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昭和50年代の京都 創造 美術表現としての映像 松本正司



「昭和50年代の京都 創造 美術表現としての映像 映像作家 松本正司」今から八年前のことだった。私たち美術を志向する仲間5人が、映画による展を開くことになった。彫刻家、画家、版画家たちが、’64年ごろからそれぞれが制作していた映画による作品の初めての発表で、題して「フィルム’67」。そのころ、スタン・ブラッケージなどのアメリカの実験映画が、初めてまとまったかたちで日本に紹介されたり、ドイツやフランスの戦前の実験映画が上映されたりしたこともあって、アンダーグラウンドシネマ(地下映画)の気運がもりあがりつつあった。このアンダーグラウンドという呼び名は、その後、演劇、音楽、美術にまでおよび、60年代末には、ついに若者たちの風俗の呼称となり、いわゆる「アングラ・ブーム」という流行現象の中に風化してしまったのであるが、私たちの映画展は、そういったアンダーグラウンドシネマ活動とは別に、私たちの美術思考を映像というメディアによって表現する美術展の一環として企画したものであった。したがって、美術家による映画展というのは、やはりめずらしいこととして受取られ、ある画廊の女主人は、「美術の人が映画の会開かはるんやて・・・。」と、さもおどろいた風であったし、また、各新聞も、美術欄ではなく、芸能欄の一隅に紹介したものであった。いわく「ノミを、絵筆を、カメラに変えて」。私たちは、この映画展を数回続けたが、「美術表現の一メディアとしての映像」として認識されるには数年またねばならなかった。1969年1月、あのEXPO’70の一年前、私たちは、前出の映画展に奇異な目を向けた女主人の画廊で、全天全周映画、即ち、鑑賞者がドーム状のスクリーンの中に入って、周囲に写る映像を見る、あるいは体験する映像展「映像は発言する!」を開いた。美術家を中心に、詩人、音楽家など二十数人のフィルム作品を8ミリ、16ミリ、スライド映写機など30数台を駆動して、ドーム一ぱいにいわゆるフレイムのない映像、映像そのものによる独立した環境、映像表現をつくりだしたのだった。その翌年のEXPO’’70には、この全天全周方式や、変形スクリーン、マルチ(多面)スクリーンシステムの映画が氾濫したが、装置空間や映像機材のオンパレードといった感が強く、映像そのものの内容が希薄で、見せ物的であったのは記憶に新しい。映像に知覚させるものがなかったということだろう。たしかに装置や機器には驚嘆に価するものはあった。しかし、フィルムや機材は映画の二次的な材料にすぎない。光と影と時間を視覚化するための資材なのだ。私たちはEXPO’70に資材を見に行ったのではなかった。映像を見に行ったのだったが・・・。そんな大仕掛けの映像が幕を閉じた70年の秋から、京都新聞社主催の⟨映像表現⟩シリーズが初まった。美術思考を映像によってアプローチする作家も多くなり、形式も劇場でのプログラミングされた上映方式から脱して、京都市美術館を会場に、出品作品である種々の映像(映画、スライド、ビデオ)が、美術館の壁面や床面に投映され、鑑賞者は、絵画を見るごとくに、歩き回りながら映像を見るという、まさに映像展に発展していった。こうして、映像もようやく美術表現の一メディアとして一般的に認識されるようになってきた。このようにみてくると、映像による美術運動は京都がかなり先がけているといえる。歴史が古いというだけでなく、その時代の尖端であった文化的遺産をもつ京都人の、常にトップを行く気概が、映像の世界にも流れているのかも知れない。やがて開通する地下鉄が、京都のアンダーグラウンド(地下)をゆるがせるとき、映像時代の新しい映像展として「国際映像展」が京都を舞台にくりひろげられることを望んでやまない。(京都新聞 1975年6月4日)

 

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