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京都アンデパンダン

1955年青美によって立ち上げられたアンデパンダン展は、1957年に京都市が主催する「京都アンデパンダン展」へと移行する。(アンデパンダン創成期については、青美の項参照)京都アンデパンダン自体は、終了宣言がもたれていないが、1991年湾岸戦争時に行われたのを最後に開催されていない。

1955年3月23日—3月31日  第一回アンデパンダン展 京都市美術館[青年美術作家集団主催]
マニフェスト アンデパンダンというのは「独立の」という意味で、本来は既成の画壇に抵抗する新しい力が自主的に組織する展覧会の形式です。ヨーロッパには古くからありましたが、日本でもすでにいくつかのアンデパンダン展が、新しい美術活動の母体としての実力を力強く示しはじめています。無審査性がその特徴ですが、これは美術家の独創的な個性や批判的な精神、積極的な発言の自由の場ということなのです。したがって展覧会自体に一つのまとまった主張がないとしても、それはアンデパンダンがあくまでも自由な話合いの広場だからです。とわいえいま権威と断絶した場所に新しい前衛的な意欲がある以上、すでにアンデパンダンの成立自体が激しい主張を明確に語っているわけです。もちろんわれわれの話合いはまだまだ不十分です。この広場でどれだけの人びとと呼びかけ合い、語りかけあい、発展的に話合いできるかどうか、これが今日の問題です。われわれだけでなく美術家全部の問題です。
「青美」主催による絵画150点 福永久造、稲木秀臣、元広美智子、大角清次、竹中正次、大熊峻、石原薫、市村司、三浦三郎、青木義照、東繋造、田中守貴、珠数末三郎、中塚量夫、森清、小名木陽一、矢野喜久男、藤波晃、井上豊治、奥井彰夫、高橋和平、志摩篤、真山豊、嶋田米造、豊島満造、福沢忠夫、山本之夫、森康次

