- 四耕会
京都をとりまく一断面 戦前・戦中・戦後 前衛陶芸集団:四耕会誕生前夜~前衛陶芸発生の頃
四耕会創立メンバー林康夫の回顧を中心に
坂上しのぶ(ギャラリー16)
序章
1947年11月、前衛陶芸集団四耕会が結成される。創設時からのメンバーである林康夫が19歳の時である。
林康夫は1928年(昭和3年)2月3日、京都市東山区に伝統技術保持者で京焼の職人である父、林沐雨(本名・義一)・玉枝の次男として生まれる。(長男は生まれて間もなく死亡)
1940年(昭和15年)深草第三小学校卒業後、京都市立美術工芸学校、通称美工(現在の京都市立銅駝美術工芸高校)に入学し日本画を学ぶ。同じクラスには堂本尚郎、加山又造、中野弘彦が、1年下には麻田鷹司が在籍。指導教官は、猪原大華、前田荻邨、勝田哲、山口華陽・・・と豪華なメンバーで、徹底的に写生を教え込まれ、花鳥風月画を描く日々を送る。
1941年(昭和16年)13歳、美工2年。太平洋戦争勃発。
1942年(昭和17年)1四歳、美工3年。戦争への気運を高揚させるためか、美工にグライダー部ができたので入部。加山又造も入部。このころより軍事教練が激しくなり、美工生をとりまく状況も深刻になる。
1943年(昭和18年)15歳、美工4年。戦争が激化。勉強どころではなくなる。海軍の7つボタンにあこがれて軍の航空隊を四月に受験。10月に志願兵として第13期海軍甲種飛行予科練習生として美保海軍航空隊に入隊。
1945年(昭和20年)3月、特別攻撃隊に志願。終戦まで特攻の訓練。木造で天蓋も無く通信機もない練習機=通称・赤トンボに搭乗しての夜間の編隊飛行練習によって、天と地が逆転する感覚と「視覚が触覚になった」という体験が、後の林の作陶に大きく影響を与える。5ヶ月後、大分で終戦。
特攻隊は志願制でしたから、みんな志願するのかと思ってました。ところが蓋を開けてみると位の低い我々のクラスの者はかなり行ったんですが、上級の所帯を持っている人、大学・高専等の知識のある人たちは、当初少なかった様で。最初は、ボスですら決まらなかった。私は、是非!と頼みにまで行っていました。それはその当時の日本の青少年の美学だからです。葉隠とか。1に天皇、2に親、3はなし。今の感覚や意識と全然180度違いました。 ところが8月15日の日にすべてが変わりました。今日から民主主義ですよって。民主主義といわれたって、意味がわからないし、聞いたことがない言葉がどっさり。8月20日までに本州にかえらないと占領軍がきて引っ張られるというデマが流れてきたこともあり、私はとにかく急いで京都に帰ってきました。8月19日にはもう下関のプラットフォームに立ってました。とにかくどたばたしていました。そのとき私は17歳。15歳で軍にいって、16歳で、飛行機にのって、17歳で特攻志願です。そして終戦をむかえ、世は180度かわったのです。(林康夫談)
やっとの思いで京都に帰ってきたが、食べるものもなく、京都に生まれ育った林の家には田舎もなかったことから、年下兄弟の多い林は、近郷在住の農家に食料を買いに行くなどする中で、しんどいことも多く経験したという。
1945年(昭和20年)秋、美術工芸学校卒業認定。美術専門学校(通称・美専)日本画科に復学編入。海軍の退職金で授業料と絵具代を払ったが、次の年に進級するも、結局授業料が払えず中退する。
1946年(昭和21年)夏の終わり、戦時統制経済が解除。解除以前までは、焼物では5代目清水六兵衛等有力な京焼の伝統家4~5軒のみが許可を受け陶の仕事を続けることができていたが、他は全く許可されず。古い家を大事にする土壌である京都において付きまとうこの種の因習は京都の体質の大きな特質による。もともと焼物屋であった林の家も家業ができない日々が長く続いていたが、統制解除をうけ、林は父の許で陶芸を始め、焼物の世界に一歩足を踏み込んだ。
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伝統から新しいものまで含め、京都の伝統文化の層の厚さは驚くべきものがある。世界を見渡してみても、ベネツィアのガラス工芸、フランドルの毛織物に代表されるように、大抵ひとつの都市にひとつの伝統がある。しかし京都は、陶芸、染織、漆、木工、金工、料理、和菓子に日本画の伝統、いけばな、茶道、庭園、寺院仏閣御所をとりまく数多くの文化が混在しており、しかもそれぞれのクオリティが物凄く高い。それらがすべて京都という小さな狭い盆地の中に集中している。それらを伝承させていく方法として、家元制度や世襲制度を構築しある種の閉鎖環境を人工的につくりだすことで時を越えさせる。その副産物として、京都はある特殊性―古い家柄や血脈を異常な執着心で尊ぶ―を持っている。そのような土地では当然のことながら、重苦しい因習もまた脈々と受け継がれざるを得ない側面を持っている。
しかし、同時に、京都は戦後、数多くの前衛グループが誕生し、前衛の精神を貫き突き進んだ歴史が存在する。第二次世界大戦後に関西(京都も数多く含む)にできた前衛美術グループの主たるものを数え挙げれば、50を超え、その数は関東のそれに匹敵する。東京を中心とした美術の歴史が周知されているのに比較すると、京都の前衛の存在はあまり知られていないが、関西を基盤として活躍している作家の数の多さと表現の多様性とクオリティの高さは、関西に前衛の精神が存在していた歴史とその層の厚さを物語っている。
戦後から60年代にかけて、京都で前衛芸術を追求してきた作家達は皆、「京都にうまれたからこそ逆に出来た!」と、口を揃える。目の前に厳然と立ちはだかる強烈な個性を持った伝統と権威に対し、若者たちは阻む力すらをも飲みこむ激しいエネルギーで体当たりし、それまでに培われてきた伝統に打ち勝つ新しい文化を形成する。それがまた伝統文化となって継承されていくのである。
戦後京都の前衛美術を語る上で、1948年(昭和23年)はひとつの大きな節目にあたる。この年の前後に4つの大きな戦後美術革新グループが誕生したからである。創造美術、パンリアル、走泥社、そしてこれから語っていく四耕会。創造美術は現在の日本画の創画会の前身にあたるグループで東京のメンバーは吉岡賢二、橋本明治、京都では上村松篁、秋野不矩らが結成メンバーにあたる。走泥社は前衛陶芸で八木一夫、鈴木治、山田光らが参加、パンリアル美術協会は、1949年に三上誠、不動茂弥、下村良之助らが参加した日本画の変革をめざしたグループである。さかのぼること1年前の48年3月に結成された初期パンリアルは、後に走泥社を結成する八木一夫や鈴木治らも参加する戦前の歴程美術協会での美術運動を引き継ぐ形の総合芸術的グループであった。四耕会は正式には1947年の年末に結成された前衛陶芸のグループで、宇野三吾、清水卯一、林康夫、鈴木康之らが参加している。これらのグループが一体何に対して変革を求め、何故立ち上がり、何に対して前衛であろうとしたのか。これから、四耕会の誕生から現在までを語ることにより、人間のひとつのあるべきビジョンを浮き彫りにさせたいと思う。
