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京都の戦後自主上映の概略

京都の戦後自主上映の概略

このレポート(図1)は、林康夫の資料から出て来たものである。「前衛作家集団レポート」。1951年。この頃、公共的な集会所において芸術に関した映画鑑賞会が時々行われた、その一例、と『林康夫 作陶資料・年譜』に書いてある。戦後間もない頃より京都において、自主上映会が開催されていたひとつの記録である。戦後京都の自主上映の歴史を語る上で欠かせない存在に「記録映画を見る会」がある。(図2:記録映画を見る会 眼4号 特集 現代の眼 目次)この団体が、フランスのシネ・クラブを範として創設されたのは1955年。当時、一般向けには上映されにくかった映画作品を自主上映し、映画に対する市民意識の向上を促した自主上映サークルの先駆的存在である。フィルム・ライブラリーがない当時、名画鑑賞会を開き、なつかしのサイレント映画や時代劇映画、イタリア名画などを企画上映したり、国内にプリントがあると思われる貴重な映像の所在を調査し、各国大使館などに所蔵されている実験的なフィルムやプリントの公開に大きく働きかけをするなどの活動をした。主なものではマクラレンのアニメや戦艦ポチョムキン、イギリスのドキュメンタリー、ブラッセル映画祭参加作品、ポーランドの短編映画などが、のちに上映されている。さらに1958年頃より、多様なニーズにこたえていくために実験映画ゼミや日本映画ゼミなど小さな自主ゼミを企画し、それらのゼミが独自に企画して、ドナルド・リチイの8ミリ実験映画、マリー・シートン編集「エイゼンシュテイン傑作抄」など実験的な映像上映が試みるようになってくる。「講座 現代の眼」と題して、講師に阿部公房らを招いて講座を開いたり、「映画と批評の会」の活動を踏まえ1959年に「現代映画の会」をつくり、海外の実験映画や学生のつくった映画を上映するなど、幅のひろい上映活動がこの「記録映画を見る会」を中心に展開されていった。また「記録映画を見る会」とはおそらく別に「記録映画の会」というのもあり、大映の映画監督の三隅研次もいつも出席していたようで、いくつかのテキストがのこされている。(図3:記録映画の会 会報より 年月不詳 後に掲載)また「京都記録映画を見る会」という名前が、松本俊夫に映画制作を依頼したサークルとして登場する。この依頼をきっかけにして松本俊夫の初期を代表する「西陣」(1960)が制作されるのであるが、おそらくこの「京都記録映画を見る会」と「記録映画を見る会」は同一組織である。西村智弘著「日本実験映像史14 松本俊夫と記録映画作家協会」(あいだ100に連載)に書かれている文章を引用すると。
「西陣」は、「京都記録映画を見る会」という映画鑑賞のサークルから依頼されて制作したという自主制作作品である。ひとつの映画サークルが資金を集めて映画をつくるというのは異例のことである。シナリオは関根弘で、松本とは「安保条約」以来の仕事となった。撮影は、名カメラマンとして知られる宮島義勇が買ってでた。当時の宮島は天皇と呼ばれるほど権威があり、そのようなカメラマンが自主制作映画の撮影を担当するのも異例であった。「西陣」のテーマは、西陣織で有名な京都の町である。職業病や雇用問題、伝統と近代化の矛盾など、西陣という中小企業の町が抱える問題が扱われているが、松本はそれを声高に訴えたりはしない。むしろ淡々と日常的な光景を積み重ねていくだけである。「西陣」は、きわめてストイックにつくられた映画であって、非日常的なイメージを使うのではなく、あえて日常的な光景にのみ素材を限定している。そして映画の断片をつなぎあわせることによって、日常性の深部に潜んでいる危機的な状況をあぶりだそうとしている。「西陣」もまた賛否両論となったが、とくに京都ではそれが社会問題にまで発展している。映画をプロデュースした浅井栄一によると、業者から西陣のイメージを歪めたとして強い抗議があり、それに対して「京都記録映画を見る会」が反論、新聞に賛否両論の記事や投書が載るようになり、結局、業者の圧力で京都市の商工局長と広報委員長とが辞意を表明したという。(浅井栄一「完成した日本の映画 西陣をめぐる諸問題」記録映画5巻2号に掲載)———————
 同時代に設立された映画の会としてはもうひとつ1956年頃に、「府立医大記録映画の会」が設立。第一回上映会では「日本の印象」「雲」「絵をかく子供達」といったタイトルの映画が上映。この会の上映記録を見ると、ここでは実験映画というよりは、教育映画に近い映画がいつも上映されていたと思われる。(府立医大記録映画の会第1回目から37回までのプログラムが「眼4号」に収録されている)その他「映画の歴史を見る会」「名画発掘の会」などが京都の勤労会館を中心に頻繁に上映会を開いていた記録が残っている。1959年4月には「京都映画サークル協議会」「記録映画を見る会」「京都労働組合映画協議会」が協力し、当時上映禁止になっていたエイゼンシュテイン監督の伝説的な作品「戦艦ポチョムキン」の自主上映を実現。この上映がいかに困難であったかが、「『戦艦ポチョムキン』京都自主上映まで」として、戦艦ポチョムキン上映のための小冊子に掲載されている(記録—三島源太郎)(図4:戦艦ポチョムキン上映記念冊子)
