- 田島征彦インタヴュー
田島征彦インタヴュー(2006年)
僕は京都の美大(現:京都市立芸術大学)の染色をでています。学生時代は「劇団美大アトリエ座」にはいっていて、舞台装置に興味があったものだからそちらばかりやっていました。とにかく大きなものを作っていきたいって思う毎日でした。
無限大が結成された場所は、京大のある百万遍のおでんやの2階。そこで無限大の前身である染色グループダンダラの会合がひらかれました。僕は中野光雄さんが声をかけてくれて、その晩ふらりと出ていきました。ダンダラというグループは一言でいうと、京都芸大染色科卒業生の同窓会的なグループで、メンバーそれぞれが公募団体に所属していていました。たとえば、中野光雄さんは新匠工芸会というように。
この晩は、恩師である美大の稲垣稔次郎先生が亡くなったすぐ後でして、これからダンダラをどうしていこうかということを話しあうことが会合の目的でした。そのとき麻田脩二さんが前衛でやっていこうじゃないか!と発言した、これが無限大のはじまりなんです。とりあえずその日は解散し、後日、中野さんから、新匠工芸会に声をかけてくださった稲垣先生のご恩を思うとやはり私はやめることができないという返事をもらい、無限大は、長艸晃、志村充広、麻田脩二、寺岡岳と僕の5人のスタートとなりました。
団体に属さず、前衛グループとしてやっていこう!無限大に大きくなっていこう!っということでこの名前が名付けられました。ちなみに当時は、「現代美術」という言葉はあまり使われることはなく、「前衛」という言葉を我々は皆使っていました。巨大な作品を産み出していく意気込みと、絶対よそへは出さないという攻撃性とを兼ね備えたグループの出発です。
第一回展は四条通のミドリヤの2階にあった京都府ギャラリーです。100号位の大きさのものを一人3−4点出しました。これが旗揚げです。第二回展のまえに長艸さんが京展に出したいということでやめました。京都では「着物」があります。就職している人にとっても、染織をしていくにしても、日展、京展に出さないと生活していけない現実がありました。着物や帯をつくっていけば、京都では十分に食べていけましたから。長艸さんがやめたあと森俊三さんが入りました。当時、森さんは「dye graph」と名付けた染色作品の発表をしていました。どこの団体にも属さずひとりでやっていたので、一緒にやらないかと声をかけたら喜んで入ってくれたんです。森さんは一番年上で、僕らよりひとまわりくらい上。麻田さんと僕は年が近くて、志村光弘さんが僕らより6~8歳ほど上だったのかな。森さんは美大の前身の美術専門学校(美専)の出身です。そんなことやらいろいろあって、森さんと志村光弘がだんだん対立関係になってきて、しょっちゅうけんかばかりするようになりましたよ(笑)。
第二回展は京都市美術館。入り口を入った左の2部屋を借りて、かなりひろいスペースを使いました。とにかくメンバーはたいてい4~5人しかいないし、だけれども、空間をきちんと埋めないといけないでしょう、毎回ものすごいしんどい展覧会でした。壁になっているところをとっぱらって窓にして使ったりしたこともあります。第6回展のころ、新聞に「染めの無限大、陶芸の走泥社」という見出しが出ました。当時、走泥社は前衛というよりは権威になっていました。大御所に八木一夫がいて。そんな時でしたから、無限大も前衛じゃなくって権威になってやろうか!みたいな話もでなかったわけでもなかったけれども、やっぱり前衛ですよ。ちなみに第5回展はアヅマギャラリーでそれぞれの個展のリレーによる無限大の発表にしました。実はこのギャラリーは当時僕がディレクションしていました。
ところで当時、志村さんはサラリーマンで染色試験場に勤めていました。ですから休みもなかなかとることができず、展覧会の出品も休みがちになっていて、志村さんが出せないときは、3人で会場をうめないといけないから、とにかく大変でした。そんなときに、僕が「ちょこちょこ休むなら、やめてしまえばいい」みたいなことを言ってしまったんです。そしたら本当に、やめてしまいました。
ちなみに当時はまだファイバーアートなんて輸入されていなかったし、なかった時代です。そんな概念すらなかった。そんなときに、滝川みずほが、重い網をぶらさげた発表をしていてそれがすごく面白かったんです。だからぜひメンバーに入ってもらったらよいのに、と思ったのですが、結局は新しい人をいれませんでした。
そんなことしているうちに森さんもやめてしまって、ついに、麻田脩二と僕とふたりだけになってしまいました。僕は大きな作品をつくってきたし、これからも作っていきたかったし、少なくとも年に1回はダイナミックな作品を作っていきたかったし、そうするためにはどうしても、京都市美術館のような大きな空間が必要で、それを借りるためには、個人ではなくグループでなければ使えないし、とにかくどうしてもやり続けたかったんです。京都市美術館の平野さんは「個展はいかんぞ!個展は!」と言うし。
そんなことですから、若い人たちに声をかけて、メンバーを集めたんです。でも、ふと気がつくと、無限大といってもメンバーは僕しかいないわけですよ。無限大12回目の展覧会ですね。でも、いまさら無限大と称するのもなんだし、「X」という新しい名前を考案して立ち上げました。結果、無限大の第12回展はXの第一回展となったわけです。「X」という名前は、個性のないものにしようということで、つけられました。ところが届け出が遅かったので、外のバス停のところの看板は無限大で、美術館の中はXだったんですよ(笑)。