avant-garde art 前衛美術集団

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欅屋長衛門インタヴュー

欅屋長衛門インタヴュー(2006年12月12日)

わたしは青美(京都青年美術家集団)に1976年から参加しています。その頃はまだ学生でしたから、美術の世界について語るというよりむしろ、皆と一緒に飲むお酒の末席に入れてもらってわいわいやるという世界が楽しくて、そんな感じで付き合いながらやってきて気が付いたら30年たってしまったといった感じです。青美のことを今回ふりかえるということですが、わたしたちはいまでも青美としての活動を続けて来ています。52年間、展覧会を毎年続けて来ているわけです。ああでもないこうでもないとあがきながら、ずっとやってきていることが青美の重要なキーであり、それをふまえた上で過去を振り返らないと青美の50年を振り返ることにはならないということを、念頭においていただきたい。前衛とは何か、前衛なんてもう死語に近い言葉ですが、青美のメンバーが集まると、いつも前衛について話しています。それについて話さざるを得ないのです。

京都青年美術家集団(通称:青美)について
京都青年美術家集団という名称でスタートした青美ですが、すぐに京都青年美術作家集団という名称で記事にかかれたりしております。名前がどういうふうに変化していったのかについては、議論がありましたが、第一回目の展覧会で青年美術家集団でスタートをきった青美の名称は今も京都青年美術家集団です。美術評論家の瀬木慎一さんが若かりしころ、評論家としてまだ名前を売ろうとしているそんな時期に彼は一生懸命京都に来ています。ですから、青美が宣言をしたときは、彼は京都にきていて、ソニーのテープレコーダーを抱えてこちらにきて記録をとったりしている時代がありまして、瀬木さんはそれを本に書いています。それを読んでいただけると、もちろんそれは瀬木さんの目をとおしてのことなのですけれども、読むと青美のことがよく分かるかと思います。彼は1990年代に雑誌「三彩」に連載をしていまして、それが「戦後空白期の美術」というタイトルの本になって出版されています。青美の当人も忘れ去っていることがその本には書かれています。読んでいただくと、事実しか書いていないけれども当時の雰囲気がとても良く伝わってきます。写真ものっています。わたしはこの写真の本物をみたことがありますし、あるところも知っています。宣言書もあります。また、議事録もあります。これを読んでいただくと、青美ができたきっかけと、青美が宣言を書くにあたっての状況や、アンデパンダン、グループ連合展が開かれるいきさつや、当時の参加者やグループも書いてあります。批判的なことなどは何も書いてありません。議事録ですから当時の様子がそこには書かれています。青美ができるときの出席者とか誰がどういう発言をし、美術をどうとらえるか、参加者がお互いの芸術観をどう論じあったかというのも記録に残っています。どういう議論をしてどういう喧嘩をして別れ、誰が除名されたかとかも書いてあります。田中比佐夫さんも福沢一郎さんも参加しておられます。のちに青美から分裂して「目撃者」をつくった小名木陽一さんの名前ももちろんあります。当時かかわった人名はもちろんはいっているわけです。また青美は研究会も当時はひらいていたので、研究会に呼ばれた方がどういうことをお話したのかということも若干書いてあります。ただ、この議事録は途中で途切れています。この議事録は広重さんが大切にしていたものを、私が青美の事務局を引受けるにわたって、お前に引き継ぐ、といって渡されたのです。
青美は1954年に結成されたということが歴史化されているようですが、確かに結成大会は54年にあり青美の宣言文もそのときに掲げられましたが、実はさかのぼること2年前の1952年に、すでに青美の活動は始まっており、血判状に近いような宣言書も書かれております。市村司がこの字を書いたのだと思いますが、52年当時は絵描きだけではなく、ほかに詩人であったりそういう評論家のようなひとたちで前衛の意識のあるひとたちが集まっていたようです。宣言文は発しましたが、展覧会は持たず、さかんに議論などはしていたようで、アンデパンダンをやろうということで、準備会のようなことをしていたのだと思います。中心人物は市村司です。皆が市村のうちに集まっていたようです。七条大宮のあたりに市村の家があり、よく皆であつまりわいわいしていたそうです。この中に青美のメンバーの藤波晃さんや、中村義一さん、などが入れ替わり立ち代わりしながら進んでいったようです。彼等は行動美術のメンバーです。行動美術のメンバーが中心なのです。行動という組織自体が自由な雰囲気があり、指導者も参加しているひとも皆若く集まった人たちも戦後のごちゃごちゃの時代ですから、東京でアンデパンダンやっているんだから自分達だって!なんとかしたい、と燃えていた、そう言う付き合いだったようです。行動美術が活発で、独立も活発だったとは聞いています。関西美術院なんかは参加していません。
京都市美術館40年史などに書かれているアンデパンダンに関する文章は、美術館側の立場で書いたものです。アンデパンダンについても京都市が主催となってやったところから数えていますから1957年からのデータしかのせていませんし。本当は青美がやった55年のアンパンが一番最初ですけれど、美術館は違った主張をされているようですね。55年の第一回目のアンデパンダン展のリーフがありますが、このアンデパンダン展に「京都」はつきません。京都とはつかないアンデパンダン展なのです。京都とつけると地域性を限定してしまうからつけなかったのかなあと僕は考えますが。
