- 針生先生との一年 「序章 この地域とのわが出会いまで」
針生先生との思い出 「序章 この地域とのわが出会いまで」
針生一郎先生の川崎市生田のお宅には,一昨年2008年6月から約1年間,だいたい週1回ずつ通っていた。先の見通しの無いままに京都の画廊を辞めて,東京に戻ってきた私に,「良かったら僕の私設秘書のようなものになって,自分がずっと書きたいと思っていた本の聞き書きをしないか?」と声をかけて下さったからだ。
モンテ・ヴェリタ(聖なる山)と名付けられたスイスのマジョーレ湖畔の地域では、19世紀後半から20世紀にかけて、資本主義が爛熟して芸術がすべて商品になる、その金の力に支配されたら一体どうなるかというところで、疑いと失望を抱いた芸術家、思想家、宗教家等が自然と住み着き、対抗文化の巨大なコロニーを作られたのだそうだ。そこには、先生が生涯をかけて問い続けて来ている前衛芸術の源流があるという気がするので、今こそそれについて改めて考えてみる時である、と思ったのだと言う。
聞くところによると,数年前に先立たれた夏木夫人には,「あなたは片々たる注文原稿だけで生涯を終えるつもり? ライフワークが一つも無いじゃない! あなたは今,美術評論家として歴史に残るか残らないかの境目なのに,ライフワークが無いなんて致命的ですよ!」と,かねがね言われていたらしい。しかもその奥さんには,亡くなられる間際に釘を刺すかのように,「これだけ言ってきたのにちっとも書かないのなら,あなた駄目かもね」と,断言されたと言うのだ。
聞き書きの話を頂く少し前,京都で偶然,バスで先生と乗り合わせた事がある。超満員の中で先生は,いつものようによれよれのコートにずっしりと重い鞄を持っていたのだが,どう見てもお年寄りなのに,外見に一癖あるせいなのか,誰も席を譲ろうとしない。先生はつり革に体重すべてをかけるように,疲れきった様子で立っておられた。「先生!」声をかけた私は,ちょうどその頃,京都の画廊を辞める辞めないですったもんだしていたので,ぎっしりの乗客のなかで,不覚にも涙を流してしまった。 「どうしたの?」 やさしく声をかけてくれた先生の前で,私はただ「画廊辞めなきゃならなくなったんです」と言うのが精一杯だった。先生は,私が降りるまで,何も言わずにただ一緒に寄り添って立っていて下さった。「あとで画廊に行くからね」。
京都では,先生はよく画廊を訪ねて来て下さり,四方山話に花を咲かせた。たまに私が思い立ったように先生に何か質問の手紙を書くと,いつもハガキ一面に豆粒みたいな小さい文字で,ぎっしりと答えを書いて返して下さった。裏面だけでは書き切れず,宛名面まで文字がはみ出してきていたたくさんのハガキ。先生からそんなハガキをもらうのが嬉しくて,私はいつも,何かあるたびに先生に手紙を書いていた。
けれども,「聞き書きをしないか」と私に聞いて下さった時は,書いているうちにご自分で勢いづいたのか,行がどんどん斜めに曲がってしまっていたいつものハガキとは違い,折り目のない真白な封筒で,きれいに折り畳まれた便箋に小さな文字が整然と書き込まれていた。
初めて先生のお宅に伺ったのは2008年6月3日。その日はどしゃぶりの雨が降っていた。小田急線読売ランドの駅で降りた私は,先生の家がどこにあるのかグーグルで調べたのにわからず,タクシーに乗って行った。運転手に住所を告げても,わかってもらえない様子。仕方がないので,先生の住所の辺りで車を降りたのだが,目指すお宅は見つからない。しばらくうろうろした挙げ句,やっと見つけたのだが,何で見つかったのかわからないほど,先生の家は奥まった場所に建っていた。
「この辺りは,川崎のチベットって言われてるんだよ,ヘヘヘ」と笑って招き入れてくれたそのお宅は,板壁に白味がかったマリン・ブルーのペンキが塗られている。先生のイメージと違い,パステルの趣味が何とも可愛らしい。入ると,内部は広く天井は高く,思いの他、ゆったりしていた。
先生が亡くなってしばらくした頃,せっかくの「針生一郎体験」を『あいだ』に書いてみないか,と声をかけられた。けれども正直,その時は,先生がいなくなった事のショックが大きく,生きておられた頃の先生と向き合う気持ちにはどうしてもなれなくて,とても迷った。何を書けるのか,考えれば考えるほど,先生とのいろいろな思い出,先生が語っていた諸々の話が,どんどん頭のなかに湧いて出てきて,収拾がつかなくなって行くばかりだ。
でも,そうしているだけだと,せっかくの先生との時間がだんだん遠いものになってしまうような気がしてくる。おそらくこれからの私にとっても,かけがえのない大切なものとなっていくであろう先生との時間。
「とりあえずやってみよう」。編集長は「勢いまかせに書いていい,何を書いてもいい,長さなんか気にしないでいい」と言い,締め切りも何も言わないでくれていた。だが引き受けてはみたものの,じゃあ,先生と私はどんな時を過ごしたのか。回想してみると,あのよれよれのゆかた姿,汚かったこたつ,崩れ落ちそうな本棚,引っこ抜こうとしても絶対に抜けない本棚の本。そしてドジでずっこけな先生の姿ばかりが目に浮かんできて,噴き出してとまらないお笑いネタにしかなりそうもないのだ。
