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1968年11月8日、14日、19日「ZONE」





○ 1968年11月8日、14日、19日「ZONE」毎日新聞京都支局3階ホール

8日 シンポジウム「アイデアの位置」=中原佑介、山崎正和、福島敬恭、松沢宥、辻原千 、高口恭行、亀山某、太田ひろし、神戸陽造、本田一二 司会=新田博衛 14日 映画=宮井陸郎、ガリバー、松本正司、河口龍夫、植村義夫、今井祝雄 電子音楽=山下甫 舞踊=竹邑類 19日 舞台=小松辰夫(劇団現代劇場)、林川賢太郎(詩) ハプニングス=PLAY、ゼロ次元商会 1968年 彦坂尚嘉「ジストロフィ」(8ミリパートカラー、15分、映像集団濡れた皿作品) 企画=ん・MAS 後援=毎日新聞社、協力=同志社学生放送局、構成=小松辰男、柳沢正史、水上旬 事務局=アヅマギャラリー

「創作の立場を“証言” 新しい芸術の位置討論 ZONE展開く」“現代美術はむずかしい”めまぐるしく変わる新しい芸術についていくのに息切れがしそうな現在。とまどいを感じる人も多いだろう、そんな人たちのために京都で現代美術、映画、音楽、舞台・・・各部門の新しい芸術の最先端を行く作家たちを動員、その作品を披露、著名な評論家の参加を求めて現代芸術についてのシンポジウムを開くという画期的な企画が実現する。この企画は11月8日、14日、19日の三日間にわたって京都市中京区三条通御幸町角、毎位置新聞京都支局三階ホールで開かれるもので、題名は「ZONE ここにたってる−そして?」。主催は下京区寺町仏光寺下ル、アヅマギャラリーと京都の若い作家グループで、毎日新聞京都支局後援。企画の題名はいささかなじみにくいが、この企画には美術、映画など各部門から約30人の作家が参加しており、それらの作家が自分の創作の立場、またその目ざすところは何かを“証言”する。題名はこのような“現代芸術の将来を指向したい”という主催者の意図を表したものである。日程初日の八日のシンポジウム「アイデアの位置」は美術評論家中原佑介氏、演劇作家、山崎正和氏を迎え、地元京都の万国博の美術作家、福島敬恭氏ら作家も参加する。中原氏が現代芸術の特性などについて発言、新しい芸術の位置づけを目ざして討論が展開される。第二日目からは現代作家の作品発表にはいり、十四日は映画と電子音楽が発表され、映画は東京のアングラ映画の旗手宮井陸郎、ガリバー両氏、また関西のアート・フィルムの会、松本正司、河口龍夫両氏が加わる。音楽は大阪のアート・チクルスが現代音楽を紹介、山下甫氏らが電子音楽作品を発表する。十九日は舞台とハプニングスで舞台は京都の劇団現代劇場の小松辰男氏らが氏の林川賢太郎氏らと組む。最後のハプニングスには大阪のプレー、名古屋のゼロ次元商会両グループなど十三人が参加。時間は各日とも午後六時から九時までで、入場は会員に限られている。三日間通しで入場できる会員券(千円)はアヅマギャラリーで受け付けている。(毎日新聞 1968年11月?日)

「“新舞踊”など紹介 ZONE第二回シンポジウム」現代芸術について考えようという「ZONE」第二日目は14日午後6時から9時まで中京区の毎日新聞京都支局で開く。プログラムは新しい映画、舞踊音楽を紹介、映画は東京・新宿を拠点にアングラ映画を発表している宮井陸郎、ガリバー両氏の作品と、関西のアート・フィルムの回の松本正司、今井祝雄、河口龍夫、植村義夫氏の作品を上映、舞踊は竹邑類が出演する。音楽は大阪のアート・チクルスの山下甫氏らが電子音楽作品を発表することになっている。「ZONE」は8日のシンポジウムについでこれが第二日目。最終日の19日にはハプニングスなどがある。(毎日新聞 1968年11月?日)

「どっと熱心なファン ZONE第二回アングラ映画も登場」若い芸術家が追求しているものは何か—アヅマギャラリーや若い作家グループが企画した「ZONE」第二回目は14日午後6時から9時まで毎日新聞京都支局三階ホールで約200人のファンが集まって開かれた。この日のプログラムは東京・新宿を舞台にアングラ映画を発表したガリバー式の作品“スイッチ”で始まった。無声、白黒でボタン式のスイッチが三十分間も写され、画面に出た人間の手がスイッチを押すと同時に会場の電気がパッとまぶしくつく−という趣向。続いて京都の作家、松本正司氏のカラーのあざやかな作品や植村義夫氏らの映画が上映されたが、映像をダブらせたものやスクリーンを二つ使うものなど新しい試みがいっぱい。映画のあとは大阪のアートチクルスの山下甫氏らの電子音楽、さらに東京の竹邑類氏らの舞踊が披露された。(毎日新聞 1968年11月15日)

