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ギャラリー16

 戦争被害が比較的すくなかった京都は、敗戦の年1945年9月に早くも京都市美術館所蔵の作品を公開して「現代美術品展」(9月15日〜10月30日)が開かれた。11月には京都市主催の第一回「京展」(11月21日〜12月10日)が開催。日本全国から800点近い応募があったというから、いかに“美”や“表現”というものが人間らしく“自由に”生きる根源にあるかわかる。京都市美術館は翌年春に進駐軍に接収される(1952年5月まで)。しかし1946年2月、美術家ら100人が集まり「京都美術懇話会」を結成され、皆が結束して文化都市 京都を再興する強い意思を明確にした。その中心人物の一人に朝日新聞記者 橋本喜三がいたことから町の真ん中に「朝日画廊」(河原町三条)が開設され、以降、次々に生まれる前衛美術作家たち、もちろん日曜画家らの発表の受け皿となっていった。1950年には京都府ギャラリーが、1954年には本屋の2Fに「京都書院画廊」が貸画廊としてオープン。同じく54年「山田画廊」が1Fで版画販売を営む傍ら2Fにギャラリースペースをつくり、八木一夫や森田子龍ら若手前衛作家らの作品の展示販売を開始する。美術館が失われた時代に、画廊という存在が、いかに発表の場を求める人々の希望になっていたか。

 1947年には前衛陶芸の「四耕会」48年には「走泥社」「パンリアル」…新しい美術表現の道を切り開こうと若き集団が戦後2−3年のうちに次々と誕生した京都。1945年11月在野の公募団体として出発した行動美術協会の絵画教室からは勤労作家達が立ち上がり1952年「京都青年美術作家集団(青美)」結成。彼等は純粋に作家によるアンデパンダンを立ち上げ、1955年に京都市美術館で第一回展を開催した。青美のリーダー市村司は名古屋出身である。以下、市村司のインタヴュー。(2007年電話にて)

 私は1922年に名古屋で生まれ、戦前は、ある名古屋の会社に勤めていました。17歳のとき徴兵で軍事工場に働きに出て、3年間鉄砲の玉を作らされました。その後、軍隊に入隊させられ、関東軍で3年、戦後はシベリアで3年抑留されました。私は絵が好きでした。支配者が私の絵に理解を示し、絵を渡すことでいろいろ斡旋をしてくれたので、生きてこれました。シベリアから帰ってきたら、戦前働いていた名古屋の会社の得意先から私は「赤や!」といわれました。戦争に行くときは「我が社のほこりだ」といって私を送り出したのに、帰って来たら「赤や」といわれたのです。徴兵で3年、関東軍で3年、シベリアで3年、この9年があって私があります。私は名古屋の駅前でメガホンをもって訴えました。シベリアからやっとの思いで帰って来て、懸命に前向きに生きようとしているのに、一般の奴らは戦が終わったら平和に暮らしている。私を「我が社の誇りだ」と言って戦地に送り出した名古屋の会社に、私は「赤や」と言われ、「国賊だ」と言われて、ひどい思いをしている。私は戦争中に支給されたゲートルを巻いて、訴えました。戦から帰って来て、どうにか前向きに生きようと考え、あきらめられなくて、あきらめきれなくて、また絵を描きはじめました。絵が好きだったんです。アンデパンダンを知ったときは、「チャンスや!」と思いました。アンデパンダンを東京でもやっているからやってみないか?と行動美術の仲間に話しました。皆前向きでした。京都市美術館の藤田猛さんは私の友人で、館長の重(達夫)さんは行動美術の後輩でした。井島勉も「やろう」と言ってくれて、上野照夫も応援すると熱く言ってくれました。「アンデパンダンを実現させたい!」皆の気持ちが熱く、皆が話を聞いてくれたのです。
 藤田猛は京都新聞の元記者でその後美術館学芸部長となる。重達夫は館長。井島勉は京都大学美学美術史、上野照夫は京大文学部インド美術。垣根を越え協力しあった大きなかたちがアンデパンダンとなった。1957年以降は京都市主催になったが、当初、市からは出品者のうち優秀なものに「賞」を授与し、賞金を与えようという、アンデパンダンの理念とは全くそぐわない案が提出された。結局そのお金数十万は、東京から批評家を呼び、アンデパンダン開催中に批評家を囲む懇談会を開催し、批評会を行うことでつかわれることとなった。批評会を行った賛助者は、井島勉、今泉篤男、中村義一、瀬木慎一、中原佑介、矢内原伊作、針生一郎、森啓、木村重信、乾由明、吉岡健二郎、小倉忠夫、平野重光…などである。

 ノンジャンルで文化を育み楽しむ、枠に捕われず横のつながりを持とうという動きは、戦後、学者や作家らの間に起こり、例えば1947年につくられた研究グループ「転石会」は、美術家からは日本画の福田平八郎、徳岡神泉、小野竹橋、上村松篁、奥村厚一、菊池隆志、洋画の須田国太郎、小磯良平、須田剋太、吉原治良、長谷川三郎、杉本健吉、彫刻の菊池一雄、染色の小合友之助、陶器の宮永東山、学者側からは美学の龍村謙、上野照夫、井島勉、ドイツ文学の大山定一、イタリア文学の生島遼一、桑原武夫、伊吹武彦、英文学の深瀬基寛、詩人の竹中郁など錚々たるメンバーが集まり、芸術談義から日本の未来まで幅広く語っていた。こうした繋がりは、“因習打破”“反官展”を旗印に立ち上がった戦後の前衛美術集団をも積極的に支援する形でつながっていく。いくつか例を出してみよう。