第二次大戦後の戦後前衛美術評論の先駆者であり,表現の解放と自由を問うたおそらくは戦後最大の功労者であろう先生との,その後50回以上にわたって行われた聞き書きは,多くの美術関係者にとって大きな興味の対象であり,貴重な証言であるはずだ。だからこそ,私の役割は,先生の脳みその中にある膨大な量の知識や蓄積された教養,そして強固な反戦意識を披瀝するものでなければならないだろう。
でも,若年の私には,とてもとても。先生の話に相づちを打ちながらついていけるだけの知識や教養があったなら,先生との会話はもっと奥行きのあるものになり,その聞き書きの内容は,戦前戦後の左翼・右翼思想から戦後文学・戦後美術などの歴史を紐解く,ずっと内容の深いものになった事だろうに,と悔やまれる事を付言しておこう。ああ,先生は,最後になって聞き書きを依頼する相手の選択を間違えたんだな,ああ,先生,ごめんなさい,と言うしかない。
それにしても,先生の家の“無政府状態”とも言える蔵書の有様は凄まじかった。「大江健三郎はね,本を横にするのは申し訳なくて出来ないらしい」と,先生はよく言っていた。大江の本棚はいつも本がまっすぐ立っていて,常にきれいに整理整頓されている,と。読み終わった本はすぐ古本屋に売りに出すという事の揶揄的表現なのかも知れない。では先生は,と言うと,「どうしても手放す事が出来ないんだ」。あまりに本が溜まって,家の中には収まり切らなくなって来て,仕方がないから一度古本屋に見に来させたら,「駄本ばかりでほとんど金にはなりません」と言って,さっさと帰られてしまったらしい。
私設秘書としての私の最初の仕事は,おそらく、ゲーテの『ファウスト』であった様な気がするが、ヘッセであったかも知れない、はっきり思い出せないが,ある外国人小説家の文庫本探しだった。ちょうどこの日6月3日に,その小説に関する読書会があるのだと言う。先生はその小説の概要は覚えているけれど,内容をもう一度見直してから出席したいという事で,居間の本棚からその本を見つけ出したいと言うのだが,私にとっては初めて訪れたお宅の本棚,しかもその部屋は壁三面天井まで本に埋め尽くされていて,どこに何があるのか皆目見当がつかない。「たぶんこの辺りだと思うんだよねー」と指差す先生のその指先は,3メートル近くある本棚の天井付近。しかも本棚の天板の上に,さらに幅約2メートルにわたり3段4段に文庫本が無理矢理縦に積み重ねられていて,まさにそこは大雪崩直前,崩壊寸前の本の山。「えっ,こ,こんなとこ……」と一瞬絶句したが,何しろ初仕事,頑張らねば,と思い,すぐそばの椅子に上り,さっそく探し始めようとした途端,文庫本の山は雪崩を起こし,落石のごとく次から次へと私の額と顔を直撃しながら,床にバサバサと落ちていく。
痛い痛い,案の定だ。仕方がない。とりあえず,山になった本たちを両手で掴めるだけ掴んでは下ろして行く事にした。しかしその作業を30往復ほど続けても,天井近くまで積み重ねられた本の山は,上に向かって四重に積み重ねられているだけではなく,その奥行きも,つまり部屋の壁に向かっても幾重かに詰め込められていて,本のタイトルさえわからない。「こんな置き方で,どこに何があるのか,よくわかるもんだ!」と不思議に思う位に場当たり的な集積。一時間以上は探したと思うが,目的の本は一向に見つからない。しかも,
まだ天板の上には本の山は残ったまま。部屋の一隅の本棚の,ほんの天井近くに置いてある本を探すだけでもこの有様なのだ。
「先生の家にある本の整理もしたいなあ」などと,のんきな夢を膨らませていた私の想いは,初日から消え失せた。こりゃとても無理ですよ。「先生,本当にその本はここにあるんですか?」「いやあ,あるはずなんだよ」。
しばらくすると,新米私設秘書の体たらくを見かねたのか,先生は,「じゃあ,やるか」と言って重い腰を上げ,座っていたソファを本棚のふもとまで移動し,その肘掛け部分に両足を乗せ,自分でごそごそと探しはじめた。その姿は80何歳かのお爺のくせに,なかなかやるなあ,と感心する程で,肘掛けの上のつま先立ちのバランス感覚も絶妙に,着ていたゆかたのたもとをはだけさせ,「あー」とか「うー」とかうめきながら,肘掛けの上で落ちて来る本と格闘しつつ探していたが,しばらくして「ああ,やっぱりないや」と諦めて下りてきた。
「仕方がないから,読売ランドの駅前にある本屋で買って行くよ,それくらいの文庫本はあの本屋にもあるだろう」。先生はそう言って,「あなたは家までの道順がわからないだろうから,覚えるついでにもなるし,一緒に出かけよう」という事で,共に家を出た。駅まで二人,雨上がりの道をのろのろと歩きながら,駅に行く時には必ず通らなければならないという80段近くある石段を下りて駅前の本屋に入ったのだが,結局その本は見つからなかった。
「こんな有名作家の本なのに,置いてないなんてけしからん!」とプリプリ怒りながら,先生は仕方なく代わりに駅の売店で『日刊ゲンダイ』を買った。「『夕刊フジ』は政府寄りだからけしからんのだが,『ゲンダイ』は対抗意識を持って記事を書いているからいいんだよ」とニヤリ。聞くと,先生は同紙にいつも掲載されているらしいエロ小説がお好きらしく,以前電車の中でそこの部分を熟読していたら,見ず知らずの男性に「女性も乗っていますよ。あなたは恥ずかしくないのですか!」と注意された事があるとか。そこまで話すと先生は,照れ笑いしながら「じゃあね」と読書会へと,小田急線の私とは違う方向へ去っていった。
