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小名木陽一インタヴュー

小名木陽一インタヴュー(2006年12月25日)

小名木:「目撃者」の第1回目の展覧会のテーマは「奇病」です。このときはまだ水俣病が世に知られていませんでした。でも、そういう病気が水俣のあたりに発生しているらしいというのが、報道にあったんですよね。それで「奇病」というテーマをつけました。このあと、熊本大学医学部が取り組んで、日本窒素と病気との因果関係を実証していくわけですが、もちろん窒素の工場も、厚生省も当時は否定していましたし、ですから水俣病が確定するのはまだまだ数年先の話です。この第1回展ですが、やはりテーマのこともあり、かなり注目されました。展覧会を開いたのは京都府ギャラリーです。あそこにいた府庁のおじさんがぐじゃぐじゃ言って、なかなか画廊を貸してくれなかったのを覚えています。
 京都にはそのころ美術を発表できる画廊は3つしかありませんでした。京都府ギャラリーと丸善と朝日画廊。あとは日本画を売っているような画廊だけでしたね。

坂上:(青美の議事録を見ながら…)この議事録、青美からお借りしてきているものです。1955年3月に京都市美術館ではじめてのアンデパンダン展が青美の主催で開催されており、その反省の話し合いのころから議事録が書かれているようです。1955年5月28日土曜日から議事録が書かれはじめていますね。ちらほら小名木さんのお名前も出てきています。6月になるとアンデパンダンの反省を踏まえてこれからの青美のあり方や青美の枠組みを考える話し合いになってきています。7月6日には「青美会員である以上個人で展覧会及びその他の団体に出品しないこと。もし出品する場合はその期間中脱退、但し加入・脱退は個人の自由 などなど…」それ以降週に何度も集まっては話し合いが続けられているようですね。その上で、8月6日にはついに…
「青美解散問題 精神的統一を計り青美の性格を明確にするために、規約改正案(朗読)多数決により可決。既成画壇に対する批判及び出品の如何。地方展にとどまらず将来は東京展進出。」
「青美解散問題について 上記及びその他の討議により青美性格の志を同じくする人々以外は自分の意思に従って脱退をみた。脱退者 青木、小名木、大熊、森、藤波、矢野 年に1回行われるアンデパンダン展は各方面の良識ある作家によって出品することが出来る。だから脱退者においても自由に出品することが出来る。」
 つまりは「脱退をみた」と書いてある。脱退するということについて、殴り合いのけんかがあったとか(笑)そういったことは一切ここには書いていません。こういうことがあって、脱退をみたが、志は一緒だからアンパンはともにやっていくというようなことが書いてある。けれども分裂までのいきさつはほとんど書いてないんですよね。
 小名木さんたちが青美を脱退した理由というのは、ほかの展覧会に出してはいけないとか、個展をしてはいけない等といったことに反対し青美を脱退して「目撃者」をつくったということですが、それは、作家としての個人の方が、グループでやっていくという考え方よりも勝っていたからですか?

小名木:うん。うーん。これこれ。6月22日。絵画における説得性…。ここに説得性の不足ってありますよね。文字による説得性…。実は僕は1955年3月のアンデパンダンに出した絵の中に字を書いたんです。3×6のベニヤを横に三点ならべた作品。壁面を一つ占領してね。その画面に殴り書きで字を書いたんです。画面と直接関係があるような、ないようなメッセージ…というか詩のようなものを。内容は忘れてしまったけれどね。それが問題になりましてね!アンデパンダン会場の美術館の中で。この文字はどういうことなのか?って。そのときの話がまだなお尾をひいていて、この6月22日の青美の研究会でも問題になったわけです。

坂上:そもそも青美というグループは行動美術の若手グループといえるくらいほとんどのメンバーが行動の人です。それがなぜ行動美術から出たのですか?

