- 京都美術懇話会
京都美術懇話会 ※前衛美術集団ではない ※『美術記者の京都』橋本喜三 朝日新聞社1990 より説明抜粋
pp.48-50 戦災を免れた京都の美術界の立ち直りは早く、昭和20(1945)年9月には美術館所蔵の作品を公開して「現代美術品展」を開いている。続いて11月、京都市主催の第1回「京展」が開かれる。全国から作品を公募した総合展で800点近い応募があった。戦争中はタブーだった裸婦やバラの絵が、まぶしいばかりの美しさで会場を飾った。若い作家たちののびのびと明るい自由な制作が、郷土展の華やいだ門出を祝福した。しかし翌春「朝日美術展」を最後に美術館は接収されて、美術都市の苦渋が始まるのである。美術記者の最初の仕事として21年2月に「京都美術懇話会」を結成した。100人余りの有力な美術家が参加した。お互いの親睦をはかるとともに、京都美術界の結束を促すのが目的であった。京都で最初の画廊・朝日画廊を開設、美術懇話会展も開くようになる。私は美術記事を書くだけでなく、美術行政にも足をつっこんで、次第に美術の世界に深入りしていったのである。 文部省が音頭をとって「日展」の開催が決まるが、官展の復活は敗戦をわきまえぬ文部官僚の独善である。しかも京都を無視した東京偏重の文化行政である。日展の民主化を求めて執拗にキャンペーンをくり返した。上村 松篁らが日展をやめて「創造美術」を旗揚げした記事は、毎日新聞にスクープされて、辞表まで書いた苦い経験もあったが、日展改革を要求する工芸界の革新運動に封建的な美術界をもっと風通しのよい自由な世界に脱皮させようと、情熱を傾けていた。京都市が国際文化観光都市に指定された25年には、美術専門学校が美術大学に昇格、また金閣が放火で炎上し、”日展興行”が派手な話題をばらまいた年でもある。この頃は京都美術の昂揚機であった。
pp.114-118 民主化の嵐の中で 京都美術懇話会 昭和21年(1946)年2月5日、粉雪の舞う寒い日だった。四条大橋畔の東華菜館で京都美術懇話会の創立集会が開かれた。会員相互の親睦を図るとともに、新人の啓蒙・育成に力を致し、朝日新聞社と提携して郷土文化の親交、平和日本の建設に邁進したいと存じます—と趣意書に書いた。発起人には美術界の長老だった日本画の菊池契月、西山 翠嶂、西洋画の太田喜二郎、工芸の清水六和、京大教授の上田寿蔵、京都美専校長の中井宗太郎の六氏をお願いし、会員には日展の特選級以上を基準として選考、日本画48人(昭和62年の解散時には163人)、観賞家12人(同43人)となった。ほとんどの会員が出席して、会場は熱気に包まれていた。 司会役をつとめた私は、封建的な美術界に民主的な風を吹き込んで、京都ルネサンス、の風潮を醸し出したいと、秘かに考えていた。会の世話人である理事は選挙で決めてほしいと提案した。思いがけぬ理事の公選には動揺もあったが、福田平八郎、上村 松篁、須田国太郎、松田尚之、清水六兵衛、楠部弥弌ら、当時第一線で活躍の15氏が選出された。この懇話会の結成は、美術記者として企画した最初の仕事であり、新しい時代の胎動を肌で感じていた。新聞は半ペラ(1ページの半裁)時代で、文化記事など載らないので、もっぱら懇話会の運営に心を砕いていた。最初の例会は末川博立命館総長に「新しい日本を聞く会」とした。歴代の京都市長を招いて美術行政について懇談するのも恒例となった。京都市美術館が接収されたときには、執拗に返還運動をくり返した。茶道家元の裏千家で秘蔵の家宝を拝見する茶会も開いた。このときは「週刊朝日」の依頼で「京都画壇群像」を撮影した。気むずかしい日本画家のほとんどが揃った貴重な記録写真となる。会費は年100円。集めるには面倒だから、みんなで色紙程度の小品を寄贈することにしよう、と理事会で決まり、その作品を大丸の美術画廊に展示して、一括して購入してもらうことになる。上村松園さんから短冊を寄付してもらうと、それだけで3、4年分の会費が捻出できるのである。しかし一部の会員に負担をかけすぎるのは不公平なので、数年後にはやめて300円の会費制に改めた。呑気な会の運営だった。 朝日ビルの一階にあった美術部の売り場の一部を貸してもらって「朝日画廊」を開設したのは懇話会結成の秋だった。係員つきの無償提供だったので、画廊も使用料をとらずにできるだけ若い作家に使ってもらうことにした。小さいながらも京都では最初の、しかも唯一の純粋な画廊となる。冨田渓仙、土田麦僊、村上華岳、青木繁のスケッチ展やフランス絵画複製展など、元旦から大晦日まで年中無休で3年近く開いたので、美術館を接収されていた京都では、核的な役割を果たしたのである。 大丸から会場を無料で使ってほしいと申し出があって、23年の秋に第1回京都美術懇話会作品展が開かれた。出品は完成されたタブローではなく、制作の過程を示すデッサンやエスキースなど、アトリエでの素顔をお互いに見せ合う小品展とすることにした。晴れ着のよそよそしさよりも、普段着のぬくもりを分かち合うといった玄人向きの総合展として発足したのである。うす汚れたグレーの壁面にぶらさげた絵、ごわごわの紺の敷物の上に並べられた工芸品を、国民服に下駄ばきの青年、中折れ帽にマント姿の中年の紳士、買い物袋をさげたモンペ姿の主婦たちが、一点一点、くい入るように見つめていた姿が痛いように蘇ってくる。美しいものに飢えていた時代だった。 昭和31年(1956)年の憲法記念日に橋本関雪ゆかりの銀閣寺の白沙村荘で、創立10周年を祝う園遊会を開いた。来賓の市長らも500円の会費を払って二百数十人が参加した。京都では初めての賑やかな美術のフェスティバルとなった。翌年からは京都市美術館の庭園を借り切って開いた。池を地中海に見立てて裸の男性が美の女神に扮したページェント「ビーナスの誕生」を上演したり、そろいの浴衣で阿波踊りをやるなど、派手な美の祭典を毎年くり広げた。私が大阪本社の学芸部に転勤した年は送別パーティーとなり、感謝状をもらって胴上げされた。京都の美術界が一つに結束していた充実した時代だったが、あわただしく歳月は流れる。25周年のときには美術講演会と公開座談会を開き、記念展の作品集を上梓した。巻頭の挨拶文のなかで私は、「美術懇話会はささやかな私の美術記者時代のなかでの、もっとも確かな記念碑である」と書いている。 40回展を最後に懇話会展から手を引きたい、と大丸から相談をうけた。結成した頃は東京に対決しようという京都的レジスタンスがあったが、今は国際的視野で美術を見直す時代になっている。106人で結集した会員はふくれ上がって608人の大所帯となり、文化活動も身動きができなくなっている。しかも懇話会展自体もマンネリズムに陥っていた。展覧会もやれぬ美術団体を無理に続けても無意味であると考えて、私は解散を決意した。昭和62(1987)年の秋、「サヨナラ・京都美術懇話会展」を京都市美術館で開いて、42年の歴史を閉じたのである。