- 川上力三インタヴュー
川上力三インタヴュー 2006年12月15日
1955年以前~川上力三
僕が陶の仕事をしはじめたのは自然なことでした。僕は1935年京都市中京区の生まれでして、夷川の家具屋街です。「川上」という家具屋でして、もう5代目です。僕は、小学校、当時の国民学校のときに疎開をしていました。その当時の子供たちは食べ物がなく栄養失調で大変な時代でした。京都は戦災にあっていないけれど、僕ら子供の父親にあたる年齢の人は戦地にかり出されていますから、父や兄たちがいないんです。大都市は食べるものがなく大変でしたが、田舎はそこそこ食べ物があります。僕は疎開していたとき、おやつと交換によく絵を描きました。わら半紙に絵をかくと交換できたんです。そのときに僕は、絵を描くことで生活できる!って思ったんですね。ありがたかったですよ、おやつ。貴重です。絵を描いただけでそのおやつが手に入るんです。僕の能力でできる!そこで僕の生き方が決まりました。鉛筆やクレヨンはだんだん無くなってきましたが、もののない時代でも粘土だけは豊富にありました。粘土は土の下になんぼでもあります。たんぼに水がたまるのはその下に粘土があるからです。掘り起こしたら粘土細工がすぐできる。いまだにその延長ですよ。
僕は京都市立伏見工業高校の窯業科で陶の勉強をしました。その後京都府立陶工訓練校を卒業しています。そしてこれが高校生のときの作品写真です。1952年の時点で、僕は既に用途のない陶彫をしているんです。用途を持たない陶オブジェの元祖は八木一夫の「ザムザ氏の散歩」1954年と言われていますが、その時点、しかも僕らは高校生です。そのときに僕らはすでに用途を持たない陶作品を普通に作っていました。僕のこの作品は「魚」を表現しています。僕の先生は船津英一さんで、陶彫の一人者沼田一雅さんの弟子にあたる方です。陶の勉強をするには、当時は二工(伏見工業)、美専(京都美大)、工専(工業繊維大学)しかありませんでした。54年に八木一夫さんがオブジェを作ったそれにさかのぼること2年前の52年に高校生がオブジェを作っていたというのは驚きということではなく、船津英一さんがすでに抽象的な分野の仕事を手掛けていたわけです。ですから自然に陶彫の仕事をしましたし、イサムノグチや辻晉堂なんかの存在もありましたからね。いろんな人がいろんな影響をうけていましたから、オブジェというのも自然にもう多くのひとが手掛け始めていたのです。
マグマ以前
1955年ころ 現代陶芸研究会 参加メンバー:川上力三、吉竹弘、林八朗、宇野徹、宮川一三、草野文彦など。陶芸家で日吉ケ丘高校の陶芸科の教員をしていた中島清が結成した研究会。集まっていたのは、学生を終えたばかりの若者や、弟子生活をしている位の若い年齢。中島の影響が色濃く反映された研究会であるが、川上と宇野は日吉が丘出身ではなく、それぞれの先生について弟子生活をしていた。(宇野は楠部弥一の直接の教え子で、楠部の紹介で叶光夫弟子入りしており、川上は河合瑞豊の弟子)
1956年 工芸4人展 場所:京都府ギャラリー 出品者:川上力三、川端信二、中野光雄、潮隆雄
1957年 「陶創ぐるーぷ野外展」 展覧会の開催からマグマへ
どうしてそういう「陶創ぐるーぷ」というグループができたかというと、初期の走泥社のメンバーである中島清さんの存在から話さなければなりません。初期走泥社において彼の影響力は非常に強いものがありました。走泥社の創立メンバーとして有名な八木一夫さんの先輩にあたり、早い時期から注目されている作家でした。この人は日吉ケ丘高校の陶芸科の教員でして、この陶創グループのメンバーのほとんどは中島さんの影響をうけた学生たちなのです。つまり、この「陶創ぐるーぷ」は日吉ケ丘の学生が中心になった作陶グループ、と言うわけです。1957年の野外展に参加したメンバーは、井上智、林克俊、大畠久、岡本璋三、川上力三、川端信二、吉竹弘、草野文彦、松井1考、坂本芳正、宮川一三です。このうち僕と大畠だけが日吉が丘ではありません。僕は伏工、大畠さんは美大です。当時中島さんは走泥社に参加していました。そして彼が、走泥社とは別の次元で、若者をひっぱっていこうとしたのがこのグループができた理由です。つまり中島さんはこの「陶創ぐるーぷ」のいわば陰のリーダーであった、というわけです。