小名木:当時、行動美術研究所っていうものが丸太町川端下ルにありました。和風書院という図書館のような建物がありまして、その奥が行動美術研究所でした。もう今は面影ないですね。あのころはあのあたり疏水でした。川端通は柳が生えていて細い道でね、道も整備されてなくて、まだ土の道でね。そこに疏水の方に向いて…つまり西向きに和風書院がたっていて、それが東にずっと続いていました。表側は図書館なんだけど、南側の路地から回って玄関を入ったところがホールになっていて、その奥がアトリエで、ちょうど小学校の教室よりやや小さめくらいの大きさでね、大きな台があって、そこにモデルさんを立たせてデッサンやったりクロッキーやったりしていました。そこの面倒をみていたのが、当時の行動美術の会友であった保地謹也さん。僕らが出入りしている時分から保地さんに対して、ほかの会員たちからちょっと苦情のようなものが出てきていたようでして…それは保地さんが研究所を私物化しているというような内容でした。その苦情を言っている急先鋒たちが研究所を出て行ったんです。それが青美です。ですから、青美のメンバーには行動美術の会員会友はおりません。研究所ですからいわば一般出品者たちが研究所にたむろしていました。学生からおっさんまで(笑)!にぎやかっていうかすごい熱気でした。研究所では、研究会というか、クロッキーがいつもそこで開催されてました。その休憩の合間に、みんなわーわーしゃべってるんです。

坂上:「俺たち、どうするんだよ?こんなところ面白くないぜ!」とか???

小名木:そうそう、それで誘われたわけ。皆よそであつまっているからこないか?とかね。
 僕は、実は行動展には一回しか入選していません。京都学芸大の3回生のときに1回だけ入選しただけなのです。研究所には、同志社の4回生のときから行っていました。僕は同志社を卒業してから学芸大の3回生に編入していますから。行動にはどういうきっかけがあっていったのかはもう覚えていないんですけどね…。

坂上:私物化って具体的にはどういうことなんでしょうか?

小名木:美術研究所だから、要はお金を集めているわけですよ。僕らも研究生だから授業料を払っていました。そのお金で研究所を運営していくわけ。家賃払って電気光熱払って。会計上の不明瞭があったのかなあ。私物化しているというとそういうのを考えてしまうけれども。あそこの研究所は、そういうクロッキーなどのほかにもゲストを呼んでレクチャーなんかもしていました。僕が覚えているのは、当時国画会にいた小牧源太郎。あの方がいらして「偏執狂的批判方法」について話をしてくださったのを覚えています。つまりシュールレアリズムね。日本における戦前のシュールレアリスト。小牧源太郎がその話をしてくれました。実技以外にも勉強会があったというわけ。保地さんが私物化しているというのは、つまり、あそこは行動美術研究所って名乗っているけれども、保地さんの塾みたいになっていたっていうことがあったんじゃないですかね。
 あのころ研究所には3つのグループがあって、僕らは「ミュウ」ギリシャ文字の12番目のM。ミュウっていうのは学生、高校生もいたなあ…それから主婦のひと、女の人が多かった…つまり日曜のグループです。それから「レジエ」というグループがあって、夜の研究会でした。僕もたまに出ていましたよ。夜行くとおっさんばっかりでね、橋本幸志や早川(昌)さんなんかもいました。うるさい連中がたくさんこの時間に来ていました。けれども、そこに、会員さんがきていた記憶はやっぱりないですね。煙草の煙で部屋の中がモーモーでね。僕は学生でしたけれど、すごいなあ…って思いましたね。そこには美大の学生はあまりいませんでした。
 そうだ!青木義照、彼がたぶん、僕を行動に誘ってくれたのかもしれない。僕の実家は深草なんですけれども、彼は深草の郵便局に勤めていました。彼はちょっと変わった男でね、僕もよく遊びに行ったりしていた。「自分、今日は当直なので夜、遊びに来てくれ…」なんて言ってね。それで僕を行動美術に誘ってくれたようで。それまでは独りで、たまねぎを描いたり、靴を描いたりしていただけです。研究所に行ってはじめてきちんとデッサンと油絵を始めたのです。そうこうするうちに、「京都学芸大学の特修美術3回生編入の募集」情報がはいってきました。当時の学芸大学は行動の伊谷(賢蔵)さんが教授、斎藤真成さんが助教授でしてね。だから多分研究所のなかで編入の話がでてきていたんでしょうね。そこで本格的に受験のデッサンをはじめました。そして学芸大の3回生に編入して、その年に行動に出して入選している、というわけ。行動展本展のまえに全関西展というのがありましてね、行動の本展が9月に上野、関西展はその前の5月に市の美術館であったので、それにもだしました。僕は1953年に同志社4回生、54年が学芸大3回生、55年が学芸大4回生。ですから53年の時点で研究所に入って、その時分に研究所がおかしなことになっていたようで、54年に正式に青美が宣言をして、55年僕が学芸大4回のときにアンデパンダンができて、その第1回に僕は文字がはいった作品をだして物議をかもして青美を脱退して目撃者を結成したというわけです。青美の研究会には中原佑介、中村義一、そして墨美の森田子龍もきていた記憶があります。もちろん京都新聞の藤田さんもね。