前衛ののろしを上げて突き進む~四耕会の誕生
四耕会の誕生はまさしく前衛陶芸誕生の瞬間であった。1947年11月17日。前衛陶芸の先駆的集団として広く位置づけられている走泥社にさかのぼること1年前のことである。48年秋に結成し「オブジェ焼きの元祖」として華々しく取り上げられることの多い走泥社とは対照的に、四耕会は、とかく忘れられがちな存在である。実際、実質的に美術館の展覧会時代がはじまった1960年代以降の約50年間、京都を含め日本各地で開催されてきた美術・陶芸の展覧会のそのほとんどに四耕会の存在はない。美術や陶芸の歴史をかたる百科事典においてもでさえも、四耕会の名前は記載されないまま長い時間が過ぎている。美術や陶芸の歴史を語る上で、なぜ四耕会はかくも影の薄い存在であらねばならなかったのだろうか。
戦前1919年(大正8年)京都で、日本で最初の創作陶芸運動といわれる「赤土会」が八木一艸(八木一夫の父)や楠部弥一らによって結成される。終戦後には、戦後まもない1946年9月、青年作陶家集団がまず組織される。これは陶芸家の中島清が中心となって組織化したもので、中島の他、伊藤奎、大森淳一、叶哲夫、斉藤三郎、田中一郎、松井美介、山本茂兵衛、のちの走泥社の創設メンバーとなる八木一夫、山田光が集結。陶芸が引きずってきている古い体制・体質からの脱却を目的として結成されたものであるとされているが、
「最初、わたしは青年作陶家集団に入って焼物の勉強をするものなのかと思っていました。しかし、実際は、入るには3人の偉い人の推薦がなければ入れないと言う。偉い人といえば日展の人。つまり官展。在野じゃない。彼らが発表する場所も日展だった。」
と、林康夫はふりかえる。 当時の日展はそれぞれ有力な先生ごとに私塾があり、日展のための勉強会のようなものが軒先を競い合うように並んでいた。青年作陶家集団はそこからの脱却を試みるも、結局のところ因習からは脱却しきれず、ひとつの権威としての運動にとどまってしまっていたようだ。その為、この中の志ある青年たちが集まり1948年に走泥社を結成する。
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終戦まで京都の伏見に住居があった林は終戦後、東山松原に転宅。父の沐雨は京焼の陶芸家であったが、康夫が陶芸に触れるのは終戦後のことであり、当然ながら林は五条坂では無名の新人であった。当時の五条坂は、パンリアルの三上誠、山崎隆、八木一夫、鈴木治(八木と鈴木はパンリアルに参加ののちすぐに走泥社結成)など後の名だたる前衛作家たちが住んでいた。(詳しい地図は、不動茂弥著『彼者誰時の肖像―パンリアル美術協会結成への胎動―』に掲載されている)
1947年秋、林は、戦前に通っていた美工の日本画の2期先輩である浅見茂に五条坂の窯で偶然出会い、声をかけられる。
「林君、新しい会をつくらないか?」
当時の陶芸は技術至上主義で、職人はテクニックのみを追求し、魂のないうつわが目についていた時代であったという。薬の調合が数値で測れるようになり科学的に陶器を製作できるようになった明治には、自分達のうつわを創る気持ちよりも、中国の焼物等により迫ろうという流れがあったという。技術の追求は面白いものがあるがそれだけに執心してしまうと、良いものをつくりだそうとする魂が形骸となっていってしまう。それが行き詰った状態が戦争直後にあった、と林は語る。
「そうじゃない!そんなんじゃない!もっと楽しい、魂の行き交うようなものを作らないと駄目じゃないか!」
そんな気持ちが新しい会の発足に参加するメンバー各自の中に自然と湧いて四耕会は、誕生すべくして誕生する。
―煤煙禁止条例が施行されるまで、京焼の本場・五条坂周辺には、登り窯の煙が立ちのぼっていた。寄り合い所帯の共同窯は、実績がものを言う社会。ましてや食糧難、燃料不足の終戦直後のこと。キャリアのない若い陶工たちは、苦い思いを味わったようだ。その1人に、現在、日本工芸会理事で鉄釉陶器の人間国宝(重要無形文化財保持者)清水卯一がいた。五条坂の陶磁器問屋に生まれ、15歳で石黒宗磨のもとで陶芸修行を始めたが「2代目や3代目が多い五条坂では、肩身の狭い思いが強かった」― 今1人、石川県山代温泉から京都に来て、国立陶磁試験場(伏見)で釉薬研究に専念していた先輩陶工・伊豆蔵寿郎。2人は「新時代にふさわしい会でもつくって、ひと暴れしようや」と意気投合した。中国戦線から復員して間もなく森野嘉光のもとでロクロをまわしていた木村盛和に呼びかけ、さらに清水と六波羅小学校の同級だった谷口良三、浅見茂も誘って、会づくりの準備に入った。伊豆蔵が試験場時代から交流のあった先輩陶芸家・宇野三吾を洛東・高台寺桝屋町に訪ね、会結成の相談をした。宇野は戦前から帝展工芸部に入選を重ね、前衛生花の勅使河原草蒼風や小原豊雲らと二科会工芸部会員として活躍するなど、他分野の芸術家たちとの交遊も広い多才な陶芸家。親子ほど年齢差のある若手陶工たちの意欲に「私も一緒に、横ならびでやろう」と快諾したが、いつしか主宰者的な存在になっていく・・・・(藤慶之『革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会』1988年 京都新聞)
創設メンバーである鈴木康之は当時、内弟子として宇野三吾の家で寝泊まりしており当時のことをこう語る。
1946年の復活二科(第31回展)に宇野さんの関係で出品入選し、京都の作家として私の名前が当時の新聞に出ました。同じ二科に伊豆蔵さんも出品しており、後日宇野宅で出合い意気投合。当時五条坂にいた伊豆蔵さんの後輩の木村盛和を紹介してくれて、輪がひろがりました。特に清水卯一、谷口良三、浅見茂と僕は同い年だったこともあり気が合いました。浅見茂が学校で後輩の林康夫を誘い、藤田作と荒井衆は自分と同じ宇野の内弟子だったこともあり参加する。
「日展の重鎮、京都を押さえている重圧に対する反発」として何か自分達のものをつくりたい!。
「若手だけが集まって何かやろうじゃないか!
