- 岩田重義インタヴュー
岩田重義インタヴュー 2006年12月27日
坂上:岩田さんにはケラのお話を伺いたいのですが、その前に、以前、「染色集団無限大」の麻田脩二さん、田島征彦さんにお話を伺った折、彼らがそれまでの染色表現の枠を超えた表現をすることになった大きな原動力に、京都美大のアトリエ座の存在があったことを語ってくださいました。彼らが美大に入学した頃、岩田さんのいらしたケラ美術協会は皆の憧れの存在で、その岩田さんが活躍していたアトリエ座は、この頃の芸大を中心とした美術を語る上で欠かしてはならないということなので、まずはそのあたりからケラとの関係を伺いたいと思います。
岩田:無限大の彼らは1回生のときからアトリエ座に入ってきていました。僕は1954年に入学した年から6年間アトリエ座に在籍していました。アトリエ座は単なる芝居をする集団というのではなく、独立プロダクションのように、芝居をするための資金集めから舞台づくりからすべてを自分たちでこなす集団です。ですからお金がなくても効果のある舞台装置、照明があたりやすい舞台装置、その中で演出家が何を伝えたいのかを効果的に伝えるためのアンサンブル…。お客さんに伝えるにはどうしたらよいかそんなことを一生懸命考えてやっていました。満員のお客さんの拍手がどんなにうれしかったことか。メンバーは皆、自分のためではなく、自分たちの上演する芝居のために力を合わせて頑張っていました。稼いでものをつくる…卒業した先輩(板坂晋治、西村恭一)たちのデザインした劇団やバレエ団の舞台装置の制作(大道具)を度々やらせてもらいました。ものづくりの楽しさをみなが覚えていきましたし、パンフレットのデザインとか喫茶店などのパンフレット、マッチのデザインなんかも、やらせてもらえる場があったからうれしくって、それでやっていましたね。それで町の人たちもとても良くしてくれて、信頼関係ができていきました。
坂上:当時の京都芸大は日本画でも洋画でも、ケラの前の世代の学生作品くらいまでは、面白いものはなかったとよく聞きますが…・
岩田:かなりアカデミックでしたね。テクニックを見せようとしていたところがありました。僕もそうでしたし…。
アトリエ座は古い歴史があります。日本画の奥村厚一先生は、絵専の時『三人吉三』のお坊吉三を演ったといいますし、日本画模写の林司馬先生はアトリエ座で『商船テナシティ』に酒場のマダム役で出演されたといいます。上村松篂先生も学生時代には芝居をやっておられたと聞きますがそのころはまだ“アトリエ座”の前身の段階であったかもしれません。僕らのころの形式は吉田義夫さんたちが戦前にアトリエ座に新劇の要素を取り入れて再建してからのものです。主に労働会館などで公演をしていて、僕も高校時代から見に行っていました。全員美大生です。ポールゴーギャンやゴッホの芝居をしたときは、黒田重太郎先生や井島勉先生も文をよせてくれました。京都という土地柄、映画関係の人も多くアトリエ座からは出ていますし、アトリエ座の性格も映画関係の影響は十分にあります。
坂上:ケラの結成は1959年12月23日ですが、そのとき各新聞に破格の扱いでケラの結成記事が書かれています。ずいぶんセンセーショナルであったことがそこから推測できるんですが、それもアトリエ座的に…というか意図してそういうふうに持っていったんですか?