坂上:小名木さんは、アンデパンダンの前の年の1954年に行動で入選しているとはいえ、はじめて出したアンデパンダンでは実質的には新人ですね。そんなときに自分の作品が槍玉にあがったというか、ものすごい討論の中心になっていって、わーわー言われたわけで。それでなんとはなしに、ここ(青美)は自分のいるところではないのでは?・・という気持ちがでてきたんですかね。

小名木:それとね、われわれ学生でしょ。ところがほかの青美のメンバーというのは、ほとんどが職業人なわけです。そして饒舌。とくに市村司さんはしゃべりまくってね!論理的なのか、一貫性があるのかないのか、とにかくしゃべりだしたらとまらない。支離滅裂のときもあるしね。僕らとはどうも話が合わないっていうか…。まあ肌合いの違いというのがあったんでしょうね。

坂上:例えばその肌合いの違いの中に戦争経験のあるなしなんかは?市村さんのお話を伺うと、彼は、徴兵、関東軍、シベリアと9年間もの歳月を国家に翻弄された経験を原動力にアンデパンダンを立ち上げていくわけですけれども…。

小名木:戦争の経験は市村さんくらいだったと思います。大門(清次)、竹中(正次)は同世代。年上は市村さんだけでした。そのころは大門も竹中もすごい絵を描いてました。絵の具をぐわーっと使ってね。市村さんの絵もすごかったです。それと大阪の津高和一なんかすごかったですね。僕はそれとね、伊藤久三郎さんの画面が好きでね。等持院のご自宅に青木と二人で伺ったことがあります。物静かな人でした。青美には何故か石原薫もいましてね。彼は新制作、河村一夫はモダンアート。けれど、それがよい悪いという問題は当時は出なかったのかなあ…。公募展に出す出さないの話ですが、行動もそうだし新制作もモダンアートにもね、すべての団体に出す出さないを議論していたと思います。
 「青美会員である以上個人で展覧会及びその他の団体に出品しないこと。もし出品する場合はその期間中脱退、但し加入・脱退は個人の自由…」
 こういうこと、確かにちょっとおかしいんですよね。青美はこういう縛りをかけたから、出て行ったわけで、その最初に出たのが僕たちだったということです。

坂上:正式に「青美」(京都青年美術家集団)を脱退するということになったのは1955年8月で、その2ヶ月後の10月にはもう京都府ギャラリーで展覧会をしていますね。なんで「目撃者」という名前をつけたんですか?

小名木:当時東京に「実在者」というグループがありました。河原温、靉嘔、池田満寿夫、真鍋博なんか4~5人でね、結構それが華々しかったんです。河原温の浴室シリーズ、あれ、よかったですね。そういう「実在者」に対抗的なものを僕らもできないか!となって、それはネーミングの話なんですけれども。それで多分僕の発案で、「目撃者」となったのです。フランスに「Homme temoin(eにアクサンテツギュを入れて下さい)」オムテモアンというグループがいてね、ロルジュ、ミノーなど5〜6人のグループです。これを訳すと目撃者となるんです。これで行こう!ってなりました。

坂上:フランスにこういうグループがあるという情報はどこから得るわけですか?