美術館ではない立場からみた青美は前述の瀬木慎一さんの他、評論家では田中比佐夫先生。創世記から今までおつき合いのある方です。田中先生は東京に行ってしまいましたから、日常的なおつきあいは現在はありませんけれども。現在いる仲間で青美50年の活動を節目に作品集をつくりましたそのときに、田中先生にも文章をよせてもらいました。作家では藤波晃さん、彼は京都青年美術作家集団には一番最初から入っていまして、その頃をまとめた文章を書かれています。青美は中村義一さんがオブザーバーとして創世記に参加していました。1994年に当時の兵庫県立近代美術館で「関西の美術」の展覧会が開かれたおり、準備段階で、担当の平井章一学芸員が、青美の資料を見せてくれないかということで広重明さんにお話があったんです。広重さんはたまたま段ボール箱にあって未整理の青美の資料を平井学芸員にお渡ししてしまったんです。ところが、神戸で地震があってその資料がなくなってしまったと言うのです。実際の「関西の美術」展において、青美についてほとんど掴んでもらえなかった事実もあり、我々で一度掘り下げてみようじゃないかということになり、広重さんが平井学芸員に「資料をかえしてほしい」と言ったら、平井学芸員から実はかくかくしかじかでなくなってしまったんですということなのです。広重さん曰くは、平井学芸員からはそういう形でしか返答はなかったし、その平井学芸員はもう東京の美術館に行ってしまわれたでしょう。資料というのは展覧会の案内状であったり、出品者の名前であったりとかそういう類のものです。それがなくなってしまったわけです。
戦後の関西の美術についてはこれまでもたまに取り上げられていて、青美についても名前はよく乗っていますが、青美がまとめあげたグループ連合についても大阪からの目から見た状況が書かれているものが多いですし、京都アンデパンダンについてもきちんととりあげられることはありませんでした。それは研究者が目をつけなかったということもありますし、また青美がそういうふうに自分達を回顧することを良しとしなかったということもあります。青美に参加している作家自身が、自分達が歴史化されることに関心を示さなかった、ともいえます。たとえば、年に1回開催される青美の展覧会でも自らを「第何回青美展」などとカウントしませんし、考えもしません。そのときそのときに展覧会をして、終わったらそれでおしまいなのです。そういう感じでやっているうちに50年経ってしまったというわけです。それぞれの作家は、青美の展覧会にも出品しますが、獲物は外にあるというか、他の団体展やコンクールに出したほうが作家としてのメリットはあります。つまり作家自身の立脚点を青美に置いていたわけではないのです。ですから、青美というのは、忘れ去られ、取り残された感じでもあります。作家そのものはそれなりにそろっていますし、我々は、青美という自分達の組織を守りながら外で活動はしてきましたが、青美そのものを自分達のすべての舞台だという捉え方はしてこなかったからこうなったと、私は思っています。
青美の活躍した創世記のアンデパンダン(1955〜)とグループ連合展(1956〜)の時代、実際の活動は1961年くらいまでです。実際、青美が語られるのはその間のほんの5〜6年ですね。それ以降青美としての活動は年一回の展覧会をするというかたちで続けて来ています。でも、京都の戦後美術を語るとなると青美を抜きには語れません。すべてがそこにあるし、現在でも活躍する数々の作家のほとんどが関わっているし、参加した人も多く、いろんな意味で重要です。しかしあえて言うなら青美は、京都画壇の孤児といった感じですね。ただ小牧源太郎先生は毎年青美の展覧会を見に来てくださいました。飲み会までも。また行動美術の伊藤久三郎先生、その二人がいろいろな意味で支えて下さいました。青美が孤児になってしまった理由としては、青美の代表である市村司さんが1970年くらいから作品を作らなくなってしまったところにもあるでしょう。60年代後半まではバリバリ大画面に絵を描いていました。青美=市村司、というところがあるのですが、70年代からは、個人的な理由もあり10年程サムホール位の大きさのものしか描かなくなってしまったのです。市村あっての青美ですから、そう言う意味では根幹がなくなってしまったわけです。
僕は青美についてまとめたいというよりは、いつか青美にかかわった人物たちの人生を物語る本を書きたいと思っています。皆がどういう生き様をしてきたかということを知っていますから。彼等の生き様はすさまじいものがありますから。市村司さんの生き様はすごいです。戦後シベリアに抑留されていましたが、絵を描くことで生き延びて飯食って来た男ですからね。スターリンの絵を描いて兵に渡して、そうすることにより「お前はいい男だからいかしてやるぞ」って。そんな風にして生きのびて帰って来たわけです。あと青美では同年輩に竹中正次さんがいます。竹中さんも変人奇人。市村さんみたいにドラマチックな人生を味わっているわけではないですけれども、精神構造はまさしく変人奇人です。だから本を書きたい。僕が知っているのは1976年以降の青美なわけですが、僕は青美のメンバーの生き様を知って、それを引き継いでしまったわけです。

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