1956年4月7日—4月15日 第2回アンデパンダン展 京都市美術館
「京都アンデパンダン協議会主催による約絵画300点」協議会は「青美」「ギルクア」「孤立地帯」「目撃者」によって結成され、「パンリアル」「泥土期」「極」「デモクラート」「リアリズム美術家集団」及び東京の「制作者懇談会」に積極的に働きかける。上記グループ以外に、伊藤久三郎、小牧源太郎など出品
「・・・こうして翌30年3月青美主催の第一回アンデパンダン展が京都市美術館の一隅を借りて開催された……青美の会員がそのほとんどであったが所期の目的はまず達成された。しかしこのあと秋の団体展に出品するかどうかの議論が出て、大勢はアンパンのみに賭けるべきだとして不出品を決めたが、青木義照、石原薫、大熊峻、小名木陽一、藤波晃、森清、矢野喜久男の7名は意見を異にし、早くも分裂を見せたのである。そして7名は団体展にも出品すると同時に「グループ目撃者」を結成して、10月に独自の展覧会をもち、青美から脱退したかたちになった。とはいえ彼らの真意は発表の機会を一つでも多くもつということであり、団体展のなかで自由な芸術意思を貫くことも若い精神であるという考えであって、決してアンデパンダン展を否定するものではなかった。そこで第二回のアンデパンダン展について青美はより巾広い出品を計ることを第一義として、大津の新人洋画グループ「孤立地帯」行動美術研究所系の新人グループ「ギルクア」そして先に分岐した「目撃者」にも協力を呼びかけて、四者によって京都アンデパンダン協議会を構成し、これの主催下において準備を進めることを決めた。そして京都の「パンリアル美術協会」「グループ泥土期」大阪の「制作者集団 極」「デモクラート」「リアリズム美術家集団」東京の新人グループ「制作者懇談会」に積極的に働きかけをして、翌31年4月やはり京都市美術館を会場に用意した。はたして作品はおよそ300点に達し、予想をはるかに上まわった。なかでも東京から石井茂雄、芥川沙織、池田龍雄、河原温らの参加があり、また京都のベテラン伊藤久三郎、小牧源太郎の出品を得たことは、とくに横へのつながりをもつことができたと評価された。そしてこの一定の成功に気をよくした地元メンバーはアンデパンダン懇談会という会をつくり、定例会に展覧会の反省やプラン、芸術論を交わす一方、会報を発行して若い意見を吐いた。ここに特定の主催者によらざる真に自主的、民主的なアンデパンダンは確固としたかたちを整えたと思われた。さきにもふれたように、これらが他から直接的、間接的な刺激、触発によって成った一面はたしかにあったが、やはり時代に生きる作家の青春的心情を具体化したものとして、それなりに成るべくして成ったものである。戦後の民主的で自由な風潮の横溢するなかで建直されたはずの日展においてさえ、審査の制度や方法に対し、作家から批判が加えられる時代であったし、大まかにいえばあらゆる現象の多様性を重層的にみるよりは、並列的にみることをおって、新しい平等と自由の観念とした時代であったのである。つまり制度的にも組織的にも重層的であることについて批判の時代であった。新しい様式の性急な希求も、いわばそういうことへの批判のかたちとしてあったのである。そうしたなかで京都市美術館も、新しい思潮による美術活動について具体的な行政の手をさしのべる必要性を自覚しはじめていた。とはいえ地方公共体がいち早く新しい動向に呼応し、すぐさまこれに同調することは、必ずしも賢明な行政であるとは限らない。むしろ文化一般について行政は大方受動的、他動的であることを定石としている。京都市美術館はアンデパンダン展の新しい動きにそれなりの必然性を認めてはいたが、まず手を染めたのは別のものであった。昭和31年11月陶芸グループ「走泥社」と日本画グループ「パンリアル美術協会」を招待して「新人グループ展」を企画開催したのである。これらのグループはそれぞれに回を重ね、また注目すべき仕事をしていた。若い美術活動が戦後の開放感の中でやたら盛んであったなかでも、とくにこの二つは京都において確固としたスタイルをもって着実に成長していたし、新派、新潮として一定の確かな地歩をその分野の中で確保していた。