- 野村久之インタヴュー
野村久之インタヴュー 2007年8月2日
野村:昭和27年から31年まで京都市立美術大学に在学していました。出身は東京です。当時美術大学は東京芸大と京都美大の2つしかありませんでしたから、入る前はとどちらにするかで迷いました。試験日も一緒でした。僕の友達の父親で日本画の作家の徳田清次郎さんのアトリエに連れて行ってもらって相談したところ、徳田さんは僕に京都に行くことを進めてくれました。東京は空襲の後でぐちゃぐちゃになっていてとてもじゃないけれども勉強をする雰囲気ではない、京都は博物館もあるしそういうのもきちんとあるからと言って。それが京都に住むきっかけとなりました。もともと僕は洋画にすすむつもりでしたが、相談を機会に日本画に行くことにもしました。
大学時代はアトリエ座と関係していました。後にケラを結成する岩田重義は2年後輩だけれども付き合いがありました。学生時代は、たとえば授業料が値上がりするというときは皆でスクラム組んで反対運動をやったという時代でした。民青なんかも非常に盛んで、学生の中にも民青に入っているものが多かったですし、僕自身は政治的な活動はしてこなかったけれども、アトリエ座を通して、絵を描きながら、そういう活動に関係していたこともあります。
卒業と同時に東京に帰り、東京の成城で10年近く美術を教えながら制作活動を続けました。その間にケラがあったんです。僕は東京にいながらケラに参加していました。高校で教えながら、ケラをやって。けれど学校の教員をしながらというのはとても大変でした。そこで京都の友達が美術村に来ないかとすすめてくれて、学校の方のけりをつけて、一切合財切投げ打って京都にまた戻ってきました。最初の1年間は制作三昧だったものの退職金がすぐになくなってしまって。僕は既に結婚しており女房と子供は東京にいたのですが1年くらいしたら女房がしびれを切らして京都に来て、京都で楠田真吾の家の近所に空き家があると聞き、そこを家にして、仕事は美術村、という体制ができました。
坂上:北白川美術村で一時期ベトナム戦争の反戦運動家をかくまっていたと聞きましたが。
野村:1968か1967年かその頃の春くらいか、3月か4月か、ちょっとあったかくなってきたころのある日、鶴見俊輔氏がひょっこりうちを訪ねてきました。鶴見氏は黒いインパネスみたいなのを来て突然玄関に現れ、「野村さんですか?」って言うんです。「ああ、鶴見さん…」「近所におられるって聞いたことがありますが」「近所なんです。」「お願いがあってきました。」「おあがりください」。それで何かと思ったら、「かくまってくれませんか」と言うのです。その頃、僕は京都に住みながら広島の大学に勤めていました。こういうことで首になったら困ると思ったところ、隣にいた女房が「アメリカが悪いんだからやりましょうよ!」って鶴見氏の前で言ってくれたんです。それで、女房がいいって言ってくれるなら、俺は首になってもいいやって、それなら引き受けるってことになりました。それでヤン・イークスをかくまうことになったのです。彼はアメリカで反戦運動をやっていて、日本にいる脱走兵をかばう動きで来日しました。べ平連、ジャテックと連絡をつけてきて、すぐに居場所を探すことになって。そこで鶴見氏がうちに来て、僕のところにお願いできないかということになったのです。別にアトリエに、ということではなかったのですが、僕の家は狭かったので、美術村にかくまうことになりました。
僕の家は小松原、鶴見氏の家は西大路通を挟んで向こう側の宮本町でしたから、歩いてこれるくらいの距離でした。もちろん僕は鶴見氏のことを知っていましたし、本も読んでいましたから、よく来てくれたって思ったけれど、なぜうちに突然来たのかわかりませんでした。それからはよく落ち合って夜に話したり。そんなことでしたが、そのときは、何故鶴見さんは突然来たのか、誰からの紹介だったのかも一切言いませんでした。僕も、何故僕のことを知っているのかなあと思いながらもずっと聞かずじまいでした。だいぶ後でわかったことですが、高校時代の同級生で僕の親友で東京のTBSでディレクターをやっていた村上望というのがジャテックと関係があったんです。句会と称してみんなで集まっていたときに、「あのイークスが来るぞ!」「どうしようか。」「京都あたりだ?」「じゃあ京都だったら僕の親友がいるから」みんなで相談し、僕の住所を言ったところ鶴見さんが「それはうちのすぐそばじゃないか!それは具合がいいや!」ってことになったのだろうと。
