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中井淳二インタヴュー

中井淳二インタヴュー

鉄鶏会のはじまり
鉄鶏会という名前のそもそものいきさつは、冬はてっちりを食べて栄喜を養い、夏は鶏を一匹つぶして食べよう、そういう会をつくろう、と言ってはじまったんです。ですから実は美術というよりは食べ物から出発しています。そうして、その集まりに寄って来た人たちというのが公募展の独立の有志たち。関西独立(通称:カンドク)の懇親会のようなものですね。てっちりをしようって言い出したのは古田安さんですが、彼は中華料理の“眠眠”の創始者です。その彼の発案でした。彼の家は九州出身ですから、当然ふぐを買ってきたわけで、それでてっちりがはじまったと。最初はそんなところから出発して、冬はてっちり、夏は鶏だから、鉄鶏会という名前になったわけですね。そして、そこに集まっているのが、たまたま絵描きばかりだったということで、じゃあ、展覧会をやろう!って。
 鉄鶏会は、研究会とかそういう形式ばったものはありませんでしたが、鉄鶏会自体が、古田氏を中心にして関西独立展から出た人間のグループといえます。メンバーでは和気史郎さんが当時富田林に住んでいて、僕と和気史郎さんとは独立初入選が一緒のときです。僕も独立でしたから、二次会にいったりして、のちの鉄鶏会を結成することになるメンバーとも親しく飲みに行ったりとかしていました。そんなふうなことをしているうちに、僕は結核になって入院しました。1年後退院して帰ってきたら、「こんなグループ作ったよ」という鉄鶏会結成の連絡がありました。「あんたも元気になったら出しや!」って言ってくれて。ですから、鉄鶏会が展覧会をはじめたころ、僕は病院に入院していましたから当時は詳しいことを知らなかったんですが、実は鉄鶏会の彼らは独立の偉いさん、つまり会員さんとけんかをしたと言うんです。このころ、行動、独立は皆血気盛んでね、特に絵画では独立が面白かったです。けれども、独立であってもお偉いさんとか何とかいうのはもちろんありまして。上の方から「会員にしたるさかいなんとかせい」っていうのもありました。その頃われわれ若い作家はどんどん抽象表現をし出していて、当時の会員さんは具象ばかりでした。そういうような状況下でしたから「おまえらデッサンもできんくせに」ってしかられたりしてね…。そういうのに反発して、よくそれらと議論していました。そして、結局は自分たちで展覧会をしだした、というわけです。そのときも会員からの圧力は相当強かったようです。それで、あんまりごちゃごちゃ言われるのなら独立には出さんとこう…といって、それで鉄鶏会で継続的に展覧会をしだしたということのようです。