宇野さんには顧問というか、若い自分達のフォローをしてもらうべく相談に行ったところ、宇野さんが「わしも含めて横一線でいこう!」と言い出した。とにかくビックリでした。この時点で微妙な感情をはらんだ出発になったことはゆがめないが、けれども僕らは皆燃えていました。
五条坂の陶器屋の2代目3代目ではない、いわば後ろ盾の無い者たちばかりでの結成である。
1947年11月17日、宇野三吾宅に集結したメンバーは、宇野三吾、伊豆蔵寿郎、木村盛和、林康夫、藤田作、清水卯一、大西金之助、浅見茂、鈴木康之、谷口良三、荒井衆の11人。宇野家の2階6畳の間はいっぱいにふくれあがり、一部は廊下にまではみ出した。むんむんとした熱気とともに、皆その場でするめで乾杯し、新しい会の誕生の喜びを分かち合った。四耕会誕生の瞬間である。
最初期の四耕会の動きをとりまとめていたのは、清水卯一である。四耕会の宣言文も、清水卯一が書いている。清水はわずか15歳の頃から石黒宗磨に弟子入りをしており、ろくろも使い慣れている。 四耕会の名前を決める際は、各自からいろいろな案が飛び出した。数々の案の中にはかなり泥臭いものもあり、前衛にかける皆の意気込みとの相乗効果で、案は無数にとびだしごちゃごちゃになっていた。佳境に入った頃、加賀出身の伊豆蔵寿郎が、「四方を耕す『四耕会』はどうか?」と案をだした。何もない無地のところを各自が四方に耕す意味がある。荒地を開墾する意味も込められる。続いて浅見茂が「四次元も耕そう!」と発言。「ああ、ええなぁ…それはおもろいな…」。ということで全員一致で新しい会は、四耕会に落ち着いた。後(1949年)に発刊される四耕会の機関紙(とはいっても1回のみの発行で終わる)「この道」に伊豆蔵が次のような文章を寄せている。
四耕とは広野に立った農夫に等しい何処を耕そうと自由であるし、共にそれは一鍬一鍬の責任を有し我々がすぐにも耕し終えることは出来ない事であろうけれども一鍬一鍬に精進の跡が見えているはずです。―会員の1人々々が自己を信じ会を信じ手をつなぎ合って、激しい広野の風雨にも負けずたとえただ1人になってもこの仕事を続けてくれる事を信じている。面白い事には四耕の文字の持つ意味は会員それぞれに解釈されている、それぞれすべて間違っていなくて互の足りなさをおぎなっている。―
清水卯一ら3名の除名~完全在野の前衛グループへ
今般皆様のご援助によりまして若き陶磁作家の和かなる集は廃頽せる昿野の中より発芽する事が出来ました。慈母の温情にまさる土によりて育てられ土を以て己を没し、ひたすら真面目な製作に従事致し素朴簡潔謙譲の美を詩的に求め生活と美の結合を以て社会文化の建設に微力乍日夜努力致し居る次第で御座います。昭和22年12月
1947年(昭和22年)12月につくられた四耕会結成の挨拶状(図1)によると当時の事務所は、京都市東山区五條坂5丁目477(電話6―3933)清水卯一方である。 当時、宇野三吾宅に住み込みの弟子をしていた鈴木康之は、在野である二科の工芸に宇野が出品していたこともあり、同じく二科に出品していた。伊豆蔵も藤田も二科に出品していたが会をつくってからは出品しなくなる。 挨拶状の調子は至極おだやかな調子である。「反日展、反公募展」ということを声高に宣言するようなグループではなかったが、四耕という名前のとおりそれぞれがおのおのの足下を耕そうという気運がたかまっていった。自分達でやってやろうじゃないか!四耕会で歩んで行こう!自然と彼等は在野であることを心に誓っていだ。第1回目の四耕会展は早速、次の年の1948年(昭和23年)3月9日~14日まで、朝日美術画廊(今の河原町の朝日ビルの右の端の方の1階)で開催された。わりと広いスペースであったという。
当時の写真資料がないので出品作の詳しい内容は分からないが、関係者の話を総合すると、宇野は透明な紫色の釉薬をかけたソロバン玉形の壷、清水は鉄釉の壷・・・と大半はロクロによる仕事で、中に数点、構成的な形体や舟形のオブジェ陶器があった。会場には石黒宗磨らも姿を見せ「反応は大きかった。京都の陶芸家たちは、びっくりして見てくれた」(清水)(藤慶之『革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会』1988年 京都新聞)
展覧会最終日かその1日前、会場に突然ふらりとあらわれた須田国太郎がメンバーを集め、会場に居合わせたメンバーに、「あわてて作品をつくらなくてもよいのではないか?」という趣旨の声をかける。おだやかな須田の言葉の調子と対照的に、そのあまりの唐突さと突飛な内容に、偶然会場にいあわせたメンバー6~7人―清水卯一、谷口良三、木村盛和、林康夫等は、皆あ然とする。続けて、40歳まではもっと本を読んで勉強するべきでだ、という須田の言葉。人生50年の時代に、40歳まで本を読んでいて一体どうなるのか?しかも出来たばかりの四耕会の展覧会は、大阪、岡山・・・と宇野によって既に何回か先まで決められてしまっている。展覧会スケジュールはもうすでに決まっているのに、あわてて作るなといわれても、どうしたらいいのか?若いメンバーの動揺を須田は当然見抜いての発言だった。
「あわててつくらないでもいい。けれどももしそれができない様だったら、とことんまでやってみなさい。」。
30歳までは個展はするな!焼物はじめて10年は発表するな!といわれた時代であった。若い作家が展覧会を持つことはそれだけで多くの嫉妬を浴びることになる。しかし、そういう反応が起こりえることを引き受けての、第1回四耕会展であった。当時の周囲の反応を、走泥社の八木一夫が後に『オブジェ焼き 八木一夫陶芸随筆』(1999年 株式会社講談社) で随想している―
四耕会とは、宇野三吾氏が主宰して、戦後いち早く旗揚げした前衛陶芸家の集団である。その目新しさ激しさに在洛の陶工挙げて驚倒し、つづいてあの意地悪げな静かな看過となっていった。
この文章は、この後の四耕会の道行きをよく物語っている。四耕会が1950年頃を境に活動が停滞していったのとは対照的に、「前衛陶芸の先駆的グループ」としてその存在が神話化していく走泥社のメンバーから、四耕会という前衛を志向する集団が自分達の前に存在していた事実が語られた形跡は、ほぼ見当らない。 ともあれ第1回展をふりかえり、「こんな面白いものを作る奴がいるのか!」と林が感心したのは、鈴木康之の作品である。鈴木は「芽」と呼ばれる作品を出品していた。それは花の芽が表現されているのだが、全体的なプロポーションは明らかに男性のペニスである。
「おお、こんなものを作ってもいいのか!」鮮烈な衝撃と続いて引き起こされる感激が林の体を貫いたという。「これは鈴木さんの傑作です!」と宇野三吾。
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第1回展終了後の1948年3月20日。以前から宇野と親交も深く、先日の四耕会展を訪れた洋画家の須田国太郎と、白樺派の作家武者小路実篤の2人が四耕会の顧問として迎えられる。同じ年の1948年(昭和23年)7月13日~18日大阪梅田の阪急百貨店6階美術部で第2回展「四耕会陶芸展」が開催。顔ぶれは前回の11人とほぼ同じだが、荒井衆(父龍男は洋画家、衆は、のちに日本ソムリエ協会最高技術顧問となる)の不出品にかわり岡本素六が出品している。
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ところが第2回目の展覧会が始まるか始まらないかの頃、京展の審査結果が発表され、メンバーは愕然とする。審査に通過した出品者名の欄に清水卯一と谷口良三の名があったからだ。実際は、清水、谷口と木村盛和の3人が京展に出品し、そのうち2人が入選していた。四耕会の成り立ちから言えば、「反日展官展、在野」であることは無言の誓約であるはずだ。なぜ官展の人しか審査員にいない京展に作品を出すのかということで、会内は大きくもめ、結果3人は四耕会から離れて行かざるを得ない状況に陥った。 その後、1948年8月、四耕会のメンバーは改めて集結。「お前ら、これからどうしていくつもりや!」と宇野に問いかけられ、メンバーはお互い在野でいくことをもう1度確認しあう。「一切そういうこと(四耕会以外の団体展に出品)はしないな」と宇野が1人1人に確認していく。 清水、谷口、木村の3人に次いで浅見茂、新井衆が脱会し、新たに岡本素六、三浦省吾、浜田庄、増井哲が参加。事務所を清水卯一宅から京都市東山区高台寺枡屋町340の宇野三吾宅に移し、1948年夏、ついに完全在野の真の前衛陶芸グループが誕生した。 除名された3人は翌年1949年(昭和24年)陶芸研究グループ「緑陶会」を結成する。のちに清水と木村は日本工芸会、谷口は日展へとそれぞれの道を歩んでいく。
