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宮永理吉インタヴュー

2006年11月8日 宮永東山(宮永理吉)インタヴュー

ゼロの会以前~1950年代後半
ゼロの会に関しては「非」10号11号の2冊を読めば大体のことはわかるのではないかと思います。「非」では、ゼロの会のメンバーであった津山昌さんと土肥美夫さんが特集されていて、他のメンバーがゼロの会の頃をそれぞれの視点で振り返って文章をよせています。私が美大の彫刻専攻(京都市立美術大学、現在の京都市立芸術大学)を卒業する1950年代後半は、まさか自分達が抽象作品を創り出すとは思いもしないような時代でした。教育は、木刻と習作からはじめていていましたし、入学して少ししてから当時教授であった堀内正和さんが針金をつかって勉強するからと言い出しびっくりしていた頃です。当時はイタリアの「直付け直彫り」が流行っていました。マリーノ、マンズーのような。「引き写し」というか、ミニチュアをつくってそれをもとに大きくしていくような作品の作り方ではなく、ある一定の大きさを最初から創るようなやり方が主流でした。私より年上の人たちはセメント彫刻の直付けが流行っていまして、それが全国的な流行りだったように思います。ひとまわり上の人たちとなると、反具象というか、ザッキンみたいな、ああいう作品を創っている人が多かったですね。私たちが作品を発表しはじめた時代、ようやく彫刻の抽象的な仕事が普通になってきたような気がします。
 ゼロの会ができた1959年当時、のちにメンバーとなる藤波さん、井上平八郎さん、私は行動美術に出品していました。当時公募展といえば、絵描きは独立、彫刻は行動、という意識がありましたから、まわりには独立と行動の作家が多かったです。行動は若い作家が多くトップも若く、リーダー的なひとは建畠覚造さん向井潤吉さんなどで年代も皆ひとまわり程度しか違いませんでした。そんな自由な気風の行動美術でしたが1969年「因襲的や!」いう理由で私は退会してしまうわけですけれども。公募団体ですから、ある程度の因習はありますが、けれども比較的しがらみのない会であったのが行動でした。

