裕子+貞彦、図版は、エリザベス・マーレイ、根岸芳郎、デニス・アシュボウ、ピート・オムロー、ジョン・ゾーン、ロン・ゴーチョフ、山田正亮、アナ・ビアロブロダ、キャサリン・ウォーレン、エドワード・ユーキリス、ルイ・カーン、ダグラス・アバークロンビー、ダリル・ヒュート、キャロル・サットン、辰野登恵子、ポール・フォニエ、ヴェレッド・リーブ、ジョセフ・ドラペル、ジェニファー・ドゥラン、キクオ・サイトウ、ジョン・マックリーン、ゴットフフリード・メールウェーガー、メレディス・ジョンソン、サンディ・スローン、ナンシー・グレイヴス、サム・ギリアム、ピエール・ホーベンサク、中上清、フランセス・バース、須賀昭初、ステファン・バックレイ、川俣正、栗岡孝於、大村益三、福島敬恭、加茂博、池ヶ谷肇、依田寿久、中村功、ジョン・グリーンフェン、桜井智章、沖啓介、宮崎豊治、戸谷成夫、スーザン・ローゼンバーグ、エドウィン・イージードーシク、ホルトス・グラスカー、ドミニク・ゴーティエ、ロドニー・リップス、ブライス・マーデン、イサベル・シャンピオン・メタディエ、クロード・ヴィアラ、リンダ・ベングリス、ジェニファー・バートレット、デボラ・バターフィールド、ウエイド・ソーンダーズ、アルド・スポルディ、ダン・プレイヤー、ジョナサン・ボロフスキー、ジャッキー・ウインザー、アリス・エイコク、ジン・ジク・ユン、デニス・オッペンハイム、マーティン・プライヤー、ジョエル・シャピロ、デニス・エヴァンズ、ジョディ・ピント、ジェイムズ・サールズ、ルチアノ・バルトリーニ、アリス・アダムズ、ジャッキー・フェラーラ、ハリエット・フェイゲンバウム、マリアンヌ・ヘスケ、ブレンダ・グッドマン、チャールズ・シモンズ、キャサリン・スコルニコフ、サイア・アーマジャニ、ドナ・デニス、ソーントン・ウィリス、ハロルド・フィーストである。ここに登場する作家、あるいはジュリアン・シュナーベルやステラの作品など、この特集で挙げられた数々の問題意識は、若い作家たちが抱えようとしはじめていた問題と重なり合い、大きな共感をもって迎えられた。1980年のベニスビエンナーレには日本から榎倉康二、若林奮、小清水漸が選ばれ、ジョナサン・ボロフスキーやアンセルム・キーファー、ジグマー・ポルケ、マグダレーナ・アバカノヴィッチ、ゲオルグ・バゼリッツ、ニコラ・デ・マリア、クロード・ヴィアラ等そうそうたる80年代を代表する作家が参加している。この模様については『美術手帖』1980年9月号「海外速報 ヴェネチア・ビエンナーレ 榎倉康二」で紹介されている。また榎倉周辺の川俣正ら芸大の若い作家たちも着実に認められはじめていた。しかしもっと若い当時まだ20歳代前半の若者たちはむしろそれすらも古い既存の枠組みの中での出来事と捉え、なにものにも囚われたくない、“新生児”たちによる既存の枠組みにとらわれない新しい形のネットワークを既につくりはじめていた。

“アヴァンギャルド”としての80年代ニューウェーブ 「映画を見ていて、今私は映画を見ていたのに突然幕に穴があいて燃えたりしたら、幕を物質だと思う瞬間が発生する、そのギャップそれ自体を瞬間に定着させられるかというリアルさ、突発的な瞬間をどれだけ定着させられるかをみんな信じていた」
 
「当時はイメージの力が構造そのものを作り上げる、それが可能だ、と思えた時代だった。そういう意味で、“もの”にプロジェクションをかけて“もの”の物質感をなくすこともやったし、それと同様のことが絵画も成り立つのではないかと思われていた。ただ、夢から覚めるとやっぱり“もの”は“もの”だなと、その辺の微妙な差はある。だけど、そこはある程度、表現の質でも作家によって微妙に差があって、“もの”を知覚する以前に空間とか色の知覚が先行してしまえば、そういう物質性はなくなってしまう。それが錯覚だといってしまったらまずいけど、どうにかしてそれを両立させようとした作家もいたし、それでバランスをとれた人もいた。ただ湧き上がってくるいろんなイメージが意図しないで被さっていくそういう状況が当時にはあった。それをみんなストレートに出そうとした。そういう要素が少しでもあれば、あるいは自分自身で押さえられないあるイメージを描きこんで、それを定着せざるを得ない作品だなと思える作家には積極的に声をかけたし、それは当時、同世代に結構存在していた。そういう連中は例えば『アキラ』を見て共感したりとか、なんか繊細なんだ。それはオカルティズムにまではいかないけど、何かしら抱えきれないイメージを持っていて、それがどういう形で現れるかわからないけど、なぜか発生してきてそれを定着させざるをえない、とても冷静に還元主義な作品だけ作っていられるような精神状態じゃないという時代性が当時あって、それをまともに受け取りながらリアルに表現するし、表出せざるをえなかった」
 