宇野の魅力と四耕会
宇野三吾の家は四耕会のメンバーだけでなく、独立や自由美術の人達が自然と集まってくるような、いわばサロンであった。宇野は幅広いジャンルの会話ができて知識も豊富。焼物屋にはめずらしいくらいの博識の人物であったという。玄関にはマックス・エルンストの絵がかかっている・・・。当時、宇野の家には、いけばな研究家の工藤昌伸も出入りしており、林は、彼から、宇野は日本で1番最初にマックス・エルンストを認めた人物だということを聞いたという。
そのような環境の中、四耕会のメンバーは陶芸を学ぶというよりは、ジャンルを超えて芸術家や文学者と知り合い、芸術の世界の広さに触れていった。マックス・エルンストやブランクーシを知り、「オブジェ」という言葉やオブジェの概念もその頃学ぶ。みづゑやアトリエ、芸術新潮などをよく皆で読んで勉強していたという。
―当時ヨーロッパ、主にパリを中心に活躍していたピカソ、マチス、ルオー、エルンスト、カンヂンスキー、ブラック、ザッキン、マイヨール、ムアー、ミロ等々の作品や作家が次々に紹介され、宇野宅には当時としては新旧の資料がよく集まっていた。・・・当時すでに前衛活動をし又目指していた他の芸術分野の人々との交流によって陶芸も巾広い芸術の一環として認識を深めていった・・・(栃尾冽子『四耕会 オブジェ焼(前衛陶芸)発生の頃』)
「陶器屋は鉢やら茶わんやら壷やら作る。それらはすぐ売れなくても、値段さえ安くしていけば、必ず売れる。だからあかん。生活に密着しているから売れるけれども、それではあかん。俺等の抽象絵画なんて、ただでも売れへん。そこらへんのことをお前、きちんと心していかないと。」
宇野宅に集まる芸術家達は、四耕会の若いメンバーに、いかに人間に訴える作品を作ることが難しいかということを日々語っていたという。反省ばかりの毎日。そしてそれを乗り越えることばかり考える。厳しい試行錯誤のくりかえし。
ある日には、宇野宅にブラマンクの弟子の里見勝蔵が来ていたこともあった。外国から神戸に帰ってきてすぐ宇野のところに来たという。隆々とした背広を着ていて、2時間も3時間もブラマンクの話をしていたという。
余談であるが、四耕会が、西洋を大きく意識していたことがわかる出来事のひとつに1950年(昭和25年)7月22日~30日まで開催された四耕会展に、イサムノグチのテラコッタ「力士」とカンディンスキーの100号の絵画が四耕会メンバーの陶芸作品とともに展示されたことがあげられる。
カンディンスキーの絵は、展覧会終了後、メンバー4人で奈良の方まで返しにいくことになった。京都から奈良までは近鉄に乗っていくのだが、カンディンスキーの絵を運ぶのに、唐草模様のグリーンのふろしき2枚で絵の前と後ろを覆って端を結んで包んで運んでいったらしい。西大寺の駅で降り、そこから法華寺まで持っていく。絵は法華寺に返しにいったという。夏の暑い日、たんぼにあった竹を2本ふろしきに通して、肩でお神輿をかつぐようにして返しにいったという。(注:この展覧会については、東京の方のだれかが、なんかよくわからない展覧会があった、というようななことを記事にしていた記憶あり。林)
ユニークな研究会
清水らが脱退した折の話し合いの中で、これまでの勉強方法をかえて行くことにも話が進み、ここで宇野の幅広い交遊関係や奇抜でユニークなアイデアが開花する。試みのひとつに毎月研究会を持つことがあり、早速の第1回目の研究会には、当時、二科で活躍していた吉原治良を招聘し「シュールレアリズム及びアブストラクト絵画」と題された話を聞いている。場所は宇野家の前の尼寺。広い部屋があり風通しがよくとても涼しかったという。1948年(昭和23年)9月19日。ちょうど走泥社ができてひと月ほどたったばかりのころである。宇野は弟子である鈴木康之に、「八木さんのところにいって、吉原さんが講演してくれるからぜひ聞きにこい!」と声をかけるようにいい、できたてほやほやの走泥社から八木一夫、山田光、鈴木治の3人のメンバーが講演会に出席。四耕会メンバーはお堂のこちらに、走泥社の人は対する向こうの方に座り、真ん中で吉原が話をした。
双方は当時からあきらかに競争心を持ってお互いを意識していたという。
続く第2回目の研究会は、いけばなの中山文甫が講演をしている。
この頃、絵画や彫刻は芸術であるが、陶芸などの工芸は、生活とつながっているからアートではないというような考えから第二芸術の扱いを受けていた。四耕会はそういう考えや状況に対し叛旗をひるがえし、陶芸を絵画や彫刻と同じレベルの芸術に押し上げていこうという基本的考えを持っていた。
1948年第2回四耕会展に不思議な形の焼物~陶によるオブジェの誕生
1948年(昭和23年)7月13日~18日大阪梅田の阪急百貨店6階美術部で第2回展「四耕会陶芸展」が開催される。林康夫は『雲』を出品。(今回の出品作品)これは「雲」というタイトルであるがそのフォルムは人体であり、頭のないお尻や太ももの表現である。おそらくこれが日本で最初の抽象表現陶芸、オブジェ的な焼物の発表ではないかと推察される。「雲」は、第1回四耕会展に出品された鈴木康之のあの自由な発想が林に抽象的な形をつくりだす想像力を与えた結果である。
当時の時代背景としては、前衛いけばなの台頭がある。小原流家元小原豊雲、未生流中山文甫、草月流勅使河原蒼風がおもなパトロンとなり、四耕会の前衛陶芸運動を強力に推し進める。床の間の装飾としての生花の世界からの脱却を図りアヴァンギャルドを志向する彼らは、「われわれが花を生けられないようなトンでもない花器をつくってみろ!」と激をとばし、それに対し若い四耕会メンバーは、「われこそは!」と血気奮い立ち、家元が仰天するような花器、花が挿せないような花器を次々と誕生させていった。
「モダンな生花に引っぱられて我々も一変し、前衛陶芸に走った」―伊豆蔵寿蔵 (藤慶之『革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会』1988年 京都新聞)
その頃、華道界に1歩先んじて前衛いけばなが台頭していた時代であり、10月には大阪大丸水曜クラブでの前衛挿花展(中山文甫)には会員の15点の前衛花器が出品されて話題となった。(栃尾冽子『四耕会 オブジェ焼(前衛陶芸)発生の頃』)
「日本のオブジェ陶芸の最初の作品として、記念すべき位置を戦後の美術の流れの上にしめている」(乾由明 『八木一夫作品集』1980年 発行:株式会社講談社)と、される八木一夫の「ザムザ氏の散歩」が発表されたのは1954年(昭和29年)である。しかし、1948年の林の「雲」の存在は、6年も前の制作で、無視できない。さらにいえば、1950年代前半の段階で、すでに抽象作陶表現が高等学校の陶芸の授業のカリキュラムに組み込まれており、陶芸の世界で抽象表現をすることはもはや珍しいことではなくなっていた。(川上力三談)のちに『マグマ』という前衛作陶集団の求心的存在・川上力三は、伏見工業高校の窯業科の授業において抽象表現の「魚」を1952年に作っている。
生花のアバンギャルド 床間芸術であった生花にも近代性が要求されて、それが生花のアバンギャルドとなって現れてきた。 これは生花そのものの連中よりも花器の変化によって仕方なく移行しているようにも見られる。宇野三吾氏の四耕会が陶器の世界から彫刻の世界に飛躍した作品を発表したが、これに対して生花が出来るかと生花師匠達をぼうぜんとさせたが、花器のもつ立体性を活かして肉体的な美しさを1輪の挿花によって強調したところがミソ。 生花のアプレゲールは、またしょせん陶芸者に花を生ける者の思想の競争でもある。(写真は上下とも肉体を感じさせる生花のアバンギャルド=大丸の初夏挿花展から)
これは、1949年(昭和24年)5月29日に「小原流初夏挿花展」(5月24日~29日)について京都新聞記者が書いた記事である。前衛いけばなと前衛陶芸の積極的な交流を見て取れる。いけばなと陶芸はともに前衛を競い合い、因習と戦いながら、互いの創作を刺激しあい戦後日本の芸術運動の推し進めていた。