もちろんこれはアンデパンダン展を暗に導き入れる前哨の意味を含んで企画されたのではなかった。けれどもかかる一つの前衛に照明をあてたということ自体、外見には新しい思潮による美術活動についても京都市は積極的に臨む姿勢があるという印象を与えた。はたしてあくまで間接的であったとはいえこれが結果的には京都市がアンデパンダン展に取組む導火線の役割をはたしたのである。アンデパンダン懇談会は所期の目的を成功裡にはたしたけれども、大阪や東京から出品者のため作品の輸送料を会が負担したり、事務連絡や参加勧誘に関して並々ならぬ労苦があった。三回展をひかえてこの壁がさらに厚くなることは必至であった。そのときさきの新しい展覧会が具体的に示されたのである。つまり会側では市に意思のありそうなことを推量し、市側も京展や市民美術展で別な一班を対象とした公募展の開催を意義あるものと考えていたからである。そういう両者の事情、心情が第三回展の会場申込の時点で明らかとなったのである。そしてともかく具体的な意見交換として12月5日第1回目の会合がもたれた。このとき会側では市に肩代わりさせることで組織的、経済的に安定した母体ができるという単純な便利主義と、反面せっかくのアンデパンダンを官展化することに強く反対する意見があった。また市側では積極策として審査制、受賞制度による前衛美術の公募展を試案していたので、話は物別れになった。しかし大局は互いに利となるところを尊重しつつこれをまとめようという方向で話がすすんだ。そして両者もち帰って検討した結果、12月19日第2回目の会合で審査、受賞制度の取下げ、アンデパンダン運営委員会を設ける。市は会場、会期の確保、陳列、目録その他展覧会経費と事務処理等を負うということで一通りの結着をみた。そして運営委員は一年任期とし、批評家から井島勉、今泉篤男、中村義一の三名、作家側から日本画の下村良之助、洋画の松浦正雄、青木義照、稲木秀臣、彫塑の三宅五穂の5名がこれにあたるということを取決めた。アンデパンダン懇談会は必ずしもこの結果をよしとする者ばかりではなかったが、一応の発展的解消とみて12月20日この会を解散した。かくして京都市主催による「1957京都アンデパンダン展」は昭和32年3月13日から19日まで美術館の一階北五室をあてて開催されるはこびとなった。募集部門は絵画と彫塑、出品点数は一人5点まで。結果88名の出品者が絵画146点、彫塑11点をもちこんだ。公平を契して陳列は五十音順に行われた。会期中の3月17日3名の批評家を囲んで合評懇親会がもたれたが、一様に出品の多きを幸先よきものと喜こびあった。しかし運送費の自己負担が結局京阪神を中心とする作家たちに限られてしまった点は物足りないことであった。本文初めに引用した京都市主催第一回アンデパンダンの趣旨書が語る内容の経緯はほぼ以上のようなことである。爾来会期や出品点数、出品料など細部の規定は変わったが、今日まで定期的に開催され、まず順調な歩みをつづけてきた。賛助者も先にあげた三名のほか瀬木慎一、中原佑介、矢内原伊作、針生一郎、森啓、木村重信、乾由明、吉岡健二郎、小倉忠夫、平野重光らの協力を得た。官公庁の主催する「アンデパンダン展」は奇妙かもしれない。しかし作家の経済的、事務的負担をなくし、無制約で自由な発表の場を提供するという当初の使命を保守してきたことがこれの存続を叶にしてきたといえる。そして大勢はたえず変転する前衛美術の諸傾向をもろに示して確固とした展覧会の形式をととのえた。いま良かれ悪かれ「アンデパンダン展」の一つのかたちをつくっている。とはいえその間に振幅がなかったわけではない。市が主催を肩がわりしたことによって、まずこれまで積極的・情熱的に企画・推進の労をとってきた作家たちには、受動的な一つの発表機関にすぎなくなってしまった。また一定広範囲に公募の広報は周知できたが、実際に多くの作品をかき集めるまでにはいたらなかった。二回展、三回展とも出品者60名余名、作品120点余と減少した。・・・」(平野重光「京都アンデパンダン展の20年」より抜粋 掲載「京都アンデパンダンの20年 出品目録集—」1978年京都市美術館)