鉄鶏会第4回展~熱かった鉄鶏会
1961年の鉄鶏会第4回展。それまではメンバー7人による展覧会形式であったものが、4回のときにメンバー以外のひとも出品するような形になりました。僕もそのときにはじめて出品しました。メンバーとゲストが一緒に展覧会をしているというわけです。鉄鶏会が、純粋にメンバーの7人だけで展覧会をやっていたのは、最初の1~3回展くらいまでです。4回展くらいで、そろそろ彼らのスタミナが切れてきたのでしょう。要は、京都市美術館のあの広さが埋められないわけですよ。メンバー1人につき、100号、150号大の作品を20~30点出さないと会場が埋まらないのです。ひとり一部屋ですからね。会期中では京都市美術館の上半分を借りていました。反対側の半分は、ほかのグループ、たとえばパンリアル、具体、デルタなどが使っていました。そんなわけで美術館の半分を鉄鶏会だけで埋めないといけないわけですから、メンバー7人だけではとてもじゃないけれども、無理なんです。僕が出したときでも、僕は120号8点くらいと、一番小さいので80号くらいの作品を出していたくらいですから。それをひと夏で描かないといけないから体力が大変。秋になると美術館に輸送するわけですが、それは丸井運送に頼んでいました。美術運送ですね。僕らは西宮でしたから、西宮は西宮同士でまとめて運送を頼みました。大久保三一さんは枚方の方に住んでいましたから、その辺のひとはそこでまとめてやはり丸井運送。
 このときのカタログは僕や山口牧生さん達で編集しました。鉄鶏会のロゴは、吉岡一さんが書いたと思います。彼は書道もできるんですよ。僕も山口さんも鉄鶏会のメンバーではないのですが。山口さんも僕も、あと鉄鶏会の岸さんと秦森さんが西宮に住んでいたので、あのあたりでよく集まっていました。神戸の飲み屋さんあたりでもよく会っていて、カタログの編集もしていました。僕はまだ学生でした。西宮の岸さんは苦楽園というところに大きなアトリエを建てていましてね。みんなをよくそこに呼んでくれました。この4回展ときは彫刻の福岡道雄さんも出品されています。このころが、鉄鶏会のもっとも華やかだった時期といえますね。
 鉄鶏会の第4回展のときは、山口牧生さん、福岡道雄さんなんかも出していましたから、ただ単にゲストも作品を出しはじめた、というだけでなく、彫刻の人も参加した展覧会ということができます。でもその作家の選択というか、だれをゲストに呼ぶかというのも、何かコンセプトのようなものがあったというわけではなく、「仲のよい人をいれよう!」といっただけです。つまり、いい仕事をしていれば、審査なんかいらないわけ。へたな絵を持ってきたら、受け入れる前にはじき出されてしまいますからね。お互いがいい作品を作っている作家だっていうのを認め合っていて、そういうひとを呼んでいるわけです。ですから、あいつの表現はだめだからゲストにはふさわしくないとか、そういった話なんかはほとんどありませんでしたね。反対に、鉄鶏会に自分を売り込みにくる人はかなりいましたが。
 第4回展、第5回展とたくさんのゲストを呼んで鉄鶏会展を開催し、第6回展からは、ゲストはなくなり、一挙に会員が増えたように見えます。会員が一挙に15人に増えた、と。これは、「招待をなくす」ことになった、とわけではなく、古田さんあたりが「招待も会員も何もないよ、みんなが会員で、みんなが仲間だよ!」って言ってね。ですから一挙にメンバーが増えたように一見すると見えるけれども、やっていることというのは、4回5回と一緒。古田さんはよく「同じ鍋をつつける仲間どうしで、鍋をつついているように絵を並べたい」って言っていましたね。
 展覧会をするときの資金は古田さんがほとんど出していたように思います。もちろん鉄鶏会では会費を集めていましたし、それで会場を借りたりパンフレットを作ったりとやっていましたが、みな本当によく集まってはわいわい議論して飲んで活発でしたから、そういうお金もあっという間に飛んでいくわけですね。鉄鶏会のメンバーは皆売れっ子でしたから、それなりにファンがついていて、いよいよなったら、絵を売ってお金をつくってくれていました。

鉄鶏会のメンバー、評論家、その時代
 鉄鶏会で、結局一番最後まで独立に出品していたのは和気史郎さんです。彼は「賞をもらうまでは独立にいる!」っていって、結局もらいました。秦森康屯さんは、独立で新人賞をもらっているのに、独立をやめて鉄鶏会に参加しました。鉄鶏会のメンバーのバイタリティーはすごいものがありました。そしてそういう僕らの運動に賛同してくれる記者もみな若かった。サンケイの高橋亨さん、読売の鈴木敬さん、朝日の村松寛さん。あのあたりの新聞記者たちが、僕らが飲むときにわいわい集まってきて一緒になって飲んで話していたように思います。また美学美術史の方では京大の井島勉先生なんかが「若いもん!がんばれ!」って発破かけてくれて。僕は学生でしたし一番若かったものですから、ずいぶんかわいがってもらいました。当時は、その井島先生と、近美の館長の今泉篤夫さんがなんやかんやと鉄鶏会に目をかけてくれました。古田さんは井島先生とは家族ぐるみのお付き合いをしていました。古田さんっていうのが、彼自身、ものすごく人をひきつける魅力のある人でした。弁も立つし、考え方も独特で。あのころ、抽象運動のとき、きちんと思考をしないと駄目だ!といわれ、日本だけでなく、中国の絵画の思考の話をよくしてくれました。日本画というのは、その存在自体が抽象絵画みたいなものだとよく言っていました。よく古田さんは僕ら若手に展覧会を見せて回ってました。彼は芸術を見る目がすごくある人でしたから、村上華岳から池大雅まで…見につれていってくれて、わかるか?ってやってくれていましたね。本当に兄貴分な人でした。古田さんは年も上でしたしね。大久保さんの方が年は上でしたが、おとなしい方で。あとはみな似たような年齢で、みなアンフォルメルの表現を模索していました。
 鉄鶏会は古田安氏を中心にしたサロンというか、思考グループみたいなものであったと思います。政治的なものは一切ありませんでした。いつも皆でお酒飲んでは絵の話はかりしていました。絵の良し悪しとか哲学とか。「東洋画論集成」といって中国の画家が「自分はこういうつもりで絵を書いている」といういわゆる画論が収められている本の話をされたのをよく覚えています。その本の中にはたくさんの要素が入っているのですが、その心得を筆にこめて描くというか…絵を描くための技術というものは、まず先に筆が動いてはじめてあとからついてくるというか…そんな話をよく聞きました。それとか、とにかく絵をつくりあげてしまったら、もうその絵は自分とは関係ない、というんです。排泄物と一緒で、絵も自分の中にたまっているものを外にだしているわけだと。だからそういうエネルギーこそが大切なのだという教育を古田さんはさかんにみんなにしていました。絵がいいとか悪いとかそういうのは関係ないって。また、彼は盛んに「全身を使って絵を描かないと、心は入らん!心は映らん!」といっていました。大作、たとえば100号を描くとしたら、そのときは筆を使おうが何をしようが、体がのめりこむ感じで、いわゆる格闘です。大作だと全身を動かさないと出来上がらないし、ひとつの構図を描くだけでもくたくたになります。秋の展覧会にそなえて夏の暑いときに作品を描くから、汗まみれ、油まみれで夜のみに言って、また話し合う。それで古田さんにあって「まだできてないのか!」って怒られてまた絵を描いて。絵を描くためにはエネルギーを貯めないといけないからって、それにはまず飲まないと!なんていって…誰が誘うともなくみんなが集まってきて…そんな時代でした。
 鉄鶏会のメンバーはみながそれぞれが一家言あるひとばかりでしたから、とっても面白かったし勉強になりました。井島さんも今泉さんも美術評論、美学の人でしょう、そういう方々の意見も聞いたりして、楽しかったですね。そして必ずそういう場に食べ物とお酒がでていてね、そんな感じです。場所は二条の古田さんのお宅や、「主なき家」という美術家があつまる酒場、それに西宮に住んでいる人は苦楽園の岸さんのお宅でしたね。メンバーそれぞれのアトリエにもよくみんなで寄って飲んでは話をしました。それにしょっちゅう旅行にいきました。僕は学生でしたし、お金もなく、ほとんど、お金は払わないのに連れて行ってもらっていました。もしかしたらほかの人の旅行のお金も古田さんが払っていたんじゃないかなあ。