林がオブジェをつくりはじめたころ、宇野は林に「直線がない!直弧文というのがあるから勉強せい!とアドバイスする。「直弧文」とは古墳時代の遺跡に残されている直線と曲線の交じり合う立体的幾何学的文様のことである。林は「直弧文」について書かれている本を探し歩きある日「36歌仙」にめぐり合う。その本には「直弧文」と「キュビズム」とが同じ次元で書かれており、以降「直弧文」は林の作品に大きな影響を及ぼしていく。それまでの林の作品はフォービズム的な表現であった。ちなみにそのフォービズムの花器は、一応口があいてはいるものの、花瓶としての機能を持たない花瓶であったが、小原流の先生が買っていったという。中山文甫は「僕が使えないような、ひっくりかえったような作品をつくってみぃ!」と講演のときにけしかけ、林は、「何をつくってもいいのか!」と思いがんばったという。林の1949年のピカソの影響が感じられるようなトルソの作品、は草月の高弟に買われていったという。
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―四耕会を在野色の強い総合的な前衛運動の実験の場に育てあげようと夢みた宇野は、モダン生花との競演だけでなく、新機軸の企画を相ついで実行に移していく。同年(1949年)3月、朝日会館美術画廊で開いた第4回四耕会展では、会員(当時9人)のほか一般応募十数人を加えたアンデパンダン形式を導入、外部に審査員(小原豊雲、未生流中山文甫会家元・中山文甫、前衛画家・吉原治良、洋画家・須田国太郎)を依頼して受賞制度まで採用。この試みは会の内部から批判が出て1回きりで終わるが、アンデパンダン展直後の6月、岡山市内の金剛荘画廊で開いた第5回展になると、彫刻家として脚光をあびていた植木茂や独立系洋画家の大沼亮之助、篠原邦夫、神保治男、松崎政雄(八笑亭)、二科系洋画家の佐々木良三、吉村勲、写真家の渡辺好章、高坂春光、須原都智美ら陶芸分野以外から新会員を迎えて総合美術集団化に踏み切る。
「独立、二科系を中心に活躍していた他分野の先輩作家たちを迎えて、研究会は活発になり刺激を受けたが、所詮は外人部隊。2、3年のうちに1人去り2人去りして結局、宇野の夢は実現しなかった」(林康夫)。事実、参加を呼びかけられた吉村も「当時、私は東京にいたので、会の事情も分からず出品しただけ」と証言する。
翌25年夏の第6回展(京都・丸物デパート画廊)会場には、会員の作品にまじって「力士」と題するイサム・ノグチのテラコッタ(陶彫)と、百号大のカンディンスキーの抽象画が特別展示された。イサム・ノグチといえば、すでに国際的な彫刻家として知られていた日系アメリカ作家。「直接間接に日本の美術界に影響をおよぼし、とりわけオブジェ陶芸誕生の先駆的役割を果たした」(乾由明)といわれるが、戦前、宇野の父・仁松に陶彫の指導を受けたという親しい関係から、「力士」も来日中のイサムから宇野がもらったものだった。
抽象絵画カンディンスキーの抽象油彩画は、これも宇野と親交のあった奈良・法華寺近くの1コレクターが所蔵していたものを、奈良出身の鈴木康之ら若手会員が借りに行って公開した・・・という。(藤慶之『革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会』1988年 京都新聞)※アンデパンダン展においては、三浦省吾が四耕会賞、鈴木康之が「H氏賞」(小原豊雲賞)を受賞している。鈴木の作品は「レダ」。
フランス チェルヌスキー美術館「現代日本陶芸展」
1950年(昭和25年)フランスのチェルヌスキー美術館で開催された「現代日本陶芸展」は、戦後美術のみならず、戦後の日本を語るうえでも重要な展覧会である。被占領下であった日本の芸術が、戦勝国フランスの首都パリで紹介されたこの画期的な展覧会は、敗戦国日本が自らの誇りをとりもどす大きなチャンスであったに違いない。
この展覧会開催に先駆けて、1949年秋、フランスからグルツセ博士という文化使節が展覧会準備の為に来日、日本陶芸史の研究家・小山富士夫氏に相談をよせている。長くなるが当時の状況と経過について裏千家月刊誌淡交(昭和25年12月)に掲載された小山の文章を引用する。
陶磁器の洋行 ―日本陶磁展の選定にあたり― 小山富士夫
昨秋フランスから文化使節として国立博物館館長のグルツセ博士が来朝された。グルツセ博士は該博な知識と若々しい感受性とをもち、東洋美術えの理解の深い優れた学者で、玲瓏玉のような人柄と風貌は各方面によい印象を残して帰国された。来朝早々、東洋文庫で講演された「最近に於けるフランス東洋学者の業績」と題する最近13年間に於けるフランス東洋学者のいろいろな発見や発表についての話をきき私はぢつとしていられないような深い感銘をうけたが、その翌日博物館にこられ、特に博士のために陳列した館の名品を見られる態度を傍からながめていて、学問と同時に実に優れた感覚をもった人だと更に関心した。博士は日本滞在中に日佛現代美術の交換を提唱され、これに答えて美術院会員の方々の間にいろいろの動きがあつたという噂を後できいたが、博士は具体的になにをやるかは一切語らず、帰国の直前、どういう考えか先ず現代の日本のやきものだけの展観を巴里でひらき、その世話を私にしてほしいという希望をのべて帰られたそうである。私は古いやきものには多少関心をもち、いくらかその研究もしてきたが、現代の陶器には何のかかわりもなく、殊に戦後誰がどんなものを作っているのかよく知らない。また直接グルツセ博士からたのまれたわけでもなく、どういう方法でいつ開くつもりなのかフランス側の意向もわからないので、出来るだけの御手傅いはするが、何も私が先に立つて是非にこれを実現したいというつもりもなかった。たしか今年の2月の末だつたと記憶する。美術大学の教授の吉川逸治君がこられ、グルツセ博士の旨を帯びてエリセエフ教授が来朝され、巴里でのやきもの展を具体化することになつたので、私にも打合はせの会合に出てくれないかとのことだった。日佛会館の会合に出席して始めてエリセエフさんにあい、フランス側としては6月にやりたいので4月には発送したい。送る費用は毎日新聞が負担し、あちらでの費用はフランス政府がもつという話だった。出陳の作品は現代陶芸作家のものを約560点、公平に各派のものをというグルツセ博士の希望だからよろしくたのむとの事である。私にはこれを選定する権限もなくそのつもりもなかつたが、一切の情実を抜きにして、日本の誇りとなるもの、いろいろの作風の作家のものを公平に送れたらという希望を抱いた。始め板谷波山、清水六兵衛、奥田誠一、柳宗悦、矢代幸雄といつた方々を選定委員にという案もあつたが、いろいろの困難があり、何より火急な仕事なので一切をエリセエフ氏に一任することにしたが、エリセエフ氏が実によく働き、選定も1人でやつたが、私は正鵠を得たものと思っている。6月という予定が秋にのび、8月廿5日横浜出帆のフランス船マルセエズ号にのせることになつた。京都で選定したもの約30点は神戸で積込み、その他の地方のもの約40点は東京に集め横浜から積込んだが、めんどうな事務一切もエリセエフ氏が片付け、もしエリセエフ氏が来朝しなかつたら実現は不可能だつたかもしれない。また毎日新聞の城戸氏、芸術大学の吉川教授、京都博物館の藤岡了一氏たちの骨折りは非常なものであつた。私は今度送った作品がアカデミツクな日展系のものだけでなく富本憲吉氏を盟主とする新匠工の人々、民芸派の河井寛次郎、濱田庄司、舟木遂忠氏たちの作品、新古典派ともいうべき北大路魯山人、石黒宗磨、荒川豊蔵、加藤唐九郎、金重陶陽氏などの他、前衛派とでも云うべき四耕会、走泥社の若い連中、素人と目されている川喜多牟泥老、別格としてイサム・ノグチの瀬戸の作品、彫刻家木内克氏の手なぐさめの彫刻まで加はり、我国陶界の全分野の人々が出品されたことはよろこびにたえない。エリセエフ氏もいつていたが、フランスに於てもいろいろの作風の作家をもれなく一堂に集めるということは先ず不可能なことで、私はフランスえ送る前ぜひ東京で展観したいと思つていたが、どうしてもその時日がなかつたのは残念なことである。とにかく今迄に開かれたどんな陶芸展よりも見ごたえもあり優れていたし、また各派のものが一堂に会したことはかつてないことで欧米を一巡して来たら、東西南都の他、地方にも巡回展が開けたらと思つている。巴里展は11月チエルヌスキー美術館で開く予定だが、そのあとグルツセさんはベルギーとスイスでも開きたい希望を述べてられていたし、私は交渉して英国のロンドンと、米国ではニューヨークのモダン=アート=ミユージヤムで開くことにしてをり、今度の現代日本陶磁展は文化外交としても大きな役割を果してくることと信じている。従来の官展のように壷、鉢、香炉の類だけでなく茶器も相当選定され茶入れ、茶碗、水差数点送られたが、フランスを始め欧米の人がどう思うか、あちらでの批評はいづれ吉川君から報告してもらうことにしている。いづれ詳しいことは改めて執筆したいと思つている。(佐渡島―羽茂の宿にて)