そういえば,お宅から駅に向かう途中,チェーンが引かれて「通り抜け禁止」と書いてある道を,先生はチェーンを跨いで堂々と歩いて通り抜けていた。「こっちの方が近道なんだよ,ヘヘ」と笑う先生。モラルがないなあ,と思ったが,何だか先生らしいと妙に納得した私設秘書一日目であった。
6月11日第2日目。今度は1日目の部屋とは違う,廊下の奥の部屋の本棚を見てくれと言う。聞くと,本棚に本を詰め込み過ぎた結果,棚の側板が歪んで突き出てドアまで達し,扉の開け閉めが困難になりつつあるのだと言う。見に行くと部屋は寝室で、ベッドのシーツと布団はくっちゃくちゃ。薄汚れ,蒸れた雑巾みたいな臭いを発し,それが部屋全体を満たしている。上野千鶴子が『おひとり様の老後』という本の中で、連れ合いに先立たれた老人は、その寂しさに浸るのではなく、むしろ一人になった自由を謳歌して生きるべきだと書いた、それに強く共感すると先生はよく話しておられたが、それにしても男やもめはやっぱりキッツイなー,とその時しみじみ思った。しかも窓はぴっちりと閉め切られているから,部屋の中は昼間なのに薄暗く,6月の湿気と気温の高さが,臭気にさらなる勢いを与えている。
そして本棚はと言うと,先生が言うドア付近のものだけが問題なのではなかった。ドア横の壁は一面,高さ1メートル程のカラー・ボックスが横に並べられ,さらにそれらの上にボックスが積み重ねられ,中には展覧会カタログが詰め込まれている。先生は本棚が一杯になると,本と本の間を無理矢理こじ開けて突っ込むのがクセらしく,その為,重量に耐えられなくなった棚の側板はアールを描いて曲がり,本棚全体が歪み,樽が台形になったような形にひしゃげてしまい,ひしゃげてできた隣の棚との間にも無理矢理本を突っ込むものだから,いったん入れられたカタログはもはや引っぱり出す事も出来なくなっている。
見ると,そこにあるカタログの殆どはここ数年のものであるから,おそらく先生は展覧会でもらってきたカタログを寝室に持ち込み,ベッドに寝転がりながら目を通し,見終えると手の届く場所に突っ込んでもうそのまま,という習慣を続けて来たのだろう。そして気がつくと,棚が歪んでドアを圧迫し始めた,というわけだ。私が見たときには,ドアの扉と本棚の側板はもう既に一触即発という感じで,いつ開かずの間になってもおかしくない有様だった。
けれどもこの歪みを取り除くには,すべての棚にある本を全部取り出し,棚をまっすぐに立て直した上で,新たに本を入れ直すしか方法がない。梅雨の真っ盛り,閉め切った部屋の湿度は最高潮。何もしないでも汗がどろどろ流れてくる悪状況。ベッドの上にも床にも取り出した本が堆く積み上げられるのに,棚の本はまったく減る様子はなく,四次元から溢れ出てくるかと思う程だ。
やっとの思いでドア付近の本棚のみを空にして立て直し。と言っても側板がアールを描いているから棚は樽状に歪んでいるのだが,そこの本を入れ直してみたものの,もはや本棚はひしゃげていたほうが気持ちが良いのか,またもや樽台形に戻ってしまい,2時間以上かけて大汗かいて入れ直しをしたのに,以前よりもひどい状況になってしまった。しかもカタログの殆どは棚には入らないままだ。「もういいよ」と先生が言ってくれたので止めた。
次に行ったときは,部屋のドアはもう開かなくなっていた。「これは駄目だと,やり直しても,二つ重ねの今の本棚じゃ駄目だと思って。で,通りがかりの,ちょっと遠いんだけども,稲田堤に古道具屋みたいなのがあって,そこの軒先に本棚が出てたからそれを買ってね,届けてくれるかって言ったら,届けるって。で,やっと据えつけたんだけど,まだ並び替えていない。大変だ,あそこ暑いしねえ。まあー,追々……」。その後,私はあの部屋には入っていないから,どうなったのかは知らない。
本ネタばかり続くが,初日の話に出てきた居間の本棚はもっと凄かった。十畳程あるその部屋は,一見すると,壁三面の天井近くまで棚が立ち並んでいるようだが,実はそのうちの一面は,本棚が部屋の仕切り壁になっていて,両面が本棚。さらに奥の壁も本棚で,間には,簡単に言えば図書館の通路のような狭いスペースが作られている。
先生の本棚収容册数は相当なものなので,床はその重さに耐え切れず地盤沈下していた。そのため,仕切り壁の本棚は実質5度程,目算では15度程度反り立っている,というか後ろに倒れている。ちょっと指で押すだけで,本もろとも仰向けに倒れ落ちてしまいそうである。もちろん背面にも本が入っていて,しかも,本と本の間はカミソリも入らないほどびっしり詰め込まれている。それも棚のキャパを無視して詰め込んでいる。だから,もはや取り出して読む事など出来なくなっていて,実際,千冊以上あるその棚の中でも,取り出せるのは10冊あるかないかだろう。しかも無理して引っぱりだそうとすれば本棚ごと倒れてしまいそう。『完本 狭山裁判』、菊畑茂久馬の『戦後美術の原質』、『山本作兵衛炭坑画集』等、もう手に入らないであろう希少本や炭鉱に関する書籍がこの棚には何十冊もずらりと並んでいた。この頃目黒区美術館で『炭鉱展』が開催されると聞いていた私は、かなりそれらのタイトルに惹かれ、是非手に取ってみたかったのではあるが,本棚が倒れてくるのが嫌なので、すんなりあきらめ、結局一度も手にしなかった。
けれども先生は「本の重量に耐えられるようにちゃんと床を頑丈にしてあるから大丈夫なんだ,ヘヘへ」と平気で,重量に耐えられず床が斜めになっているのに,全くお気づきにならない様子。もっとも私が通い続けたほぼ1年間,そこの本の配置は変わらなかったから,先生自身も取り出す気は無かったに違いない。
