- 久保晃インタヴュー
久保晃インタヴュー(2007年7月31日)
絵をはじめたきっかけ
僕は1926年生まれです。小さいときから絵は好きでした。しかし、戦争などもあり本格的にやっていたわけではありません。戦争が終わり、心斎橋にある河内洋画材料店に行き油絵の具を買いに行きました。結核をわずらっていて養生していたのもあって時間があり、ぼけっとしていてたものだから、せっかくだから絵でも描こうかなあって。その後何気なく大阪の心斎橋を歩いていました。ちょうどその頃、現在天王寺の大阪市立美術館がアメリカ人に接収されており、心斎橋にあった精華小学校に移ってきている時期でした。そこに美術の研究所を作ろうということになっていたらしく、1946年、たまたま歩いていたら美術研究所の看板がありました。「生徒募集」って書いてある。で、ちょっと行ってみた。そしたら、来月から正規生で入ってもらってよろしいですって言われたものだから、それで入ったんです。そこには、あとで「極」に参加する村岡三郎もいました。
翌年、天王寺に美術館が帰ることになって、同時に美術館内には研究所だけでなく工芸学校もできました。僕もそこに入りました。専攻科2年に編入。そこに行けば学校の免状をもらえるというもの で。僕はぶらぶらしていたし、何かの職業につきたい気持ちもあったので。けれども出てからまた結核になってしまいました。それでまた研究所にもどったのかな。
極のゆらい
その頃うちに息子が生まれ、「極」(きわみ、と読む)という名前を河野芳夫がつけてくれました。同時期にグループができたから「極」(きょく、と読む)と名づけました。そんな感じです。詳しい由来は覚えていません。とにかく、この名前でやっていこうっていうことになって。正式名称は「制作者集団 極」。1956年4月のことです。
メンバーは、片山昭弘、河野芳夫、小林次郎、久保晃の4人。
4人は以前から、心斎橋にある喫茶「御門」(ぎょもん)によく集っていました。御門で会合を持っていたんです。御門には新劇の俳優さんも良く来たりしていました。詩人も集っていました。そのころ「山河」という詩の雑誌がでてまして、山河に関係している詩人の浜田知章や長谷川龍生らとよく交流していました。論争もよくしました。論争は詩人達うまいですし、よく彼らが批評なんかもしていました。そうそう、御門には小野十三郎もよくきてましたね。彼の教えがあって。僕らも気安くしてもらっていました。
メンバーでは片山昭弘が良くしゃべります。弁が立つんです。詩人との交渉も彼がよくやっていました。よく演説したりなんかもしていました。
平和展〜極
「極」結成前の頃は、時代背景としては左翼運動が非常に激しかったことがあります。僕らもそれに釣られた感じでした。当時は左翼の論説がわりと強かったです。共産党の評論家もいましたし、針生一郎、安部公房がいますからね、私達は共産党というわけではなかったけれども、ただそういう運動に漠然と参加していました。左翼運動に参加するのが当時はかっこよかったみたいな、ね。時の体制に対して、反体制で挑む。美術の世界にも保守的な日展や画壇があったわけだからねえ。僕は戦後絵を描きはじめて最初の頃には独立に出品していました。4年ほど出していたと思います。で、極結成の前にやめました。
まあ、ともかく、そのような時代を受けて、僕達は「平和展」という展覧会を大阪のそごう百貨店でやりました。私達だけではもちろんなくいろいろな人たちが参加しました。京都からの参加者もありました。平和展はイデオロギー的だけれども、あまりにイデオロギーばかりが支配するような感じでした。作品はみんな油絵でした。そごうのワンフロアー借り切ってやりました。会場は30メートル×30メートルくらいはあったんじゃあないかなあ。そこの端から端まで作品がざーっと。一人一点で僕は100号を出しました。
平和展を開催したわけですが、その平和展を皮切りに意見の不一致がありました。そしてこの4人が飛び出してグループを組んだわけ。それが「極」。意見の不一致というのは、左翼的というか共産党的というか、俺がリーダーだというような人がなんとなく現れたりして。しかも意見が合わない。だから出た。4人は当時からよく討論していましたから。年恰好もみな似たようなもので。それで結成しました。
美術家として何か表現したいというか、共産党共産党と皆言うけれども、あまりに政治的すぎて。そうじゃない、別のやりかたもあるのではないかと。共産党のあり方というのは、僕らにしてみたら、くそリアリズムといった感じで、ちょっとそれに反発したわけです。彼らの言っていることはわかるけれども、もっともっと自由な発表方法があるんじゃないかって。そういう道を僕らは美術の中に見出したわけです。それで集まった。
4人は平和展の前からもちろん知り合いです。僕が一番仲良かったのが河野芳夫で、それから小林と片山が入ってきたような感じだったかと思います。ちなみに片山の家の近くが御門でした。みんな大阪に住んでました。