 戦前より記録映画は国策としてつくられ発展してきた歴史がある。戦後はレッドパージの嵐に抵抗し、労働者の真実を伝えるための手段としての機能を記録映画が担うようになり、1952年に東京で「記録映画制作協議会」が結成された。しかし日本共産党や労働組合が力添えすることによる弊害からその表現は限定され行き詰まる。そのため50年代中頃に「教育映画作家協会」へと再編成され、「記録映画」が創刊、松本俊夫、野田真吉らが活発に発言をするようになってくる。「教育映画作家協会」は、さらに1960年に「記録映画作家協会」に改称し、さらに1964年、退会した松本らによって「映像芸術の会」が創設された。東京の動きと京都の動きに時間差はあまりなく、京都は独自に動きながら、同時に東京の動向にも大いに注目していたと思われる動き方をしている。また京都には東映などの京都の映画文化とは別に、戦前からのアマチュアの映画文化が存在し、それはNHKの取材しているビデオの撮り方のおさらい会のようなものであっという証言もあるが、アマチュア映画人のつどい「青人社」など8ミリのアマチュア映画の会などが数多く存在した。身近な出来事、たとえば地元の行事を撮影したりするようなアマチュア映画の世界からは、高林陽一らアマチュア出身の映画監督がデビューしていった。67年に沖縄より京都教育大学に留学してきた高嶺剛も京都の映画文化を語る上でのがせられない存在だ。(図5:参考図版 大阪府芸術祭 映画の歴史を見る会 1958年11月24日25日 三越劇場 冊子)(図6:シドフ 第21回例会冊子)
シ・ドキュメンタリ・フィルム趣意書 従来、映画は、映画館か、特殊とされる映画の場合は、劇場ホールで上映、鑑賞されてきました。しかし、映像が、私達の生活と密着し、又、映像の機能が、深く私達を取りまいている現在、私達は、映画をもっと生活の手元に引き寄せていいのではないかと考えます。作品の中にも、批評の中にも、いまや無批判な通俗化の傾向が蔓延しています。さらに、商業主義の故に、邦画、外国映画、長編、短編、テレビ・フィルムを問わず、公開することなく闇に葬られてゆく作品のなんと多いことでしょう。さいわい、京都には適当な会場が多くありますので、私達は、これを利用して、私達自身の志向する映画会を月1回定期的に開こうと考えています。みなさまの御賛同と御協力を得ることが出来ればと考える次第です。なお原則として会員制システムで運営したいと考えております。会発足の趣意、会則に御賛同を得て、入会申し込み存だければ幸甚です。昭和42年7月11日 シ・ドキュメンタリ・フィルム運営委員会 発起入会
 
この趣意書は、1967年3月17日シ・ドキュメンタリ・フィルム=第21回例会のための冊子に書かれたものである。「シ・ドキュメンタリ・フィルム」(SEE DOCUMENTARY FILM 通称シドフ)の発足はおそらく1964年頃である。会則の冒頭には「本会は今日の芸術課題を持った映画上映と講演、シンポジウム等を中心に、現代芸術の鑑賞と研究を目的とする」とある。シドフは、ほぼ毎月の例会と上映会を通して、60年代の実験映画、アンダーグラウンド映画を京都にいち早く紹介し、ひろく一般に浸透させた功績がある。シドフには四耕会の大西金之助も初期から参加しており、1960年制作「明日を創る 京都の前衛陶芸作家・林康夫」(参照:前衛美術集団 四耕会の項)もシドフの例会で上映している。シドフの上映記録は、シドフ第21回例会冊子に記述されている。ちなみにこの第21回例会「UNDERGROUND FILM」は、草月のアンダーグラウンド・フィルム・フェスティバルの京都巡回である。
SEE DOCUMENTARY FILM シ・ドキュメンタリー・フィルム 上映記録
● 第1回 1964年6月16日 京都教育文化センター 松本俊夫⟨私はナイロン⟩、黒木和雄⟨わが愛・北海道⟩、上野⟨ある癌患者の記録⟩ 
● 第2回 1964年7月21日 京大楽友会館 間宮則夫⟨長さのスタンダード⟩、土本典昭⟨ある機関助手⟩、松川八州雄⟨一粒の長⟩ 
● 第3回 1964年9月17日 京大楽友会館黒木和雄⟨太陽の糸⟩⟨あるマラソンランナーの記録⟩、杉原せつ⟨ゼロの発見⟩ 
● 第4回 1964年10月21日 京大楽友会館 野田真吉⟨文化とともに⟩、石川茂樹⟨尾瀬⟩、酒井修⟨白さぎと少年⟩ 