これは、筆者が80年代ニューウェーブを形成した作家の一人の関口敦仁に当時のリアリティについて聞いた際の言葉である。ニューウェーブとは、特に画廊パレルゴン周辺で活動を開始した作家たちを中心とした、当時20歳代のアーティストたちを呼んだ言葉である。画廊パレルゴンは1981年2月16日に神田にオープンした画廊で、オーナーは現在、美学研究や翻訳を手がけている藤井雅実である。パレルゴンは当時の東京近辺の美術大学の学生や院生、大学を出たくらいの作家が発表する新しい感覚の交差点としての機能をはたした場所である。当時いわゆる“あたらしい連中”を受け入れる場はほとんど無かった状況の下、気軽に若い作家が集うコアであったが経済的に成り立たず、83年には東京芸大や大学院を出た学生卒業生たちを中心とした自主管理画廊へと移行する。(87年まで)
 パレルゴンができたこの年を筆者は「80年代ニューウェーブ本格始動の年」と位置づけている。
 81年は急速に若い20歳代の作家による自主企画展が増えた年である。また82年から85年くらいにかけては、いま手元に資料があるだけでも年間100本は越えているから、このエネルギーはまさに爆発状態である。パレルゴンのほか、神奈川県民ホールギャラリーや横浜市民ギャラリーが自主企画展の主な場であったが、その出品者たちは、作家同士が “共感しあえる”ことが一番重要なことで、その“共感”をキーワードに互いに声を掛け合い自主的な企画展が開催されるようになっていた。パレルゴンには藤井雅実が、パレルゴンを根城に岡崎乾二郎が論客として頭角を現してきたのもこの頃だが、それだけではなく共感を持つお互いが意見を交換しあいながら、既存のレトリックに囚われない、つまり、それぞれが自分の知覚を頼りに自分達の言葉を発するようになってきた。近代が培ってきたフォーマルな要素、芸術を成立させるための多くの決まりごと、それらを破壊し、自分のなかの物語を成立させる、身の回りの出来事など自分が何よりもリアリティが感じ取れる物事を作品のなかに織り込むことで、“芸術を自分の側に引き込む”ことが作品を成立させる何よりも大切な要素となった。自殺した弟のことを火の中で焼き焦げていく男のようなものを描くことで表現したり、キャンバスの中に自分が入り込み作品の一部になったり、少女の頃から親しんでいる手芸の延長上の仕事で内臓や血液を思わせる造形を入れ込んだり、そういった直接的なものから、日本的なものを取り込んだ作品、諏訪直樹などが上げられるが、それぞれがそれぞれの表現を試み始めた。それらは結局は稚拙な物語性を強調する結果になったとしても、手法も手段もそれぞれ自分で試行錯誤しはじめたものであり、それぞれが時代の新生児として一歩を踏み出した表現である。作品形態も、キャンバスにダンボールや布などの異物をとりつけ枠をはみ出させその異物感自体が暴走するイメージが表現されたり、キャンバスの枠自体を否定した壁面インスタレーションを試みられるなど、絵画の構造を変えるのに四角い枠の中を変えるのではなく外部の構造自体を変えることにより、現実の側、つまりこちら側に絵画のイメージを引きずり出し、異物感を意識させることで“現実に穴をあける”その感覚が大切な要素のひとつになった。したがって当時の作品は皆とてもじゃないが家に飾れるものではないし、展示されていて居心地がいいと感じられるものは全くといっていいほど見当たらない。当時の美術手帖、新聞記事もニューウェーブをとりあげた記事はほとんど無い。このエネルギーをどう取り扱うか、どう評論したらよいかわからなかったのだろう。その表現は当事者以外語ることができないことが多かった。当事者もまた自分が直接関わっていることについては話せるが、社会性に乏しく、作品をつくる手段と同じく、言葉自体もそれぞれが自分自身で探さざるを得ない状況であったから、間違っているかもしれないと思いながらも非常につたない言葉で説明するしかなかった。当時はシンポジウムなど盛んに行われており、多くの場合は美術評論家が同席していたが、作家の仕事についてそれぞれの作家がしゃべっていたそのときに「作っている人にしゃべらせても答えがみつからないから、そろそろ僕が語ろうか」といって評論家は当時流行していた言葉を使って語りだす。“トランス”とか“交通”とかそういった類の言葉である。作家のつたない説明で用いられる抽象的な言葉を具体的な言葉に翻訳して伝える立場であった画廊や評論家が当時現れなかった上に、抽象的な表現を逆に違う抽象的な言葉に置き換えて混乱させてしまうような評論家がほとんどだった。少なくとも70年代までは評論家の言葉と作家の言葉は同じ共通語をもって語られていたし、モダニズム芸術という大きなひとつの枠組みのなかで美術表現が成立していた、しかし今やそれまで培った概念や言葉では捉えきれない今日の状況に、既存のレトリックでのみ対応しようとしていた評論家は言葉を失いつつあった。批評の不在、である。
 当時、多くのグループ展が主に自主企画で行われていたが、学閥を超えた総花的なグループ展を挙げるとすれば以下の3つである。
 1982年5月10日~24日 画廊パレルゴン、東京「現代美術の最前線」出品作家:LIENE KRUG、岩崎元郎、酒井信一、玉置仁、三宅康郎、加茂博、須崎敬文、竹田康宏、沼尻昭子、花井重信、井口大介、岡田匡史、海発準一、川島清、高木英章、池ヶ谷肇、高橋裕二、田代睦三、平原正明、山本裕子、今井了、大村益三、小林亮介、佐々木悦弘、曾根夏生、伊藤誠、岡崎乾二郎、佐川晃司、島久幸、吉川陽一郎、金子靖憲、菊池敏直、関口敦仁、松居永樹、松浦寿夫、芥哲也、荻野裕政、奥野寛明、黒川弘毅 ○1グループ5名で8回の連続展。東京の各美術大学学生卒業生より選抜。
1983年7月25日~8月20日 村松画廊、東京「臨界芸術・83年の位相展」出品作家:7月25日~30日 小黒裕幸、蔵重範子、西村文広、平林薫、矢野美智子 8月1日~6日 岡美鈴、菊池敏直、栗岡孝於、関口敦仁、西園久美子 8月8日~14日 阿部守、菊池明彦、平昇、坂東雅、山倉研志 8月15日~20日 荒瀬景敏、片山晶文、前本彰子、ミヤマエマサキ、吉川陽一郎 テキスト:たにあらた
 1985年7月8日~8月10日 村松画廊、東京「臨界芸術85年の位相」企画:たにあらた 出品作家:牛島智子、菅野由美子、関口敦仁、中村一美、松尾直樹、笠原たけし、中西学、本間かおり、前本彰子、松井智恵、川島清、小泉俊己、中西圭子、中原浩大、松井紫朗、荒瀬景敏、石原友明、岡本幸久、菊池明彦、近藤克義、千崎千恵夫、鳥飼京子、森田彗、山倉研志、矢野美智子 85年の臨界芸術展(注18) は、中原浩大、松井紫朗、石原友明、中西学ら関西の作家が名前を連ねている。当時“西高東低”と揶揄されたごとく、80年代は“関西ニューウェーブ”が美術界を席捲した時代でもある。お互いの共感でもって成立していたゆるやかな“ネットワーク”は、地域、学閥の垣根を越えていた。