現代日本美術展
 スペインで開催された「現代日本美術展」。これは、鉄鶏会のメンバー10人が出品した展覧会ですが、実際に現地にいったのは、小倉浩二さんだけです。あとのメンバーは作品を送っただけ。小さな作品を…10号20号サイズのものを送ったんです。「売れたらお金を送るから」と小倉さんに言われましたが、とうとう、作品も帰ってこなかったし、お金も送ってきませんでした(笑)小倉さんは10年以上ヨーロッパに行っていましたが、最近も日本に帰ってきてもちろん僕も彼にあっていますけれども、そんなこともう忘れています(笑)!
 海外といえば、ヒューストンのキーコギャラリーでも鉄鶏会の展覧会がありました。そこのギャラリーのオーナーはデイヴィッド・クーンという人で、京都外国語大学の先生だったかと思います。彼はアメリカ人ですが、占領時に文化財か何かの担当で日本に来ていて、日本文化に触れたようで、古田さんのところにもやってきたりしていたようです。その方がヒューストンでキーコギャラリーを立ち上げたわけです。奥さんは日本人で、苗字は忘れましたが、元華族の方だったと思います。「きみこ」というのが下の名前で、それで「キーコ」ってよばれていましたし、それでキーコ・ギャラリーという名前がついたのだと思います。キーコの立ち上げの展覧会に、古田安展と、鉄鶏会展が続きました。