この頃、走泥社はもちろんありましたし、四耕会もありました。四耕会はもうほとんど終わっているような感じでしたが、僕らはもちろんその存在を知っていました。このころの四耕会は、陶立体もありましたが、「前衛花器」が多く出品されています。前衛いけばなを生けるための花器がそれまで存在していなかったから、いけばなの小原流や草月流などのひとたちが自分がいけるための今までにない斬新な花器をつくらせようと、刺激をあたえていましたからね。その中で、いわゆるオブジェをつくっていたのは林康夫さん、三浦省吾さんらです。走泥社のひとも他のひともまだ多くはいわゆるクラフトでした。
実はこの中島さんがおられた研究会みたいなものは1955年くらいから既にありました。「現代陶芸研究会」?という名前。集まっていたのは学生あがりとか、弟子生活をしている位の若い年齢の人間ばかりです。川上力三、吉竹弘、林八朗、宇野徹、宮川一三、草野文彦など。1955年ころからありまして、グループには日吉ケ丘をでた若者がたくさん参加していました。ですから中島さんの影響のようなものが出てくるわけです。ところが僕や宇野徹さんは日吉ケ丘ではありません。この宇野さんと僕はそれぞれ先生がいました。研究会といって若者が集まっていますが、当時はみなそれぞれがそれぞれの先生についていたのです。
前述した1957年の野外展は「陶創ぐるーぷ」の展覧会の第3回目でして、実はそれ以前に2回展覧会があるのです。その1回目と2回目に僕は参加をしていません。僕がついていた先生は日展におられました。ですから、中島さんの指導の(もとの)グループ展になぜ参加するのか?という疑問が自分の中にもありましたし、またそれを当時ついていた先生にも言われました。それで、ちょっと考えないといかんなあということで、宇野さんが出ていくわけです。ですからこの1957年のグループ展に宇野さんは参加していないのです。宇野さんは楠部弥一さんの直接の教え子でしたし、楠部さんの紹介で叶光夫さんのところに弟子入りしていました。僕は河合瑞豊という先生に弟子入りしてました。先生方は、こういう会に興味を持っていたことは事実です。しかし先生方は日展におられた方達ですから、やはり弟子の僕達が違うところに参加するのは面白くないわけで、当然賛成はしていないわけです。ところが、僕は日展よりも、こっちの若者らが集まった研究会のほうが正当なのではないかと思ったんです。中島さんは僕の先生より面白かったですし。ですから僕は弟子生活をやめて、この陶創グループに参加しました。それでようやく1957年の第3回目の「陶創ぐるーぷ野外展」に参加できたというわけなのです。
この1957年の野外展は、今は駐車場になっているあたりの広場で開催しました。現在はきれいに開発されていますけれども当時はまだ物騒なところでした。屋台なんかがでていましたし荒れてました。まだ戦後12年です。陶芸の野外展というのはそれまでには聞いたことがありませんし、彫刻の野外展というのもまだ知られていない時代であったと思います。この展覧会に出品された作品は結構みな大きかったんですよ。釜に入るサイズぎりぎりの大きさでした。オブジェですね。僕はオブジェと言ういい方を基本的にはしていません。陶彫といういいかたをしています。
そうそう、この野外展のパンフレットには金銭的にたすけてくれたお店の名前が印刷されていますが、ほとんど飲み屋ですね。研究会のようなものも飲み屋でやることが多かったですから。「菊水」は今でもあります。レストランですが、この菊水だけがこの頃に建物としてあって、その周りが広場になっていてそこで野外展をしたのです。また、このなかの「あるじのない家」は有名です。美術家が集まる店。この南座前広場を借りにいくのに僕らは京都市に頼みにいきました。この辺りはやくざというか的屋が縄張りをやっていて、僕らからお金をせしめようとしましたが、僕らの方が欲しいくらいだと言い返したりしました。そんな時代です。7日間。彫刻の野外展という概念もまだない時代に、陶芸の野外展をしたわけです。とにかく安く借りれるところで、広いところで、自由にやれるところ、ということで、じゃあ交渉にいこうかって。僕らは京都市に交渉にいきましたが、実際問題、あの辺りはテキ屋が多くて手が出せないし、それを京都市は追い出せないし、香具師とか街娼みたいな人もいましたから悪いイメージがあったので、市の方も「やれやれ!」っていってくれて、なんと、京都市も京都府も応援してくれたんですよ。