小名木:美術雑誌からですよ。(注:美術批評)「オムテモアン」にはビュッフェも確かにいました。ああいうタイプの戦後の暗い絵が多かったけれど、なかなかすごいグループでね、このグループも短命です。そんなに長くやっていない。

坂上:「目撃者」を結成したのは、青美を脱退してからですか?またマニフェストなんかは作りましたか?

小名木:脱退した後です。僕と青木は同い年で、大熊(峻)は同級生で、矢野(喜久男)、藤波(晃)は大学の一年後輩、森清がなぜ来たのかはわからないですね(笑)。石原薫も一緒についてきました、新制作なのに。でもあの当時、石原はすでに新人として認められつつありました。「目撃者」の展覧会は計4回しましたが、各回とも横長のリーフレットをつくりました。マニフェストというよりテーマに関する文章は、矢野が書いたと思います。一人1ページずつに名前と作品タイトル、大きさ、それにそれぞれがコメントを載せていました。そんな簡単なものです。

坂上:その頃の作品は残されていますか?

小名木:新聞に載せてくれた写真しか残っていないのです。第4回展「呪文」に出品した60号の作品です。あとは1955年ころのドローイングがいくつか。そのうちひとつは京都演劇研究所のポスター。そのころ京大には芝居グループに「地球座」と「創造座」の二つあって、一方は大島渚、もう一方は東良睦宏(戸浦六宏)が主宰してました。その東良が今の三条京阪の「だん王の家」に「京都演劇研究所」という劇団をつくっていました。僕はそこになぜ呼ばれたのかは覚えていないのですが、その当時、美術の学生はアルバイトで舞台装置というのがあって、多分藤波の代わりに僕が行ったのではないかと思います。「夜の来訪者」という戯曲の稽古場へ2~3ヶ月通いました。そしたら東良が僕に「役者にならないか?」というわけです。「僕は絵描きになろうと思っている」と答えたら、じゃあポスターを作ってくれということで僕が作ったわけですが、彼がボツにしちゃったので現在手元に残っている、というわけ。

坂上:このころのドローイングを見ていても、やはり詩のようなものが一緒に書かれていますね。この新聞記事。1953年(昭和28年)の京都新聞。「日共の印刷物を持つ大学生逮捕。7時40分ころ東福寺疎水端、20歳前後の学生が持っていたかばんの中から日共の指令書らしきものが…パンフレットを疎水に投げ込み格闘になり、同志社大学共産党キャップが逮捕…」とありますが、逮捕されたんですか?

小名木:同志社3回生のとき。そのとき1週間くらい留置されてその後起訴されました。裁判は4月に始まって、月1回、約1年続きました。その間に、僕は絵を描き始めたんです。就職できないじゃないですか、裁判中ですから。それで行動の研究所に行った。僕の場合、裁判と絵の勉強が重なっているんです。僕はこのとき国家権力に散々に痛めつけられましたから、大変でした。一審の判決が翌年6月で、そのときはもう学芸大に入っていました。僕の担当の弁護士さんのお宅へ月に一度の公判の前の日に打ち合わせに行かないといけないわけ…それが苦痛でね、怒られるわけですよ。「何を勉強しているんだ!法学部の学生だったらもっときちっと勉強してちゃんと反論しなきゃダメじゃないか!」って。僕は法律学科だったんです。だから余計。法律がイヤになったのかなぁ…。その弁護士さんの所になぜか画板もって画家が夜来るんです。それがなんと、伊谷先生でした。伊谷先生はその弁護士さん…能勢克男というんですけれども…伊谷先生は彼の肖像画を描いていたんです。今日は一時間やりましょうとかいって。そのときに能勢さんが「あの男は同志社の学生で、僕が担当してるんだけど、こんどお宅(京都学芸大学)に行きよる!」って!(笑)!伊谷先生は、すごく僕のことを気にかけてくれて…非常に変り種というか…今でこそ大学を2~3校行っている人は珍しくないけれども当時は珍しかったんです。4年制の大学を出てまた芸術系大学に行くというのが…。しかも執行猶予2年の間、学校で絵を描いていたんですから。

坂上:ところで「目撃者」はどうしてやめることになったのですか?

