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稲木秀臣インタヴュー

稲木秀臣インタヴュー 2007年4月23日

1955年以前~
美術は中学の頃からやっていました。
高校時代から行動美術に出すようになりました。
行動美術研究所は高校に入ってすぐからで、3年のときに入選しました。そういう関係でいろんな人たちとつながりました。行動美術研究所に行って若い連中とつきあうようになりました。そのころの行動には、京都教育大学でも先生をしていた伊谷賢蔵先生がおられました。高校を出るときに、伊谷先生に「稲木君どこ行く?うちこい。」って誘われまして、大学は京都教育大学の特殊美術に入りました。 僕は暴れん坊でしたから中でいろいろやりました。いろんな連中とつきあって。「キサラギ」という喫茶店でいつもアートの問題と将来の問題を考えていました。四条河原町二筋目を東に行った所です。キサラギには文学関係や革命家などいつもいろいろな人が来ていました。文学関係では土肥美夫さんがいつも来ていました。文学グループ…現代文芸かな?同人誌なんかを出していて、それのカットを僕が描いたりしてました。表紙は流政之だったかな。重森弘淹なんかも知っていました。走泥社や八木一夫なんかとも知り合って。そんなころ藤井大丸で前衛作家集団展という、すごい展覧会をやりました。そのときはもう吉仲太三さんは東京に行っていたので出品していませんが。そのときの記念碑的な作品が、八木一夫のザムザです。一緒に出していました。僕は油絵を出しました。重森弘淹は小説家だったけれども散文を書いていて、僕がそれのカットを描きました。
 1950年代後半になりますが、前衛芸術共闘グループというのも組織したことがあります。これもキサラギに集まっていた美術家、陶芸家、評論家のあつまりで、美術はどうあるべきかとかをやっていたんです。当時は、勉強もすごくしました。詩人などと話をするときは、ちゃんと詩を読んでいないと話になりませんから、詩も読みました。その時分はフランスのカフカが流行ってました。メタモルフォーゼなど。それらもきちんと読んでいないと話にならないから、本屋に行って買ってきて、必死になって読んで議論に入りました。バウハウスなんかもそのときに勉強しました。それがいまとても役にたってます。 あの頃は、瀬木さんもがんばっていました。カセットデッキ片手に一番がんばってました。瀬木さんは京都にも一番よく来ていました。みんなで瀬木の話聞きたい、瀬木と話がしたいということで、走泥社のメンバーなんかをバーっと集めて、寺町のお寺で、お茶しかでないですけれど、それで瀬木の話を聴くわけです。30人くらい集まって、みんなから少しずつお金をとって瀬木に渡すんだけれども、これがまさに寺銭だなんて言っていました。本当に彼はよく京都に来ていました。