棚の本を見れば,その持ち主がどんな事を考えているか,何に興味を持っているか,さらにはどういう人物かわかるとかよく聞くが,先生の場合,その書棚にはありとあらゆる本が詰め込まれていた。ネグリ•ハートの『帝国』『マルチチュード』、いいだももの『主体の世界遍歴』、島尾敏雄の『死の刺』論、この頃ブームになっていた小林多喜二の『蟹工船』等、毎回先生はいろいろな本の話をして下さった。井上ひさしの『紙屋町さくらホテル』という先生がモデルになったと思われる登場人物 陸軍中佐「針生武夫」が出る戯曲にまつわる思い出話、東宝のプロデューサーだった先生の弟さんが携わった、先生の白壁土蔵作りの商家がタイトルバックに映し出された映画『青葉繁れる』の話、当時井上夫人であった西舘好子やその後の夫人米原昶の娘の比較、太宰治や坂口安吾論、、、。先生が話して下さる雑談は、いつも多岐にわたっていて、しかもユーモアに飛んでいて、とっても楽しかった。ジャンル問わずの貪欲な好奇心がいつもそこには感じられた。だからこそ、先生は最後まで現役であり続けられたのだろうと今改めて思う。
先生は美術評論家でありながら、しかし,文学に比べ、美術の話はあまりされなかった。特に、作品に関する話はほとんどしなかった。坂口安吾が文芸春秋に連載していた『新日本風土記』で、先生の故郷である仙台を「仙台は元は第二師団、陸軍の第二師団があり、東北帝大、今の東北大学があり、その他にも私立大学等いくつもあって、官庁大企業等の支社は大体揃っている。ところが一番偉いのは必ず中央から来て、それで地元の人たちはそれに従順に従って、上司を大事にするから、まるで街全体が下宿屋みたいな街だ」と書いてあるのを読んだ先生は、その頃から戦後文学の方がいいと思い始めていた矢先でもあり「これはいかん、これは出なきゃ」と感じたのだと言う。味噌醤油醸造業の長男として生まれた先生は、それを継がないつもりは無いのだけれど、仙台というローカルなところを抜け出す為、「東北大の教授に対してもうちの両親に対しても一番いいのは東大の大学院で美学を専攻するという事だ」と思い東大大学院の美学を専攻。その間にマルクス主義芸術論の翻訳等を出したせいか全く教職の専任の口がかかって来なかった先生は、「これはフリーライターになるしかないな」と文学を中心に評論を始めたものの、文学は左翼にも書いていた為、原稿料にあんまりならんと言うので美術に重点を移し、それから他のジャンルの芸術、何でも注文あれば応じるという体制を取ったと言う。「美術のつまんないのはねえ、自分自身が売れない時には作家たち一生懸命僕のものなんかを読むけど、ちょっと売れ出すとフフンてな感じで。読まなくなるって言うか、つまり作家の意識も経済に振り回されてるって言うか。割合美術と言うのは一点売れればかなりまとまった金が入る。だから権力や資本との繋がりがそれだけ深くて、浅間山荘事件後に針生一郎はあまりにも全共闘寄りで過激派寄りだからってんでマスコミからパージになったような時に、それは政治思想や文学に関してはそうなんだけど、美術のそういう権力や資本と繋がってる状態を論ずるのは僕しかいないと言うので、むしろマスコミによって僕は自分でテーマを限定したことは一度もないのに、否応なく美術批評家にされちゃったと。自分で本当にそう思ってる」と先生は話しておられた。
自ら美術評論家になろうと思ってなったわけではない、とおっしゃっていた先生だが、僭越ながら言わせていただけば,先生は美術評論はするものの、肝心の美術作品を見る目はあまり確かでは無かったように私には感じられる。各種の展覧会には足繁く可依っていたが、実際作品一点一点をしっかりと見てはいなかったように思う。先生は美術評論家ではあったが,先生の言葉を改めて思い返してみると、作品そのものにはあまり興味を持っていなかった。むしろ作品が大事なのではなく,美術が社会に対し,いかに関わりを持てるか,という事が先生にとっての最重要課題だったのではないか。そういう事をいつもいろいろな話を通して私にして下さっていたように、思う。
先生の50回以上に及ぶ口述筆記。先生が亡くなった後,どうしたら良いのかわからぬままに,未完に終わったその聞き書きのテープ起こしを,今私は再び毎晩やっているのだが,当初先生は,聞き書きの内容を本にして出版したいという意向を強く持っていたので,そのテープ起こしも「本の内容」と,その都度ついでに話してもらっていた「雑談」とを分けてパソコンに打ち込んでいた。けれども先生がいない今,改めてそれらを聞き直していると,「本の内容」だけでは,少なくとも私の耳には,残念ながらそれ程面白くない。むしろ雑談のほうがずっと興味深い。日々のぼやき,家族との思い出,そして話しても話しても切りがない美術界や社会に対する文句と不満,あー,とか,うー,とかのうめき声。私が書き起こして持参したそれら雑談を先生はいつもとても面白がって読んでいた。本の内容は雑談と合わさってこそ,針生一郎という人間像が浮き彫りとなってくる。今、和光大学に通っている孫の彩夏さんが「原稿の合間のう〜 とか え〜とか が 省かれたらじいちゃんじゃない! もっと要領を得ないのが じいちゃんの話だ!」と言っていた。そうなのだ!