協力にあと「太陽ブロック」と書いてありますが、この太陽ブロックというのはブロックをつくる会社なわけですが、荷物をトラックで送ってくれたり、台にするブロックを貸してくれたりしました。そのころ走泥社は「七彩マネキン」が協力していましたから、僕らも企業を呼ばないといけないぞ!みたいな感じで、やったんですよ。誰かが太陽ブロックを知っていて「いってくるわ!」っていって。あとで皆でお願いに行こうということで社長さんのところに行きました。野外展の前の「陶創ぐるーぷ」第1回展、第2回展はどこで開催されたのかは覚えていません。見ているですけれども。屋内です。京都市内のどこかの屋内。
そうそう、僕らの野外展をみた人のひとりに辻晉堂さんがいて、二紀会に入らないかと誘われました。僕らはそれに対して「最初から会員にさせてくれるなら入りますよ」なんて返事をしたんです。野外展の作家のひとりである大畠久さんが彫刻科で辻さんの教室で勉強していまして、辻さんをとても尊敬していました。大畠さんは、二紀会に入ろうかと言い出しました。学校に来てくれと言われたので行った時に、前述のごとく僕らは返事をし、辻さんを怒らせました。でも、僕らは「審査される会は嫌だ」と言ったのです。上の力の強いものに対してノーといいたいし、審査されないようにして出品する方法はいきなり会員になることですしね。そのころ、のちに走泥社にはいる熊倉順吉さんがモダンアートに出していて、彼からも誘われました。
1958年 版画・陶芸4人展 場所:京都府ギャラリー 出品者:川上力三、吉竹弘、福沢忠夫、ネギタマサトシ
1958年 「作陶集団マグマ」を結成 参加者:川上力三、吉竹弘、草野文彦、宮川一三、高島朝生他
マグマの結成にはやはり中島清さんの存在が強かったと思います。それまで活動していた「陶創ぐるーぷ」は日吉が丘出身が多かったですし、僕と大畠さん以外はそうでしたから、同窓会的なグループでもあったわけです。この中にはクラフト志向の人もいました。そのころの走泥社も壷やお皿の作品が並んでいてクラフトの展覧会に近いところもありましたから、「クラフト志向のひとがいるなら、走泥社とおなじやないか、そうではなく、陶造形だけで、陶彫だけでグループを作ろうじゃないか」と言って、マグマが誕生したわけです。陶彫だけのグループはそれまでありませんでしたし、それをつくろうということで誕生したのです。陳列台の必要のない作品。ちなみに64年に僕は走泥社に参加するわけですが、この時にはじめて僕は床に作品を置きました。八木一夫さんに「陶器を床に置くんか!」といって冷やかされたのをよく覚えています。陶を床に置くという発想は八木さんの頭には全くなかったのだと思います。
1959年 作陶集団マグマ第1回展 場所:サクラギャラリー(京都)
第1回マグマ展はサクラギャラリーというところで開催されました。昔サクラカラーってあったでしょう。その系列のカメラ屋さんの上のギャラリーを貸してくれたんです。
作陶集団マグマ展 場所:京都府ギャラリー 後援:京都市・京都府
以後京都市美術館などで数回展覧会をひらく
1960年 目黒成徳、笹山忠保が参加
三彩工房・3人(川上力三、吉竹弘、草野文彦)の共同作業を作る
京都市美術館ニュース
・ 1960年8月 「二十代の陶芸家たち」No.32
二十代の陶芸家のグループ「京都に十代作陶集団」ができた。「モダンアート」の出品者や「まぐま」「生活陶芸」の会員が連合し、現代陶芸の新しいイメージを描こうというもので、前衛陶芸グループ走泥社の次の世代の集団である。オブジェのような実験陶芸から食器まで幅ひろく活動するというが、来年には展覧会も企画している。メンバーは草野文彦、高島朝生、柳原睦夫、川上力三、岡本和男、川端信二ら15人。また女性ばかりの洋画家グループ「フェミナ」も結成された。小野鈴子、河村恵意子、本庄富佐子、多田越子、広畑美代子、敏本美智子、田中時子、山本敏子、小泉玲子の新進が参加している。
1961年
マグマ・具現合同展 場所:京都市美術館(京都)、銀座小松ギャラリー(東京)
グループ連合に参加
参加グループ:作陶集団マグマ、リアリズム美術家集団、京都青年美術家集団、前衛機構具現