1955年第1回アンデパンダン~1956グループ連合
京展というのが今でもあるけれど、当時の僕も出していて入選もしたのですが、なんかつまらなかったのです。そのころ京都市美術館には重(しげ)美術館長がおられて、彼に僕はとてもかわいがられていて、芸術論をやっていたりしてて・・それでアンデパンダンをやったという感じです。
 京都のアンデパンダンは青美、市村司が中心になってはじめたわけですが、市村にとってのアンデパンダンは自己が経験してきた戦争体験と切り離せないものがあったようだけれども、僕にとってのアンデパンダンは、当時から美術の運動として捉えられるものでした。京展は日展の小型版みたいなもので、そういうものではなく、もっと運動体として…運動としての美術というものが当然あるべきだという発想がありました。
 僕らは読売アンデパンダンにも出しています。ただ読売にしろ日本アンデパンダンにしろ、新聞社なり共産党なりの大組織がバックにあって、作家はそういうお膳立てのうえに作品を出すだけの話だけれど、京都のアンパンは組織から何からすべて作家主体の展覧会でした。それが基本でした。そういうアンデパンダンってほとんど無いでょう。最初の京都のアンデパンダンのときは自分たちが主体でしたから、「この壁は僕たちの壁だよ!」ってみんなで言ったことなんかありました。壁を触りながら。お膳立てじゃなくって、自分たちでつくった壁なんだからって。
 当時はとにかくいろいろなところでアンデパンダンをしよう!って盛り上がってきていました。それで京都市美術館に場所の提供をお願いして実現したというわけです。
 僕も市村も基本的には反体制の人間だし、もっと言えば、芸術家は反体制でないといけないと今でも思ってます。あの頃市村とは考え方もやることも、ぴたっとあってました。55年のアンデパンダンのあとに脱退した目撃者のメンバーは、僕と同級生くらいです。確か、行動に残って団体に出していきたいとか、そういう感じだったように思います。そういう意味で、考え方が、少しずつ変わったのかなあって思います。中原佑介も昔と今で考え方が違う。中原さんはあのころは京大の湯川教室にいました。美術評論で1等をとって、評論家になって。あの頃、一緒に飲んでいるとき、彼は僕に「稲木君、油絵具で使われているカドミウムって高いだろう。なぜ高いか知っているか?カドミウムは原爆の成分が入っているから高いんだ。芸術家はそういう意識を持って絵を描かないと駄目だ」と言っていましたよ。忘れられません。
 中原さんは青美にはあまり来ていません。中原さんは瀬木慎一さんに紹介されました。その頃、大阪の「極」というグループに片山昭弘がいて、僕は彼と親しかったので、それで極の人たちにアンデパンダンに出品してもらったし、リアリズム集団にも出してもらったりしました。そんなときのグループ連合展は、中原さんがは仕切ってました。中村義一さんが中心になって。グループ連合展は、関西のメンバーで、そういうひとつの運動体をつくろうという話になったときに、中原さんと中村さんが中心になって動いてくれたんです。それで組織して続きました。
 また、当時僕らは労音ともつながっていて、労音にも文章を書いてました。僕は労音のチャイコフスキーの夕べの冊子の表紙なんかも描きました。労音とは労働者音楽協議会の略です。要するに労働者を中心とした音楽鑑賞の会とでもいうのかな。戦後できた団体です。労映とか労音とか当時はあったんですよ。労働者を中心にして、労働者が安く音楽を聴けるような…クラシックとかポップスとか。全国組織です。そういう組織と青美をつなげようって市村司と話したりしてました。青美もブルジョワの世界じゃなく労働者の世界ですから。市村の考え方、労働者と一般、プロレタリアが大事にするアートが大事だからって言って。ですから当然、労音とのつながりがほしかったわけです。

1957年にアンデパンダンが京都市のものになる。
1957年にアンデパンダンが京都市の主催となったのには、重さんと僕が話したということがあります。重館長が「バックアップする」と言ってくれたので…しかし、ずいぶんともめました。京都市が主催するアンデパンダンにしたい、ということだったんです。そのときの実行委員(運営委員)が僕と下村良之助さんとあと5~6人。重さんは積極的に乗ってくれて、お金も出してくれて。あのときの1957年の京都市主催の第一回目のアンデパンダンのポスターは僕が作りました。グリーンで、アンデパンダンと白抜きで、横書きに描きました。ポスターは小型だったと思います。僕がデザインしました。第一回目。それをいろんなところに貼りました。もちろん京都市が全部刷ってくれました。デザイン料ももらったかしらないけれども、京都市は、待ってました!といった感じで協力してくれました。
 それで京都市の主催によるアンデパンダンが1957年に始まりました。そのとき京都市にお金があったのかもしれません。重さんが「賞金をだす」と言っていて。アンデパンダンなのに審査して賞金を出す。それは狂っているけれども、でも、せっかくお金があるのなら賞金なんかではなく、東京から誰かを呼ぼうということになって…。それで中原佑介や瀬木慎一とかを呼びました。そのお金で呼んだわけです。本来賞金であったお金で評論家を呼んだのです。京都市が何十万かをだすわけだから…。ちなみにその前のアンデパンダンには河原温や池田龍雄、芥川沙織とか、彼らとは親しかったので出品してもらってました。京都から東京に行った吉仲太造さんが(1952年に東京に移っている)、僕を呼んでくれて、大学のときに僕が銀座で個展をしているときに、彼らを紹介してくれて、それでつながりがありました。吉仲さんを通して知り合って、彼らは見にきてくれて、それで京都でアンパンをやるといったら応援してくれたのです。
 そのころ京都の評論家の井島勉さんが京都教育大学で教えていました。僕も授業を受けていました。授業が終わってからいつも井島さんと飲むんです。アンデパンダンについても、僕は伊谷先生に話していて、井島先生もまた応援してくれました。京都新聞の一面に、アンデパンダンについて書いてくれました。そのころの京都新聞はのちに京都市美術館の学芸員となる藤田猛さんがよくやってくれました。彼は党員でしたし。
 55年の一番最初のアンデパンダンは行動美術の作家が中心になってやりました。56年の2回目は青美とか極とかいろいろなグループが入ってきてグループ展のような形になって、そして57年に京都市主催になりました。何度もお話したように、重さんと僕が親しくて話をしているうちにそういう風になってきたわけです。今思うと、京都市はすごいですね。市が主催でアンパンやるなんて考えられません。