極はよく研究会も行っていました。研究会のあとにはいつも雑談等したりしていましたね。 誰かを呼んできたりとか。山河の連中も呼んで。絵描きだけだといつもだらだらしてしまうから、いつも会合には誰か読んでいました。そうじゃないと長く続かないんです。場所は御門じゃなくって他の会場でやっていましたね。当時それと、今村輝久氏、田中阿喜良氏、京都の二紀の金田辰弘氏…なんかと交流がよくありました。
1956年3月 片山昭弘・小林二郎・久保晃・河野芳夫 油絵・デッサン四人展(村松画廊・東京)
村松画廊で展覧会をしたきっかけは、なんとなく「東京でやろう!」ということになって。その前の段階で私がすでに村松画廊で個展をしていたんです。その頃、関西の中原佑介氏も東京に出てきていたかな、たしか。横山操氏ともこの時に知り合いました。井上長三郎氏も、どーんっと座って長い時間話をしたりとか。ちなみに当時は、大阪の人がたくさん東京に行っていました。私もどこかで居候しながら個展していました。
1956年4月 制作者集団「極」結成
1956年4月 京都アンデパンダン展
京都のアンデパンダン展には第2回目の1956年と、京都市主催になってからの1957年と2回出品しています。3月の村松画廊での展覧会に出したものと同じ作品を出してもいいということだったので、とにかく全員で、「極」として参加しようということでアンデパンダンに参加しました。2回目のアンパンはグループ参加が基本だったし。アンデパンダンにはとにかくメンバー全員で何かをしよう!使という感じだったと思います。個人ではなしに。
1956年4月 制作者集団「極」第一回展(梅田画廊・大阪)
その頃、大阪の画廊は白鳳画廊、それと梅田画廊くらいでした。画廊の数自体が少なかったんです。僕らの第1回展は梅田画廊です。
1956年5月 1956年グループ連合展(大阪市立美術館)
グループ連合を中心になってまとめていたのは、中村義一氏と中原佑介氏の二人の美術評論家です。中原佑介氏は僕らが「極」をやる前から知っていました。展覧会にも見に来てくれていたりしていましたから。美術批評で賞をとって…駆け出しの時代から知っています。しばらく彼は伊丹に住んでいましたから、よく交流していましたし、よく一緒に飲みました。ですから大阪のほうは中原佑介氏、京都方面を中村義一氏、その二人が中心になって纏め上げた感じです。「御門」で大阪と京都、和歌山の作家が集まり、グループ連合の会議を持ったりしました。大阪は僕らの地盤ですから、僕らが中心になりました。 大阪からは、デモクラートとリアリズム集団、新写実会が参加しました。そのうちリアリズム集団と新写実会、このふたつは、共産党系のグループです。ですからちょっと違いました。実際メンバーには党員が多く、左翼的色彩がものすごく強いんです。最左翼といった感じ。彼らと知り合ったのは平和展のころだったかと思います。なんとなく話をしていたくらいかなあ。共産党うんぬんという他に根本的に彼らが違うと感じることの理由として、彼らとは、絵が違いました。彼らは新しい絵を全然描いていない。ものすごく写実主義。徹底的な写実主義でした。デモクラートにしても極にしてもモダン、というか違うでしょう。そういった違いからもわかるように、リアリズム集団や新写実会の中からは作家は生まれてきませんでした。皆左翼運動のほうに入っていってしまってね。共産党の中に入っていってしまったようです。それからはあまり交流もなくなりました。しかし当時だけは、彼らも美術のフィールドの中で活躍していたわけです。その後はそういう美術運動には参加してないと思います。左翼運動そのものに偏っていってしまって。当時そういうふうな過激な評論家がリーダーいたように記憶していますが。
1956年 グループ連合マニフェスト
この文章は山河の連中が書いたのではないかと思います。これは詩人の文章でしょう。おそらく浜田知章氏が書いたものと思います。長谷川龍生氏ではないと思います。片山と浜田氏はよく接近していましたから。
1957年3月 グループ連合マニフェスト
これは私達の言葉ですね。おそらく片山が書いたものだと思います。
1957年3月 京都アンデパンダン
このときの館長の今泉篤夫氏がとってもほめてくれたのをよく覚えています。あの方はすごかったです。展覧会で展示されている作品を全部覚えていました。批評会の時に、作品をひとつひとつ批評していくわけです。一度しか見ていない作品について、すべての作品について話す姿には感動しました。一緒に批評会に出席していた針生一郎氏が正直な人でした。彼は途中で席を立って、展覧会場に作品を確認に行ったりしていました。今泉氏の姿勢は、明治の人というか大正の人というか、見方が。すごいものでした。彼はたいして若くもないのに、まだ出来たばかりのアンデパンダンで、ひとりで物凄くがんばっておられました。すごいものでした。
1956年10月 製作者懇談会、制作者集団「極」合同展(阪急画廊、大阪)