ゼロの会
ゼロの会は藤波さんが皆に声をかけてできた研究グループです。もともと展覧会をするために集まったグループではなく、最初は研究会が主体というか、皆で美術と社会について話合う勉強会を持とうというところから出発しました。研究会をしていくうちに、せっかく多くの作家が参加していることから展覧会も持とうということになり、研究会+展覧会というゼロの会の形態ができあがりました。 津山さんと藤波さんはゼロの会ができる前から関係がありました。最初は津山さんも土肥さんも面識がありませんでした。矢内原さんは個人的には知りませんでしたが、あのジャコメッティのモデルになったということは知っていました。そういう人物に対して私たちが当初憧れのような気持ちがあったような気はします。それで藤波さんの誘いにのった、ということもありますね。藤波さんにとってはもちろん矢内原さんは知り合いではなく、津山さんを通じての関係であったと思います。ですから、結成するまえの段階で、矢内原さんのお名前というのを皆それなりに意識はしていました。あのジャコメッティの矢内原さんとお話ができるかも、というような。実際、矢内原さんはオブザーバーとして会に参加しましたし、研究会にも何度かは出席されました。矢内原さんや津山さんは、サロン的な雰囲気がありました。地味でコツコツいくような感じでないんですね、サロンの雰囲気を身に付けている。そういうところを意識する感じが、他のメンバーになかったといえばうそになるし、あったと思います。土肥さんはサロンとはちょっと違った感じです。土肥さんと津山さんは親友だけれども、タイプは違う人でしたね。また土肥さんと関根さんは、ひとことで説明するなら「同人誌的なノリ」が感じられました。土肥さん関根さんは70年にボルの会を結成しますが、それに参加する林剛さんも同じようなノリでしたね。
 会の中では私が一番若く、上田弘明さん、関根勢之助さん、三宅五穂さんは、京都市立美術大学の前身である絵画専門学校(通称絵専)の出身で昔からの付き合いがあったようです。藤波さん以外は皆京都美大卒業生で(藤波は京都学芸大学出身)当時、国又宏さんは自由美術、三宅さんは二科、藤波さん井上さん私が行動、上田さんは院展、森本さんと関根さんが独立に参加していました。それぞれが違う会派に属していて、お互いのことはほぼ何も知りませんでした。最初の研究会に皆で集まったときにお互い始めて会うというような関係だったのです。そういう知らない者同士がテーマを考えて、皆で話をしていく社会性が、結成当時メンバーにとっては大切なことでした。
 ゼロの会の出発点、そこには何もありません。出発点の必然性がゼロ。それでゼロの会という名前がつきました。ゼロの会は「ゼロからの出発」と思われるかもしれませんがそういうことではなく「何もない、結成する必然性もない、志もない」のゼロがゼロの会のゼロです。何の必然性もないまま、私たちは毎月のように研究会を持ち続けました。研究会で出会った時に「じゃあ次はいついつに研究会を持ちましょう」といったかんじで別れ、またその日にあう、その繰り返しです。最初は、たとえば誰かが「この本のここのところを読んできて、それでどう思うか」というようなテーマを提案し話合いをする、いわゆる読書会のような趣の会でした。上田さんは会の中では唯一戦争体験のある人で、そういう人の社会的な話。土肥さんは文学者で同じく参加している津山さんよりは少し左翼的なところがあったように思います。社会的、哲学的なことを語るうちから美術を見いだしていく話し合いから、だんだん主題が自分達の身近な作品についてに変わって来て、このあいだの鉄鶏会の展覧会はどうであったとか、あの時の作品をどう思うかとか、そういう感じに変わって来ました。(注)
 また、ゼロの会は完全なる「リーダー不在」のグループでした。リーダーがいないかわりに皆が仲良し。ピクニックにまで皆で行きました。当時「鉄鶏会」というグループがありましたが、あそこは古田安さんがリーダーで金銭的にも古田安さんがかぶっていましたね。ケラは木村重信さんが作家ではない立場からイニシアチブをとるような形で動いていました。ゼロの会は矢内原伊作さんがオブザーバーとして参加していましたが、リーダーという立場ではもちろんありません。ですからぐっとひっぱっていく指導力を持ったひとが誰もいなかったわけで、その点、当時のグループとしては異色でした。