当初フランス側は、陶芸に限らず絵画や彫刻など広く公平に新しい作品を展示したい意向であった。しかし日本の文化を紹介する展覧会の特色をいかす為、戦前からフランスにおいてもそのクオリティの高さが広く知られている陶芸に限定されたらしい。戦後の陶芸のあらゆる団体あらゆるジャンルを網羅し、差別のないように、公募に出品するよう数多くの作家に声がかけられ、東京、京都、名古屋の美術館で、小山とエリセエフ・チェルヌスキー美術館副館長とで作品は厳選され、パリで展示された。(カタログ図)
カタログによると出品者は
Ceramistes De L'ecole Officielle(日展)
Hazan ITAYA 1883―
Rokuwa KIYOMIZU 1885―
Seizan KAWAMURA 1890―
Kobe KATO 1893―
Dosen HORIOKA 1895―
Seizan KATO 1895―
Einosuke KAAI 1897―
Yaichi KUSUBE 1897―
Soho YONEZAWA 1897―
Ken MIYANOHARA 1898―
Kitaro KAWAMURA 1899―
Tojiro KITAIDE 1899―
Hajime KATO 1900―
Rokubei KIYOMIZU 1901―
Ryozo ASAMI 1904―
Yoshiaki YASUHARA 1905―
Takigawa KATO 1911―
Sensei SUZUKI 1913―
Mikishige MIYAGAWA 1922―
TOMIMOTO Et Les Artistes De Meme Tendance(新匠工芸会)
Kenkichi TOMIMOTO
Tetsu YAMADA 1898―
Yuzo KONDO 1902―
Kiyoshi SUZUKI 1906―
Mitsuo KANOO 1902―
Shinroku TSUJI 1905―
Kazuo TAKI 1910―
Soyo UNO 1888―
Taizo NAKAGAWA 1896―
Isso YAGI 1893―
Kiyoshi NAKAJIMA 1907―
Ceramistes Traditionnalistes Independants 独立系伝統工芸
Handeishi KAWAKITA 1878―
Rosanjin KITAOJI 1882―
Toyo KANASHIGE
Toyozo ARAKAWA 1894―
Munemaro ISHIGURO 1894―
Tokuro KATO 1890―
Sakuzo HINENO 1905―
Ceramistes Du Mouvement De Renovation Des Arts Populaires(民芸)
Kanjiro KAWAI 1890―
Shoji HAMADA 1894―
Michitada FUNAKI 1902―
Ceramistes D'AVANT-GARDE(前衛陶芸)
Sango UNO 1902―
Kinnosuke ONISHI 1923―
Yasuo HAYASHI 1928―
Shonen YAMAMOTO 1911―
Kazuo YAGI 1918―
Osamu SUZUKI 1922―
Hikaru YAMADA 1924―
Yoshi KINO-OUTI 1892―
Isamu NOGUCHI 1902―
リストによると展覧会には、当時の日展の長老多数、民芸、伝統工芸系、新匠系の有力者の出品のほか、四耕会からは宇野三吾、大西金之助、林康夫、走泥社からは山田光、鈴木治、八木一夫、そしてイサムノグチが「セラミックアバンギャルド(前衛陶芸)」として出品している。注目すべきはこのなかで出品作に「Figure」つまり造形、をだしていたのは、四耕会の林康夫のみだということである。それは目録に記載されている。 林が出品した作品は「人体」である。そのころ、林はキュービズムとセザンヌに没頭しており、これはその影響を色濃く反映した作品である。人体のフォルムを線・面・量で捉え、カーブや回り込みを立体的分割的に形作りながら白黒釉で彩色されたこの作品は、陶の質感が放つ重量感が、西洋の模倣をこえた存在感を示している。(図)これは前衛陶芸という枠組みを越え、芸術的高みを志した作品である。本来は白と黒に彩色されたハイヒールのようなフォルムの抽象作品(今回出品)がパリに送られる予定であったが運搬の諸事情により、この人体の出品になった。 宇野三吾は壷を出品(アール・ド・オージュルデュイ誌に写真が掲載されている。あとのページで紹介)。たっぷりとした迫力の壷であることが写真から伝わってくる。「壷のクチを閉じたところから前衛陶芸は始動した」という現在の前衛陶芸の定説とは別の次元の豊かさがこの壷には表現されていて、壷のクチをとじることが本当に重大なことであったのだろうかという素朴な疑問をあらためて提示しているように感じられる作品である。通常、壷の中心線は垂直に一本通っているが、当時、宇野は、韓国李朝の壷を例に出し、「李朝の壷が面白いのは壷のどこをスライスしても、それぞれの中心は別の場所にあるからだ」「李朝の壷のクチはあいているけれども、そのなかに中心線はいくつあるのだろうか。いくつもいくつもあるだろう」。宇野のつくった壷は、クチがあるなしの問題を超え魅力的で、豪快だ。上と下と中心が違うたっぷりとして豪快な壷。宇野がこのような豪快な壷をつくった背景に、宇野自身がろくろをうまく扱えなかったことの裏返しだという意見がある。確かにろくろの扱いが上手な人は中心が絶対にぶれないし、それが職人技であるのだが、アーティストと職人との大きな違いもそこにあることを忘れてはならない。
フランスで、この展覧会は評判だったようで、アール・ド・オージュルデュイ紙の3ページがこの展覧会の紹介のために―当時パリ留学中であった東京美大教授吉川逸治による論評と図版で使われた。そこには宇野三吾とイサムノグチの作品写真および宇野三吾、イサムノグチ、富本憲吉、林康夫の4作品について個別に論評されている。(図あり、■うしろに説明あり)
「吉川氏の手紙によると日本陶器展で前衛派とよばれる若い世代の作品がとくに注目を引き、一般の作品については技は優れているが固くなりすぎている点があるとのことであった。(毎日新聞 昭和26年2月18日)(写真あり)
この新聞記事には「宇野氏の作品はアール・ド・オージュルデュイ誌主筆アンドレ・ブロック氏から買受けたいとの相談をうけている」とも書かれている。実際、宇野の壷はブロック氏に買われ、日本には帰ってきていない。また大西金之助の作品をピカソが欲しがって、自分の作品と交換したいと言っているらしい、と当時宇野が語っていたという。売買成立はなかったようであるが。
この画期的な展覧会が歴史から消え去ろうとしていた理由はわからない。 アール・ド・オージュルデュイ紙に掲載されたあと、記事を書いた吉川逸治は、当時の日展の長老によばれ、日展作家がひとりもとりあげられていないことを強く攻撃されたという。それは、伝統工芸や日展の長老級の作品もパリの美術館で並べられていたのに、掲載する作家のセレクトはフランス側の意向ではあったものの、自分たちが記事にとりあげられていないことに対する不満であり八つ当たりであった。官展と在野という意識が強固な時代であり、そのあたりの意識や構造からは残念ながら脱却できていなかったようである。日展が改組し、文部省から離れた形になるまでは、日展=官展だったわけで、もちろん戦後の改組後は官展ではないのだが、意識や構造はそうそう変わるものではない。
