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京都の前衛

戦後京都における前衛美術運動とその展開

京都の1950年代〜青美とアンデパンダン

 戦争の被害が比較的すくなかった京都は、戦後、時を経ずして作家や学者が集まりノンジャンルで文化を育み楽しむ、枠に捕われず横のつながりを持とうという動きがあった。例えば1947年につくられた研究グループ『転石会』。美術家からは日本画の福田平八郎、徳岡神泉、小野竹橋、上村松篁、奥村厚一、菊池隆志、洋画の須田国太郎、小磯良平、須田剋太、吉原治良、長谷川三郎、杉本健吉、彫刻の菊池一雄、染色の小合友之助、陶器の宮永東山、学者側からは美学の龍村謙、上野照夫、井島勉、ドイツ文学の大山定一、イタリア文学の生島遼一、桑原武夫、伊吹武彦、英文学の深瀬基寛、詩人の竹中郁等が集まり、芸術談義から日本の未来まで幅広く語っていた。1947年には前衛陶芸の「四耕会」48年には「走泥社」「パンリアル」…新しい美術表現の道を切り開こうと若き集団が戦後2−3年のうちに次々と誕生。そうした戦前から続く文化や繋がりが新しい動きをはじめるのと同時に、別ルートでは、行動美術の絵画教室から勤労作家達が立ち上がり1952年「京都青年美術作家集団(青美)」結成、彼等は純粋に作家によるアンデパンダンを立ち上げ、1955年に京都市美術館で第一回展を開催した。アンパンの背景にどんな想いがあったか。京都の現代美術が持つ気風、それを支える基盤がこのアンパン精神である。アンパンを立ち上げた青美のリーダー 1922年生まれの市村司の言葉は以下の通りである。

 私は1922年に名古屋で生まれ、戦前は、ある名古屋の会社に勤めていました。17歳のとき徴兵で軍事工場に働きに出て、3年間鉄砲の玉を作らされました。その後、軍隊に入隊させられ、関東軍で3年、戦後はシベリアで3年抑留されました。私は絵が好きでした。支配者が私の絵に理解を示し、絵を渡すことでいろいろ斡旋をしてくれたので、生きてこれました。シベリアから帰ってきたら、戦前働いていた名古屋の会社の得意先から私は「赤や!」といわれました。戦争に行くときは「我が社のほこりだ」といって私を送り出したのに、帰って来たら「赤や」といわれたのです。徴兵で3年、関東軍で3年、シベリアで3年、この9年があって私があります。私は名古屋の駅前でメガホンをもって訴えました。シベリアからやっとの思いで帰って来て、懸命に前向きに生きようとしているのに、一般の奴らは戦が終わったら平和に暮らしている。私を「我が社の誇りだ」といって戦地に送り出した名古屋の会社に、私は「赤や」と言われ、「国賊だ」と言われて、ひどい思いをしている。私は戦争中に支給されたゲートルを巻いて、訴えました。戦から帰って来て、どうにか前向きに生きようと考え、あきらめられなくて、あきらめきれなくて、また絵を描きはじめました。絵が好きだったんです。アンデパンダンを知ったときは、「チャンスや!」と思いました。アンデパンダンを東京でもやっているからやってみないか?と行動美術の仲間に話しました。皆前向きでした。京都市美術館の藤田猛さんは私の友人で、館長の重さんは行動美術の後輩でした。井島勉も「やろう」と言ってくれて、上野照夫も応援すると熱く言ってくれました。「アンデパンダンを実現させたい!」皆の気持ちが熱く、皆が話を聞いてくれたのです。(2007年電話でのインタヴューにて)

 京都は戦争被害が少なかったのに対し、大阪は大阪駅から難波まで見晴らせるくらい一面焼け野原だったと聞いていいる。復興は京都に比べて遅いものの1946年大阪市美術館の絵画教室が復活、朝日新聞は「学生美術展」を開催。指導には須田剋太、吉原治良、津高和一…。朝日新聞社の村松寛記者が美術運動に参画し、大阪本社で「現代美術懇談会」を開催。吉原治良、津高和一、植木茂、須田剋太の4人が特筆すべき先導者として大阪の戦後美術を牽引した。作家たちの展覧会の場は主に白鳳画廊。梅田新道の交差点にあったサントリーバー「ふみの」は大阪美術の社交場。高橋亨さん、読売デスクの鈴木敬さん、森啓さん、そして大勢の作家が集っていたという。


※このホームページは現在進行形で進めている。

「前衛美術集団」は戦後から1965年くらいまで活動していた前衛美術集団の記録

「画廊史」は1962年に開設したギャラリー16を基軸に京都の画廊の新聞記事など

「映像史」は自主上映記録、70年代の美術家の映像記録など

「京都アンデパンダン」は1955年作家主導ではじまったアンパンの記録

「グループ連合」は1956年から1961年まで開催された前衛グループの連合展

「その他」は新聞記事などで残しておきたいと思ったもの

「論文」は個人的なもの