“フジヤマゲイシャ”と関西ニューウェーブ 「銀座のギャラリーで初めて関口敦仁君と会ったとき、意気投合して交換展をしようと話し合った。その後、有志の輪を拡げ、「フジヤマゲイシャ」なる一見時代錯誤と思われるタイトルも決まった。フジヤマゲイシャは、忘れられようとしている外から見た日本のイメージだと思われる。けれど、今さら…と我々若者が、言えるだろうか。経済や技術の面での印象があまりにも強過ぎて、エコノミックやテクニカルアニマルとしてのイメージが先行してゆく現在に至っては、フジヤマゲイシャの方がまだましだったかもしれない。今、われわれアーティスト達が、内に屈折せず、世界座標の中での我々の美の位置を認識し行動してゆく為の第一歩として東京・京都の相互移動交換展を開くに至ったゆえんである。」
 
フジヤマゲイシャ(注19) の京都側の代表の池田周功の言葉である。(注20)フジヤマゲイシャは、東京藝術大学、京都市立芸術大学の大学院生、学生有志によるはじめての交流展の名称だ。交流展であると同時に、関西の若い作家たちの多くの作品が地域差を乗り越え、時差なく中央=東京に紹介されるきっかけの展覧会でもある。また学閥の壁を乗り越えたことは、大学内で勢力を持っていた悪しき因習-年功序列や古い作品様式への固執をあっけらかんと否定する姿勢の宣言でもある。この展覧会の第一回目は1982年11月、12月でメンバーは以下の通りである。
 1982年11月1日~13日 京都市立芸術大学ギャラリー、京都 1982年12月13日~25日 東京芸術大学展示室、東京「フジヤマ・ゲイシャ展」出品作家:11/1~6 小西修、橋本かの子、池田周功、奥野寛明、高木英章、中原浩大、椿昇 11/8~13 山部泰司、マスダマキコ、大橋弘滋、長野久人、杉山知子、布引雅子、関口敦仁 12/13~18 杉山知子、中原浩大、布引雅子、奥野寛明、大橋弘滋、池田周功、橋本かの子 12/20~25 関口敦仁、新田和成、マスダマキコ、椿昇、小西修、高木英章、長野久人、山部泰司
 フジヤマゲイシャは、京都芸大の池田周功が1981年11月16日~28日にホワイトアートギャラリー(注21)で開催された東京芸大の関口敦仁個展「single pulse」の会場で関口と出会い、お互い意気投合し、一年後に互いの大学学生が交流する展覧会の誕生を約束し発展した展覧会だ。(注22)もともと日本趣味があり、外来文化の形成として成立している日本文化、その折衷主義のあり方をいかに正当化して現代美術に取り入れるかということを考えていた関口は、大学三年時の古美術研究旅行で京都に行ったときの影響が強く、以降機会あるごとに京都を訪れるようになっていた。同時に関西の学生も東京の展覧会を積極的に見に来ていた。(注23) それまでの枠組みを越えて成立させようとした彼等の作品表現と同様、意識においても地域や制度としての学閥の枠組みを越えた相互交流をはかることは、前世代の人間に対しての強烈なメッセージが込められていた。(注24) フジヤマゲイシャの名称は京都芸大の椿昇の部屋で、東京から関口、奥野寛明、京都からは池田、杉山知子、椿昇、中原浩大、橋本かの子(もしかしたら布引雅子かもしれない)、マスダマキコ、山部泰司が打ち合わせをして決められた。当時、前の世代からは「フジヤマゲイシャがどういう意味で使われていたのかわかってるのか!ヨーロッパ文明圏が日本につかった蔑称だ!」という非難が大きかった。フジヤマゲイシャのフジヤマは、東京(関東)観光の目玉であったし、ゲイシャは芸者、すなわち色町で、京都、というのがある。ある程度、屈辱的に海外に対するシンボルとして存在していたそのフジヤマゲイシャをあえて持ち出すことにより、自分達のアイデンティティについてもう一度考え直してみたい考えがあったという。(注25) 欧米の美術に対しての日本はレベルも、またオリジナリティにおいても希薄であり、そんな状況への一石を投じる気持ちもあったようだ。京都のほうは池田が声をかけ、東京は関口が声をかけメンバーを集めていったが、「東京でもある程度新しいのをと思っていたが限界もあった。京都の連中のほうが作品的には目新しいものがあったから、東京のほうに刺激を与えたいという気持ちもあった」と関口は言う。関口のすぐ上の世代には1982年ベニスビエンナーレに行った川俣正や保科豊己などすでにポジションを獲得している作家の層が厚く、同世代の弱さに対する気持ちも相当大きかっただろう。関西では特に石原友明、中原浩大のふたりの表現に“まるで違う”という印象を持ったという。石原の作品は“映像的”で新しいと思ったし、中原は重層的かつ複層的、この二人は絶対伸びると感じたという。当時の石原は、三角定規のような形の実体と影を複層的にさせたモノクロ写真の作品や、背中をそらせて角度を持った自分の裸体写真と垂直にたらされた長い巾布を構成した作品を、中原は、色彩豊かに彩られた大きさも形も不ぞろいの積み木やテーブルのような形体、棒や板切れなど多種多様な立体物を一見無秩序に配置したインスタレーションをつくっていた。他に東京方面には見当たらず「関西っぽいな」と思った作家としては、杉山知子、山部泰司などを上げている。杉山、山部は当時やはり色彩豊かに彩られた身近な形象を借りたような半立体を壁面全体に配置した壁面インスタレーションだった。反対に東京方面の学生の作品には色彩の氾濫はほとんど見られないし、素材にあまり手を加えず配置したような作品群が目立つ。
 関西においても、若い世代による新しい動きはすでに活発化していた。京都では1955年から続いていた京都アンデパンダン(注26) や1979年に生まれたグッドアート(注27) など、あらゆる表現を受け入れる土壌が既にあり、作品のスケールや形態にこだわらず作品をつくることができる状況はすでに生まれていた。また、1973年から兵庫県立近代美術館で年に一回開催されている「アートナウ」(注28) は関西の現代美術家を毎年選抜する展覧会で、82年からは関西の若手作家を中心に初出品者のみで展覧会を構成する主旨に変わり、作家は十分なスペースを与えられ意欲的な大作を次々に発表することが出来るようになっていた。関西方面の作家の作品が“でかい”のもその点によるものが大きい。(注29)
 京都芸大の学生も大阪芸大の学生も、同世代で共感意識をもつ仲間が集まりはじめ、大阪府立現代美術センター等で自主企画展をしたり、自分世代の感覚のファッショナブルな面を全面に押し出して自分達を積極的にPRする同人誌をたくさん発刊し、お互いの連帯を図りつつ、中央(東京経由世界行き)を意識した動きも始まっていた。1982年秋には、大阪芸大と京都芸大の有志を中心に自主企画された「イエスアート」(注30) がギャラリー白(注31) で開催されている。70年代、社会や政治情勢あらゆるものに対して“NO”を唱えることが自らの意思を貫く手段であると考えられていたのとは逆に、あらゆる出来事に対して“YES”と肯定宣言したイエスアートは、要綱を掲げず流動的なメンバーによって時代にフレキシブルに対応していく展覧会として、80年代半ば頃から枠を広げ愛知や九州のメンバーも参加するようになっていく。この頃の取り上げるべき展覧会として、
 1982年2月1日~6日 大阪府立現代美術センター、大阪「スピリチュアル・ポップ展」出品作家:小田英之、藤本由紀夫、山部泰司、飯田三代、小林善隆、高間準、谷口由子、椿昇、中谷昭雄、堀尾充、八木正、吉田孝光
が挙げられる。この展覧会は、関西の若手が同世代の共感をもって成立させたおそらく最初期の新しいあり方の展覧会で、小田英之、八木正、山部泰司が事務局を結成し企画されている。「スピリチュアル・ポップとは芸術上の様式概念ではなく、よりプリミティヴにヒトやモノのあり方や生き方を問題としている。」「スピリチュアル・ポップは自分の殻を作って内にこもったり、美を純粋培養したりしない。現実に根ざし環境に対してオープンではあるけれども、無我でなく各自がオリジナルな開放的複数形であろうとする」「スピリットとは古い概念のユニットがこわれるときの衝撃と感覚であり、破壊と発生の同時進行のことである。」「スピリチュアル・ポップは常に運動し変化しているあらゆる存在に対して好感を示す」「環境とメディアは今でも重要である。しかしそれは抽象的な環境と電気的なメディアであるよりも、シティ・ランドスケイプとスピリチュアル・ネットワークと言ったほうがよい。現象の中にひそんでいるあらゆる回路を活性化させることが必要である」
 これらは展覧会に際して発行された小冊子に書かれたスピリチュアルポップについての説明である。冊子には当時人気者だった「遊」編集長・松岡正剛が寄せたメッセージがあり、展覧会のシンポジウムには大阪大学教授・石田正、生体エネルギー研究所・井村宏次をパネラーに、広島大学助教授・若尾裕が「音楽と認識」、大阪大学教授・石田正「遊戯論・現代美術と遊戯」、井村宏次が「気の世界・アートと超技術」と題した講演をし、超能力者が来場してオーラのライブペインティングが行われ、さらに当時の流行雑誌であった「遊」に山部の編集による展覧会記事が掲載されるなど、メディアを利用し、多岐に渡る興味を示し、当時のオカルト的な盛り上がりを加味し、展覧会の内容も求める観客も美術の枠にこだわらない“じぶんたちの感覚”で演出している。それは、大学にいて、前の美術をみていて、先輩たちをみていて、それに対して、どこかおもしろくないなという意識、もういいじゃないか、という、古い体質に対し新しい仕掛けをはかることにより、芸術の枠を押し広げようとしはじめた展覧会である。
 たてつづけに開催された「モード・オール・オーヴァ」「ポリモード」展。
 1982年5月18日~23日 ギャラリー射手座、京都「モード・オール・オーヴァ」出品作家:石橋保、中原浩大
 1982年7月5日~10日 京都芸大ギャラリー、京都「ポリモード展」企画:高間準 出品作家:石橋保、高間準、中原浩大、布引雅子、松尾直樹「作品の空間感性が、ある還元状態を迎えたといえる今日、我々が絵画や彫刻を再構成しようとする時課題となるのは、図と地の論議を超えた、モードとモードのパラレルな多重状態であり、モードにおけるヒエラルキーの解消でもあろう。それに際して我々は<モードオールオーヴァ>とも言うべき知覚を手中に、ミクロとマクロの解放へと向い、リアリティーをもつ新たな空間の表出を求める。」(モードオールオーヴァ―展チラシより)
 