小名木:僕がやめようっていって、つぶしちゃったんです。あっという間。一年半もないですね。僕自身が絵を描くのがイヤになってしまったんです。なんか…急にばかばかしくなって…というと何ですが…。アートにもいろいろ種類があるけれども「びっくりアート」ってあるじゃないですか。世に出るために、人がやっていないことをやるっていうような、そういう種類のアートってあるでしょう、具体なんかもそうかもしれないね。

坂上:びっくり“アート”というよりもはやエンターテイメントといった感じのものですか?

小名木:特に京都大阪の現代美術ってそういう傾向がちょっとありますね。「目撃者」にしてもアンデパンダンにしても、こういうのはやっぱりちょっとちがうなあっていうのがありました。

坂上:絵をやっているのが馬鹿みたいに思えてくるっていうの、どこかわかるような気がします。けれどもこれで小名木さんの画家としての歳月が一度終わったわけですけれども、小名木さんの場合、のちに美術に戻ってくるというのが面白い。

小名木:絵をやめて、僕はサラリーマンをやるわけですよね。龍村美術織物で6年弱。そこで織物っていうものが面白いなあって思うようになってね、織物が再度美術をはじめるきっかけになりました。織物をはじめたのは1963年くらいかな。オリンピックの年くらいから本格的にやり始めました。

「目撃者」の性格
小名木:グループというのはどっちにしても本来は長続きしないものです。やっぱり作品というものは、発表も含めて個人のものでしょう。ですからグループというのは、若い時分は勉強が必要ですから、そういう必要性の中で出てきたものだと思います。いろんな団体でも、最初は何人かがグループをつくり、そのひとたちが会員になり、その下に会友や出品者が増えていく。人が集まると総括する人ができて補佐をする人ができて上下関係ができてきます。どうしてもそこに権威が生まれます。またその恩恵に預かろうとする人が集まってきます。けれども、それは美術とはあいいれないものでしょう。“組織の運営”と “創作”とはぜんぜん違うものです。ですから僕らも「目撃者」を1年3ヶ月で解消していますけれども。それは当然のことです。どのグループも長続きするものじゃないし、させるものでもないと。ある時期ある必然で集まって勉強して、そしてまた個に戻っていく、そういうものだと思います。

坂上:「目撃者」は4回しか展覧会していませんが、その各回に必ずテーマをつけています。そのテーマも「奇病」「喜劇」「過剰」「呪文」と、かなり衝撃的でかつ具体的だ。どこか暴力的なイメージを乗っけている気がしますが…

小名木:まず展覧会のテーマを決めるまでにけんけんがくがくの討論があります。その上で、今回はこれにしよう、と決まります。そして展覧会では、その決まったテーマにそった作品を並べるわけです。ところがだんだんテーマと絵の関係が希薄になってきました。展覧会が回を重ねるごとに、テーマというよりは、自分の仕事の延長を出してくるわけです。2~3回目くらいからそういう感じが強くなってきて、テーマと展覧会の内容がリンクしない。僕はそれが許せなかった。ですから「目撃者」が終わった理由としては、絵を描くことのばかばかしさがまず僕自身にあって、そして、テーマを掲げて絵を描くことの矛盾というものがあって。各自が持ってきた画面に対してそれぞれがどう責任をとるのか?そこまでつきつめていかないと展覧会にテーマを掲げていく必然性がなくなります。「目撃者」というのは「時代の証人」なわけです。社会に対して目撃したことを記録していこう!というのですから。

坂上:小名木さんはここできっぱりとひとつの線が区切られるわけですね。美術との線も一度ここで切れるわけですね…

小名木:でも「目撃者」っていい名前でしょう。「目で撃つ者」ですから、攻撃的で具体的。画面自体が目撃者じゃないと駄目なんです。毎回テーマでやっていこうって決めちゃったんだから、テーマなしでは目撃者展はできなかったということです。だから短命だったんです。

 

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