去年の8月。最後となってしまった先生の口述収録。あの時先生の心臓の近くの動脈瘤は,既に手の施しようがない程に膨れ上がっていたと言う。「爆発寸前で,破裂したらもう即死なんだって」と先生は悲しそうにつぶやいていた。「重い荷物を持ち歩かない」「タバコを吸わない」「階段の上り下りは厳禁」「遠出は禁止」。そんな事を医者に言われた,とうなだれる先生のそばには,いつもの重い鞄がずっしりと置かれ,「タバコだけが女房が死んだ悲しみを紛らわせてくれるんだよ」と言いながら,しっかり「わかば」を吸っていた。
5月26日,もう社会人となっている孫の佳奈ちゃんが病院に駆けつけた午後1時,先生の身体はまだ温かかったと言う。朝,いつものように出かける格好をしたまま玄関の框に両足を投げ出して倒れていたという最後の先生の姿。「多分どこかに出かけようとして玄関まで行って,そこで死んだんだと思う」と佳奈ちゃんは言っていた。
けれど私は思う。きっと先生は,自分がもうすぐ死ぬ事がわかっていて,その前日,館長をつとめる金津創作の森で,「具合が悪そうだから一泊して行けば」と引き止められるのを断って福井から飛行機に乗ったのだ。読売ランドに着いて,くねくねとしたあの細い道を歩きながら,自宅へと向かう80段の石段を上りながら,「死ぬ前,女房がとても辛そうに階段を上がっていたんだよ」と言っていた,あの時の自分を思い出しながら,ゆっくり石段を踏みしめて上り,やっとの思いで自宅にたどり着き,最後の力を振り絞って玄関のドアを開け,どっかりと玄関に腰を下ろし,そのまま一晩,止まりそうな心臓とともに,最後の一夜をわが家で過ごしたのだ。玄関にうずくまりながら,きっと先生の脳裏にはいろいろな想いが巡ったに違いない。
生涯をかけて問い続けて来ている前衛芸術の源流がある気がする、そうおっしゃっていたモンテ・ヴェリタの口述筆記の序章を持って、まずは先生への追悼文を終わりにしたい。
序章 この地域とのわが出会いまで
一九六七年秋、詩人・美術批評家の瀧口修造から、わが家に電話がかかってきた。―今、美術家連盟と美術批評家連盟の代表が集まって、国際展に送りだす日本代表を検討する国際美術協議会に出てきたところだが、来年のヴェネチア・ビエンナーレの日本コミッショナーが、あなたに決まったよ、と言うのだ。突然思いがけない大役を持ちかけられて、私がとまどっていると察したのか、瀧口は続けて説明する。「実は富永(惣一)君は山田智三郎君を推薦したけど、山田君なんて僕が敗戦後はじめて会ったとき、GHQ(占領軍指令部)お出入りをひけらかす、ただのアメションでね。批評家でも美術史家でもなかった。あんなのをコミッショナーにするわけにはいかないから、僕は極力あなたを推して、ついに富永君も説得したんです。だから、ぜひ引き受けてください。」いつもおだやかだが芯のつよい瀧口が、個人を批判するときの癖で、少々興奮したせきこんだ口調だから、そうまで言われてはもう断れないと、私はともかく承諾して電話を切った。
ヴェネチア・ビエンナーレは、イタリアの遅れた国家統一を記念して、一八八七年主要な六都市を巡回した〈イタリア美術展〉を基盤に、かつて港湾都市国家として榮えたヴェネチアが主体となり、企画と準備に数年かけて一八九五年、招待部門と公募審査部門から成るビエンナーレ(隔年制)形式の国際展を創設したもので、当時すでに百年近い歴史をもつ国際展中随一の老舗だ。折からの浮世絵や陶器による日本ブームに乗じて、一八九七年の第二回展にはビエンナーレ総裁からの出品要請が日本美術協会なる団体に届き、日本画、木彫、陶器、七宝、彫金、鋳金、漆器など七十五点出品された他、ベルリンの個人コレクションから借りだした薩摩焼仏像、香炉、根付、象牙彫、刀の鍔なども特陳されたことが記録されている。その後も時折ヴェネチア・ビエンナーレに日本美術の出品が記録されるが、あくまで間欠的、偶発的で、選出母胎も選考基準も不明のまま本部企画室に展示された。要するに第二次大戦直後まで日本の公式参加はなく、藤田嗣治もエコール・ド・パリの一人、国吉康雄もアメリカ美術の代表として選ばれただけだった。
このビエンナーレそのものは一九三〇年代、ムッソリーニのファシスト政権のもとで、最初からの広い会場ジャルディーニ内に国別パビリオンの建設とナショナル・コミッショナーの任命を参加国に義務づけ、さらに国際審査による受賞制を取り入れて以来、「美術のオリンピック」等と呼ばれて一躍人気を高めた。日本もこの時期にパビリオン建設を企てたが、建設予定地を巡って他国と争ううち、日中戦争が始まってパビリオンどころではなくなった。こうして日本最初の公式参加は一九五二年、講和条約が成立して占領状態が一応終わった直後、しかも長老画家梅原龍三郎がイタリアの友人にすすめられて読売新聞社の資金援助を得た上、自らコミッショナー兼国際審査員としてヴェネチアに赴いたときである。当然再燃した日本パビリオンの建設問題は、何度かの政府予算削減でさらに延期され、ブリジストン会長石橋正二郎の寄附で補いを付ける形で、ようやく竣工と開設に漕ぎ着けたのは一九五六年である。同年のビエンナーレで棟方志功が初めて版画大賞を受賞したのは、その御祝儀の意味も込められていたことを私は後で知った。
次の問題は出品作家の選び方で、ファシズム下の戦争中から占領期間まで、一種の鎖国状態におかれた日本では、国際展には洋画と立体の前衛に絞るべきだ、いや、日本画の長老の方が西洋模倣でないから評価される、という論争に決着がつかず、一九五一年新設のサンパウロ・ビエンナーレ展には洋画、日本画の長老、中堅四十五人の作品を総花的に並べる始末だった。もう一つは、これらの人選にあたるのが美術家連名代表の作家たちばかりだったから、梅原コミッショナーのヴェネチア・ビエンナーレの時、美術批評家連盟から外務省に申し入れて、作家・批評家合同の選考委員会を作り、出品作家を十一人まで減らした。それでも一九五八年のヴェネチア・ビエンナーレまでは、国際美術協議会でまず数人の出品作家を選考した上、後に決まったコミッショナーに依託する方式だった。だから同年のコミッショナー瀧口修造は、気の毒にも前年から決まっていた日本画の前田春邨、川端龍子、洋画の福沢一郎、岡田謙三、彫刻の木内克、辻晋堂の出品作家と、外遊する福沢一郎を副代表として押しつけられ、会場でいくら説明しても日本画はドローイングとしか見られないことを始め、『無反響の事実を正視せよ』と題して折衷的な作家選考の批判を、帰国後に新聞に書いた。そのせいか、一九六〇年代になってようやく、国際美術協議会でまずコミッショナーを決め、出品作家人選はそのコミッショナーに委ねる方式がとられたのだ。