グループ連合は比較的市村司さんがリーダーシップをとってやっていました。このグループ連合は、共産党ということはないのですが、比較的左派的な考え方があったように思います。どちらかというと、日展とか中央に対する抵抗であり、政治も含めて、ですね。一概に左派であるとはいえないのですが、少なくとも右派は入っていません。走泥社やパンリアルも一時期グループ連合に参加していましたが、彼等は左派に傾いているから嫌で続かなかったようなところがあるようです。当時は蜷川虎三という左よりの人が京都府知事でしたから、左派っていうと応援していた時代です。東ドイツ児童画展なんてのも一緒のときにやっていますね。このグループ連合の出品者の中に東ドイツと当時交流を持っていた人がいたんです。
1962年
陶芸4人展 場所:京都市美術館 出品者:川上力三、吉竹弘、奥村孝、早川毅
若い世代の陶芸展 場所:京都市美術館 出品者:川上力三、柳原陸夫、吉竹弘、岡田和夫 他
現代日本の陶芸を考える会合をたびたび重ねる 川上力三、寺尾恍示、奥村孝、吉竹弘 他
1964年
かたち展 場所:高松・みやたけ画廊 出品者:川上力三、吉竹弘、速水史郎、力丸卓司 ほか
走泥社に参加
マグマはメンバー4人が1964年に走泥社にはいったのがきっかけとなり自然消滅。
ですが、その前の段階で、マグマという名前をつかわない展覧会をしていくようにはなってきていました。マグマのメンバーの宮川一三さんの家は宮川伝統工芸という伝統ある陶芸の家です。前衛陶芸の用途を持たない作品を作っても食べていけませんし、宮川さんのように代々陶器屋だと家からもいろいろ言われるのだと思います。草野文彦もそんな感じで、デザインの方向へ行く。そうすると逆に一緒にやりたい人もでてくるわけで、一緒にやりはじめた奥村孝さんなんかはもの言う人だから、(ここらで自然にマグマという母体があるというよりも)自分達がやりたいことをやろうじゃないかといって、マグマという名前をつかわない展覧会もやりはじめるようになったわけです。
「四耕会や走泥社が活躍中だったが、出品作品の中には花器や皿などの出品もかなりあった。わたしたちマグマは陶造形を中心に、野外展や陳列台なしでも見られる作品を創っていくことに同意する。」ということでマグマは出発しましたが、マニフェストのようなものを作ってはいません。がんじがらめに括らないでおこうというのが僕らの趣旨にはありました。マグマという名前は自然発生的につきました。僕らの粘土のエネルギーや若さはまさにマグマそのものですから。だれが言い出したのかは覚えていませんが、あの年に噴火かなにかあったような気もします。マグマのエネルギーがあって、「俺等はマグマや!」と言っていました。野外展の時から皆熱くなっていましたから、皆が似たような世代で皆がマグマ。リーダーをつくらないとかいっていましたが、実際僕は1番年上で言い出しっぺでもあるし、外との折衝などはしていましたが、マグマはメンバーが皆好きなことをいえるというのを条件にしていました。
マグマは誰か評論家を呼んだりとかそういうことはしませんでした。若者ばかりだし、まだ呼べるような力もないですよ。東京から7~8時間かかるわけだし、自分達でお金を出して呼べるわけがない。グループ連合とかだったらできるけれどもね。今みたいに豊かではないから、物質的にね。(みな貧乏であまりお金がなかったね。)貧乏が当たり前だと皆が思っていたんじゃないかなあ。東京まで行って展覧会しよう!なんてのはよっぽどの覚悟ですよ。
僕らはマグマでしたけれども、マグマ以外にも小さなグループっていろいろありましたよ。陶芸で。グループというよりも単発的にといういい方の方がよいのかもしれませんが。例えば柳原睦夫さんは、「20代の陶芸家運動」をやろうじゃないか、なんて言っていました。展覧会しかしていないのですけれども。それが1962年に京都市美術館でひらかれた「若い世代の陶芸展」で、川上力三、柳原睦夫、吉竹弘、岡田和夫などが出品しました。実は20代だけじゃなくて、30代の人もいたわけで、ですから若い世代でいこうよってことで、こういうタイトルになったわけです。変な表現かもしれませんが、俗にいう「走泥社に対抗する勢力」という感じでして、そういうものはたくさんでてきていたわけです。そういうグループがたくさん出て来たという事実の背景に、その時代は陶芸の作品を作る人は生活していくという視点からみても日展に出すというのがまず主流でしたから、僕らはお金もありませんでしたし、個展というのは大変なお金をつかってするものですから、僕ら若い人間は個展なんてできないわけで、自分と考えの近い人たちとグループを組むわけです。1回限りの展覧会であってもグループを組んだわけですから、そういう1回限りの「なんとか展」みたいなものは結構ありました。それに加えて京都市美術館を借りるのにグループでないと借りることができない事実もありましたからね。