この展覧会は、色彩の氾濫のごとく彩色された様々なサイズに切られた板群が画廊空間を埋め尽くすように天井から床まで垂直に直角に斜めに多様に配置され、その隙間にはシャピロを思わせる小さな立体を装着、床には積み木のようなもの、板片でつくられた道筋のようなもの、テーブルのようなもの、大きな板に描かれた色の重なり合う平面…。その表現はまさに“モード・オール・オーヴァ”で、多重性を持ち複数の原理によって成立している。同様に東京においても、
 1983年8月1日~15日 Gアートギャラリー、東京「ポリパラレル1」企画:関口敦仁 出品作家:井口大介、金子靖憲、関口敦仁、中原浩大、野村和弘、松居永樹、古井智、渡辺正宏
 1983年11月14日~12月20日 ギャラリーK、東京「ポリパラレル2×」出品作家:井口大介、金子靖仁、関口敦仁、中原浩大、野村和弘、松居永樹、古井智、渡辺正宏 シンポジウム「芸術と社会性」:松浦寿夫、藤井雅実、関口敦仁、金子靖仁
が開催。ポリパラレル=複数の様々な様式が平行に、それぞれ同等にヒエラルキーなく共存している状態、これこそまさにこの時代の作品のキーワードである。
 「歴史は今、同時発生的直感をのぞんでいる。これまでの西洋に対する日本であるとか、ミニマルに対するニューペインティングであるとか、単一線上のくりかえしにおいて表現の方向性をめざしても、もはや何も語ってはくれない。可能性はまず今までの流れに対する意思的断絶を予知することから始まる。人は本来、ロゴス中心に自分を押しやろうとする深層構造内の無意識なパワーによって自己を正統化し、目標を定め、表現を行い、その表現における価値認識は、社会は一つのロゴスを持つという想定において、環境性やそこにある精神性を表現レベルにする事で作品として成立させてきた。だが現実は潜在的暴力にせまられた単一の枠組では把えられない意識のマルチ化が進行してきている。そのマルチロゴス化して行く自分に気づかずに、暴力的パワーは蓄積されて行くばかりである。しかし、それを理解する価値観も方法もなく、芸術の意味性を失いかけている。我々は具体的な方法を踏まえて、世界中に散りばめられたサブシステムを同時共存させながら、失われた直感力を再考して行こうとする一過的グループである。故に潜在的暴力を助長するイメージにたよらず、自分の役割において決定される立場(飛行する思考の腫瘍、蟻の視点、異質な過去形体、ポルポト解釈など)をとり、個々が通過的方法としてわきまえながら、直観的差異構造の重要性を逆転の様式として、視覚体感の可能性を問いたい。Polyparallelは同時通過してゆくサブシステムを敢えて統合されないものとして正確に把握して行こうというものである。」関口敦仁によるポリパラレルマニフェスト(マニフェスト「ポリディーズム」参照)

