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avant-garde art 前衛美術集団

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青年作陶家集団

■青年作陶家集団
中島清を中心に、伊藤奎、大森淳一、叶哲夫、斉藤三郎、田中一郎、松井美介、山本茂兵衛、八木一夫、山田光らが陶芸が引きずってきている古い体制・体質からの脱却をはかるのを目的に結成したものであるとされるが、「日展系の作家3名の推薦がないと参加できなかった」(林康夫談)中島清は以降も多くの若手陶芸家を前衛へと導く存在である。(マグマの項参照)

早晨の鳥
走泥社の母体は昭和22年2月、京都に生まれた「青年作陶家集団」である。それは京都陶芸界における戦後はじめての新グループの結成だったばかりでなく、おそらく全国での戦後派陶芸グループの第一声だったに違いない。けれどもメンバーの大半は、青年というより少年に近く、その呱々の声は格別だれを驚かすわけでもなかった。驚いたのは、こんどその発足趣意書を見た、私くらいのものであろう。それは米もなく、炭もなく、紙もなかった飢餓時代を思い出させる。紙が粗末なのではない。昭和16年に開かれたある陶芸展の案内状が、何かのはずみで残っていたのを利用し、その裏に趣意書とメンバー10人の名前を、謄写版刷りにしているのだ。リーダーは中島清であった。京焼の世界が企業合同や徴用で騒然として来たころ、満州国の自給自足のため陶器作りの話が来た。京都の陶芸界で下積みの苦労もなめた中島は、これに応じて渡満したが、ようやく北満に窯を築いたところで敗戦。その夢も野心も京都まで持ち帰って、それをまだ古いものに染まぬ若い世代に託したのである。青年作陶家集団の第1回展は22年5月、河原町三条の朝日ビル画廊で開かれた。それは若手のお披露目展というに止まり、何の変わったところもなかった。同年10月同じ画廊での第2回展も同様である。何しろ戦前から作陶の経験のあったのは中島のほか斎藤三郎、八木一夫の3人だけだったのである。趣意書では戦前派の観念的視野の打破を叫んでみても、彼ら自身の「新しいモラルによる新しい時代」も、すこぶる観念的なもので、作陶の上にはっきりした具体的な目標があったわけでもないから、それも当然のことだろう。中島だけは、戦時中に文展(日展)特選の経歴ある作家だったが、作品は別に新時代を示さなかった。のちの走泥社のリーダーであり異端派の代表選手となった八木一夫にしても、第1回の「掻落向日葵図壷」は、至極まじめで入念の作、第2回の「春の海」の方は壷に尾鰭をつけた、フグの置物で、一寸した謀叛気は見えるが可愛いものだ。つまりこの集団は、戦前にも時々つくられたような単なる若手の会の域を出なかった。「モラルとリアル」という合言葉を楽しむ稚い集まりだった。しかしその間、京都ではもっと確かな、重量感のある新団体が生まれていた。富本憲吉の主催する新匠工芸会で、同じ22年結成され、23年6月には第1回展を開いた。陶磁の富本の片腕には、染色の稲垣稔次郎があり、ちゃんとした公募展で大人の会だった。また22年11月には、宇野三吾をリーダーとする陶芸グループ四耕会が生まれ、翌年3月、やはり朝日ビル画廊で、第1回展を開いた。宇野は戦前すでに前衛陶芸家として知られ、従って四耕会ははじめから前衛をめざし、青年作陶家集団とは違い、正に異端のグループだった。
一方、工芸作家の大部分をひきつけている文展(元帝展)は日展と名を改め、早くも21年に第1回、22年春に第2回、同年秋に第3回を開いた。新匠会、四耕会は元来在野展たるべきものだったが、青年作陶家集団は、そんな問題についてまだ確たる意識はなかった。そのグループからは、第1回に山田光が、第2回に八木が、第3回に八木、山田、鈴木治の3人がそろって日展に入選していた。ところが、23年、京都側工芸作家の日展不出品という意外な問題が起こった。詳しいいきさつは省くが、東京へのいろんな不満が爆発したのだ。これにからんで様々な画策や取引が入り乱れ、京都の工芸界はてんやわんやの騒ぎ。日頃は無頓着な作家たちも急にめざめて?議論をはじめ、それぞれが態度の決定を迫られる始末となった。この嵐に遭って青年作陶家集団は、もろくも瓦解してしまった。面白いことに日展入選者の八木、山田、鈴木の3人が日展不参加説で、それに松井美介、叶哲夫が加わった5人は、23年6月、京都市美術館の事務所(本館は米軍が接収)で第3回展を開いている。参加派は別に新グループを作り、日展をめざした。(この方には入選者はなかった)おかしなことは、リーダーの中島は、このとき打倒日展に奔走、集団という家を忘れて出歩き過ぎ、宙に浮いたというか、おいてきぼりの形になったのである。八木たち5人は、7月になると「走泥社」という新しい名乗りをあげた。こんどの挨拶状は紙質こそ悪いが、廃物利用でない私製はがきであった。文章は八木一夫である。