ともあれヤンとアンというヤンの彼女が美術村に来ることになりました。ヤンは離婚歴があった男性ですが、アンと結婚して、一緒に行動をともにしていましたから、アンと一緒にアトリエの僕の部屋にかくまわれることになりました。しかしかくまうについては、美術村の連中に黙っているわけにはいかない。それで、「かくまいたいから。何か異議があったら言ってくれ」。するとみんなは「いいじゃないか!」「そういうことなら光栄だ!」と賛成してくれたのです。「一切他言無用。」「わかった。」そういうことで、アトリエの方にいてもらうことになりました。布団を運んで、アンネの日記みたいなもので、あそこでは自炊できないので、家内が適当にいろんなものをつくって持って行ってやったり、買い揃えて持っていってやったり。十分なことはできなかったけれども。アトリエはいつも鍵を閉めていましたが、合鍵は渡してあるので、食べ物をとりに行ったりとかそういうことをしている間に…
そのうちにヤンは、隠れて運動をするのではなく、公明正大に行動したいということを言い出しました。けれどもそれには法務大臣にビザの申請をする必要があります。そこでヤンを僕の弟子に仕立て上げ、僕に彫刻を習うという名目で申請書をとることになりました。彼は観光ビザで来日していましたから、普通の滞在ビザをとりたかったのだけど、チェックされているからどうしてもはねられてしまいます。それなら理由があればいいのではということで、留学ですね。僕の弟子になるってなればはねられる理由はないと。アメリカの法律では脱走兵ですから、徴兵拒否ではねられる理由があるけれども、そのへんはうまくごまかしながらやっていたらしいけれど詳しいことは知りません。けれども留学ビザを取るということですから、当然仕事もさせないといけないでしょう。僕の弟子だからって証拠を写真でとって。僕のはしごの作品の構造計算もさせたりしました。彼は理学部出身だからとっても頭がよくて、はしごの作品のバランスをとるための構造計算をしてもらいました。それでこれもお前の仕事にしろや、俺のアシスタントということにしたらいいって。そんなある日、美術村に住んでいた福島敬恭が鉛の塊を持ってきました「これで何かやらしたら?鉛はとかしてやわらかくしたら伸びるし。イークスにこれで何か作れって」「わかった!きめた!」。ヤンに鉛を渡して家に帰りました。次の朝、行ったら彼がニコニコして出てきて「作品できた!」って言うんです。で、見たら、手錠を作ってました。大きな手錠に鎖がくっつけてあって。「どうだ!」って…「うーん…」
まあ、仕事はあまりまじめにやらなかったけれどもまあ本人もそういう制作できるようなセンスはあるけれども感性的にはアーティストに向いていないなあって。福島に見せたら「えー!」「こんなんつくったんや…」。とにかく写真を撮って法務省に出したりしましてね。証拠をつくらないといけないから、その程度のことだったんですけども。ジャテックの小野弁護士が手続きをし、法務大臣に申請書出し、ビザが取れるかどうかというところまでいったのですがうまくいきませんでした。そこで一度国外に出て又来るということで、沖縄に行ったり、その他いろんなところに行っては戻ってきてという生活のはじまり。当時僕は広島の大学に車で通っていました。今のように高速が走っていなかったので大変でしたが、ヤンが岩国の方で反戦活動すると言うので、よく僕の車にアンとイークスを乗っけて岩国まで行きました。
今になって思うと、美術村のメンバーは非常に協力的でした。暗黙の了解というか。やっぱりアメリカが悪いという意識をみんな持っていたのだと思います。とにかく誰にもばれずにパーフェクト。あれだけの人がかかわって何かして全員を完全に逃して。北白川美術村にいたのは2人。彼らは飛び飛びで。一ヶ月いたかというと帰ってきて、また行って帰ってきてって。当時はFBIもいました。蹴上のところで黒い車が追い越しざまに僕の顔の写真を撮ったこともあります。ああ目つけられているなって思いました。小松原の外人課の刑事が僕が留守の時に家に上がりこんで女房にいろいろ聞いていったりとか。それでもばれなかったけれど、探りはいれていましたね。