岩田:そういうことはぜんぜん考えていませんでした。けれども、木村重信先生を尊敬していたという毎日新聞の当時京都支局の記者の阿部好一さんが美術運動を理解して、僕らの結成を大きく取り上げました。その後彼は大阪本社学芸部に転勤になりました。ケラは木村重信先生がとても応援してくれました。それに上野照夫先生も僕らを応援してくれて、学生酒場「斗六」が「ギャラリー16」になった時も、何やかんやとお世話をしてくださいました。京都新聞の美術記者の藤慶之さんもケラ展や個展をバックアップしてくれました。
坂上:岩田さんの学生時代の作品を拝見していても、それまでによくみられるタイプの日本画作品とは違う表現をしていますね。ケラの結成はそもそも新制作に対するアンチが原動力であったと言われていますが、ケラ結成のころともなると、岩田さんの表現も、日本画の絵の具を使わない、縄や粘土、泥を使うような表現をしていますが、やはり相当会員あたりからの圧力があったんですか?当時の新聞記事でも「自由な発言できぬ!」と新制作に対しての発言でありますが…
岩田:実はたいして上からの圧力はありませんでした。ケラのときも先生方は僕らの結成を「あかん!」とは言わなかった。いわば黙認です。むしろ新聞の論評で、向こうがそう感じるかもしれない、ということがあったかもしれません。僕らは日本画というよりも平面作品の絵画を描いている気分でした。自分たちの絵を描きたい、選ばれたりされたくない!というのがありました。でもね、岩田たちを亡き者に…みたいな“いけず”はなかったけれど、陰口はずいぶん言われました。大学の方でも僕らに対して「学生をいったいどうするつもりなのか!」って…。アトリエ座のときから僕は美大に6年間在学していましたから、わりと注目を浴びていましたし、それがケラを作ったわけですから、若い学生たちの憧れの存在のようになってしまって、それが困ると言われましたね…毒虫って…毒虫みたいな…。まあ、それもあとで影で聞いた話ですよ。僕らはそんな気はなかったし。毎日の阿部さんが書いた社会面の5段抜きの記事だけではありませんが「新制作からの脱退…」と、メンバーの誰かひとりが言った発言、それだけが大きくとりあげられてセンセーショナルな記事になっていたりして、それが他に対して余計にそういう印象を他に与えていたところはあるかと思います。現在でもそれは同じですが…。自分の足でニュースソースを掴まず、よその新聞や他人の取材した後追い取材の波紋状態です。
坂上:ケラができたこのころは、すでにパンリアル、走泥社がありましたし、鉄鶏会なんかもできて、美術グループがうまれるブームのような年ですね。
岩田:作品の発表について考えると、アンデパンダンという手段もありますが、個人に美術館は貸してくれないでしょう…グループをつくって申し込めば会場も貸してもらえるし、新聞にも書かれますしね、そういうのも一因としてあるかと思います。それと御旅町に京都府ギャラリーもありましたし、グループですと利用しやすいですから。
坂上:ケラのメンバーの多くは京都美大を出ているんですか?
岩田:物部隆一さんだけ京都学芸大学です。アトリエ座関係だと野村久之さんと浜田泰介さんだけ。ケラは「新制作出品者が中心で、グループ展「五人展」をやった仲間が母体」です。「五人展」とは、新制作出品時の仲間が中心となって、東京の村松画廊や京都の府ギャラリー、京都書院画廊でひらいていた展覧会です。メンバーは、野村、楠田、岩田が中心で、浜田泰介や中尾一郎が各1回ずつ参加しました。中尾一郎さんだけが日展出品者でした。
坂上:木村重信さんの立場はどんな感じでしたか?木村さんは当時京都美大の助教授をされていますから、当然岩田さんらが学生時代からお付き合いはあったかと思いますが。
岩田:アトリエ座には木村先生は見に来てくれていません。むしろ、ケラをつくってからのお付き合いです。先生の原始美術の講座があって…その授業を聞きに行ってからのお付き合いかもしれません。先生のお宅が高槻にあってよく行きました。先生のお宅ではよく課外授業がありました。先生は自分の家を開放して学生にいろいろなことを教えてくれました。
坂上:ケラのときも北白川美術村のときも木村重信さんがぐいぐい引っ張っているかんじがしますね。
岩田:事実面倒を見てもらっていました。
坂上:当時は研究会なんかは持っていたんですか?新聞記事には一週間に一度…と書いてありますが。
岩田:持っていましたよ。一ヶ月に一回か、週に一回か。集まってはわいわい。作品を持ち寄っていました。それとかスケジュール練ったりとまじめにやっていました。先生を呼んでくるわけではなく自分たち仲間だけでやっていました。
1959年にケラを立ち上げてから、朝日新人展、毎日ベストスリー展、京都新聞の新人展とかそういう選抜展にケラからも3-4人がいつも選ばれるようになってきて、結果としてそれがアメリカ人コレクターに認められて買ってもらうようになって、それで僕らがアメリカに行くことが決まりケラは解散しようということになるわけです。1963年師走の渡米記念パーティにおける記者会見で、突然解散を宣言するわけですが、それは木村先生の指導ですよ(笑)!各社の新聞記者は全員出席でしたから!