パリで好評を博したこの展覧会は「フランスから帰った日本現代陶磁展」と題されて、鎌倉にある神奈川県立近代美術館で1952年(昭和27年)2月15日~3月31日まで開催されたが、残念ながらその記録は美術館のほうに問い合わせたのだが何も残っていないようである。
ギメ美術館の浮世絵版画展
今日大阪市立美術館に行き、ギメ美術館の浮世絵版画展を観ました。 これは紛れも無く、1950年の現代日本陶芸展が、チエルヌスキー美術館で展観された時、この浮世絵版画が一緒に展示される事により、現代陶芸展が成立したと言う、因念。被占領下の日本の陶芸展を実現させた功績、先祖の遺産に助けられたあの陶芸展の事を思いますと、ジワッと胸に来るものがありました。 あの時の仏美術誌に掲載されていた、力士、美人画が展示されています。とてもよいものを観ました。もう1度、私の40年史資料を持って行きたいと思っています。感激の1日でした。(2007年4月28日 林康夫からのメール)
今年2007年1月3日~2月25日太田記念美術館、4月20日から5月27日に大阪市立美術館で「ギメ東洋美術館所蔵浮世絵名品展」が開催された。
1950年のチェルヌスキー美術館の日本陶芸展は、日本からの陶芸の展示だけでは展覧会開催は不可能であった。数十点の陶器の周囲の壁には、ギメ美術館に所蔵されていた浮世絵が展示された。その浮世絵のいくつかは今回の帰国浮世絵展に出品されているはずである。今回里帰りしてきたもののどれが1950年に並べられたものであるかは不明だが少なくともアール・ド・オージュルデュイ紙に掲載されている浮世絵は確実にならべられたものであるといってよいだろう。それは、
・勝川春英「滝ノ音宗五郎 雷電為右衛門」Katsukawa Shunei The Sumo Wrestlers, Takinooto Sogoro and Raiden Tamemon
・東洲斎写楽「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの櫂」Toshusai Sharaku The Actors, Nakajima Wadaemon as Bodara Chozaemon, and Nakamura Konozo as Gon of the Kanagawa-ya
の2点である。誌に掲載されていたあとの2点、歌麿の母と子、女の後姿は今回は、出品されていなかった。
ゲンビ、モダンアート、芦屋市展、四耕会のおわり
四耕会は在野を宣言し前衛表現を追及し、発表は、四耕会展を中心に陶芸にこだわらず前衛芸術の分野で展開している。そのひとつに芦屋市展があげられる。芦屋市展は在野の人気作家らがジャンルのわけ隔てなく作品を審査する公募展として1948年6月より開催。前衛を志向する作家が自らの意思で作品を出品でき、公平な審査を受けることができる関西唯一の公募展であった。京都の京展は日展系作家が審査をする問題から清水卯一らと四耕会は決裂したことは前に述べた。芦屋市展では出品作が陶による表現であっても、審査は吉原治良や井上覚造ら当時活躍が目覚しかった前衛美術作家によって行われる。四耕会のメンバーは皆、ふろしきに作品を包んで芦屋に持って行った。
四耕会は結成して早々、方向性の相違から決裂したことに始まり、陶芸の枠にとどまらない総合芸術集団をめざして絵画や彫刻のメンバーが一時的に入ってきたり、また出て行ったりと、メンバーはとめどもなく流動的である。1950年を過ぎた頃になると、林康夫、鈴木康之ら四耕会の若手メンバーはモダンアートやゲンビ(現代美術懇談会)の研究会によく顔を出し、出品するようになっている。また、絵画の須田剋太、生花の安部豊武と四耕会の主要メンバーで「非形象美術展」を結成するなど、活動はより外へと広がっていった。この頃、走泥社は陶芸について話を聴く機会があるときはゲンビなどに出席していたようであるが、京都以外の作家と交流する機会を積極的に持ってはいなかった時期である。
そういえばあのころ、世の中のんびりとしていました。その前は戦後で、食べるのに精いっぱいだったけれど、25年に朝鮮戦争がはじまり特需のお金があちこちにいきわたりはじめて、生活がだんだんよくなってきていました。
と、林は当時を振り返る。敗戦後の焦土から出発した日本戦後美術も戦後5年を経過して、前衛を追求する厳しさだけでなく、前衛を皆で切り開いていく喜びを分かち合うことができる段階にようやくたどりついたのである。 反面、華々しかった四耕会の研究会はもう51年の秋ころには自然消滅に近い状態に陥った。
1955年(昭和30年)には、5年ぶりに四耕会展・第7回展を京都府ギャラリーで開催するも、結成当初から行動を共にしてきた大西金之助、鈴木康之、中西美和、三浦省吾ら有力メンバーが一気に4人退会する。彼らは林にも四耕会をやめることを進めたが、林はなんだかもったいなくてやめられなかった、という。宇野の姿勢に疑問や問題を感じながらも、せっかく前衛運動を推し進めてここまでやってきた、もう少しがんばればどうにかなるのではないか、と。
去っていった鈴木康之は西宮に窯を作り、ゲンビの関係で知り合った人や美術関係者に声を掛け陶芸教室をはじめる。これは、日本の陶芸教室の走りである。大西金之助は独立し、京都市下京区東洞院通花屋町下ル(電話 5―9826)に大西写真館をつくり写真家となる。写真館を経営がてら、50年代後半にはアニメーション作品をつくりだし、フィルムアンデパンダンの京都支部を運営する等、京都の映像文化の発展に尽力する。1959年に撮った四耕会メンバー・林康夫が主人公のフィルム「明日を創る」は1960年第4回朝日8ミリ映画コンテストで3位になった作品で、これがアマチュア映画作家としての正式なデビュー作品である。
1956年(昭和31年)小原会館における東京展(第8回四耕会展 3月8日~14日)のあと、宇野が日本工芸会の結成に参加したことが要因で、四耕会の活動は100パーセント停止状態に陥った。日本工芸会の発足は1955年(昭和30年)。染色の赤石染人、陶芸の石黒宗磨ら京都の工芸作家があつまって日本工人社が結成されたのは2年前の1948年、この工人社が全国組織化したものが日本工芸会である。石黒と交遊関係のあった宇野は、その誘いに乗ったのだ。
ちょうどその頃、四耕会のメンバーは、四耕会をどうするのか真剣に悩み始めていた。国画会に行こうとか、生活もしんどいからやめたい等いろいろな話が持ち上がっていた。日本工芸会ができた年「日展は文部省の課長か係長扱いだけれど、日本工芸会は部長扱いだぞ」という言葉とともに、宇野は林に誘いをかけてきたが、今までの宇野の主張とのあまりのかけ離れ様に林の戸惑いは大きかった。
しかし察するに、しんどい毎日でしたし、宇野さんも楽になりたかったんだと思います。僕もそのときは26歳になっていて、あの年でオブジェ一本でいくのは、無理だなあと思っていたところでしたから。宇野さんはもともとろくろで、あれだけ豪快なものを作る人でしたから・・・。前衛陶芸は、壷と違って売れないわけですから、厳しい道です。皆やめていくことが、当たり前なのかもしれません。意志があっても、生活の手段がないわけですから。ろくろではなく、ひねりの焼物を生産していきながら、生活をしていく技術と土壌を京都であっても持てなかったわけです。宇野さんにしても同じようなところがあったのでしょう。しかしながら、私はと言えば、結局、宇野さんの伝統工芸へ・・・という発言を聞いた後、私はオブジェを造りたかったから…と思い、四耕会をやめました。 ―林康夫談
宇野の極端な性格と若者との感覚の差に四耕会活動停止の原因があるが、その背景には当時の前衛への風当たりの強さがあったことは言うまでもない。 最後の四耕会展となった第8回の出品作家19人のうち四耕会のメンバーは、伊豆蔵寿郎、林康夫、沼田一三、岡本素六、加藤仁、宇野三吾、藤田作、雲雀民雄、の8人で、このうち結成当初からのオリジナルメンバーは、伊豆蔵、林、宇野の3名のみである。あとの11人は彫刻絵画写真などの一般の出品者である。この展覧会の目録に、歌人の吉井勇は次のような文章を寄せている。