そこで私は菅井汲、高松次郎、三木富雄、山口勝弘の四人を出品作家に選んだ。そのうち菅井はヴェネチア・ビエンナーレ二度目だが、作風が一変してポルシェの高級車の運転中に見た、交通標識やハイウェイ風景を思わせる明快で開放的な抽象絵画とオブジェとなったから、再度の出品も意義があると私は考えた。ただその菅井汲が前年夏のヴァカンスに、ユーゴスラヴィアの避暑地に行く途中、ハイウェイでその愛車が横転して大怪我を負い、パリに運ばれて入院中と聞いて私は驚いて見舞に行った。ところが、繃帯のぐるぐる巻きで、ベッドに横たわる菅井は、自分にとって死ぬか生きるかだけが問題で、運よく死ななかった以上、制作は助手を使ったでもやり遂げて、ビエンナーレに出品すると約束した。それに対し、高松次郎の出品は遠近感を誇張したオブジェ群で、遠方が極端に小さくみえる木造ベンチとか、床におかれた正方形の布の中央が山型に盛り上がって見えるのは、もともと布の中央に広げれば山型になるヒダと弛みが作り付けてあるからだ、といった作品、三木富雄は例によって人間の耳をそっくり複製化した巨大レリーフを壁面に並べる。ここまでは一階展示室を予定するが、山口勝弘はアルファベットの一文字を象ったプラスチックの筒を、内部から電光で色鮮やかに照らし出す作品なので、ピロティ空間に設置することにした。
こうして私は、一九六七年四月末には日本語カタログ用の原稿を国際交流基金の前身国際文化振興会に渡し、五月末にはローマの日本大使館で打ち合わせた上ヴェネチア入りした。菅井汲はまだ手足に不自由さが残る状態で、パリから夫人につき添われて来たし、三人の他の美術家は東京から前後して来て、いずれも五月末には現地に集まった。ところが、六八年五月末と言えば、ソルボンヌ大の学生を先頭にパリ中を燃えあがらせた「五月革命」が、外国旅行から帰ったド・ゴール大統領の呼び掛けた国民投票で、大統領信任票が優勢となってあっけなく鎮圧された直後にあたる。パリに結集していたヨーロッパの知識人・芸術家・学生の大部分は、一斉にヴェネチアに押しかけ、そのビエンナーレを「商業主義と大国主義の祭典」としてボイコット運動を始めた。それに対してビエンナーレ当局は、開会前からジャルディーニ会場に警官隊を常駐させたのである。私は日本館の斜め向いのスエーデン館のコミッショナー、オーレ・グラナツと、すぐ前のフランス館のコミッショナーは旧知のミシェル・ラゴンだが、「ド・ゴール政権に任命されたのは屈辱だ」と正面扉に貼り紙して現地に来なかったから、その四人の出品作家アルガン、ドワーヌ、コワルスキー、シェフェールと相談して、警官隊導入に抗議し、その即時撤退を求める声明を連名で書き、ビエンナーレ当局に手渡した。だが、その後サン・マルコ広場での抗議デモ中、スエーデンの出品作家の一人が警官隊に殴られて連行される事件が起こり、グラナツはその事に抗議してビエンナーレの開会前にスエーデン館を閉鎖して帰国し、フランス館も画商の忠告で空けたままのアルマン以外、三人の出品作家は自室の入り口を閉め、批評家やジャーナリストが来ると招き入れる、巧妙な二枚腰の作戦を取った。
その結果、私は「五月革命」のラディカルな推進力の一人だったフランスの美術批評家ゴジベールからは、「日本館ももう閉鎖すべきだ」と忠告され、ベネズエラの出品者で女性彫刻家マリソールからは、「日本館が閉めたら今度のビエンナーレはおしまいだから、絶対閉めないで」と懇願される破目になった。ビエンナーレ関係者がみんな夕方には憩うサン・マルコ広場を私が歩くと、「あのヒゲの男がいまキャスティング・ボードを握ってる」とささやきの声が聞こえる程だった。そこで私は四人の出品作家に相談すると、高松と三木は私の判断に任せるが、菅井と山口は当時までコミッショナー以外出品作家は自費で来ている以上、ヨーロッパの国際展での発表機会を逃したくないと、閉館反対の意向を表明した。しかも吉阪隆昌の設計した日本館一階展示室は、まんなかにピロティ部分を見下ろす大きな手すりつきの穴が開いていて、フランス館のように作家別に個室を仕切るのも困難だから、結局開館したままビエンナーレ開会を迎える他なかった。
その開会式と各国パビリオン回りを終えた午後から、ヴェネチアに集まった世界の美術関係者の民族大移動に似た旅が始まった。私たちその一部は、学生デモ隊に侵入されたトリノのデザイン・トリエンナーレを見てからだが、大部分はヴェネチアからドイツのフランクフルトへ飛行機で直行し、そこから汽車で四年に一度の大国際展〈ドクメンタ4〉が開かれているカッセル市へと向かった。わたしはその一時間余の車中、ロスアンゼルスのラ・シェネガ通りで旧知の水野梨子と画廊を共同経営するという女性とその夫の弁護士と同席したので、退屈する暇もなかった。「国境なき百日間の美術館」をスローガンとする〈ドクメンタ〉は、国別のパビリオンもコミッショナーもなく、展覧会全体のコミッショナーとコミッティの国別綿密な調査により、世界中から出品作家が選考され招待される。しかも、フレデリッチアヌム美術館とノイエ・ガレリーの二つの大きな建物と、アウエパルクの野外展示場を主会場としながら、出品作品のサイズやスケールに応じて建物の間仕切りをずらしたり取り除いたりし、あるいは小さな展示室を増設するなど、建物を自在に変型してしまう。今回の〈ドクメンタ4〉の焦点は、アメリカのミニマル・アートとイタリアのアルテ・ポーヴェラだから、桁外れに大きい作品や不安定に広がる作品が多いのに、今述べた建物変型の可能性は存分に発揮され、その上もともと賞はないから、ヴェネチア・ビエンナーレの問題点を全部クリアしている事は、殆ど誰の眼にも一目で明らかだった。私も会う人ごとにその感想を確かめあい、大いに満足して数日ここに滞在した。