ラデカルな意思のスマイル 「浩大とか、彼の表現を見たとき彼は引きずってないんじゃないかって感じがした。僕らはぜんぜん引きずってる。日本の「左派」がやってきた前衛を引きずってる。前衛運動としての美術を引きずってる。中原はもっとフォーマルなことを考えられる。引きずっとらへん。そう感じた。」
 
この言葉は、今年4月にギャラリー16で「80年代考 1983年の《Pine Tree Installation》」と題して中原浩大の当時の作品を展示した際に収録した、石原友明の言葉である。中原は1981年夏に東京都美術館で開催された「OPERA I」(注32) に一人だけ年が離れた立場で出品している。その際出会った年上の作家たちについて彼はこう述べている。 「彼等は考えられる人たちだったし、知識も僕なんかより断然蓄積があったし、質的に高いものを提供してくれるイメージがあった。彼等のうちには「遊」の中に記事を書いている人をレクチャーに呼んでくるみたいなことをやってたりして…それについていくのか、次のことを自分の周りにいる世代の連中と考えるのか、それがまず選択肢としてあった」(注33) おおまかに言うと80年代ニューウェーブ世代は1958年生まれから1961年生まれの間に収まる作家が多い。「遊」を読んでいて「遊」に共感をもって、工作舎に出入りしていた1958年生まれの山部泰司と、それを前の世代と感じ取る1961年生まれの中原浩大がいるように、ニューウェーブは必ずしも同じ共感をもって、ネットワークをつくっていたわけではなく、そのわずかな年齢差のなかに大きなギャップを持ちつつ動いていた。また関西の動きが大体1982年くらいから始まるのに対し、東京のニューウェーブ的な動きが先行していたことに対する対東京的な意識が関西にはあったし、同時に関西に刺激をもとめる東京の意識、その両者はたえず融合刺激しあいつつ、お互い自主企画グループ展だけでも年間100本以上持ちながら連動していた。その動きは1985年くらいに頂点に達し、メディアもその若い動きを注目しはじめてきた。84年くらいから美術手帖もニューペインティングやニューウェイブの作家を取り上げるようになり、(注34) 画廊も彼等の作品に興味を持つようになってきた。また、当時台頭してきた女性作家を「超少女」として取り上げたり、(注35) 作家はその表現のみならず、外見や発言も対象となり、美術雑誌も一種のマスコミ風に社会現象として“ファッショナブルな若い作家”を取り上げるようになっていた。1984年からはTAMA VIVANTが多摩美芸術学科のプロジェクトとしてスタート(注36) ハラアニュアル(注37) でも若い作家が次々に紹介されるようになってきたし、毎年作品の発表も画廊や美術を展示できるフリースペースだけでなく自分達でつくった場所(注38) ディスコやライブハウスなど発表の場はどんどん広がりはじめてきた。関西の作家も東京で発表する機会が増えつつあったし、学生らも、大学の中で作品をつくり勉強するだけでなく、積極的に外に活躍の場を求める気運が高まりそのテンションはかなりのハイレベルにまで高まってきていたようだ。その一種異常な雰囲気は、すでに同世代だけでなく前世代新世代にも確実に波及しはじめていた。美術作家が展覧会場で作品と連動させながら体をつかってパフォーマンスをするのは普通になっていたし、京都芸大ではニューウェーブ以降の世代が自分達の演劇サークル活動を基盤に「演劇集団カルマ」、後の「ダムタイプ」が結成されている。ダムタイプは演出音響登場人物そのいずれもがそれぞれの個性を前面に押し出し、その多重性を複合離散させあいながら成立させているまさに80年代感覚のユニットとして登場した。ダムタイプの中心人物たちは当時、京都芸大のアーネスト佐藤が受け持っていた映像教室に出入りしており、そこには、木村浩、森村泰昌、石原友明、松井智恵らが集まっていた。1951年生まれの森村、1952年生まれの木村は、当時、非常勤講師としてその指導に当たっていたが、そこで大きな刺激を受け始めていた。彼等が学んだ芸術はまさに前世代までのものであり、コンセプチュアルなものにどっぷりとつかっていた世代であり、多くの拘束のもと作品をつくり上げていた。そんな中、80年代的な、いわゆる身体性を取り入れ、時にはファッショナブルに70年代と違って“見やすい作品形体をもっていた”その表現のなかに、もっと“刺激”を与えるようなものをつくり出せるのではないか。そういう意思のもと、木村、森村、石原の三者がそれぞれ順番に展覧会を企画する話が持ち上がり、まずその第一弾の展覧会1984年6月12日~24日、大阪のギャラリー・ビューで「オレ達は寡黙じゃない、わかりますか、写真です、写真。」が、まず木村の企画で開催された。出品作家は、石原友明、加藤三千代、木村浩、砥綿正之、松井知恵、森村泰昌の6名である。当時アーネスト佐藤の授業で扱われていたのはモノクロ写真であり、森村はデュシャンを意識させるような写真作品、石原は自分の裸体写真を取り込み構成した作品、木村は1メートル超ある曲尺の先端を研ぎナイフに見立て、それを写した写真を展示している。翌年、今度は森村の持ち回りで1985年7月2日~7日まで、今度は京都のギャラリー16において「ラデカルな意思のスマイル」展が開かれた。出品したのは、石原、木村、森村の3名である。(注39)
 この展覧会のタイトルは、スーザン・ソンタグの「ラディカルな意思のスタイル」から採られており、「ラディカル」は「ラデカル」とわざと日本語的なヤボさ加減を出してはぐらかし、「スタイル」も「スマイル」と言いかえ、このふたつのアレンジで、深刻ぶることからの80年代型の「逃走」を試みている、と後年森村によって書かれた『芸術家Mのできるまで』(1998年 筑摩書房)で森村は述べている。この展覧会で、石原は植物園にあるドーム型温室の前に本人が立ち、本人はピンボケに背景がくっきりと映し出されたモノクロ写真を、木村は、《あほばかまぬけ》と題し、いろいろな人の首から上が左右に振られてぶれて写された写真の下に文章が書かれた作品を展示した。「挑戦的」かつ「挑発的」な展覧会にすることをかなり意図的に表現した作品であったという。そして森村が出してきたのが、以降、森村の名を知らしめる「ゴッホ」の写真である。ゴーギャンと喧嘩をしその腹いせに自らの耳を切ってゴーギャンに送りつけたそのゴッホの後頭部が包帯でぐるぐる巻きにされた自画像の内容と同様このショッキングな色彩写真は、その登場以降、当時、東京はおろか京都でさえもほとんどその名を知られていなかった森村泰昌を、わずか3年後の88年にはベニスビエンナーレに出品されるまでに周知されるようになる。年齢を隠し、その人物の歴史も不明なままに駆け上がっていくその様は周囲にとっても森村自身にとっても脅威であっただろう。(注40) 
 「僕らみたいにミニマルの体験をしてきていると、印象派の絵は否定する、その中でも特にゴッホはタブーだった。女子供が皆好きな。もちろん専門家がそれをいうのもものすごくタブーだった。そういうストイックなものの中でものづくりをしていた。本当は油絵でそういう明るいものをつくりたかったかもしれないけど、そういうものを封印することによって成立してきた」(木村浩談)
 