「ZONE以前と以後 水上旬」(ポスタ—写真とともに掲載)現代は芸術にとっても風俗にとっても、個人に関するかぎりほとんど制限のない自由性を許し得る状況にあり、それは表現の段階であろうと表現以前の観念の段階であろうと大差はない。そうした自由性を受け容れるか否かが各個人の意思とか思考方法の柔軟度に任されているのみである。観念とその具体化された物あるいは具体的な行為とその理論家とは少なからずギャップを保って関係し合っているが、作家にとって作品に対する理論の裏付けを持ちギャップを埋めようとすることは、少なくとも自由性を受け容れて行動するかぎりその自由性の故に欠くことの出来ないものである。理論の裏付けは作品自体にかかわらず、それに付随する作家活動及び日常活動に於て接触せざるを得ない諸状況をどう受けとめ、又どう反応してゆくかといった点から、表現行為、表現物にいたる(ときには不連続かもしれないが)ほとんど全域にわたり関連を持ってくる為に、簡明ないいくつかの章句に置きかえることは確かに困難である。例えば、我々は作家であれ非作家であれ、個々の具体的な作品に対してももはや従来のような作品観や信頼度を持ち続けることは出来なくなっている。又、作品による伝達の意味・発注芸術等における作家の個としての存在性、技術と作品の内容性、芸術における流行性等、更にもう少し広く社会、風俗と作家の関係等(そうしたものをまとめて現象というとらえ方をするにしても)は、解決されたかに見えるが、ここ数年来あるいはそれ以上の長期にわたりわずかづつその時代背景により変質されながらもくすぶり続けている問題群である。作家の社会観の一部としての政治観についても、例えばノンポリという言葉が政治的に無色であるというより以上にほとんど内容を持たない空白あるいは事実上の無関心の代名詞として用いられている場合が少なくはない。恐らく我々は個人的とは箇条書き的に場合に応じた何らかの解答を持っているであろうが、箇条書き的であるということの紙一重のところで微近視的であり応急処置であることを否定しきることが出来るのだろうか。現代は過情報・無思想の思想という時代であるかも知れない。作家は情報メーカーであり情報センターであり何かおもろいものメーカーであり時代の先取者であるかも知れない。そうして作家は非作家からのみでなく当の作家個人からさえも遠く高く離れて行こうとしているのかも知れない。こうした種々の仮定の何割かは少なくとも正しく、いわば作家個々はそれぞれ家元であり教祖でありあるいは王様であるかも知れないが、そうであればある程、作品と併行して個々の理論体系を必要とするのではないだろうか。それは分散された家訓何カ条といった問題ではなく。そうしたものを含めて収束されたものであり、ともかく現時点での一応の総括がなされないかぎり今までの問題のみならず今後の問題に対しても確信的な対応は出来ず、相変らず未決のままの状態を続けてゆくにすぎないと思われる。理論体系は必ずしも言葉として表現される要はないかも知れないが、我々の思考が言語を中心に動いているという性質より考えて、とくに美術作家にとり作品としてではない言葉を使わないということは、しない←→出来ないという構造と含まれる主体性の濃度を押しなべて平均化して感受してしまうという欠点を補い得ないのではないだろうか。勿論、各体系について他者が受けとめるか否かは、そうした各個人の問題であり、それをどう考えるかはそれ以上に各個人の問題であるが、体系群の間には少なからず共通の基盤が存在しているはずである。我々はおそらく過情報と情報アレルギーの状況下に於かれているのであろう。としてもそれが、状況に対する分析・反応の適確性判断のために十分な時間をさき得ないことの言い訳にはならないし、情報理論のみに安易によりかかることは危険でもある。むしろその為に分析・反応の際少なからず感情的な態度をとらざるを得ないという点で、介入して来る日常と芸術の両領域に分断された数種の心情性をこそ検討する必要がある。心情性はあくまでも心情性なのであり、高倉健がかっこいいのであり、デュシャンが気になるのであって、芸術の領域内にのみ神秘化して閉じ込めて置くことは出来ないものであるが、これに限らず、我々の対面する問題の多くにこうした芸術と日常の相互流入、ほとんどが不可分とも見える複合状態を見出すことが出来る。こうした状況の中で言語の不毛という従来の呪語は、作品としての対話と作品性を極力排除した対話とを区別した上で、改めて考え直さなければならない。作家にとり固定観念的な状況の分析・反応は致命的である。対話を虚しいものとして決めてしまう前に、そうした空しさを避けるべき努力あるいは方法を考えるべきであり、又種々の対話の場についてそれぞれの場の性格を見極めるべきであり、更には、必要に応じた場を作るべきではないだろうか。そうして、昨年11月、8日、14日、19日の三日間、我々は京都に於てZONEという名の下に有志参加による催しを持った。第一日目をシンポジウム、第二、第三日を舞台を中心にした作品及び行為の場にあてた。アイデアの一をテーマとした第一日のシンポジウムは作家から学生運動家に至る四氏をその立場からのレポーターとして迎え、アイデア更には観念の自立性に焦点をあて、新たな行動へのきっかけたり得る共通基盤を見出そうとする試みであった。多様な立場からの多数の参加者によるシンポジウムにあっては、何らかの満足出来る結論を求めることはほとんど不可能であり、それはむしろそうした場にあって持ち得た方向づけにもとづく少人数グループによる分科会めいた対話に求めるべきである。第二及び第三日はそれぞれ作品、行為の発表の場として及びそれを支える理論の場として、表現とその背景を明らかにしようとする試みであった。こうした試みは関西に於てはほとんど初めてであり、ZONEは一つの布石なのである。(アヅマギャラリー第2号 1969年2月1日発行)

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