坂上:華々しいからって???
岩田:そう!でもだらだらとやり続けるよりはよかったと思います。劇的な終わり方になりました。
坂上:結成は1959年12月ですが、そのときはケラ美術協会結成を宣言しただけで、実際に第1回目の展覧会をしたのは次の年の7月ですね。
岩田:7月までの約半年は準備期間でした。自分たちの作品をきちんとやらんといかん!って。最初の展覧会は京都市美術館の半分を借りましたから、若さのエネルギーで一人10-30点を出しました。
坂上:この第1回展もメディアの露出度がすごいですね。
岩田:木村先生は面倒見がよかったですしね。美術批評も新聞によく書いてくれました。
坂上:第2回展ですが…
岩田:藤井大丸で開催しました。美大の先輩が宣伝部にいらしたからだと思います。パンリアルも展覧会を藤井大丸で開いています。半年の準備期間を経て第1回展を開催してからその後は、かなり頻繁に展覧会をこなしています。ケラのグループ展だけで年間4回展覧会をしたこともあります。それらの展覧会はすべて自分たちで、それぞれの縁をたどって、場を提供してもらえるよう頼んで行ったんです。待っていたって誰も来ないですからね。とにかく自分たちから積極的に出かけていきました。名古屋の松坂屋の展覧会は名合さんがとってきました。また、木村先生の紹介で心斎橋にある画廊でやったり、建築家の誰かがつくったという場所でも3人で展覧会をやったりしました。銀座のフォルム画廊の企画展にも3回ほど出品しています。やったって作品が売れるわけじゃないのに、とにかく若さとエネルギーだけ!ケラ展のほかにもメンバーはそれぞれ個展をしていますしね、ものすごい枚数の作品を皆がつくっていくわけです。その中にはもちろん駄作もあるのだけれども、そういう駄作の中から1、2点いいのがあるはずや!っていうのが木村先生の考え方でね。僕らも、そりゃそうだなって考えて。
坂上:ケラでガンガン活動していて、1961年初頭、唐突に北白川美術村をつくる話が出てくるような感じですが。話が飛躍するというか。
岩田:中尾さんが北白川の土地についてどこからか話を聞いてきて、それを木村先生に話してからが話がトントン。僕らは北白川の土地の話はたしか木村先生の家で聞いたんじゃないかぁ。先生のお宅では、彫刻の児玉正美、梅本昭、中尾一郎、楠田信吾と一緒でした。イサムノグチがあのあたりで、石屋さんに彫刻を頼んでいたりとか、そういう芸術を受容するような風土があの北白川のあたりにはあったようです。それで後に美術村ができるあそこの地主さんは旧家の西村佑次郎さんでしたから、やろうやろうっていう感じになっていきました。このころから、マスメディアが、はじめは新聞だけだったけれどもそのうちに週刊誌がくるわ、テレビ・ラジオが来るわ…関西から全国版へと考えられないふうに展開していきました。
坂上:美術村を開墾している当時メンバーは皆働いていなかったんですか?