一九七〇年にもヴェネチア・ビエンナーレは、批判の的だった授賞を見合わせた以外、何の改革もなく続行された。日本のコミッショナーは、警官隊導入に抗議するような人物は困ると政府筋が判断したのか、あるいはそれまで各人一回ずつだった慣習のせいか東野芳明に変り、出品作家も荒川修作と関根伸夫の二人に絞られてすっきりした。
ところで私は六八年のヴェネチア・ビエンナーレに行く直前から多摩美術大学の専任教員だったが、この七〇年初頭多摩美大では学生によるバリケード封鎖が起こり、当時の学長代行だった福沢一郎は一回教授会を開いて対応を協議しただけで、突然辞表を出して来なくなった。当時「全共闘」と呼ばれる無党派学生中心の学園紛争では「大衆団交」で大学側と学生側が交渉を重ねて解決の道を探るのが流行で、新しい学長や学長代行を選ぶには所定の手続きを経て何ヶ月かかかるから、理事会代表と並んで大衆団交に出る「教授会議長」を暫定的に選ぶ提案があって、私が思いがけずその議長に選ばれた。私は団交の中で、理事長の一存で事務職員を教員に移したり、新設予定の二学科の計画が杜撰だったり、学生側の批判にも傾聴すべき点を多く認めたので、理事会の大幅な譲歩で二月半ばに封鎖解除に漕ぎ着けた。だが、理事会がその確約の実現を無視または怠ったため、四月には附属専門校の多摩芸術学園の学生たちが多摩美大本館の角封鎖に踏み切った。すると大学側は今度は学外に仮事務所も設けず、ひたすら大学法が国会を通過して機動隊導入が容易になるのを待って、何よりも新入学生を授業のないまま放置した為、封鎖されない教室を使って教授会主催の一定カリキュラムによる自主講座を始めた。その教授会自主講座を理事会は「授業再開」と文部省に届けた、というのも腹立たしいが、最中で私は七〇年ヴェネチア・ビエンナーレには到底見に行けなかった。
ここでその後の国際展を語るには、スイスの美術評論家ハラルド・ゼーマンを登場させる必要がある。彼は一九六〇年代末ベルンの美術館長になって、「態度が作品になるとき」という変ったタイトルの展覧会を主催した。私は実際にその会場を見たわけではないが、そのカタログを見ると、後にインスタレーションと呼ばれるような身近な素材を組み合わせてある状態を設定する傾向に、ボイス、マリオ・メルツ、バリー・フラナガンなどかなり幅広く取り上げて、これは注目すべきだなと思った。そしたら七二年に「ドクメンタ」のコミッショナーを頼まれた。このような国際展というのは、日本では中原佑介が東京ビエンナーレを一九七〇年にやって成功した。出品作家を四〇人に絞って、全員を招待して現地で作らせる。人間と物質というサブタイトルを付けて、人間と物質との関わりについて、非常に突っ込んでやった展覧会だった。ただ、興行的にはあんまり当らなかったみたいだが。
そのゼーマンがコミッショナーをつとめる〈ドクメンタ5〉は見逃せず、美術出版社から航空券を提供されたのを幸い私は四年ぶりにヨーロッパに旅立った。ただヴェネチアに着いたのは、テルアヴィブ空港で日本赤軍の若者・岡本宏三が銃を乱射して逮捕された事件の直後で、会う人ごとにその話題を持ち出されてこちらは応答に窮した。だが、スエーデンの長老美術評論家ポントゥス・フルテンにその事を告げると、「僕はテロリズムを一概に否定しない。大国はそれ以外に変革の道がないからだ」と彼は言い、アメリカのベル・カンパニーと提携してEAT(芸術とテクノロジーの実験)のプロジェクトを推進し、外国人ながらパリのポンピドー・センターの初代館長に予定されている大物にして、この言葉があるかと私をいたく感心させた。その他に七二年のヴェネチア・ビエンナーレには、印象に残るものが何もなかったと言えるだろう。
問題はそれから行った〈ドクメンタ5〉だ。ゼーマンがハプニングとコンセプチュアル・アートの流れを中心に、今貪欲な大衆文化がそれを取り込んで、もう通俗すれすれのところのものを三つの会場に五百点くらい並べ、会場全体がゲテモノのごった煮然とした観を呈していた。たとえば、戦後数年京都に滞在したアメリカのジェイムズ・リー・バイヤーズは、真紅の服に真紅のターバンを巻いて、フレデリティアヌム美術館の正面屋根に立ち、ハンド・マイクで「エウ、アウ、プス」など意味のない言葉を叫び続ける。ドイツのヨーゼフ・ボイスは同美術館の入口突き当りに陣取って、毎日開館から閉館まで東西ドイツの違いから、宗教の問題、女性差別の問題とありとあらゆる問題、観客の質問にすべて答える。会期中ずっとそこにいて討論するというそういう参加出品をしていた。逆にフランスのベン・ヴォーチェはボイスの隣の部屋の一室の真ん中にベッドを置いて、トイレに行く以外はずっと寝て何もしないという。アメリカのラ・モンテ・ヤングは数人のバンドとともに、単調なインド風音楽を果てしなく演奏するので、聴衆の大部分は絨毯の上に寝そべって聴く他ない。一方では、ポスターまがいやポルノグラフィティーまがいの絵も数えきれない。会場内売店で一九七〇年「東京ビエンナーレ」のとき来日したニューヨーク在住のドイツ美術家ハンス・ハーケに会うと、「ミスター・ハリウ!」と彼も私を覚えていて、「このドクメンタは問題が多いんだ。この本を読めば、一番よく分かるよ」と、クラウス・ステークの〈ドクメンタ5〉批判書を指さした。ステークも私には旧知の作家で、ドイツ統一前に東独から西独に亡命して社会民主党に入り、市民が各政党に公約違反を追求する「市民イニシアティーフェ」の運動を指導しながら、とりわけキリスト教民主党・同盟の党首たちをナチス指導者と重ね合わせるような痛烈な政治風刺のポスターを制作し、当然名誉毀損で何度も訴えられたが、ステーク自身弁護士も兼ねているので裁判で敗けた事がなく、さらに、「エディション・ステーク」という小出版社の社長なので、それらの絵をみんな画集にまとめて出版してしまう。だから、私がステークの〈ドクメンタ5〉批判書をすぐ買ってみると、彼がポスター・ポルノグラフィ部門の委員として、あまりに総花式羅列では焦点がぼけると主張し、ゼーマンと論争した内幕も含めて詳細かつ具体的に批判を展開したものだった。その他会場警備のアルバイト学生たちが、フレデリティアヌム美術館前の広場に一列に並んで、「あらゆるものが芸術ならば、われわれの労働も芸術だ。もっと賃上げを!」というプラカードを掲げたのは、笑わせる光景だった。さらに私が帰りの汽車の切符を買う為カッセル駅に行くと、駅員の一人が「あんたどう見ても日本人だろ。なぜこんな田舎町まで来たんだ?」と尋ねるから、「ドクメンタを見に」と答えると、「あれ評判だから、僕もこないだの日曜日に家族づれで行って見たよ。ひどいねえ、あんなものが現代美術かねえ」と彼は言うのだ。