僕が東京で個展をしたときに、製作者懇談会の中の何人かと仲良くなりました。一番仲良くなったのは劇作家の人でした。彼らが、一度、関西で展覧会をしたいということで、僕が会場を借りに阪急に行って借りました。そのときに河原温氏、芥川沙織氏、池田龍雄氏等とも知り合いました。極が村松画廊で展覧会をし、討論をしたときがありましたが、そのときに前田常作氏もいました。彼が最初にしゃべって、そのあとで討論だったかと思います。彼は相当理論家だったのを覚えています。 この展覧会は、東京ではやっていません。大阪だけですが、ちなみに極では僕がいつも会場を借りに行く役目でした。作品は油、デッサン等だったかと思います。 製作者懇談会のメンバーの何人かが展覧会の折に大阪に来ていたので、泊まるところもシェアしました。当時、僕は労働会館に絵を教えに行っていたので、そこの館長と心安かったこともあり、部屋を取ってもらいました。河原温氏など3人ほどが泊まったかと思います。
1956年10月 画集発刊 薄っぺらいのA4くらいの画集です。印刷された本です。「極」という字を平面構成するような感じで、片山昭弘の弟の片山利弘が表紙をデザインしました。彼は今世界でとても有名なデザイナーになっていますね。
1957年1月 村岡三郎 藤川東一郎入団 藤川、村岡の二人ともに極に入る前から討論に参加していたんじゃないかと思います。ふたりとも彫刻で、村岡と僕は大阪の研究所時代に一緒で仲良かったですから。それで、極にも彫刻の人をいれようということになって、それで入ったのだと思います。藤川と僕はそれほど心安くはなかったです。村岡は、もしかしたら僕が誘ったのかもしれない。でもよく覚えていません。でも彼は極をやめるとき僕に相談にきました。村岡は極に入る前には二科に出していて、二科を辞めて極に参加し、それでまたやめて二科に戻ったんじゃないかな。
1957年3月 円形劇場による絵と詩と音楽とそして演劇の集い(大阪府立中央公会堂3階サロン) 装置:製作者集団「極」と書いてあるけれども、殆ど村岡ひとりです。彼が一人でやったんだと思います。確か彼が作った立体作品を並べていたと思います。我々はあいつにまかせた、というか、こっちは口を挟まなかったんです。当時、村岡は博覧会のバイトをよくやっていました。僕もやっていて、僕はそのバイトではよく絵を描きにいきました。村岡は、立体の作りこみに行っていたと思います。よう!また、来てんのか!って。お互いに。よくバイト先で出会いました。彼はベテランでしたよ。ああいう仕事はどこかから頼まれてくるんです。僕らは近鉄の宣伝広告から派遣されていっていましてね、いいお金になりました。平面では泥絵の具で描いていました。看板も書きました。ちなみに、この演出の内田朝雄という人は映画俳優でよくテレビにも出ていました。当時は部隊を牛耳ってたと思います。よくしゃべってたなあ。
1957年9月 村岡三郎退団
1958年1月 東山嘉事入団 東山は僕が退団する(1958年9月)少し前に入ってきた人です。若い。もう亡くなってしまったけれども。わりと向気の強い青年でした。ジャンクアートに近いような仕事をしていました。アトリエが三田にあって行ったことがあります。
1958年9月 久保晃退団〜極のおわり
極をやめた理由は、会自身がもうマンネリになりつつあったからです。新鮮味がもう無くなっていました。だれ気味でした。こんな感じに引きづられてはならないって。 極は僕がやめた後名前も変わって(「極美術会」と改名)、その後展覧会もなく終わってしまったらしいけれども、僕はやめた後のことは知らないです。やめた理由としては他に、僕はとにかく東京に出たかったんです。それで僕は画壇にもう一度挑戦してみようという気になったんです。 極をやめて行動に出すようになりました。東京では個展をするのにとてもお金がかかりますが、行動では100号4枚を一室にだーっと並べてくれました。お金も個展に比べてかからないし、雑誌にも批評を書いてもらえるし、実際に多くの人が見に来てくれる。それと友達に行動の田中阿喜良氏がいて彼が強く押してくれたから行動にだしました。
僕はその後、64年にパリにいくわけですが、極を去ったあとも極のメンバーとは交流がなくなったわけではありませんでしたが、けれども深い交流は当時だけだったと思います。もう御門もなくなりましたし。
でも本当にあのときだけです。詩人と交わったり劇団と交わったり。それ以後は全然あんなふうな交わりかたはありませんでしたから。絵描きは絵描きとしての殻の中に入っていってしまいました。だからあの時だけなんです。あの時に詩人の方から僕らの方にすーっと入ってきて。あの頃はそういうの多かったです。向こうも何かを求めていて、僕らも何かを求めていました。新しい表現を求めていました。そういう時代。新しい表現方法はないだろうかって。彼らに僕らのような表現方法を言ったってわからないことはいっぱいあるわけだけれども、でも何かがお互いの中に通いあったように思います。そしてそれは戦後の時代の中に何かがあった。今の時代にはない何かがあったんです。 短期間だけれども本当に充実していたと思います。馴れ合いもなくってね。ボスとかもでてきていないしね。まあそれも短い活動期間だったからだとおもうけれども。