70年代の人間が、自らがゴッホに扮して登場してくるそのインパクトは計り知れないものだった。 森村のゴッホは、70年代まで保持されてきた還元主義的モダニズムを否定する作品であるのと同時に、抽象的な言葉をもって抽象的に表現されていた80年代ニューウェーブの動きをも否定する、いわば二重の否定の上に立った作品である。暴力的なまでに直接性を持つこのゴッホ以降、つまり85年以降、明らかにニューウェーブ的な動きは下火になったし、抽象的な芸術のレトリックは再領土化が進み、絵画は絵画へ、彫刻は彫刻へ、皆がもといたフィールドへと帰っていくきっかけにもなった作品とも言える。70年代後半以降世界中で巻き起こったニューウェーブのブームも「トランスアバンギャルディア」「ドイツ表現主義」「フィギュラシオンリーブル」「新表現主義」「パンクアート」「バッドペインティング」「グラフィティー」と、それぞれが固有の名称をつけられそれが一般化されていっていたし、さらに80年代後半に入ると「シミュレーショニズム」や「ネオジオ」等どんどんその様式はカテゴライズされていく。86年以降日本はバブル期を迎え、美術館は乱立し、画商は新たに力を持ち始め、「絵画と彫刻の復権」という名のもと、大竹伸朗はニューペインティングの旗手として祭り上げられたし、もの派も「もの派とポストもの派の展開」(注41) 等、総括が試みられるなど、あらゆる芸術の総決算が図られてくるようになってきた。メディアと市場、そのどちらにも汲みこまれることができなかった“アバンギャルド”たる日本の“ニューウェーブ”は“パレルゴン”として美術史の流れから完全にかき消され、以降ほとんど語られることがないまま、今日に引き続いている。森村のゴッホは、86年以降のバブル経済がもたらしたグローバル化、芸術の再領土化、その他あらゆる現象の言わば分岐路に立つ作品なのである。

終わりに 筆者は、今年4月発刊した「80年代考」前後より、いわゆる闇に葬りさられてしまった“80年代ニューウェーブ”の動向について各所でインタビューを重ねてきている。しかしその当事者もまた、当時を明確に語ることがまだ出来ていない。ニューウェーブ世代の作家、もしくは現在活躍している作家の当時の作品は、これまでほとんど取り上げられてくることがなかったし、それは、“アバンギャルド”たる“ニューウェーブ”の動きに対応しきれず批評できないままに80年代前半の流れを放置し、80年代を「絵画と彫刻の復権の時代」と一括りにしてしまっている現在の美術史、そしてそれをつくり上げた復権派の評論家やバブル期の画商たちによって隠匿されたのかもしれない歴史の結果なのかもしれない。しかし同時に市場やメディアに振り回されず、それぞれが自分の知覚をもって発言できた当時を、藤井雅実の言葉を借りれば「歴史の中の夢の時代」と評することもまたできる。しかしながら、「批評の不在」と言われて久しい今日の美術評論の状況は、この頃の時代、つまり新しい時代に批評が対応しきれなくなってきた、そこに端を発するのではないだろうか。そして批評がもう一度、力を獲得するには、いま一度この時代に立ち戻り、対峙する必要があるのではないか。少なくとも、当時の作品や言葉のいくつかは、今でも認めるべき優れたものが残されていると感じるのである。