● 第5回 1964年11月16日 京大楽友会館 朝日8ミリ映画コンテスト入選作品集 大西金之助⟨明日を創る⟩、長谷川宗雄⟨操車場⟩⟨雪に挑む⟩、柏木喬⟨町医者⟩⟨主治医⟩
● 第6回 1964年11月19日 毎日新聞ホール 国際短編映画祭—‘64特集 カナダ⟨追走曲⟩、ニュージーランド⟨タウボの湖⟩、スペイン⟨ベラスケスの絵画⟩、オランダ⟨今日のオランダ⟩、イギリス⟨色と形のシンフォニー⟩、ソウ゛ィエト⟨鳥の島⟩、ハンガリー⟨奇妙な演奏会⟩、フランス⟨画家ビジエール⟩、イスラエル⟨砂とたたかう。
● 第7回 1964年12月18日 京大楽友会館 松本俊夫個展⟨安保条約⟩⟨白い長い線の記録⟩⟨西陣⟩⟨石の詩⟩松本俊夫氏独演
● 第8回 1965年1月28日 京大楽友会館 ‘64—ブラッセル国際実験映画祭特別賞受賞作品集 藤野一友⟨食べた人⟩、飯村隆彦⟨ONAN⟩、高林陽一⟨砂⟩、平田穂生⟨家⟩、吉田直哉⟨日本の文様⟩、ドナルド=リチイ⟨戦争ごっこ⟩、高林陽一氏口演
● 第9回 1965年3月30日 京大楽友会館 松川八州雄個展⟨一粒の麦⟩⟨味の王様⟩⟨日本のかたなとよろい⟩⟨ラス=メニナス⟩⟨ある建築空間⟩、松川八州雄口演
● 第10回 1965年5月24日 京大楽友会館 関西学生自主映画作品特集 関西学院大学⟨デルタ⟩、同志社大学⟨若者の風⟩、甲南大学⟨跡⟩、関西大学⟨錯覚⟩、立命館大学⟨京都1964⟩、京都大学⟨む⟩
● 第11回 1965年7月23日 京大楽友会館 土本典昭⟨留学生チュア・スイ・リン⟩、大島渚⟨忘れられた皇軍⟩、大西金之助⟨サヘタ⟩、南ヴェトナム解放スタジオ制作⟨南ヴェトナム解放民族戦線⟩
● 第12回 1965年10月26日 京大楽友会館 富沢幸男⟨焔の芸術⟩、大沼鉄雄⟨海の記憶・真珠⟩、西独大使館提供⟨機能とデザイン⟩、伊丹一三⟨ゴム鉄砲⟩、松本俊夫⟨晴海埠頭倉庫⟩
● 第13回 1965年11月17日 京大楽友会館 大島渚⟨ユンボギの日記⟩、土本典昭⟨水俣の子は生きている⟩、松尾一郎⟨魔薬⟩、チェコスロウ゛ァキア作品⟨ある少女の記録⟩⟨手⟩
● 第14回 1966年2月12日 京大楽友会館 谷山浩郎作品集⟨釘と靴下の対話⟩⟨明日を築く真柄建設⟩⟨バンドボーイ⟩⟨堺港火力⟩、谷山浩郎独演
● 第15回 1966年5月26日 山一ホール 野田真吉自主作品集⟨忘れられた土地⟩⟨ふたりの長距離ランナーの孤独⟩⟨イウ゛=クライン⟩⟨まだ見ぬ街⟩、一柳とし=ライフ・ミュージック(オーケストラと磁気テープのための)、瀬木慎一講演⟨イウ゛=クラインについて⟩(図13:第15回例会冊子)
● 第16回 1966年7月5日 山一ホール アンダーグランド・シネマ=日本・アメリカ(草月からの巡回)ジョー=セデルマイヤー⟨ムロフノク⟩、カール=リンダー⟨悪魔は死んだ⟩、ロバート=ネルソン⟨この西瓜やろう⟩、ドナルド=リチイ⟨ライフ・ライフ・ライフ⟩、金坂健二⟨アメリカ・アメリカ・アメリカ⟩、スタン=ブラッケージ⟨モスライト⟩⟨アメリカの詩⟩、飯村隆彦⟨リリパット王国舞踏会⟩
● 第17回 1966年9月13日 山一ホール 映像七人の会⟨鳥獣戯画⟩、松本俊夫⟨西陣⟩、土本典昭⟨路上⟩、朝倉摂⟨死せる女のバラード⟩
● 第18回 1966年10月25日 山一ホール 森弘太自主作品⟨河—あの裏切りが重く⟩
● 第19回 1966年12月12日 山一ホール 世界の映画=チェコスロウ゛ァキア編⟨夜のダイアモンド⟩⟨ひと切れのパン⟩⟨はだかの子⟩⟨カレルゼーマンの魔法の世界⟩
● 第20回 1967年2月17日 京大楽友会館 ドイツ表現主義 フリッツ=ラング⟨メトロポリス⟩⟨死滅の谷⟩
●第21回 1967年3月17日 京都会館第2ホール アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル(草月からの巡回)ジョナス・メカス⟨樹々の大砲⟩、スタン・ウ゛ァンダービーク⟨世界の壁のためのパネル⟩⟨プレアデス⟩、ブルース・ベイリー⟨カストロ通り⟩⟨オール・マイ・ライフ⟩、ジャット・ヤルカット⟨ターン・ターン・ターン⟩⟨われら河の流れにそって⟩、金坂健二⟨石けり⟩、大林宣彦⟨伝説の午後=いつか見たドラキュラ⟩