四耕会(1947年結成)〜顧問に須田国太郎、武者小路実篤
パンリアル(1948年結成)〜上野照夫
鉄鶏会(1958年結成)〜今泉篤男(京都国立近代美術館初代館長)、井島勉
ケラ美術協会(1959年結成)〜木村重信
ゼロの会(1960年結成)〜津田昌(文学者)、土肥美夫(文学者)顧問に矢内原伊作
VOL美術集団(1962年結成)〜武田恒夫(京博、桃山障壁画)、中村敬治(同志社大学)

 こうした前衛“集団”が多く誕生した背景には京都市美術館の「貸館事業」の存在が大きい。事前に申し込めば誰もが美術館の展示室を使用出来るこの事業は、グループや公募団体向けがほとんどを占め,個人に貸すことはほぼ無い。若くて血気盛んな前衛作家たちの表現は、従来の公募展の価値観の中におさまらないため、同士が集まり決起し、集団として活動していたわけである。けれども個が集まっての集団である。現代美術を専門に扱う画廊があれば…!多くの人たちに望まれて1962年9月29日ギャラリー16が誕生した。井上道子と早苗の2人の姉妹による開廊を作家や評論家をはじめ多くが祝福し、応援した。この際、無記名でマニフェストを執筆したのは木村重信である。

 1962年9月galerie16を開くに際して
「話し言葉の時代が去り、文字の時代がすぎて、われわれはいまや新しい時代、すなわちイメージの時代に入った」とラゴンはいう。雑誌や書物における「よむ本」から「みる本」への移行-ラジオに代わって登場したテレヴィジョンの、あの驚くべき急速な普及-そしてかのデザイン・ブーム-。こんなことを思いうかべるだけでも、世はまさにイメージ時代であることを、痛切に思い知らされる。イギリスの首相の名前を知らずとも、チャップリンやピカソの名は誰もが知っているし、詩人にたいしてよりも、デザイナーに対する社会的要求の方が、はるかに大きい。
絵画もまた、このようなイメージの時代、直感の時代に即応して、戦後著しくその領域を拡大し、また画家の数や展覧会の数も飛躍的に増大した。それに伴い、絵画の鑑賞や蒐集もすでに一部特権階級の手をはなれ、大衆のくらしの中に入りつつある。
かかる状況において、いま新たに画廊を開くことの意義は何か。それは右のイメージ時代に真にふさわしい美を発掘しつつある画家たちを世に紹介し、作る者と見る者との間の橋わたしの役割を果たすことである。そのためには、京都や日本というせまいわくにとらわれず、広く世界的な視野に立つ必要があろう。また美術家のみならず、鑑賞者、蒐集者、学者、批評家などの積極的な支援も不可欠であろう。
セザンヌやゴッホは生存中、その画業を全く認められず、ほとんど売れなったという。然るに死後まもなくセザンヌは現在絵画の父たるの栄誉をにない、またゴッホの絵は今や同時代の他の画家たちの価格を絶している。それは何故か。ひとえにかれらが時代のイメージの最良の発掘者たりえたばかりでなく、またその画業が未来への道をゆたかにはらんでいたからである。その意味で、われわれもまた、単なる過去へのノスタルジアからではなく、現代美術の歴史的展開に即しつつ、つねに現在の地点に立って、未来を展望しながら作品をとりあげようと思う。
もとより、上の仕事は経済的には非常に困難を伴うであろう。しかしわれわれはあえてこの道をえらんだ。幸い、美術を愛する多くの人たちの希望と忠言をえて、うるわしい共同のもとに、この事業を成功させたいと念じるのである。
(1962年9月30日〜10月14日、開設記念展示)

62.9.30 〜62.10.14
 galerie 16 開設 記念展示展  出品者:
藤波晃/岩田重義/石原薫/木村嘉子/国又宏/楠田信吾/宮本浩二/野村耕/小倉浩二/湯田寛
開設時に訪れた主な評論家:赤根和生、井島勉、今泉篤男、乾由明、上野照夫、上平貢、金田民夫(同志社美学)、木村重信、河本敦夫(工芸繊維大学)、武田恒夫、津山昌、土肥美夫、矢内原伊作、中村義一、中村敬治、中村二柄(京都教育大学)、中原佑介、針生一郎…        

画廊では、アンデパンダン会期に合わせて、東京の評論家による合評会が行われることもあった。

画廊史を語るにはその背景にある地域や社会のありよう、そしてドラマが同時に立ちのぼって感じられるようつとめなければならない。京都の場合は、京都が持っている伝統の重さと大きさを伝えることが必要と言えよう。工芸を例に取ると、ヴェネツィアはガラス産業というように他国の場合一都市一芸が常であるのに対し、京都は、陶器、染織、漆、木工、金工…様々ある。しかもそれぞれがハイクオリティで、それが1ヶ所に集中している。それらが互いに影響を受け合っている。その点において京都は特殊である。その重い伝統があるからこそだから若者は反抗する。権威が大きければ大きい程その分反動力となって返ってくる。反逆的な作品でもそれを許容しフォローしてきた京都の地域性。京都における現代美術画廊史は、伝統の蓄積の証左と言えるものなのである。

 最後になるが、京都市美術館は、第二次大戦中も展覧会を定期的に開催しており、「第9回在住作家作品常設展」(8月1日〜23日)は開催中に終戦を迎えている。この展覧会は所蔵品陳列の他に、斯道奨励(学問奨励)のため、中堅新進作家を含めた在洛作家の小中品展観察をおこなうものとして、つけられた名称であった。戦時下も京都は若い作家の表現を支えようとしたのである。

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