(注1)他の表現者の作品にも80年代的なものを感じさせるものがあるが、筆者が話を聞いてきた作家の多くがこの2名の名を挙げる為、代表として提示した。
(注2)1979年3月3日~27日まで西武美術館で開催された「art’79 木との対話」展 出品作家:小清水漸、彦坂尚嘉、最上寿之 コミッショナー:中原佑介 は、大きな反響を得、一時期“木”ブーム的なものが起こったりした。新しい世代で川俣正、保科豊己などが木をつかった表現を開始し、この頃は一大“木”ブーム、ベニヤブームとして挙げられる。
(注3)「この頃から時代表現は、《象徴界》の表現から、《想像界》の表現に移行して行く。しかし《想像界》の作品に完全になると、ニューウエーブは崩壊し、1986年頃からは、《現実界》の作品にシフトが代わります。つまり《象徴界》→《想像界》→《現実界》へと表現の主軸が移動して現在に至っています。坂上さんが問題にしている1980年代というのは、表現が《象徴界》から《想像界》へとシフトを換えて、そして崩壊する時代の事だと思います。」(彦坂尚嘉談)
(注4)「正確には《近代》というのは2つあったのですが、一つがアメリカに代表される近代であって、もう一つがソヴィエトに代表される近代でした。この近代が2つあったということは、ネグリ/ハートの『帝国』でも指摘している事です。ですから75年にアメリカのベトナム敗戦で近代は終わり、そして1991年のソヴィエトの崩壊で、もう一つの近代も終わって、2つの終焉で近代は完全に終わるのです。」(彦坂尚嘉談)
(注5)「もっとも、フランク・ゲーリーが注目されるのは、1978年 サンタモニカの自宅の安価なリノベーションであった「ゲーリー自邸」ですから、トム・ウルフの影響という言い方は、無理がありますが。」(彦坂尚嘉談)
(注6)第9回パリ青年ビエンナーレの会期は1975年9月19日~11月2日。日本コミッショナー:峯村敏明。出品作家:田窪恭治、野村仁、彦坂尚嘉、藤原和通。
(注7)1960年代後半から70年代前半にかけて、多くの美術家が皆こぞって8ミリや16ミリなどを携え映像作品を制作、主に京都新聞主催の企画「現代の造形 映像表現」等で発表した。1966年のシングルエイトの発売により手軽に8ミリが扱えるようになったのと、アンダーグラウンドシネマや「エンパイア」のアンディ・ウォーホルの影響などがある。美術家の映像については『美術史探索学入門 美術館時代が掘り起こした作家達』(目黒区美術館、1988年)に詳しいデータが掲載されているし、筆者もまたこの頃について調査中である。
(注8)2008年7月6日、現場研究会主催のシンポジウム「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術―画廊パレルゴンの活動を焦点として―」が京橋区民館で午後1時半より開催された。その折配られた簡易年表には、この2つの他以下があげられている・ マルスラン・プレーネ/岩崎力訳『絵画の教え』(朝日出版社、1976年)・藤枝晃雄『現代美術の展開』(美術出版社、1977年)・ 第8回美術手帖芸術評論、秋田由利「美術における終焉と自由:構造主義以降の地平から」(1979年)
(注9)ミシェル・フーコー…《エピステーメー》はあらゆる科学に共通な<歴史の断面>ではない。それは<特殊な残留の同時的なたわむれ>である。《エピステーメー》は<理性の一般的段階>ではない。それは<継起的な諸偏位の複合的関係>なのだ。(エピステーメー創刊準備号表紙より)エピステーメーの説明については、とくに藤井雅実氏の協力を得た。
(注10)朝日出版社。1979年終刊。
(注11)工作舎出版。1971年から1982年までつづいた月刊雑誌。
(注12)当時のBゼミには売れっ子作家や評論家が講師として招かれている。とくに柏原えつとむの影響が大きかったという。Bゼミからは80年代前半“おもしろい”表現が出始め注目されていた。
(注13)69年の美共闘結成の頃から、美共闘の事務所に多木浩二の事務所がつかわれていたという古い関係が両者の間にはある。その事務所は同時に写真雑誌・プロヴォークの事務所でもあり、当時彦坂は多木浩二の暗室を使わせてもらっていた。
(注14)彦坂尚嘉の証言。
(注15)『現代美術の断面』(京都国際芸術センター、1987年)掲載「東京・ニューウェーブとその周辺」年表(監修:たにあらた、作成:山倉研志、関口敦仁)1979年より抜粋・    坪良一、田代睦三、川俣正、三宅康郎等、東京藝術大学生の署名運動で榎倉康二が同大学油絵科講師になる。・    安斎重男がニューヨークの最新アートシーンのスライドを各大学、Bゼミ等で上映、東京芸大、造形大では大講義室に数百人の学生が集まった。Bゼミ等でも大半のゼミ生が出席した。・    同じ頃、榎倉康二がベニス・ビエンナーレでの新しい動きの作品をスライドで、各大学、Bゼミ等で上映。・    美術手帖80年1月号に安斎重男、近藤竜男の写真で、ボロフスキー他、ニューウェーブをはじめてマスコミで紹介(特集:アートアンドイリュージョン)
(注16)「UENO‘80」に引き続き「UENO’82」「UENO‘85」も開催されている。・    1982年7月7日~14日 7月15日~22日 7月23日~30日 東京藝術大学大学会館2F展示室「UENO‘82」出品作家:7月7日~14日 奥野寛明、小西修、関口敦仁、田代睦三、坪良一、野村和弘、保科豊巳、宮島達男 7月15日~22日 井川惺亮、出射茂、蔵重範子、竹田康弘、田中睦治、土屋譲、早川哲理、古井智、有村森文 7月23日~30日 榎倉康二、北川和男、黒部晃一、小林亮介、佐藤時啓、新田和成、丸山浩司、吉村明 ○毎週シンポジウムがあった ○カタログ対談:松浦寿夫、細川周平、松枝致、山村仁志、藤井雅実、関口敦仁・    1985年7月8日~27日 東京芸大大学会館展示室「UENO‘85」企画:熊谷優子 出品作家:柿崎隆之、江頭慎、茂井健司、平林薫、渡辺林太郎、永田則子(尼子靖、小畠泰明、伊藤信明、渡辺林太郎)=WAY-PRO、細木由範、佐々木潤子、熊谷優子、エサシトモコ、佐藤友則、深谷則夫、陰里寿郎、大杉智美、遠藤晃子、山口泰宏、上野仁志、渡辺紳二、野村和弘、近藤昌美、増川寿一、丹治嘉彦、土屋穣、小林明、蔵重範子、柳健司、モリエヒデオ、井上陽子、近藤克義、飯島洋子、鈴木純郎、坪良一 ○3週間で3グループの展示。
(注17)この場合のニューウェーブは、今回語られようとしている80年代のアバンギャルドとしての“ニューウェーブ”ではなく、当時の新しい波としてのニューウェーブである。