シ・ドキュメンタリ・フィルムのこと 久保田賢太郎  ドキュメンタリとは、決して現実をカメラがうつすことではなく、カメラにうつすことで変化する作者の意識・意識の流れを記録することである。言い換えれば、我々の組織、シ・ドキュメンタリ・フィルムとは、カメラにうつすことで⟨変化した⟩作者の意識・意識の流れを、今日的な現実、つまり現実にこの日本列島のなかで生きて、思考し、もっと汚くいうなら、“食い”かつ“たれ”ている一日本人映画作家の意識構造をseeすることによってとらえられる。あきらかにさえる諸問題の把握の原点が、果たして共有される財産として、とり出されるかどうかを、するどく確かめる組織というわけである。もちろん、これは外国の映画作家の場合といえどもかわりはない。そしてさらに、本日上映される、“アンダーグランド・シネマ”の中で活躍する作家達にもあてはまる問題である。 であるから我々は、映画を見ることに緊張する。映画は面白くなくてはならないという俗論に反対している。今日、映画はかつて娯楽であった、そのことを拒否することによってしか存在しないし、将来の可能性も見いだせない。このことを逆にいうなら、つまり映画は、もはや不特定多数に向って製作されても、なんの意味もないということである。映画はやっと今にして、特定の見る側を意識して製作され始めて来たのである。つまり見る側に、創造の喜びを共通する素地をつくり始めてきたといえる。あたえられた、面白がらせてくれる娯楽から、やっと映画は作る側と見る側を対等の線上にして語り始め、問い始め、考え始めて来たのである。 大島渚作品「日本春歌考」は、その意味で、日本を考え、春歌というものから世界を考え、さらに日本映画を、作家を、俳優という人間を、含めて“考えることの喜び”を、きわだたせた手法で描ききった日本戦後最高の作品であった。 話が脱線したが、つまり映画を見るということは、決して、専門的な映画知識が必要などということではなくて、「A」なら「A」という映画作品をつくった人間が今何を、寸分の狂いもなく、読みとり感じとり、その語りかけに、的確に感動し、答え、又、質問する人間復興の応答の有無、それだけが目標なのである。 シ・ドキュメンタリ・フィルムとは、以上の簡単な論理を、映画作品と作家から抽出して来た特有の組織である。 第21回例会にあたり、過去二十回の作品をら列して、今後より多数の限られた人が我々の映画を見る行為に積極的な参加をされると同時に、強く作家に働きかけられることを期待する。(シドフ第21回例会のための小冊子より)(図7:「ドキュメント現代 シリーズ前衛その1映像 京都新聞 1967年7月24日」
(図14:第24回例会冊子)
● 第24回例会 1967年7月11日 場所不明 映像のリズムと情感をさぐる研究 1963年ドからの、カンヌ・ウ゛ェニス国際テレビ・コマーシャル=フィルム 国内国外のグランプリ受賞作
● 第37回例会 1969年5月28日 京都教育文化センター 日本映画研究所製作・榎本健一主演⟨臍閣下⟩、監督・西尾孝之氏を囲みシンポジウム

東京と連動しながら 1960年代
日大新映研で「鎖陰」を制作した足立正生らが大学当局の上演禁止措置に対抗して作った鎖陰上映実行委員会は、後に大学や職場における自主上映運動へと発展し、、、(美術手帖1970年1月142—143ページ、刀根康尚氏文章より抜粋) 
1964年5月7日晩、京都の祇園会館で「鎖陰」が上映された。この日、犯罪者同盟の関係者と推察される勤め人風の男によってフィルムが盗まれ上映は途中で中止を余儀なくされ、会場は大混乱に陥った。この事件は半ば伝説となり、真相がわからぬまま伝説だけが一人歩きしていた。(図8:京都新聞1964年5月8日朝刊社会面)この新聞記事は、当時京都の繁華街のゴミを這いながら回収し美術館に持ち込むなどの行為をしていた前衛美術集団「実験グラウンド∧」のメンバー・加藤美之助のスクラップブックに貼ってあったものである。「実験グラウンド∧」のメンバーには、のちに映画を制作する映画をとる大江正典(おおえまさのり)、60年代後半に美術家の映像上映を組織した真鍋宗平、そして石川優がいる。『美術をめぐる思想と評論 機関12風倉匠特集』1981年風鳥社—に書かれているこの晩の記録を引用すると。
風倉 うーん、「鎖陰」っていってね、VAN映画科学研究所の中に足立正生、アッちゃんっていてね、今パレスチナに戦さに行っちゃったんだけど。彼が日大の映研で作ったやつなんだよ。それを京都で上映するのにグループ音楽も抱き合わせで参加するわけよ。祇園会館と丸山公園の野外音楽堂でやったの。祇園会館の時はね、「鎖陰」の映画やっててね、その時に早稲田の犯罪者同盟ってのが極秘で参加してたんだよね。それでね、一本上映した後、「鎖陰」のフィルムが盗まれるんだよ。僕たちグループ音楽はその上映がすんでやるはずだったんだが、フィルムを取り返して来るから、君たち何かやっててくれっていうわけ、それで僕とか小杉君とかでいろいろやり出したんだ。そしたらね、会場がね、俺たちは金を出して映画を見に来たんだ、こんなわけのわからんもの見に来たんじゃない、金かえせって騒ぎ出したんだよ。その時、小杉君はタブラバヤってインドの楽器をポンポコ叩いて、僕は袋の中に入ってもこもこやってたんだ。そしたらみんな舞台に上って来て、この野郎とかなんとか云って、僕が入ってる袋を無茶苦茶に蹴っ飛ばすんだよ。ハハハハ
菊畑—よく蹴っとばされるね、(笑)でやめたの?