ついに〈ドクメンタ5〉の会期後に、コミッショナーとしてのゼーマンはゲテモノやキワモノばかり集めて大赤字を出したかどで、カッセル市とヘッセン州から告訴された。だがしばらくして風の便りに聞いたところでは、ゼーマンはバーゼル市立美術館長を辞め、その退職金をそっくり〈ドクメンタ5〉の赤字を埋めるために提供したので、カッセル市とヘッセン州は感動して告訴を取り下げたらしい。ただそのため彼は長年連れ添った奥さんに愛想づかしされて離婚する破目になり、スイス東南端のロカルノに近いミヌーシオに、新しい恋人の画家とともに住みついたという。そしてフリーのキュレータになった。ところがかえってそれから注目されだした。
なぜそこに住んだのかよくわからないが、二十世紀のはじめからその辺りには、資本主義が爛熟して芸術のすべてが商品になる、その金の力によって支配される時代になったらどうなるんだろうということで疑いと失望を抱いた芸術家・思想家・風刺家などがその辺りに住みついて巨大なコロニーを作っている。カウンターカルチャーと言う言葉は六〇年代にベトナム戦争に反対するアメリカの若者が使い始めた言葉であり当時はまだ使われていない言葉であったが、ゼーマンがそこで企画したこの土地を紹介した展覧会は実際カウンターカルチャーで、私はその展覧会は見てはいないが、大変評判になって、チューリッヒなどいろいろなところに巡回した。その後モンテ•ヴェリタという山の中腹にミュージアム•モンテ•ヴェリタという建物が作られて、その巡回したものが常設されている。私はそれを見て大変興味を覚えて、こういうものまで遡れば、前衛芸術というものは決して滅びてもいないし終わってもいない、むしろ前衛芸術の源流がここにあるという気がしたものだから、そういう対抗文化みたいなものまで日本は紹介しなかったから、今こそ全面的に紹介する必要があるなと思った。
ゼーマンはその後、日本、そして後に中国に興味を持ち出して、蔡国強をアメリカから呼んで、文革時代の農民像の彫刻を模刻してヴェネチア・ビエンナーレなんかに出したりした。中国に一番入れあげて。わたしはその後も何度も彼にあったのだが、三年前か死んでしまった。
ミヌーシオ定住後のゼーマンの主な仕事を語るには、もう一人の友人を登場させなければならない。自由美術家協会に所属して一九五〇年代から、昆虫などを思わせる有機的抽象彫刻で注目をあびた井上武吉である。彼は一九六〇年代にフジテレビに認められて、新宿河田町に移ったフジテレビの本社前に大きなモニュメントを作り、フジテレビ・産経新聞社長の鹿内信隆の属するキワニス会の推薦を受け、靖国神社に《慰霊の泉》というモニュメントを作った。キワニス会の中心的イデオローグであった福田恆存が、このモニュメントを批評して書いている文章に、「現代美術というと非常にひとりよがりの作家が多いから私は非常に心配したが、井上武吉の場合にはそういうものが全然なく、こちらの言うことを全部受け入れて申し分のない彫刻を作ってくれた」とある。それは要するに、靖国神社は特定の偶像を作るそういう宗教ではないから、抽象彫刻でなければならない。ただし戦死者の霊を慰める母親の抱擁を象徴するような要素が必要だという。それを《慰霊の泉》として観客の目の高さのところに噴水をつくり、その噴水の水が洞窟のようなところの天井にあたって流れ落ちる、その全体が母親の胸を象徴するようなそういうものを作ってくれて大変満足したと。名うての右翼思想家・福田恆存にこんなふうに褒められて、井上武吉はそれでいいのか、と。今後一体どうなるのか、と私はかなり手厳しい批評を読書新聞に書いた。井上はそれについて何も反論しなかったけれど、自分でもフジテレビ産経・キワニス会等に抱え込まれて、これではまずいという反省があったらしく、それから十年程、ヨーロッパに留学して、何を勉強しているか分からないけれども音沙汰がなかった。
ヨーロッパから帰った一九八〇年くらいに、わが家に井上が訪ねてきて、ヨーロッパで影響を受けた人々として、ゼーマンの名前を挙げ、そしてゼーマンがマジョーレ湖北岸で発掘してモンテ•ヴェリテ展というのをやったという。それが大評判で、チューリッヒ、ウィーン等で巡回展が開かれて、その展示内容がモンテベリテ美術館というところに収められているそのカタログを置いていった。これがモンテ•ヴェリタでのゼーマンの展覧会のカタログであった。
井上武吉はヨーロッパですっかり変った。マイ・スカイ・ポールという大地に穴を掘ってその穴から高く建てたモニュメントを覗かせるみたいな作品に変った。それに彼の故郷である室生寺の辺りに作ったりと地方が多かったのであまり見なかった。琵琶湖のそばの大津に作ったのが一番最後で、これは琵琶湖全体を借景みたいに作品の中に取り入れて見事な彫刻で、こういう事を彼は考えていたんだ、と思ったら、そのお披露目の直前に彼は心臓マヒか何かで死んでしまった。私は井上をこっぴどく批判してからどう変ったかというのを見届けることが出来ず、最後に死んでから非常に感動したということを、井上の追悼会にでられなかったから文書で送った。そうしたら南天子画廊が事務局だったのだが、ようするに産経フジテレビの連中が来ているから私の追悼文を読み上げることが出来なかったみたいな、とにかく読み上げたという話を誰からも聞かない。それで南天子画廊も、つまり私の文章を読み上げなかったって事は、こっちにすれば、表現の自由の束縛であり、その程度の画商だったのかと思ってげっそりしたということもあるのだが、南天子画廊の青木君ももう死んでしまったけれども。