(注18)1988年にも開催されている。1988年8月1日~27日 村松画廊、東京「臨界芸術‘88年の位相」企画:たにあらた 出品作家:山崎嘉久、福田新之助、高馬浩、増田聡子、川越悟、桐原淳之、山本奉宏、伊藤誠、館勝生、仁科茂、川島慶樹、オノヨシヒロ、柳幸典、真木智子、國安孝昌、田中美和、高津美絵、岩本宇司、小田中康浩、柳健司
(注19)1987年で終了。1988年には「SOL+GEL」展として京都芸大と東京芸大の交流展が開かれている。
(注20)1984年に発刊されたフジヤマゲイシャ本に掲載されている言葉
(注21)ホワイトギャラリーのオーナーはデザイナーで当時、アメリカでギャラリーを出したいという考えをもって当時いろいろな試みを計っていたらしい。当時、美術評論家の千葉成夫がここのキュレーションをまかされていて、関口の卒業制作を見て興味をもって声をかけたのがきっかけで発展した個展である。余談であるが、具体のコレクションで有名な山村コレクションの山村氏がこのとき関口の作品を購入しており、それは現在神戸市立博物館に収蔵されている。
(注22)ギャラリーでであったふたりは、コーヒーでも飲みながら、交流展やろうかという話になった。それで、一年後の今頃ね、と約束。僕は芸大のほうに場所つくって段取りつけておくから池田君もつけといてね、といういきさつ。半年後くらいに関口が池田に「どう?」と連絡したら「OK」。それではじまった展覧会である。
(注23)石原友明は1980年の西武美術館で辰野登恵子の画面にS字が登場したあの作品をみている。1982年の「現代美術の最前線」展については関西でも多くの意見が交わされた。
(注24)京都芸大では当時、学生が展覧会をするときは必ず先生方にお伺いを立てねばならなかった。フジヤマゲイシャ展はあまり先生方が見に来なかった。「榎倉康二は見に来てくれた」(山部泰司回想)
(注25)山部泰司の言葉
(注26)1955年に京都青年美術作家集団が中心となって組織。1957年からは京都市主催。以降ほぼ毎年開催。1991年のアンパンを最後に開催されていないが、終了宣言はだされていない。
(注27)「すべての表現に価値をみとめよう」をキャッチフレーズに今も続く息の長い展覧会。
(注28)1988年に一区切り。90年以降もしばらく続くが。
(注29)「関西でっかいおもろい」等揶揄されたし、否定的な論調も多かった。しかし関西にはそういう一発屋的なものを許容する文化があり、そういう豊かさこそが自由に新しい意欲的な表現が誕生してくる源泉である。
(注30)山部泰司が中心となり、1990年まで9回続いた。毎回小冊子がつくられた。
(注31)“80年代作家”の多くは当時、ギャラリー白やギャラリー・ビューで展覧会をすることが多かった。
(注32)1982年7月24日~31日 東京都美術館「OPERA I」出品作家:市川英和、加藤孝志、鹿沼良輔、玄美和、小松良和、中原浩大、ニシワキユリカ、藤田基夫、松岡悦夫、村松正之、わたなべみのる ○会場は東京都美術館第一彫塑室 ○1981年第11回現代アーチスト展における企画の一つとして開催された展覧会。 ○主催 現代アーチストセンター ○企画責任者 藤田基夫
(注33)『80年代考』(ギャラリー16、2007年)掲載の中原浩大発言より
(注34)作品紹介やアトリエ訪問などはあるが、新しい彼等の考え方やメッセージは取り上げらていない。
(注35)『美術手帖』1986年8月号「特集 美術の超少女たち」掲載された作家は、飯田三代、石田靖子、伊能敬子、牛島智子、内倉ひとみ、梅原加弥乃、大塚由美子、岡本裕子、加藤真美、金井良子、熊谷優子、小泉雅代、榊原美砂子、ささだるい、佐藤智子、菅野由美子、杉山知子、瀬戸富恵、田中美和、堤展子、寺田真由美、富田有紀子、原真知子、日比野充希子、平林薫、広田美穂、本間かおり、前本彰子、松井智恵、松尾恵、安田奈緒子、矢野美智子、山崎香文子、山田由加里、山本裕子、吉澤美香、力丸潮、渡辺琴美、綿引展子。実に多くの“女性作家”が80年代に注目を浴びている。
(注36)1984年9月17日~29日 多摩美術大学八王子キャンパス「第1回 TAMA VIVANT'84「戯れなる表面」 」出品作家:岩瀬京子、内倉ひとみ、杉山知子、松井智恵、安田奈緒子、矢野美智子、吉澤美香 ○多摩美芸術学科のプロジェクトの一環として学生が企画、実現した展覧会 以降毎年続く。○西武百貨店八王子店7階特設会場でパート2が10月5日~29日まで開かれる。
(注37)1980年から1990年まで続いた。
(注38)一例として関口敦仁は早稲田の元パン工場跡を1984年2月「212F(ツーワンツーエフ)」アトリエ、喫茶店、画廊など多くの利用目的を有するスペースとしてオープン。シンポジウムも多く行われた。
(注39)結局、石原友明が担当するはずの3回目の展覧会は開かれていない。なお3回目の展覧会のタイトルは「写真の趣味への平手打ち」が予定されていた。
(注40)ゴッホが誕生するまでのプロセスは森村泰昌著『芸術家Mのできるまで』(1998年 筑摩書房)に詳しく書かれている。
(注41)1987年6月26日~7月19日「もの派とポストもの派の展開」西武美術館 出品作家:関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗、成田克彦、山中信夫、北辻良央、田窪恭治、諏訪直樹、戸谷成雄、海老塚耕一、川俣正、岡崎乾二郎、吉澤美香、平林薫、加茂博、深井隆、矢野美智子、遠藤利克、黒川弘毅、前本彰子

●参考にした主な文献
・    森村泰昌『美術家Mができるまで』(筑摩書房、1998年)
・    『現代美術の断面』(京都国際芸術センター、1987年)
・    『シリーズ80年代考』(ギャラリー16、2008年)
・    『美術手帖』『みづゑ』その他手持ちの資料
・    山部泰司「関西ニューウェーブ考」(華頂短期大学研究紀要第37号 1992年)
『シリーズ80年代考』は2008年3月~4月にかけてギャラリー16で開催した「1983年の《Pine Tree Installation》」と題した中原浩大展と、「1980年代の松の木をめぐる」と題した福嶋敬恭展に際して発行された冊子である。筆者が山部泰司にインタビューしたもの、中島一平「構想設計設立期とその前夜についての覚書」、「イメージへの回帰:1985年の福嶋敬恭と建畠晢の対談」、中原浩大「松の絵ではないことに端を発する返礼」及び1980年から1990年までの関西ニューウェーブを中心にした詳細なグループ展年譜が掲載されている。

●協力してくださった方々(50音順)青木正弘、石原友明、木村浩、杉山優子、関口敦仁、中原浩大、彦坂尚嘉、藤井雅実、山部泰司

 

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