- 市村司インタヴュー
市村司インタビュー(電話にて)
太平洋戦争前、戦前美術展という公募展がありました。
いくつかの公募展が大政翼賛会によって強制的にまとめあげられた公募展です。
私は絵が好きでしたから一度その戦前美術展に出したことがあります。
この頃、三十三間堂の仏像を3か月かかって描いたこともあります。
私は1922年に名古屋で生まれ、戦前は、ある名古屋の会社に勤めていました。
17歳のとき徴兵で軍事工場に働きに出て、3年間玉を作らされました。鉄砲の玉。
その後、軍隊に入隊させられ、関東軍で3年、戦後はシベリアで3年抑留されました。
私は絵が好きでした。
支配者が私の絵に理解を示し、絵を渡すことでいろいろを斡旋をしてくれたので、生きてこれました。
シベリアから帰ってきたら、戦前働いていた名古屋の会社の得意先はアメリカで、
私は「赤や!」といわれました。
戦争に行くときは「我が社のほこりだ」といって私を送り出したのに、帰って来たら「赤や」といわれたのです。
徴兵で3年、関東軍で3年、シベリアで3年、この9年があって私があります。
この9年を抜きにして、アンデパンダンを語れません。_
私は名古屋の駅前でメガホンをもって訴えました。
シベリアからやっとの思いで帰って来て、懸命に前向きに生きようとしているのに、一般の奴らは戦が終わったら平和に暮らしている。
私を「我が社の誇りだ」といって戦地に送り出した名古屋の会社に、私は「赤や」と言われ、「国賊だ」と言われてひどい思いをしている。
私は戦争中に支給されたゲートルを巻いて、訴えました。
戦から帰って来て、どうにか前向きに生きようと考え、
あきらめられなくて、あきらめきれなくて、また絵を描きはじめました。
絵が好きだったんです。
アンデパンダンを知ったときは、「チャンスや!」と思いました。
アンデパンダンを東京でもやっているからやってみないか?
と行動美術の仲間に話しました。皆前向きでした。
京都市美術館の藤田猛さんは私の友人で、館長の重さんは行動美術の後輩でした。
井島勉も「やろう」と言ってくれて、上野照夫も応援すると熱く言ってくれました。
「アンデパンダンを実現させたい!」
皆の気持ちが熱く、皆が話を聞いてくれたのです。
公募展を簡単に認めたらいけません。公募展みたいなものはアメリカにはないんです。
自由とイデオロギー。
オロスコ、リベラなどのメキシコの作家を知り、そこには自由とイデオロギーがあり、
日本だけぼやーっとしているのが、許せなくなりました。
戦前に戻りたくない。
第一、絵描きの何を基準に入選落選を決めるのか。
先輩後輩だからとか、技術とか傾向、派閥とか、そんなことはかりで公募展には思想がありません。
大学さえ出ていい公募展に出したらいいというのは嘘です。
60年代にはいって町画廊ができてきました。戦前は古美術しかありませんでした。
アンデパンダンと街の画廊の力によって、公募展の地位は落ちたと思います。
アンデパンダンと青美は同時です。
私たちはグループ連合展もしました。
和歌山や大阪の連中も参加してくれて、トラック8台分くらいの作品があつまりました。うれしかった。
いろいろな所の農家から集めて来た野菜の残りをばらまいた作品もありました。大阪です。楽天的で、大阪人気質を感じました。
蒸気機関車を走らせているのもいました。
大阪は楽天的。天王寺美術館のカラオケもそう。
普通の奴らも大阪は開放的でカーニバル、祭り的でした。
ところが滋賀と大阪の奴の仲が悪い。大阪は本気で気に入らんと言っていました。
途中で滋賀がやめます、と言って来て、「ならば京都もやめますよ」と脅迫することによって容認させて続けるようになりました。
グループ連合のころが運動のピークだったが、つながっていきませんでした。
55年、56年と青美が主催でアンデパンダンを企画し、57年からは京都市が運営することになりました。
館長が重さんだから任せました。
でも、官庁には依存できません。官庁はイデオロギーが軽薄です。
いずれ、いつかは「アンデパンダンなどやめてくれ」と言われると思っていました。
青美は、アンデパンダンが中止にされたときの受け皿として存在させました。
青美はアンデパンダンの「目付け役」としての役目の存在なのです。
官庁はイデオロギーが軽薄なのに、絵描きはへそまがりのあつまりで、本当に歯がゆかった。
アンデパンダンをしたのに、思想的な問題に踏み込めない。
アンデパンダンなのに、絵描きが自分の主体で管理できなくて、官庁にお守りしてもらうことはなさけない。
徴兵3年、陸軍3年、シベリア3年の下積み9年。
我が社の誇りだと送られて帰って来たら国賊扱い。
中原か針生に推挙され、東京の画廊で4~50年前に展覧会をやったときは本当にうれしかった。
東京のアートクラブという岡本太郎が中心になってまとめあげられたアートクラブの関西のメンバーは小牧源太郎と伊藤久三郎と、私の3人です。公募の中でも前衛抽象の集まりでしたが、一度も展覧会をしませんでした。