風倉—いや僕はそのまんま続けたの。でも何だかひどく蹴っとばされるから、舞台の下でやってるのかなって思ってた。でもえらく騒々しくなったんで、袋の中から顔出したらね、もう舞台の上にいっぱい観客が上って来てて、あっちこっちで押問答やってんの。そして主催者のアッちゃん(足立正生)えり首つかまれてさ、やられてるわけ。そしたら突然VAN映画科学研究所の城ちゃん(城之内元晴)が舞台の裏からドスもって現われたわけ。デバボォチョーをさ、どこから持って来たかわかんないんだけどさ。“うー”ってね、そして、ワーって大声はり上げて、これ見えるかってやり始めたの、ハハハハ
菊畑 ハハハハ、、、、、で?
風倉 みんなデバボーチョー持ってるの見て、アッてなわけでみんなびっくりしてさ、(笑)そして、床にドンって突き立ててさ、でみんなシーンってなったの、(笑)。それまで金返せとか何とかガアガアやってたのがさ、デバボーチョー見てびっくりしたわけよ。で、話しがあるってわけよ。で君たちは普通の映画じゃないってことぐらい初めっからわかって来たんだろ、何か期待があったから来たんじゃないか、それを金返せとは何事かってんで逆襲したわけ。そしたら観客の中から着流しのヤクザが出て来て、お前わかった、その通りだって云うわけよ。そしたら又、もう一人ヤーさんが出て来て、そうだ、そうだ、そうだろうって観客に云うわけ、(笑)。そして舞台にヤーさんが上って来て城ちゃんと意気投合するわけ。わかった、わかったってね。で続けてやれってわけで俺またやらされた。ハハハハ。全く白けてる真ん中でね。
菊畑 (笑)、みんなおとなしくなった、、、。
風倉 うん、急にみんなシーンとなって、真面目に見てるんだよ。小杉君もみんな白けちゃってさ、ヤーさんが横にいるでしょ、ハハハハ。すぐやめたよ。(笑)

また、西村智弘著「日本実験映像史20」(あいだ連載)「日大新映研と足立正生(あいだ107)によると、
京都でおこなわれた「鎖陰の儀」は二日に分かれていて、一日目が丸山音楽堂でのハプニング、二日目が祇園会館での「鎖陰」上映であるが、とくに二日目に起こった大騒動は有名である。このときの騒動については、足立の他に沖島勲、風倉匠、刀根康尚といった参加者が回想しているが、微妙な食い違いがあってはっきりしないところがある。(足立正生「映画/革命」、沖島勲「笑って、笑って、惨めで、笑って」アンダーグラウンド・フィルム・アーカイブスより、風倉匠+菊畑茂久馬「ハプナーの軌跡」刀根康尚「風を喰って走る風船」機関12号より を参照)一日目は丸山音楽堂でのハプニングであった。たとえば風倉匠は、音楽堂のピアノを鞭で叩くというハプニングを行ったが、結局ピアノは他の出演者とともに破壊してしまったという。二日目が「鎖陰」の上映だったが、当日は上映前から波乱に満ちていた。九州派のアーティストたちが会場の前に生ゴミをぶちまけてしまったからである。来場者はこの生ゴミをくぐるようにしなければなかに入れなかったという。最初に前座の演奏などがあって、次に「鎖陰」が上映される予定であったが、フィルムが盗まれていたことが判明する。しかたなく風倉、小杉、赤瀬川らがハプニングをはじめたが、しかし、納得しない観客とのあいだで喧嘩がはじまり、それは他の観客を巻き込んで、収拾がつかない大混乱に発展した。騒動はしばらく続いたが、結局、「後日、京大講堂にて、全巻揃った上映を行う。その際、本日のチケットは有効」ということで観客は納得して帰った。宿舎にしていた寺に戻ると、蒲団が二つ敷いてあり、そこにフィルムが一巻ずつ入っていた。犯人は「犯罪者同盟」の流れをくむ京大の学生であったという。数日後の京大講堂での上映は無事行われた。京都に続いて大阪でも上映を行うはずだったが、京都での騒動を聞きつけた主催者が断ってきたため、会場が使えなくなってしまう。そこで足立たちは、「鎖陰」のフィルムを棺に納めて大阪市内を練り歩くという追悼の儀式を行った。
二日目の祇園会館では会場の前に九州派のアーティストによって生ゴミがぶちまけられていたとあるが、前述のとおりこの日の新聞記事を持っていたのは、京都でゴミ集積イベントをおこなってきた「実験グラウンド∧」の加藤である。この「生ゴミ謹呈」イベントは、加藤、真鍋、大江ら3人の行為であったことが先日、加藤の証言によって明らかになったことをつけくわえておきたい。(黒田雷児氏が、九州派がやったとは考えにくい、という推測から発覚した事実)関西で、このイベントについて語る人がほとんどいなかったことから、東京から一方的に関西に乗り込んで行われたイベントであるかと思われる節もあったが、このあたりの関係をこれから調べていきたいと思う。