1961 マグマ・具現合同展(京都市美術館、東京・銀座小松ギャラリー)
具現というのは滋賀のグループです。孤立地帯のあとの。膳所高校の人たちのグループで、教育大系統のひとが多かったように思います。河村一夫さんとか。なぜ彼等と僕らが知り合っているかというと、YMCAとか関西美術院のようなデッサン教室のときに知り合っているものどうしで、何かやりたいなっていうことから始まったんです。僕はYMCAとか関西美術院の両方にいっていました。で、やろうやろうって。僕らも具現も貧乏でした。銀座の小松ギャラリーって地下にあってね。あそこで1点ずつ買ってもらえないかなあなんて言っていたけれど駄目だったね。そうそう、そういうと、小松ギャラリーで展覧会したときって、東京の1泊100円の宿に泊まったんですよ。宿について靴を脱いであがろうとしたら「お客さん、靴もっていきなさい。朝になったら無くなっているから」って言われて、枕のところに靴を置いて寝ました。そういうところで夜は寝ているけれど展覧会をしているのは銀座なわけ。その時代の写真がこのあいだでてきて、たまたま銀座を僕と河村一夫が歩いていたときの写真がありました。2人ともやせてます。細い。
マグマから走泥社へ
僕が走泥社にはいったのは1964年です。ちょうどそのころ、走泥社にだしていた寺尾恍示さんが僕らに「前衛陶芸がいま危機に立たされている今、みな大同団結しようじゃないか、小異をすて、走泥社に合流しよう」と言い出したんですよ。四耕会の林康夫さんらもそのときに声をかけられて入られたそうです。マグマはクラフト的な仕事、壷や皿などを作るような仕事は排除して前衛陶芸でやってきていました。走泥社もそれでいくべきだと、寺尾さんはおっしゃったんです。みなそろっていこうじゃないかと、今こそが大同団結のその時期である、と。寺尾さんの仕事はすばらしかったし、僕らはみな寺尾さんの仕事に憧れのような気持ちをもっていた部分もありますから、結局は走泥社に入りました。走泥社にはいったことで、マグマがおわったというわけでなく、マグマという枠組みはうすれてきたけれど、この走泥社への参加でもって、自然解体したという感じです。
寺尾さんに「僕らが走泥社に入るのではなく、走泥社の名前をマグマにかえるのはどうですか?」なんていうこともいったわけですが、結局は名前なんてどうでもいいやないかって、確かにそうですが。
ちなみに僕らは64年に走泥社に入りましたが、それと入れ替わりに、寺尾さんが走泥社を去りました。寺尾さんという人物はカリスマ性があり、相当影響力もありましたし、若者から人気を得ていました。我々は、走泥社にはいってからも寺尾さん、寺尾さん、でしたし、そういう人気に対して、八木一夫はある種の危機感というか、自分の地位が揺らぐような感覚を味わったのかもしれません。ですから、寺尾さんは辞めざるをえなかったのです。八木さんは寺尾さんに一目おいていましたから。僕らも寺尾さんのようにって思っていましたし。寺尾さんは作品もよかったし、口も達者で、なおかつカリスマ性があって人気がありましたからね。初期に中島清さんという存在が若者に大きな影響力を持っていたため、中島さんは走泥社に居づらかったようなところと似ているのかもしれません。
走泥社にしろ、四耕会、そしてマグマ。京都の前衛をつくったのが陶芸というのは面白いでしょう。都が東京にうつってから、それまでの京都が中心で育まれたいろいろなものが東京に行くようになったけれども、そこで唯一のこったのが工芸の世界だと思います。美術は地場があってできるもので、特に工芸、陶芸は移動できないですから。文学や絵画の人たちは移動できるけれども、窯なんかは移動するのが難しいですからね。そうすると残るのが工芸。とくに陶器なんてものすごく長い伝統のなかで新しいひとは重圧に苦しんでいるから、スプリングみたいなもので、その重圧をものすごい力で弾き飛ばすパワーがあったんでしょうね。ですから、新しい文化とか、美術運動っていうのは抵抗がものすごく激しいところからでてきていますよね。それなりに土壌があるわけです。