研究会主体から展覧会主体へ
展覧会を持つことになり、文学者として参加していた土肥さん津山さんはどういうかたちで展覧会に参加をすべきか、具体的にどういうかたちで参加をするか、ということを、討論しないままスタートしました。一番最初の展覧会は1960年3月ですから、会ができて間もなくです。作家8人が作品をつくり、土肥さんと津山さんが文章を書きパンフレットを作ろうということではじめましたが、パンフレットは最初の2回くらいの展覧会だけで終わりました。作家は作り手ですから、次第に研究会より展覧会の方に力が傾くようになってきますから、2人の文学者が会にはいっていても、研究会の話題自体が、「作品をつくるひと」と「つくらないひと」の間の話になってきました。最初の頃は「自分達の身の回りの話ではない地点」から、社会と美術の関わりを考えようということで会は出発したはずなのに、展覧会を重ねることによって「自分達のこと、自分の作品の主張」をいい始めていくきたわけです。つまり会が発展的に動いていくに従い「ゼロの会そのものの生い立ち」と「実際に進んでいく道筋」が違う方向にいってしまい「自分たちの発表のためのグループ」へと変わっていってしまったわけです。それが60年代の中頃。作家として自分の仕事の幅を広げるための勉強会を作家8人ではじめたものが、付属的に派生した展覧会のほうがメインになって来きていました。
 そういう段階のころ、つまりは展覧会中心の会に移行していく、その移行していくときに「社会的に美術を取り巻く状況や思考、それについて自分なりに考えていることを発表したり話したりしていくこと」と「自分が自分の作品を創り発表をしていくこと」のギャップが皆の中にでてきました。それが展覧会を重ねるたびに大きくなりました。展覧会のたびに、京都市美術館の大陳列室をたった8人でうめないといけないわけですから、それなりの情熱をそこへ、自分が所属している団体に注ぐパワー以上のものをゼロの会の展覧会に注がないとならないわけです。私自身そうであったし、おそらく他のメンバーもそのような気持ちで毎回の展覧会にのぞんでいたと思います。公募団体の展覧会であれば、年に秋と春に1-2点出したら良いようなものだけれども、ゼロの会の展覧会ではある程度まとまった数が必要ですから。年齢としては30歳くらいまでだったら、そういうことも十分な力でこなして行けていましたが、30を過ぎてくると、メンバーそれぞれが生活をし仕事し、そして将来のことも考えていかなくてはいけなくなってくるわけで、それを乗り切るのはとても大変なことです。そして、そこを乗り切った作家こそが作家として生き残っていくわけですけれども。私たちは年齢からしても、そしてゼロの会の性質=敵がない、ということからしても、バラバラになりだしたら早いものです。1960年代中頃、65年頃からゼロの会に関しては、皆が何となく引いていったような感じがします。会を続けていく意義自体を皆が見失ってしまいました。
 もともとゼロの会ははっきりとした「敵」がないグループです。体制への反動もありません。その点たとえば同じ時代に活躍していたケラ美術協会とは全く違います。ケラは最初から「打倒!」という意識がありました。新制作へのアンチ、日本画の因習への叛旗、そういう意識でグループが創設されたのですが、そのようなグループを創るモチベーションのようなものがゼロの会には全くありませんでした。また、当時の前衛グループの意識として「他の公募団体に属さず、自分達の発表に最大の力をそそぐ」というのがありますが、ゼロの会のメンバーは公募団体に所属しているひとがほとんどで、ゼロの会の最後までほかの団体に所属していたりするわけですが、それをどうこうとは誰もいいませんでした。それがゼロの会なわけです。ですから常に我々は「一体何のために会にいるのか」そういう問いが自分たちの中にありました。60年代後半の時期、一度、ゼロの会は展覧会を持たない年がありました。それは、やるにやれなかったのです。「ほかの会(公募団体など)に参加しながらゼロの会をやっていくことに対する矛盾」みたいなものが、65年くらいから出てきたのです。なぜ我々はやめないのだろうか、という疑問。その矛盾にひっかかったまま、ゼロの会は進んだわけです。

1964 現代美術の動向展の開催
そんな時分に動向展が出て来たのです。
 国立近代美術館京都分館で1964年から1970年まで連続開催された現代美術の動向展は、評論家の方々が、京都で開かれている展覧会を常日頃から見ている中で、いまの時代を鋭く掴んでいると思われる作家、才能が芽生えはじめていると思われる若手作家を選抜し、彼等の作品を一同に会して展示するもので当時としては画期的な展覧会として京都のみならず東京など日本全国の注目を集めました。動向展が開催されたことにより、これまでは徒党を組み、グループという囲いの中でカラーを出し発表していた美術状況は、評論家が、作家の作品を個人のものとして見てくれる状況へと変わりました。それにより作家が団体で活動する意味は少しずつ薄れてくるようになりました。ですから動向展をやった意味というのはものすごく大きかったと思いますね。
 動向展がでてきて、作家は動向展に出すためのトレーニングをするようになってきましたし、そういう傾向が皆の間に広まってきました。それと同時平行で海外の動向、外からの目、それを皆が意識するようになりました。自分の立脚点を外にあてにするようになる、という感じです。それまでは「自分が、自分が」という意識で作品を創っていたのが「今こういうのを創ったら当たる」というのを皆が意識するようになりはじめた、と思います。自分自身を振り返ってみても、60年代前半くらいまでは立脚点は「自分でみつけだしてくる」感じだったのが、60年代なかばくらいからは「追いかけていく」という意識に変わったと思います。60年代の始めのころはとにかくエネルギーだけでどんなことでもできる、ケラも鉄鶏会もそうでした。ところが、動向展がスタートし、日本の中の美術の動向、世界の動向、それらをどんどん意識しだすようになり、そしてその意識している世界の動向もまた目まぐるしくスタイルが変わっていくわけです。どんどん生まれてどんどん消えて行っては動いていくわけです。皆よく「60年代はエネルギーがあった」と60年代をひとくくりにいいますけれども、60年代と一口でいっても60年代のあのエネルギーというのは66年か67年くらいで終わるのです。皆がいう60年代とは前半の5年程のことです。その5年間はたしかにそうであった、と思いますし、ギャラリー16にしたって、そういう彼等のエネルギーを背景にして画廊ができたわけだと私は思います。
 ゼロの会は67年か68年に一年間展覧会を開かなかったときがあります。それは展覧会をもたなかったということではなく、もう持つことは不可能だったのです。そのあと富山で持たれた展覧会はつけたしというか、一言でいうならばゼロの会の「卒業旅行」のようなものでした。津山さんがその展覧会の何年か前に郷里の富山に帰られていましたから、それで企画してくれてできた展覧会です。津山さん自身も、富山の地で、自分が京都でやってきたひとつの成果を富山のひとに見てほしいという気持ちでの企画であったと思います。新作の展覧会というよりは、津山さんが我々を呼んでくれたから行く、というような形でした。ゼロの会は71年まであったと言うことになってはいますが、展覧会を持つことが不可能なときに入っている頃にはもう研究会は持たないようになっていました。そしてその頃に一度ゼロの会はご破算になりかけました。でも、まあ、やろうやないか、ということで展覧会だけは続けたわけです。