1963年の夏、新橋の内科画廊に結集した飯村隆彦や大林宣彦、高林陽一らのごく少数の8ミリ映画作家や数人の内科画廊関係者(画廊主=宮田国男、中西夏之、刀根康尚)らによって始められた「ナイカ・シネマテーク」を母体とし、また同年末にこの「シネマテーク」を中心に作品を発表してきた映画作家たちが「ブリュッセル実験映画祭」で特別賞を集団受賞したことなどを契機に翌64年にドナルド・リチー、足立正生らの映画作家、佐藤重臣、石崎浩一郎らの評論家を加えて飯村隆彦の強力なオーガナイズのもとに発足したのが「フィルム・アンデパンダン」である。−美術手帖1970年1月142—143ページ、刀根康尚氏文章より抜粋
おなじく東京で、いわゆるプライベート・フィルムといわれる商業映画から解放された映画を上映する手段として、1964年12月16日17日飯村隆彦や高林陽一らが中心となり紀伊国屋エクスペリメントとして開催された「フィルム・アンデパンダン」(図9:フィルムアンデパンダン冊子)は、翌年1965年6月15日に京大楽友会館で「フィルム・アンデパンダン京都」と題されて巡回。(図10:フィルムアンデパンダン京都)そのフィルム・アンデパンダン京都支部の事務局をつとめたのは、四耕会に参加していた大西金之助である。実験映画の上映会やシドフなどに積極的に参加していた大西は、このころ知り合った映像作家らと16ミリ研究会を持とうとしたりする等、精力的に活動を展開していたようだ。同時期には、前衛陶芸の走泥社の八木一夫も映像作品を制作しており、生花と密接な関係を持つ(前衛)陶芸と実験映画の線をむすぶものとして見逃せない。(図18:京都新聞夕刊1969年2月19日 バンダービークは代々木のクロストークインターメディアの流れで京都にきている)また、生花の京都未生流三代目松本正司は1940年代後半よりモビールによる彫刻作品をつくっており、それを生花にも結びつけ、テレビを生けるなど斬新な発表をしている。松本は映像作品も早い時期より制作していたようで、1967年に美術家の映像グループ「TIMMM」結成に参加(後述)。京都でおそらく最初の美術家による映像の上映会「フィルム‘67」を1967年11月11日勤労会館で開催。京都新聞社主催の「現代の造形」という若手美術家の表現をとりあげて年一回開催される展覧会は70年以降は「フィルム造形」「映像表現」と題して、映像を取り上げるようになるなど70年代に入ると京都は美術家の映像が美術の中で重要な位置を占めるようになる(後述)。松本はその中心人物として行動している。また、1969年3月には「ギャラリー・ピカ」という実験画廊を映画館の中に作ったり、1973年11月には映像専門ギャラリー「アートコア」を創設している(後述)。京都の映像文化は、前衛いけばな(草月、小原、未生等)と、そこと密接にむすびついた前衛陶芸から発展した道もあったことが、これらの事実から考察される。

60年代後半〜アンダーグラウンド・シネマ
東京の動きでは草月アートセンターを中心に映像文化が発展。草月の映像イベントはシドフなどの働きによって京都に早期に巡回されている。京都巡業の後援もシドフの活動の一つであったようだ。この一連の動きによりアメリカのアンダーグラウンド映画が紹介され浸透していく。草月以外のイベントでも、たとえば1964年7月に山一ホールで「現代アメリカ芸術演奏会」があり、小野洋子のカットピースなどが行われたりしている。(図19:京都新聞1967年7月27日)同時期にギャラリー16で開催されていた中村敬治企画「反芸術3人展」(1964年7月6日−12日 出品作家:池水慶一、加藤美之助、田代雅善)に小野洋子が訪れ前衛美術作家らと交流があったようだが、その交流がなんらかの影響を与えたとは言えないが、ある意味での刺激はあったようだ。下記は草月のイベントの京都巡業。
・1962年10月12日 京都会館第2ホール ジョン・ケージとD.テュードアのイウ゛ェント 主催 京都現代芸術を観る会
・ 1963年6月25日 京都会館第2ホール 3人のアニメーション
・ 1964年10月15日 京都会館第2ホール アニメーション・フェスティバル 主催 京都会館センター
・ 1965年10月24—25日 京都会館第2ホール アニメーション・フェスティバル65 共催 京都会館サービスセンター
・ 1966年7月5日 山一ホール アンダーグラウンド・シネマ 草月シネマテーク(シドフ第16回例会)主催 シ・ドキュメンタリ・フィルム
・ 1966年11月9−10日 京都会館第2ホール アニメーション・フェスティバル‘66