岩田:僕はケラ美術協会が発足した当初は読売テレビで、アトリエ座の「平安群盗伝」の芝居の赤字稼ぎのアルバイトで働いていましたが、次の年からは正式に働くことになっていました。ですから僕は働いていたわけですが、週刊誌にしてもテレビにしてもケラの連中は働いていないほうが面白いわけですよ。結局、皆無職で絵をがんばって描いていて、自力で開墾していて…棚ボタのようにアメリカ人コレクターが僕らの絵を大量に買いだして…サクセスストーリー…ですね。けれどもそれは本当の話なんです。今でも考えられない話ですよ、そんな話、本当に。簡単にないよね。アトリエ座のときから僕らは新聞社へ告知や取材をお願いしたり、また、広告とることとか積極的にやっていました。芝居は見てもらわないと話になりません。芝居の場合は切符を買ってもらわないと困るのですが、ケラ展は入場無料でしたが。美術村関係などそういうセンセーショナルな出来事については、そんな関係で、東京のNHK, NTV, TBSなどのテレビ局や週刊誌なんかも積極的にとりあげてくれました。東京のNHKのスタジオへ、野村久之、榊健が出演しています。
坂上:ケラの展覧会のほかにも個展もしているし、数人のグループ展にも、たとえば丸善石油やシェルなんかのコンペに応募するとか、それにアンデパンダンにも皆が出しているんですね。
岩田:木村先生も出せ!出せ!って言っていましたし、何でも出せってね!やはり若さのエネルギーです。
坂上:美術村を開墾しはじめた矢先に、豪雨で土地が流れてしまって、「絵に描いた餅ならぬ絵に描いたアトリエ」っていう記事も出ましたね。
岩田:これで消え去った…って。白川のあたりは花崗岩ですから流れやすいんですよ。僕らは本当にがっかりしました。そんなときに、みんなが助けにきてくれたんです。アトリエ座のメンバーもいっぱい助けてくれました。砂を運ぶのとか。当時は機械なんてありません。土建屋に知り合いがいて、一輪車を借りてきたりスコップ借りたり…そんなでした。そんなこんなで一年がかりで美術村が完成しました。昼間働いて絵も描いて…。最初は電気もガスもひけませんでした。引くのにはお金が必要ですから。そんなころにアメリカ人コレクターが絵を買いだしてくれましたから、電柱が3本買えたんです。電気が通ったときは、「電気ってこんなに明るかったんだ~」ってしみじみ感じました。それまではローソクの灯で絵を描いていましたし、谷川の水を汲んできて飯盒炊爨の毎日、そんな生活でしたけれども、電気が入って、夜も絵が描けるようになりました。ケラのメンバーでは、榊さん、楠田さん、中尾さん、野村さん、僕が村に住んでいました。そのうちに彫刻の児玉正美さんと梅本昭さん、具体にいた坂本昌也さんらも美術村に住むようになりました。最初はケラのメンバーと児玉さん、梅本さんだけが住んでいたときの村の名前は「ケラ美術村」でしたが、ほかのひとが住みだしましたので「北白川美術村」に名前を変えました。約1年かけてようやく村が完成。本当に手作りの村です。もちろん家のガワは僕らはつくれませんから、本職の人が組み立てとかしていますが、内装なんかはすべて僕らがやりました。
坂上:アンデパンダンの出品者名簿をみていると、岩田さんの住所が「ケラ美術村」ってなっていますね。ところでパワーズなどのコレクターはどうしてそんな京都の中でも端っこに位置している美術村に興味をもったのですか?伝説ですが、彼らは「北白川美術村を訪れて、そこにあるすべての絵を丸ごと買っていった」と聞いてます。
岩田:彼らは最初、京都のお店に古美術を買いに来ていたようです。けれども現代美術の方にも興味があって、それで三条京阪をちょっと南に下がったところの新門前通にあった何とか商会という名前は覚えていませんが、そこの紹介が間に入って僕らを知ったようです。作品をアメリカに送るにしろ、売買するにしろ、すべてそこが中間に入っていました。彼らは美術村に来てくれて、一度作品を買うと「その作家を育てよう」という気持ちになるようで、僕らに、作品を発表したら必ずその作品リストを送るようにと言われました。それにしても作品が売れてドルを円に返るときは気分よかったですよ。西部劇みたいでね。一万円札千円札がドサっとでてくるわけですから。だから美術村に電柱が立てられたんです。やっと電灯のある明るいアトリエで夜でも制作できるようになったというわけです。
坂上:パワーズらは、アトリエにある作品はすべて買い上げていったんですか?
