- 真鍋宗平の証言
真鍋宗平の証言 (2004年8月10日インタヴュー 後加筆修正)
VOL美術集団が発生する背景とVOL美術集団のはじまり
坂上:真鍋さんは京都美大(現:京都市立芸術大学)の彫刻を卒業目前の1964年2月で中退されているということですが、この頃の中退というと、学生は在学中学外での展覧会への出品は許されず、もしするのであったら退学を宣告されたと言うような事がありますが…。
真鍋:1964年アンパンの年に僕は大学を中退しました。卒業制作も出来ていて、けれども提出しませんでした。彫刻を出ても飯が食えない時代で、なれるとしたら学校の教師かマネキン屋か風来坊。(注:吉忠マネキンなど京都を地盤とするマネキン企業は当時の美大卒業生の就職口の代表格)卒業制作として用意していたのは、1メートル四方大のガラスの箱で、板ガラスを6面に接着し、その中に新聞や雑誌など紙のゴミをあつめて詰めたものです。ごく最近知ったことなのですが、中退者が出たという事は大騒動だったそうです。僕は大学3回生のときに外で発表をしたわけだけど、それはルール違反でした。外の展覧会にコミットメントすることによっていわゆる卒業拒否をしたわけですから、そういう事が学生の間におこるというのは大学側にとっては、必ずしも望ましい事じゃありませんから。彫刻科の学生を全員招集して、真鍋はこれこれこういう経過で大学を出て行くんだ…お前達はなるべくそういうことはするなよって…(笑)。そんな重大な訓示が後ほどされたそうで…ですから…僕の中退はかなり大変な後始末だったのだという話をつい最近聞きました。大学在学中は外の展覧会に出品してはいけないし、専攻科の学生の場合は教官と相談しながら決めるというような感じだったように思います。ましてや僕たちのようにいわゆるアンデパンダンとか怪しげな展覧会は望ましくない。 VOL美術集団は1962年に結成されました。この美術集団の指導者というかバックアップした人は武田恒夫さんです。今は大阪大学の名誉教授。桃山障壁画研究の大家です。年代としては木村重信さんよりちょっと下くらいで京都大学出身。ですから木村さんの同輩ですよね。井島勉さんの門下です。で、美学をやっていた。武田さんはちょっと木村重信さんにあおられて現代美術にちょっとこう触手を動かしてみたいなと。武田さんは向日市におられてね、僕らはこの界隈ですから、勉強会したり飲み会したりとか、そういう間柄です。いつ寝てたんだろうっていうくらい毎晩お酒のんでやっていました。(武田恒夫氏がかかわるまえに長野誠之助がブレインとしてかかわっている)みな、抽象表現の連中ばかりです。日本画や洋画。
坂上:その中で加藤美之助さんらと合流したわけですね。大体ほぼ同年輩の人たちがつどっていたのですか?
真鍋:加藤美之助(以下メンバー敬称略)は僕より一級上です。僕はいつも一番年下で背伸びをしながらやっていました。メンバーは大体3年から5年くらいの幅の中にいます。VOL美術集団ができたそもそものきっかけは直前にできた北白川の美術村にあります。それに対して若い連中が触発されて、なんかやろうじゃないか!となったうちのひとつが僕達です。VOLは世代的にずっと若かったこともあって議論が凄く激しかったです。ところが美術運動をめざすというときに、議論が若いと、目指すのか潰すのかわからなくなってしまいます。そして、結局分解するわけです。求心力に成る様な人もいない。完璧なものを作る力もない。その当時の美術は、ひとことで言うと前衛的なデパート、といった感じで、いろいろなことをやるどんなことでもやる、たくさんの人たちがその中に入ってきていた感じです。そんな雑多の中でものを考えている影響がだんだんと出てくるわけです。非常に整然とした前衛美術表現を望む人たちもいる。それからオーソドックスな表現にもどりたいとかいう意識も生まれてくる。当然だけれども、もっとラディカルにやりたいという人たちもでてきて、分解現象が働くわけです。結局VOLは長く続かなくってバラバラに。そしてが「実験グラウンド∧(ア)」生まれるわけです。「実験グラウンド∧(アと読む)」は加藤美之助、石川優、大江正典、真鍋宗平の4人がメンバーです。1964年3月の京都アンデパンダン展からはじまりました。そういう風な中で、やはり、この4人も結局分解するんです。加藤は暴れ者だけれどもものの形が欲しいというタイプであったような気がします。石川は古巣にもどりたい。僕と大江はまだ行こうよ、といった感じでした。僕と大江は無政府主義というかアナーキストというか。それでふたりで活動をはじめたわけです。
64アンデパンダン展におけるホルマリン騒動とゴミ騒動
坂上:1963年を最後に読売アンデパンダン展が主催者側の決定により無くなった後、1964年6月に64アンパン”通称針生アンパン”がありました。それは評論家の針生一郎と作家の池田龍雄らが中心となって組織されたまさに名実ともに自主的なアンデパンダン展であったわけですが、そこに真鍋さんは出品されていて、そこで大江正典さんと”ホルマリン事件”なるものを引き起こし話題となっていますね。
真鍋:64アンデパンダン展は大学を中退した後に出品しています。僕は大学を中退したのは1964年ですから、いわば僕たちは読売アンパンには間に合わなかった世代です。ちょうど隙間。そして64アンパンでホルマリン問題を引き起こすわけです。64アンパン出品者の中でも僕たちはどちらかというとチンピラで…。このアンパンではホルマリンのほかに浜口富治さんが刃物を扱った作品を出しています。これもそうとう社会的には大きな問題になっていました。美術の世界のみならず一般社会においても。美術は手綱を緩めてしまうと、社会の規範を破るものも出てくる可能性がある、その一つとして刃物というものがあって…。実はその…刃物よりも場合によっては薬物のほうが危険だし、そういうようなものもいくつかありました。大体年の若い連中が暴れてそんな事をやっていた感じなのですが。しかし浜口さんは年が我々より上でもあるし分別がついている方でしたから、わざと危険性への認知を喚起するような意味合いも込めていたようです。美術って結構やばいんだぜという、そういうような意味合いの社会問題となっていました。結果的にはこのアンパンは一年で終わりました。その頃僕らは盛んに議論をしていたんだけれども、その…読売アンパンそのものが終息をしていくというのは、前衛美術を推し進めてきた人たちの中で、何らかの中断をしたほうが、時代のトレンドとしても適切だ…というかそのような動きも多分あったかと思います。中断をした方が適切であるというそのタイミングに対する判断が、もう一回64アンパンという形でやってみたけれども、1回で終わってしまった事に結果が現われていると思います。そのあと僕達は祇園会館の鎖陰のイベントにゴミを持ち込んだり、ギャラリー16へのゴミ持込を大江正典とやりました。ホルマリン事件を引き起こした作品ですが、二人ともそれぞれ作品を出品しています。僕は天皇像と自画像の組み合わせ。大江の作品はサイレンが鳴り渡るとか書いてあるけれど(美術ジャーナルに)あまり覚えていません。そこでホルマリンをやりました。
坂上:目が痛いとか臭いとか、他人の邪魔をするのは人権侵害なんじゃないかとか、いろいろ言われたようですが、そういう事を意図していたんですか?