・ 1967年3月3日 京都会館第2ホール サイレント喜劇の活力 主催 京都会館サービス・センタ
・ 1967年3月17日 京都会館第2ホール アンダーグラウンド・フィルム・フェスチバル(シドフ第21回例会)主催 京都会館サービスセンター、シ・ドキュメンタリ・フィルム
・ 1967年4月21日 京都会館第2ホール 漫画映画の系譜 主催 京都会館サービスセンター
・ 1967年10月7日 京都会館第2ホール アニメーションへの招待
・ 1968年11月10日 京都会館第2ホール フィルム・アート・フェスティバル東京‘68 共催 季刊⟨フィルム⟩、京都会館サービスセンター 後援 シ・ドキュメンタリ・フィルム(図12)
ジョナス・メカスやスタン・ブラッケージなどのアメリカ実験映画は、草月の巡回などの形でまとまって京都に紹介されるようになってきた。それと呼応するように京都でも独自に、1967年11月22、27、30日に弥栄会館で国内外の実験映画作品を上映する「京都実験映画祭」が開催。22日にはアンダーグラウンド、27日には東欧のヌーベルバーグ、30日にはフランスのヌーベルバーグの紹介があった。(図15:京都新聞夕刊 1967年11月13日)
 戦後間もなくの頃から関西にはアメリカ文化センターがあり、積極的に上映活動を助けて来ていた。テレビの番組でも半分ぐらいがアメリカのホームドラマが放送されていたり、アメリカの文化活動は政治的な広報活動と密接に結びついていたが、アンダーグラウンド映画の上映は、当時のベトナム戦争激化などの政治背景があり、ますますひろがりを見せて行く。また1970年1月25、26日には京都新聞ホールでオーバーハウゼン国際短編映画祭が開催されたりと、ドイツの他ハンガリーやユーゴなどの東欧ヨーロッパの実験映画が紹介されるようになる。1971年2月12日には府立文化芸術会館で「魅惑のアニメーション」と題し、ノーマン・マクラーレンの作品が紹介、会場は満員となる。府立文化芸術会館が満員となったのは、このマクラーレンまでなかった事だという。そして決定的な出来事として1971年9月16、17日山一ホールにて「アメリカ実験映画−30年の回顧史」でマヤ・デレン、ケニス・アンガー、スタン・ブラッケージ、ブルース・ベイリー、スタン・バンダービークなどの巨匠級の監督6人の作品が一挙に上映、アメリカ文化センター主催で開催され、パシフィックフィルムアーカイブ官庁のショドン・レナン氏が講演するなどし、実験映画がぐっと大衆化されるようになった。(図20)アメリカ文化センター主催で有名なものに1969年2月5−7日に東京代々木の国立競技場第二体育館で開催された、映像、音楽、美術、文学、音響、光などが合体したインターメディアの祭典「クロストーク・インターメディア・フェスティバル」があげられる。京都でも1968年11月8~14、19日と毎日新聞ホールに於いてアヅマギャラリーと京都の若い作家グループの手により「ZONE」展という総合祭典が開催されたり(図21)、レストラン男爵でのゼロ次元らの「反博」イベント(図22)、小松辰男主催「現代劇場」による前衛総合芸術イベント、など、ハプナーらのゲリラ行動と映像は結びつき、アングラブームは風俗的なものとも結びつき、万博へ向かう国家エネルギーとの相乗効果で、社会も映像を取り巻く状況もある種のカオス状態へと突入していった。
同じく60年代末70年代ころから自主上映サークル活動もますます活発化。京都シネクラブ=ガイガAFAシネマコミュニケーション名画発掘70(高校の先生二人で活動)、シネマ・ド・オルフェ(自主上映サークル)、京大映画部同志社大学EVE実行委員会シネマ・ダール(自主上映サークル)、彷徨館シネマテーク(新しい映画のあり方を模索する)、シネマ・ジャンヌ(女性だけの組織 写真専門学校生の女性ら)、シネマ・ネナンス(1968年3月結成)、シネマ・リベルテ(1973年7月結成 東映の映画労働者ら)、フィルム168(前衛映画を上映している学生グループ)、関西サイレント映画保存会サバドの会(映画制作と自主上映の組織)、プレイバック(プライベートフィルムの自主上映活動をめざす)、倫巴里社(京大映画部から派生)など自主上映サークル、北大路ト—ラスなどのミニシアター、ほんやら洞(京都映像センター主催の京都シネマテーク)など自主映画を流す喫茶店が登場する。上映場所も映画館やホールなどから、京大西部講堂同志社学生会館ギャラリー射手座京都書院ギャラリー16などの新しい場においても自主上映企画が進出。ポーリエ企画、フィルム・アート社、アンダーグラウンド・センターなど実験映画の上映は企業規模にまで拡大する。