岩田:いや。アトリエにある絵すべてというのは大げさで、ちゃんと向こうはセレクトしていますよ。でもごっそりと、びっくりするくらい買っていきました。HOW MUCH?って聞かれて100ドルって答えてね。後で、安いといわれて、200ドルになりました。けれど当時は1ドル360円の時代です。僕らにしたら大金です。僕の月給は1万円ありませんでしたから。100ドルは100万円の感覚です。だから銀行に行って何点かの作品の代金の小切手のドルを円に変えたらドッと札束がくるわけ。給料だって前借したりする時代だし、絵具だってそんなに高いのは使わないし、拾ってくる材料を絵の材料にしていたわけだから…ごみを作品にしていたんですからね。ニューヨークでもそうだったけれども、僕は日本画出身ですが、日本画の顔料はほとんど使っていないし、粘土や砂をボンドでとめたり…油も使いました。なんでも利用しました。きれいな塗り絵を描く気はさらさらありませんでした。ものを見て、ものを写生したものを作品にするんじゃなくて、イメージ!最初は心象風景のようなものを描いていましたが、だんだん色とフォルムとバランス、ハーモニー。材料と材料の組み合わせての表現。材料から受けるイメージを見る人に伝えるメッセージ、僕はそれを舞台空間でもやっていました。縄で編んだ網を空間にぶらさげたりドンゴロスつかったり。それを後にテレビでも同じようなことをやっていくのです。絵でも、大八車のパーツとか、みかん箱の板、下駄、背負子のパーツを使ったり。水道管のパイプをロープで引っ張った構図をつくって、そこで力を表現してみたり。五右衛門風呂の底板とか。筆よりもボンド、釘と金づち。本当にいろいろと使いました。そうして平面からオブジェの世界へと展開していったわけです。
坂上:それにしても、60年代初めのころの作品の写真なのに、ものすごくきれいなカラー写真がのこっているんですね。
岩田:すべてスライドでとっていたから、残っていたんです。アメリカ人コレクターの指定で、作品はコダックのカラースライドをつくれということでした。フジフィルムで撮ると、褐色というか、色がぼけるというか。日本の風景を撮ったり、湿度のある渋いものならよいけれども、僕の作品のようなカラフルなものにはコダックがすごくよく合いました。
坂上:そういえば、新聞記事で、「制作をやめると村民の資格を失う」とありますが。
岩田:美術村規約があります。「共同生活においてその責務を負って…・」これは木村先生の文章です。まあ書いてあるとおりだから村民資格を失うんだね。あと、大阪の個展会場では、NYのメイシー百貨店のバイヤーやそういうアメリカ人が僕らの展覧会に来て、50号の作品を買ってくれたりしました。アメリカ人がほとんどですが、パワーズ以外のコレクターもずいぶん僕らの作品を買っていきました。僕らも常に世界を意識していました。世界というか海外を。僕らのケラは発足のときから、国内だけが相手という気持ちではありませんでした。ずっとそうでした。セルフプロデュースで、というか、自分の世界をきちんと伝えようというのがありましたから、ケラの案内状も外国人を意識して英語を必ずいれていましたし、美術村案内看板も英語の表示をいれていました。案内状でもオリジナルな発想でつくりました。
坂上:そうしているうちに、岩田さんと楠田さんがアメリカに招待されて、ケラは解散するわけですね。
岩田:解散か存続か。僕らがアメリカに行くために抜けるということがあって、ケラは解散を決めています。解散というよりは、ケラの細胞が分裂するように…。アメリカの話が来る前の段階では北白川美術村に美術館を作るような話もありました。空想の話だけれども、でもつくったらいいなあって言っていました。僕らの渡米会見とケラの解散については、毎日新聞にも阿部さんの後の記者が書いてくれています。「パワーズ氏に見込まれて…」。英文毎日もちゃんと載せてくれています。発展的解散をするわけです。木村先生が仕組んでの渡米会見みたいなものがあったときに、その壮行会で下村良之介さんが神主の格好をしたりして。そういう意味ではみんな楽しんでいましたね。京大楽友会館は満員のお客さんでした。