走泥社の新発足について
戦後の美術界は、自己の混乱から脱出するために、結社と云う便法を必要としたが、漸く今日、その暫定的役割は終了したかに見える。虚構の森を蹴翔つ早晨の鳥は、も早、真実の泉にしか自己の相貌を見出さぬであろう。我々の結合帯は”夢みる温床”ではなく、まさに白日の下の生活それ自体なのだ。青年作陶家集団を解散して、新たに走泥社を結成した我々の意図も此処に在るのであり、先輩各位の、旧を倍しての御叱咤御鞭撻あらむことを希求してやまない。右葉書を以って、御挨拶に代えます。昭和23年7月 走泥社同人
同人として前記5人の名が並んでいる。宣言文というものは多分に観念的になり勝ちだが、それを後にする陶才に劣らぬ文才を発揮してくる八木一流の表現で飾ってあった。虚構の森云々の一節などそれであるが、その中にまた策略も計算もない、ただ一途の若さと、不出品騒動の中で彼らなりに得た決意とを感じさせるものがある。・・・ ―『走泥社の20年』村松寛 より抜粋、掲載誌『日本美術工芸』350号 昭和42年11月1日、『走泥社50年のあゆみ』平成11年4月30日 発行:走泥社

○結成趣意書
新しい主義が叫ばれ、その建設のために人々は働き、努力して、勉めている。時代の転換期に当たって目標を失った古いモラルには、最早私達青年は背を向けた。新しいモラルの動くところ新しい時代が生まれ、新しい真の文化が育つ。この時代の若い青年作家として、いま私達は嘗ての陶芸家と謂ふ人達の限られた観念的視野からもっと視野を拡げて、内外の社会の動向に注目し、より深い社会的認識を基礎としての発足を促したいと惟ふのである。

○メンバー:中島清、伊藤奎、大森淳一、叶哲夫、斉藤三郎、田中一郎、松井美介、山本茂兵衛、八木一夫、山田光、1946年11月から鈴木治が参加

1946年9月 伊藤奎、大森淳一、叶哲夫、斉藤三郎、田中一郎、松井美介、山本茂兵衛、八木一夫、山田光、中島清で共に「青年作陶家集団」結成 (呼びかけ人)中島清
1946年11月 鈴木治参加(鈴木の兄の友人である八木一夫の仲介で)
1947年2月 青年作陶家集団趣意書を連名で発表
1947年5月 第1回青年作陶家集団展(京都・朝日画廊)
1947年10月 第2回青年作陶家集団展(京都・朝日画廊)
1948年6月3(5?)~10日 第3回青年作陶家集団展(京都美術館事務所)
青年作陶家集団は日展不出品問題から分裂、解散。
鈴木治、八木一夫、山田光、松井美介と新加入の叶哲夫の5名のみとなる。同展をもって解散。
7月下旬 叶哲夫、鈴木治、松井美介、八木一夫、山田光で走泥社結成

 

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