京都から東京へ
東京と京都をつなげる元祖は吉仲さんです。
 当時、グループ連合などでお世話になっていた評論家の中村義一さんは、僕の母校の京都教育大学の先生もやっていました。僕は教育大学に在学中にアンデパンダンをやってものですから、ものすごくいそがしく動き回っていました。教育大学ですから、教育免許をとるわけですが、僕は先生なんてやりたくない、っていうような気持ちがあったで、それなら学校は必要かなあ、なんてことを考えるようになって、結局はアートをやっていくなら学歴は不要だという考えに落ち着いて、4年生のときに退学届を出して大学を辞めてしまいました。ですから僕は大学中退です。4年生の最後まで行ったんですけれどもね。卒業したくないっていって…それで東京に来たのです。
 東京にきたのは…京都にいることの意味はあったかもしれないけれど、むしろ東京のほうが活動できると思ったんです。京都で沈んでしまうよりこっちで揉まれたほうがいいと思って、自分の意思で東京に来ました。家族の引越しがあったからだとか、親戚がいたからだとかそういう身上的なことはまるっきりありません。ただ、友人は東京にすでにいました。それで当時、大蔵省の組合の書記長をしていた友人…というか先輩にお世話になることになりました。「稲木君、僕は何もできないけれども住むところだけはまかせろ」って言ってくれましてね。
 最初に住めと言われたところは元フランス大使館です。次にフィリピン大使館になってます。そこに2ヶ月いました。帰ると守衛さんがいて、ドアを開けてくれました。けれども2ヶ月たったらフィリピン大使館になるから出ないといけないわけです。それで出まして、次には駒込林町という文京区のお屋敷町に住むことになりました。高村光太郎なんかの屋敷が近所にあって。そのあたりの、なんと、久米男爵の別邸に住むことになりました。すごい塀があってびっくりしました。広かったです。大蔵省が近いからということで、食券ももらって、いつも3食とも大蔵省か文部省で食事をしました。そこに3年住みました。ある日、窓をあけて下をみたら、黒い乗用車がいっぱい留まっていてびっくりしたことがあります。隣の表札には大平正芳って書いてあって、のちの大平総理大臣の家でした。すごい経験です。そこをアトリエにして絵を描いて、サトウ画廊で発表したりしていました。食っていかないといけないということで、友達で高森君という絵を描いている人がいて、彼が声をかけてくれて、横浜にデザイン室をつくり、そこで多摩美や女子美を出た人を7~8人やとって、デザインは全部彼らに描かせていたんだけど、それらのデザインを高森君が全部買ってくれまして、そこに6~7年いました。でもそんなことをしているのもよくないって思って閉鎖しました。それいらい僕はずっと横浜に住んでいます。