1970年代 美術家の映像ブーム
京都の現代美術を語る上で欠くことのできない、京都発信の映像運動としての70年代の美術家の映像ブーム。1950年代から具体美術協会の作家によって、美術家による映像というものはもともと既に関西には存在していたが単体にすぎない。実際のブームの火付けになったのは、1967年、京都の美術家、寺尾恍示、今井祝夫、松本正司、真鍋宗平、水上旬による「TIMMM」という映像美術集団の結成である。64年ごろからそれぞれが制作していたという映画作品の初めての発表が彼等の手により、1967年11月11日勤労会館で「フィルム‘67」(アートフィルムの会主催)開催される。(図11)プログラムには、グループ位、今井祝雄、石原薫、植村義夫、平田洋一、真鍋宗平、松本正司、水上旬、森俊三の名前が記載されている。1968年には前述の「ZONE」展で、ガリバー、宮井陸郎、植村義夫、河口龍夫らの映像が上映。1969年1月にはギャラリー16で「映像は発言する!」が松本正司、今井祝雄、河口龍夫らの手によっておこなわれ、2月には大阪の信濃橋画廊に巡回する。(図16:夕刊京都 1969年1月17日)ドーム状のスクリーンを設置して360度に写る映像作品をドームの中に入って楽しむとか、白い全身タイツを着用した女性の体をスクリーン代わりにして映写するなどの映像のインタラクティブなツールとしての可能性を提示した。1969年4月には立体ギャラリー射手座が映像も扱う実験画廊としてオープン。オルガナイザーとしてシドフの藤木正治、美術家の石原薫、評論家の吉田光邦らが参画し、「射手座の今月のプロ」と題して、宮井陸郎フィルム作品特集(1969年5月6日〜8日)、金井勝の無人列島製作完成記念試写会(1969年5月9日〜13日)など画廊に映画を本格的に持ち込んだ。ギャラリー16でも原正孝やジョナス・メカスの映画が上映され、1973年には映像を専門に扱う画廊「アートコア」がギャラリー16と同じビル内に開設。(図23)1967年より野外彫刻展としてスタートした京都新聞主催の「現代の造形」シリーズは、万博などでの映像ブームに便乗する形で、70年から「フィルム造形」「映像表現」と題し、美術家の映像を中心とした上映会を開催(図24)。ほぼすべての現代美術家が参加したかと思われるくらいの規模で皆こぞって映像作品をつくり発表するようになった。(背景として8ミリシングルエイトが廉価で一般に普及したこともあげられる)
60年代後半、風俗文化と折り重なった形でアングラブームは急速に埋没。衰退したアンダーグラウンド映画に代わり、京都は実験映像から美術家の映像時代へと突入していった。映像も美術の表現の手段であることが認められた形であるかもしれないし、60年代後半に体験した美術の解体を引き受け、認識の不確かさをもう一度カメラの眼を借りて再確認する作業であったのかもしれない。(美術家の映像イベントのスケジュールの詳細は、目黒区美術館のカタログ『美術史探索学入門』に記載されている)
なお、「動かない映画」として美術家の映像につよい影響をおよぼしたアンディ・ウォーホルの映像は、京都では1971年7月13日にフィルムアート・シネマテーク京都例会として「チェルシー・ガールズ」が京都会館第二ホールで上映されたのがおそらく最初(図17:京都新聞夕刊 1971年7月7日)であり、有名な「エンパイア」は1974年の神戸の展覧会までは公式には上映されていない。京都を中心とした関西の自主上映記録、美術家の映像は、現在、研究会が持たれていて、積極的な調査がすすめられている。

参考資料/
・ 記録映画を見る会 眼4号 特集 現代の眼 1959年8月発行 記録映画を見る会 
・ 戦艦ポチョムキン上映記念冊子 1959年4月
・ シ・ドキュメンタリ・フィルム第21回例会冊子 1967年
・ し どきゅめんたり ふぃるむ しどふ第24回例会冊子 1967年
・ U氏所蔵資料(1950年代からの自主上映チラシ、冊子など)
・ K氏所蔵図書(映画批評、映画評論、プレイガイドジャーナル、映画芸術、キネマ旬報、シナリオなど)
・ M氏資料
・ 正木基資料(美術家の映像関連)
・ ギャラリー16資料
・ 京都新聞
・ 夕刊京都
・ 草月とその時代1945−1970展カタログ
・ 西村智弘「日本実験映像史」(あいだに連載されてた)
・ 芸術倶楽部 1974年9月個人映画特集
・ その他いろいろ
上記資料などと、インタビューによって作成しました。

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