ゼロの会の評価
当時、ゼロの会に対するまわりの評価はそれなりに高いものがありました。
 ゼロの会がなくなって以後ほとんどの人がゼロの会について語らなくなるのは、グループとしての特色がやはりゼロだったからという気がします。鉄鶏会ならアンフォルメル、などというようなグループの特色が、ゼロの会ほど掴みづらいグループはないような気がしますから。けれども、ゼロの会が活動しているときは、展覧会ごとによく取り上げられていました。しかしその内容は、グループとしてどうこうというよりは、そこに出している作家の質にささえられる内容であったように思います。
 ゼロの会に参加をしていて個人的にも、作家としても良かった、ということはメンバーの皆が感じていることだと思います。ゼロの会で研究会を重ねることにより、自分一人だけでは知り得なかった世界を知りましたし知識や刺激になりました。ゼロの会は何の利害もそこに求めないし、仲間として付き合い、毎月研究会を持ち、話をして、個人的にはいつも目が開かれる思いがありました。ああ、他の人はこういう考えを持っているんだとか、ああ、こういうことをいつもこの人は思っているんや、とか、そう感じたりすることが、自分にとって良いことであったし、そこにメリットがありました。
 しかしゼロの会という「グループの存在」が自分にとって何であったのだろうか、ゼロの会に参加することで何をしようとしていたのか、その辺りの答えをゼロの会の活動の中に見るのは難しいと思います。ゼロの会の展覧会に出すことで、自分の、個人の作家としての地位をぐっと押し上げてくれる、というか、やはり多くの人たちが注目してくれたグループではありましたから、そういう意識もなかったことはない。ゼロの会のメンバーであることによって世間が認識するであろう、注目するであろうということは、メンバーそれぞれの気持ちの中にあったと思います。だからこそ10年以上ゼロの会はメンバーを増やしもせず誰一人辞めもせず、最初から最後まで、途中参加した丹治さん以外は、誰一人出入りがありませんでした。誰々を入れてやろうか、というような話も一度もありませんでしたし、入れてくれと言われた記憶もありません。当時の芸大の学生の間でゼロの会に対して憧れの気持ちが持たれていたというか、そういう気持ちを持たれているということも我々は多少は意識していましたし。けれども自分自身にとっての立脚点がゼロの会にあったとは言えません。第一、グループとしての立脚点もないし、第一ゼロの会にはマニフェスト自体存在しなかったわけですから。
 津山さん土肥さんは文学者としてゼロの会のメンバーですが、グループを持ちあげたり、メンバーの評論をしたりということは絶対にしませんでした。文学者として作家をバックアップするということがなかったわけです。本当に純粋に毎月我々は勉強会をしていたのです。よくあんな純粋な気持ちで、お酒も飲まないで、毎月勉強会をやっていたなあと今でも思うくらいです。

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