アルファ、アートクラブ、サトウ画廊の思い出~京都と東京の間で
東京に来たことがひとつのきっかけになって、集団アルファを結成したり、アートクラブに京都のメンバーをひっぱって、京都と東京をつなげたような形にもなってます。アルファは、中原佑介さんなんかが応援してくれて、いつも中原さんや滝口修造さんらが案内状に文章を書いてくれてました。集団アルファのアルファはアルファベータのアルファであって、大して意味があるわけではありません。何回か展覧会をしていますが、風月でやったときは、アルファのメンバーが交代でプロデューサーになってテーマを決めてやりました。テーマにそってアルファがものをつくるわけです。ちなみに風月はただで貸してくれました。風月は有名で、べ兵連の連中とかそういう連中があつまっていました。風月では、たとえば僕が展覧会をすると、コーヒー券を30~50枚もらえるんです。お金がもらえないから、人に見に来てもらってコーヒー券で彼らにコーヒーを飲ませて…。あそこは芸術家が集まっていました。
 アートクラブは別に僕が京都の作家に声をかけてというわけではないけれども…。アートクラブは、美術団体に入っている人も入っていない人も、それから評論家なんかも入って、新しい運動体として結成しました。日本の代表は岡本太郎ですね。アートクラブの会員っていうのは権威があったから、団体展の会員もすごい人が集まっていたし、もちろん瀬木さんも入っていました。丹下健三なかの建築家も入っていて…。世界組織でしたからね。会長はピカソかな?キリコなんかも入っていて、その展覧会もよくやりました。村松画廊で連鎖展もやりました。僕も会員で、京都では青美の市村司も会員。彼は僕が推薦しました。
 サトウ画廊は、集団アルファで一緒の馬場彬がマネージャーをしていましたので、僕は可愛がられていました。僕は吉仲にも可愛がられていました。サトウ画廊は昔は、軋むような画廊でしたけれども、活躍した作家はみんなサトウ画廊出身ですし、評論家もいつもそこに行っていました。サトウ画廊出身者はがんばっているわけです。馬場が中心になって動いて月報も出していて、評論家が文章を書いて。僕も何かかいた覚えがあります。
 アルファに馬場さんがいて、サトウ画廊があって…それで京都の作家たちもサトウ画廊で展覧会をやったのかもしれません。サトウ画廊がいい画廊だというのはみんなが知っていることだし、そこではいろいろな人を紹介することもできますから。それで青美の市村や竹中を呼べました。サトウ画廊でやるから見に来てくれと、東京のお客を呼ぶこともできました。岡本太郎さんもいつも見に来てくれていました。こういう作家だから見に来てあげて、って。それでいろんな人が見に来てくれました。
 私は当時もうすでに行動美術をやめていましたし、それと同時に団体というものに入ることをやめていました。それがたまたま岡本太郎とつながって…当時岡本太郎は二科に9室会を作ってました。外国の作家なんかを呼んだり、日本からもいい作家を呼んで、それらの作品を二科の第9室に集めるんです。それで、稲木も出せということで、僕も出しました。つまり団体展に…二科に出したというわけです。出品といっても招待ではなく、出品者としてです。出品料も出しました。ふつうの審査と違って、作品は太郎さんのアトリエに送っていて、そこで審査をしてました。しかしそれが東郷青児の力で、その前衛部屋が飛ばされて…。それをきっかけにして、吉仲さんもみんな出て行ってやめました。それ以後僕も団体展とはばっさりと縁を切りました。太郎さんと知り合ったのは、もちろん吉仲さんと瀬木さんの紹介です。太郎さんは京都に来たときはいつもみんなで一緒に飲んだりしていました。いつも敏子さんがそばにいました。みんな活発でした。
 けれどもやっぱり東京のほうが面白い。京都はやっぱり閉鎖的で、こちらのほうががちゃがちゃして面白いです。けれどもそれは京都時代がしっかりと僕の身になっているから。すなわち京都の遺産です。

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