1957年3月13日—3月19日 第3回アンデパンダン展(京都市主催による第1回京都アンデパンダン展)
88人出品(絵画146点、彫塑11点) 賛助者:井島勉、今泉篤男、中村義一

1958年2月11日—2月16日
63人出品(絵画114点、彫塑8点)賛助者:井島勉、今泉篤男、瀬木慎一、中村義一

1959年3月4日—3月9日
67人(絵画125点、彫塑3点)賛助者:井島勉、今泉篤男、中原佑介、中村義一

1960年3月24日—3月30日
173人(絵画319点、彫塑38点)賛助者:井島勉、今泉篤男、中原佑介、矢内原伊作

1961年3月7日—3月13日
155人(絵画299点、彫塑14点)賛助者:井島勉、今泉篤男、瀬木慎一、矢内原伊作

1962年1月11日—1月15日
185人(絵画371点、彫塑12点)賛助者:井島勉、今泉篤男、針生一郎、矢内原伊作

1963年3月6日—3月12日
234人(絵画451点、彫塑21点、版画17点)賛助者:井島勉、今泉篤男、針生一郎、矢内原伊作

1964年3月7日—3月13日
205人(絵画373点、彫塑28点、版画23点)賛助者:井島勉、今泉篤男、瀬木慎一、矢内原伊作

1965年3月5日—3月11日
196人(絵画324点、彫塑28点、版画19点)賛助者:井島勉、今泉篤男、中原佑介、森啓

1966年3月5日—3月11日
142人(絵画213点、彫塑26点、版画8点)賛助者:井島勉、今泉篤男、木村重信、中原佑介、矢内原伊作

1967年3月8日—3月14日
153人(絵画243点、彫塑14点、版画4点)賛助者:井島勉、今泉篤男、乾由明、木村重信、中原佑介

1968年3月6日—3月15日
125人(絵画166点、彫塑35点、版画2点)賛助者:井島勉、今泉篤男、乾由明、中原佑介、森啓

1969年2月26日—3月10日
171人(絵画186点、彫塑20点、立体34点、その他17点)賛助者:井島勉、今泉篤男、乾由明、中原佑介、森啓

1970年3月2日—3月16日
247人339点 賛助者:井島勉、乾由明、中原佑介、吉岡健二郎

1971年3月3日—3月16日
195人249点 賛助者:井島勉、乾由明、中原佑介、平野重光、吉岡健二郎

1972年2月24日—3月7日 1972京都ビエンナーレ
「開催にあたって」京都市美術館はこれまで現代美術の育成をはかって毎年⟨京都アンデパンダン⟩を開催してきました。この⟨アンデパンダン⟩は、無鑑査、無審査を骨子とした、いわゆる既存のイズムやセクトにとらわれない自由な美術活動の発表の場として、とくに若い作家たちに歓迎され活用されてきました。全国的にこの種の展覧会がきわめて数少なくなっている現況からして、さらにその意義を生かし今後もその発展を期さねばならないことは言うまでもありません。しかし一方この展覧会において常に中心柱になっている、フロンティア精神に富む実験的な仕事や、時流に対して敏感な反応を示し、進取の観念と先鋭的な感覚によって試みる美術活動を、いま一歩積極的に推進するような展覧会を新たに設けることも美術館として重要な企画の一つであろうと思われます。すなわち⟨前衛美術⟩が今後進むべきであろういくつかの道程を予想して、注目すべきで、また期待すべき若い作家たちを選抜し、その活動を評価して次代の美術の旗手たるべく世に問うということです。⟨前衛美術⟩あるいはこれからの美術活動が、なお美術館というものを必要とするかどうかの論議はあるとしても、それはむしろ⟨美術⟩の中で決定されることでしょう。今日の美術の状況に照して、美術館自体がかかる新しい美術活動の推進と育成に積極的な理解を示すことによって、一人でも多くの秀れた作家を世に送る機会ができれば意義ある企画だと考えます。⟨1972京都ビエンナーレ⟩は以上のような意図で企画されましたが、これは当面⟨京都アンデパンダン⟩と隔年制で開催されることになります。今回選抜された37名の作家は、これまで⟨京都アンデパンダン⟩や個展や選抜展で活躍し、注目される仕事をしているこの分野の人たちです。彼らはそれぞれ自らの信ずる制作意図で新作を発表します。大方のご清艦をお願いします。」47年2月(パンフレットコメント)
出品作家:芥川耿、池水慶一、狗巻賢二、井上貴由、井本由之、植松奎二、大場敬、岡野靖夫、奥田善巳、郭徳俊、柏原えつとむ、片岡友和、河口龍夫、川越義夫、川村悦郎、岸川国芳、北辻良央、木村光佑、楠秀男、クボサトシ、佐野芳樹、志野明、鈴木重夫、滝本清次、田代幸俊、田中俊昭、野村仁、八田淳、林剛、伴文夫、平田洋一、水上旬、山本保、山本義雄、米津茂英、脇山幹夫、和田寛