四耕会について 吉井勇 芸術は伝統も尊重すべきであるが、常に新しい精神の躍動を忘れてはならないと思ふ。森鴎外先生はその昔『審美綱領』の中で芸術を低個、覊絆、自由等に分類しているが、この四耕会の人たちのたづさはつているものは、覊絆に属する工芸と、自由に属する彫刻、絵画、写真との四つである。鴎外先生はこの覊絆、自由の2つの芸術を比較して、彼は仮象として美を志し、是は実物として審美外に志すと言るているが、いづれにしても私は、官能と精神とのないところに芸術の美はないと思っている。その点四耕会の人達は、官能も精神も、如何やら少し過剰であるのではないかと思はれるから、従って芸術としての美しさもその構造を新奇の境地に求めて、万象の実秘に觸れたようなのを、その作品の上に現はすかもしれない。一目瞭然たらざるやうにと申し上げて置く。
四耕会とはなんだったのか?そして以降。
「宇野は、新しい芸術運動の推進役をつとめ、高台寺山や修学院などの古墳発掘調査にも加わり、単なる陶芸家というより学者的要素の強い人だった。純粋な前衛陶芸運動としても、四耕会が最初だったと思う。ただ、伊豆蔵寿蔵、鈴木康之、土本真澄、林康夫らは前衛的な仕事で注目されたが、運動体としては作家育成の途上で空中分解してしまったのは惜しい。幅広い社交性や政治力のあった二まわりも年上のリーダー宇野と、いちずな若い世代との間に段差がありすぎて、挫折の道へ進んでいったのではないか」―当時の朝日新聞美術記者・美術評論家・橋本喜三談 (藤慶之『革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会』1988年 京都新聞)
四耕会をひとことでいえば、それは打ち上げ花火のようなものであった、と言うこともできる。しかし、逆風と戦いながらも精1杯前衛の精神で焼物をつくる集団が戦後の京都に存在した、彼らの行動は鍬で、未開の大地に確かに食い込んだ。その事実と歴史をもう1度今、鍬で大地に食い込ませたいと私は思う。最近ようやく四耕会の存在は認められつつあるが、その扱いはあまりに淡い。
走泥社が使った「オブジェ焼き」というネーミングは多分に政治的である。清水焼とかそういうなんとか焼き的な表現はベタでダサイ言い方である。しかしそれを逆手にとり、走泥社は抽象形態の前衛陶芸を広く大衆に浸透させた。その貢献は偉大である。あの強烈な個性を発揮していた四耕会が前衛を追求しながらも空中分解し自然消滅していった最大の原因は、前衛で生きることの厳しさにあったわけなのだから、前衛陶芸を切り開くため走泥社は政治的にも成功しなければならなかった。後に、四耕会のメンバーであった林康夫も一時期、走泥社にも参加している事実が、それをよく物語っている。
林の走泥社参加は、1962年(昭和37年)。1956年に四耕会を離れ、林は5年ほどは無所属で作陶活動をしている。1958年3月10日~15日には東京のサトウ画廊で展覧会を開催し、美術評論家の中原佑介が読売新聞に以下のような展評を書いている。
陶芸といえば古風な飾りものの独占する世界でしかなかった。戦後、その陶芸の分野からも前衛芸術の運動があらわれ、他方で彫刻家が火を表した陶土にあたらしいマチエールを発見することによって作陶に新風が吹き込まれた。作陶における前衛派の仕事は、京都がメッカの感があるが、その京都在住のひとり林康夫が作陶展(サトウ画廊、15日まで)をひらいた。陶器や花瓶も並べられているが、特にオブジェに独自性が見られる。「作品C」「コンポジション1」「緑の雫」などいずれも、液体のしたたりを表現させたようなフォルムを組み合わせ、それが表面の光沢と調和してユニークな作品になっている。
1959年には兵庫県の中小企業センターのレリーフを制作。その制作過程がかつて四耕会のメンバーであった大西金之助によって映画撮影され、その映像は優れたものであるとして1960年第四回朝日8ミリ映画コンテストにおいて3位を受賞している。それ以外にも林は、大阪阪急、京都のギャラリーマロニエ、東京の養源堂画廊などで個展を複数回開催するなど精力的に活動するも、財政的には困難を極め、かさねて不幸なことに1961年交通事故のため制作中断を余儀なくされる。そんな時、若手陶芸作家として走泥社に参加し、めきめきと実力を発揮し、八木からも、そして皆からも天才として一目置かれ始めていた寺尾恍示は、無所属で活動を続けている若い陶芸家たちを煽動する。「前衛陶芸をやっていてもどうしてもつぶされてしまう。大同団結しないと何されるかわからんぞ!」当時、若手の前衛作陶軍団として鮮烈な活動を繰り広げていた「作陶集団マグマ」の川上力三たちも寺尾に走泥社参加を呼びかけられている。松葉づえをついて五条坂をとぼとぼと歩く林に八木は声を掛けた。「林君、うちで一緒にやらないか?」
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10年ひと昔。時代は10年で変貌する。走泥社のあゆみは50年。存続か解散か10年もの間、同人の間で議論されていた走泥社は、1998年8月その活動に幕を閉じる。四耕会に1年遅れの出発ながら、前衛陶芸のトップランナーとして50年間走りつづけるうちに走泥社は巨大な権威へと変貌した。 しかし、四耕会というグループが戦後まもなくの1947年に誕生し、それが前衛を追求していた事実。また、1950年代に入り、マグマの会等の若手集団が活発に活動していた熱い時代、そういういろいろなグループが前衛陶芸について必死で考え戦い燃えていた時代も京都にあったということはきちんと記録されなければならない。
林康夫個人についていえば、1972年第30回ファエンツァ国際陶芸展グランプリ、1973年カルガリー国際陶芸展グランプリ、1974年第4回バロリス・ビエンナーレ・グランプリ・ド・ヌール賞、1985年には第1回オビドスビエンナーレグランプリと海外で4つのグランプリを受賞。4つの国際展でグランプリ受賞の快挙をなしとげているのは日本では林康夫ただ1人である。 走泥社も四耕会も、どちらのメンバーも五条坂という小さな土地の中に住み、同じ土地で陶芸をし、お互いの存在を昔から知りながら50年以上もの歳月、四耕会の存在は、正当に取り上げられることが無かった。
走泥社がオブジェ焼を始める以前に、四耕会は、燃える思いをもって、戦後間もなくに前衛ののろしをあげて突き進んだ、その事実を今語り書き留めるべきである。
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引用及び参考文献
・林照子 「林康夫略歴 1928.昭和3年-2004.平成16年」
・林照子 「林康夫の経歴」
・林照子 「1948年12月から1954年6月までの林康夫の日記からの抜粋」
・林照子 「戦後 前衛陶芸(オブジェ)の不正解説について」
・「林康夫作品集」1998年 発行:株式会社河出書房新書
・奥村泰彦「林康夫 文献目録」~「林康夫作品集」1998年 発行:株式会社河出書房新書
・展覧会カタログ「1945-1970・京都」1991年 京都市美術館
・栃尾冽子 「林康夫考」
・栃尾冽子 「四耕会 オブジェ焼(前衛陶芸)発生の頃 1947年―1957年を中心として」
・「林康夫 作陶資料・年譜 前衛陶芸発生のころ:四耕会を中心として」1987年
・「走泥社50年のあゆみ」1999年 発行:走泥社
・展覧会カタログ「現代美術の創造者たち 昭和20年代の京都・大阪・神戸」1989年 鳥取県立博物館
・藤慶之「革新と前衛の季節 戦後京都の一断面 四耕会」1988年10月~11月4回にわけて連載 都新聞
・展覧会カタログ「京都の工芸 1945―2000」2001年 京都国立近代美術館
・不動茂弥 「彼者誰時の肖像―パンリアル美術協会結成への胎動-」1988年
・展覧会カタログ「没後25年 八木一夫」2004年 京都国立近代美術館
四耕会関連展覧会
・「現代美術の創造者たち 昭和20年代の京都・大阪・神戸」1989年 担当:三谷巍 鳥取県立博物館
・「現代の陶芸・関西の作家を中心にして」1990年 担当:三木哲夫 和歌山県立近代美術館
・「発動する現代の工芸 1945―1970・京都」1991年 担当:塩川京子 京都市美術館
・「京都の工芸 1945―2000」2001年 担当:松原龍一 京都国立近代美術館
・「美術百科 前衛の関西」2007年 担当:奥村泰彦 和歌山県立近代美術館