真鍋:多少はありました。驚かせようというのもありましたし。ゴミの場合も同じだけれども、やっぱり一番我々の側が問題にしていたのは「美術館」という設定そのもの。制約条件じゃないですか。「そこであんたはなぜかざっているんだ!」と質問されているというのが、美術ジャーナルに載っているけれどそのとおりですね。その矛盾は孕んでいるけれども、出品をする側も美術館が掲げる制約に対して多少気に入らなかったんだろうとおもいますよ(笑)。同じような理由でゴミ問題を起こしたわけです。ゴミは、ルートの違うところからずーっとゴミを集めて…最終美術館でゴミ集結。僕は四条辺りのあたりのゴミを集めながら四条大橋を渡って東山通をこえていきました。
坂上:ゴミの日かなんかに皆がだしているのを集めていったんですか?
真鍋:その当時はそんなしゃれたことはないから。どこいったってゴミがあった(笑)。朝早く、四条河原町をね…ただ単にゴミ拾うんじゃなくって、今あるような善意でゴミを拾うような形じゃなくって、僕らはほふく前進のような形で集めていきました。座りながらにじりながらゴミを集めながら前進です。早朝からずっとやっていて美術館にたどりついたのはお昼前です。ずるずると、、、、進んでいきました。いままでとちがう全然違うことをやろうという意識の中で、たまたま、ゴミを集めようということをやってみよう、と。その程度のことだった気がします。
坂上:その割には執拗だったと聞いていますが。ギャラリー16でのゴミ騒動(加藤美之助の個展時1964年7月13日~7月19日)のときも、16の場合は展覧会であったわけですけれども、とにかくゴミが臭くてたまらないので皆で捨てるわけですが、捨てても捨ててもまた次の日には補充されて天井から吊る下げられる…。毎日怒っていたと聞いています。毎日画廊に来ては「またなくなってる!」って。ほふく前進を人々はやはり見てみないふりをするわけですか?リアクションはどうなのでしょう?
真鍋:変な人たちですから、まず近付いてきません。「貴方なにしているの」なんて聞く人もいない。格好も綺麗じゃないし、かといって浮浪者とかそういう人たちみたいでもないし。見たら、学生かなっていうくらいのイメージでしょう。
坂上:ギャラリー16でのゴミ展覧会のときに、画廊の前を通りかかった小野洋子に声をかけられて夜皆であったとか聞きましたが。そのとき同席していた人にお話を聞いているのですが、皆、小野洋子がいるということで喫茶店にいってみたら、すごく嫌な感じの人だった、と。「あんたがたは作家か?アーティストか?私はもうアメリカにずっと行っているし、日本に帰って来てもすごく忙しい身であるから、こんな私としゃべれるのはありがたくおもいなさい。」と(笑)。「私は忙しいのだから、作家としか話す時間はない」と。
真鍋:おそらく小野洋子は何人かの人たちにそういうアプローチをしたんだと思います。池水慶一さんらにも声をかけていました。とくに議論がかみ合ったとかそういうわけではないのですが、彼女には権威主義が表に出てきているようなところはありました。美術館と同じです。美術館もやっぱりある型の中にものを収めるという役割をもっているものだから、それを美術館に文句を言っても仕方ないわけだけれども、果たした役割もあるし、いろんな役割があるのだけれども、結果的には箍をはめる役割を美術館自体はもっている。
坂上:そのころに、加藤美之助さんは1964年7月に中村敬治さんの企画で「反芸術三人展」に出していますね。加藤美之助、池水慶一、田代雅善。
真鍋:加藤さんは自分のお葬式というような形式でしたが。彼は絵というものを、美術家であることを基本的にはあの展覧会を最後にやめているんです、本当に。いわゆる企業のデザイナーとして以降活動しています。この後もしばらく僕らとやりとりしていましたから、続きがあると言えばありますけど、一応本人の中での区切りはこの展覧会にあったと言うことです。新聞記事に「慢性反芸術中毒症、突発性ビーナス性第十六脳神経障害で4月18日死亡」と、ありますね。パフォーマンスではあるけれども、実質的には・・決別宣言。だったんだろうね。で、自分の葬式をあげたと。
文責:坂上しのぶ