終息に向かう鉄鶏会
僕は1968年には渡米していましたから、1968年に行われた一番最後の鉄鶏会展には出品していないし見てもいません。どうやらそのころに空中分解したようです。
 結局鉄鶏会というのは、ある意味、遊びのような感覚で絵を並べていた部分もあるし、一貫したもの…たとえば具体ならば具体と見ればわかるような具体的な作品の傾向がないと言えば無い。鉄鶏会っていうのは、独立から飛び出した抽象作家のグループといえばいいんですが。古田安さんが引っ張っているグループだから古田安さんのような絵をほかのひとが描いているわけでもない。7人の侍のひとりひとりが個性をもっている。だからつかみ所がない、とも言えますね。ですから、とても勉強にもなりましたが、仲間同士の付き合いで会が続いていたという事もあって…、そんな中で僕も出品していたわけですが、なんかこのまま鉄鶏会にいてもこのまま行ってしまうような気がしてきましてね、外に出て行ったほうが、海外に出れば何かまたつかめるかもしれないという気がしてきたんです。ほかのメンバーも実は同じような思いを持っていたようです。最初は中井克己がミラノに。続いてフランスに宮本浩二、そして僕がアメリカにいって…日本に残っているのは、大久保三一さん、和気史郎さん、そして後にフランスに行くことになる秦森康屯さん、しか日本にのこっていない状況になったのが68年です。古田さんもヒューストンのキーコギャラリーで展覧会をしたことをきっかけにサンフランシスコで展覧会をするようになりました。日本でも鉄鶏会のほかに個展もするようになってきまして、だんだん鉄鶏会への熱意がなくなってきていたようでした。それで68年に展覧会はしたものの、力を入れない展覧会をしてしまって、誰も新聞記事に論評も載せませんでしたし、それで空中分解したのだ思います。
 その後、和気史郎は独立で活躍し、具象の絵を描きだして売れっ子作家になりました。売り絵がとにかく売れて。時代はバブルに入っていきましたからね。バブルのときは抽象は売れないけれども、具象を描いたらいくらでも売れる時代でした。和気史郎さん、吉岡一さんは具象がうまかったですから、売れていたころは日本の何本かの指に入るくらいの売れっ子だったと思いますよ。能面描いたりして。秦森康屯さんだってそうでした。鉄鶏会の時代の彼の絵と、フランスから日本に帰ってきてからやっている展覧会の内容はぜんぜん違うものでした。宮本浩二さんは、いまでも抽象表現をしていますが、彼はフランスにずっといってしまったまま日本には帰ってきていませんからね。
 60年代も半ばになってくると、反芸術、パフォーマンス、ハプニング、というのが美術の中の主流になり始めました。それはそれでよいのですが、なぜかだんだん抽象画というのが消えていきました。僕は68年に渡米したあと、アメリカヨーロッパを見ましたが、欧米ではアンフォルメルが生きているのに、日本ではぱっと消えていった。タピエスなどの海外の抽象表現作家がたくさん日本に来日し、日本の抽象文化に大きな影響や刺激をうけていったのに…そういうものが向こうに持ち帰られて向こうでは盛んになっているのに、日本ではなくなっているのが、不思議に思います。
 鉄鶏会、古田さんにしても、精神の世界を大切にしていましたが、だんだん、ちょっと違うぞっていう流れに美術が変わってきました。古田さんはある種の表現については「あれは芸術じゃない、デザインや」といつも言っていました。「見ればわかるだろう」って。内容が訴えてこない作品を描いても意味がないとよく言っていました。それがデザインならばわかるけれども、絵を描くならもっと精神性を重んじるべき、僕らはしょっちゅうそう古田さんに言われてきました。古田さんにいろいろなところにつれていってもらってたくさんの芸術を見せてもらいました。寺社仏閣にもよく行きました。そして、仏画をみながら、「これくらい迫力のある絵が描けるか?」って言われるんです。「仏画でも仏像でも、この像をみて、長年の間人々は拝んで信仰して命を預けてきたわけだ、だけれども、それだって、描いた人がいるんだ、それがわかるか?」って。だから絵として表面にあらわれている形は丸でも円でも線でも一向に構わない、って。大切なのは精神性。そういうものがだんだん消えていって、古田さん自身の気持ちもだんだんアートから離れていったんじゃないかなあと思います。古田さんが話していたもの、そういうものが、一緒に活躍していた彼らの表現が変わってしまうことによって、深いところに沈んでしまって…評論家もなにも言わなくなってしまって…。われわれの時代は、われわれの絵の精神性に感激してくれた評論家がいて、一緒にお酒を飲んでくれて、議論を交わして…そういうものが、時代がたつにつれてそういう世界の存在自体が消えていってしまったなあとつくづく思います。
 1950年代に入って、アメリカから抽象表現主義が入ってきたとき、日本や東洋にはもともと抽象表現的な考え方があったと思いました。古くから「空間」というものを考えたのは東洋の方であったと。西洋画のキャンバスの余白は単なる余白だけれども、東洋の絵はキャンバスに線一本引いたら、あとの残りは空間だ、そういうことを理解して線を引かないとダメだ、と、僕は古田さんに叩き込まれました。東洋のほうが先にやりだした抽象絵画だということを大切に考えろという話をいつもされました。同じ時代、アメリカではリキテンシュタイン、アンディ・ウォーホルらポップアートの時代でしたから、サム・フランシスのような作家は、東洋に触れて、豊かな表現に触れたと思います。
 僕も68年にアメリカに行き、ヨーロッパを回り、たくさんのギャラリーをみてまわってきて、デザインのような仕事もみて、ビデオアートも見て、ああ、こういうのが海外の流行なのかなあなんて思って日本に帰ってきたら日本も同じようになっていて…。今は独立でも具象的なものがほとんどで、精神性のようなものも薄れていっている作品が目につきます。そんなのを見ていると「古田さん、こんな今をみたら怒るだろうなあ」って思います。鉄鶏会自体も、彼自身も個展なんかしていて気持ちが離れ散ったのもありますが、皆がだんだんいなくなっていって、さびしかったと思いますよ。それで、眠眠の経営を一生懸命やりだしたような気もします。

 

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