1973年2月25日—3月9日 
177人177点 賛助者:乾由明、小倉忠夫、中原佑介、平野重光

1973年8月10日—8月19日 1973京都ビエンナーレ
「開催にあたって」⟨1973京都ビエンナーレ⟩を開催いたします。これは現代美術の育成をはかってこれまで開催してきた⟨京都アンデパンダン⟩に対して、常にその中心柱となっているフロティア精神に富む実験的な仕事や、時流に対して敏感な反応を示し、進取の観念と先鋭的な感覚によって試みられる美術活動を、いま一歩積極的に推進することをはかって設けられたもので今回は第2回展になります。趣意は、新しい美術が今後歩むであろういくつかの道程を予想し、注目すべき、また期待すべき具体的な活動を評価し、その作家たちを招待して次代の美術の一旗手たるべく世に問うというところにあります。彼らの美術活動が、なおかかる美術行政というものを必要とするかどうかの論議はあるとしても、それはむしろ⟨美術⟩のなりゆきの中で決定されることでしょう。今日の美術の状況に照して、美術館自体がかかる新しい美術活動の推進と支持に積極的な見解を示すことによって一人でも多くの新しい文化の担い手を世に送る機会が得られれば意義ある企画だと考えます。⟨1973京都ビエンナーレ⟩は昨今一つの動きとして注目される「集団による美術」を企画しました。これは確々の美術団体や単なる共同制作による美術を意味するものではなく、いくつかの新しい課題に対して接近・離合をくり返す一時的な集団による美術です。本展は6つの集団によって構成されますが、それぞれに⟨現代美術⟩が当面していることがらの複雑さと難かしさを具体的に示しつつ、今後美術はいかなる機能を担うかが質されるはずです。大方のご清艦をお願いします。昭和48年8月(パンフレット冒頭コメント)
出品者:
・五人組写真編集委員会+5:池田昇一、伊藤久、鈴木完侍、雅子+尚嘉、矢野直一、稲憲一郎、高見沢文雄、堀浩哉、矢田卓、渡辺哲也
・ Equivalent Cinema:石原薫、今井祝雄、植松奎二、植村義夫、松本正司、宮川憲明、村岡三郎、山中信夫、山本圭吾
・ 「知ってる人+知ってる人+知ってる人」狗巻賢二、梅本建夫、榎倉康二、金崎博、川西祐子、鈴木重夫、高山登、田中俊昭、内藤晴久、長重之、中村勉、野村仁、八田淳、八田慶子、羽生真、藤井博、星野高志郎、宮崎豊治、村田千秋、米津茂英
・ ニルヴァナ資料集積—究極表現研究所:虚空間状況探知センター、古式汎儀礼派、護摩工房、最終世界センター、サイバネティクス・ニルヴァナ意識体、死型工房、白い時の会、退化宴、第四間氷期綜合気体研究所、念る三昧窟院、NOSE研究所、星兵衛、パーリニバーナ・パーリヤーヤ、魔体工房、リリパット王国
・ JAPAN KOBE ZERO:榎忠、荻野雅至、坂上陽子、重浦直巳、高橋春男、玉越信樹、中井敏夫、中之英子、西尾敬子、古川清、前田正伸、森反伸一郎、山田真紀子、山田義規
・ THE PLAY:池水慶一、鈴木芳伸、三喜徹雄、水野達雄、福永登代子+中田和成、ヒゲ・ニシモト、福永洋、三喜俊郎、水野正敏、村田肇一、山下住雄、ヨシオカ・シゲオ、田村博文、大塚裕三

1974年  なし

1975年2月26日—3月9日
265人—265点 賛助者:乾由明、小倉忠夫、中原佑介、吉岡健二郎、平野重光

1976年2月?日—3月7日 1976京都ビエンナーレ
専攻委員:乾由明、高橋亨、たにあらた、中原佑介、早見尭、平野重光、峯村敏明が個人の責任において数人ずつの作家を選び、各室ごとに区分けして展示。

1977年3月14日—3月23日
216人216点 賛助者:たにあらた、峯村敏明、乾由明、高橋亨、藤枝晃雄、中原佑介

1979年3月8日—3月18日
157人157点(グループ4を含む)賛助者:安黒正流、池田弘、藤慶之、山村悟

1980年3月6日—3月16日
136人136点(グループ3を含む) 賛助者:高橋亨、中原佑介

1981年3月5日—15日
110人(グループ4を含む)賛助者:島田康寛、建畠晢、中島徳博、下山肇

1982年3月4日—3月14日
142人(グループ8を含む)賛助者:愛宕出、下山肇、千葉成夫、山脇一夫

1983年3月3日—13日
151人(グループ6含む)賛助者:熊田司、下山肇、福永重樹、萬木康博

1984年3月1日—3月11日
154人(グループ13を含む)賛助者:井上英司、塩野栄、下山肇、田原由紀夫、津田潤一郎、吉村良夫

以降 91年まで毎年開催
 

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