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映像史

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植村義夫インタヴュー

■映像の仕事をはじめるころ 時代背景
(インタヴュアー:森下明彦、坂上しのぶ)

坂上:植村さんが実際に映像作品をつくりだしたのはいつくらいですか?
植村:60年代。66年か67年ころかなあ。わたしは58年ころにはもう州濱の仕事(植村氏は烏丸丸太町の「御州濱司植村義次」)をしていました。もともと版画をしていました。銅版画。そのころ黒崎さんとかと知り合いましたが。そんなころから映画がすきでした。(束をもってる)これが、わたし見てきた映画の記録です。すごいでしょう。ずいぶん昔から今まで。アンダーグラウンドシネマの前には…アンダルシアの犬は世界短編映画祭とかそんなとき。オットー・ミュールとかね。デレク・ジャーマンよかったですね。ブルーノよかったです。そういうのや東映などの京都の映画文化と別に、アマチュアの映画がありましたね。NHKの取材しているビデオの撮り方のおさらい会みたいなので。8ミリのアマチュア映画のでね。あそこからはじめだしたのが高林陽一。半分アマチュア。アマチュアっていったら失礼だけれども、情緒だけで・・すごく・・俳句をするのとおなじようなので映画を撮ろうか…っていうか。身近なものとか…たとえば行事を撮ったりとかそういう…そのころは映画の歴史を見る会なんかもあって、、、名画発掘の会もありました。勤労会館がうちのよこにあったんでね。あそこで毎月ありました。それと大事なのが記録映画を見る会。シドフ。それにずっと行っていました。あのとき知り合った人がいましてね…それが大西金之助さんです。その頃「16ミリの会」っていうのを大西金之助さんが組織しようとしました。大西さんが私の結婚式前後位の頃に16ミリ研究会をしようっていいだしまして。大西さんご夫妻が。で、2~3回会合を持ったことがあります。
坂上:大西さんは戦後まもなく、四耕会という日本で最初の前衛陶芸グループに参加していたこともあります。
植村:それは知りませんでした。大西金之助さんが、16ミリの会をなんとかできないものかなあって言って。その頃は私は結婚するころで、大西さんの大西写真店にいって、そこに写真を頼んだ記憶があります。大西写真店は京都の南の方。本願寺の方。大西さんが、飯村さんとかの映画を買ってきて、みんなで見ようってなって、そういう話があがったかもしれない。それで東京のフィルムアンデパンダンをこっちでやろうということになって。16ミリの会も、シドフの仲間も友達会みたいな感じで、まあ真剣に考えていたとも思うけれど、そういう…何かをしようってなったけれども、あまり面白くなくて終わってしまった。
坂上:大西さんは当時からアニメを作ったりもしていました。大西さんの60年にとったフィルムも持ってます。教育映画のような感じ。本人がナレーションしてました。朝日8ミリ映画コンテストっていうので賞をとったりしてました。
植村:アマチュアだけれども、あの人はもっとちゃんとしたいなって思っていたと思う。
森下:当時、記録映画という雑誌があって、そのシナリオコンテストに大西さんは入賞したり。ちょっと普通の8ミリのアマチュアとは違った存在だったみたいです。でも、映像を見ましたが、しかしどっかでアマチュアのところが抜けていない。
植村:わたしが社会に見せる映像をつくりはじめたのは、66年とか67年です。そのまえのころはまだ見ているだけでした。作りたいなあっていって、シドフとか発掘の会とか名画をみる会とかで。しかし私は映画をつくるっていう力はないっていうのを悟っていますからね。人にものを言って、その人を動かして、こういうのを探してきてくれといったり、これとりなおしてくれというような力はないっていうのわかっていますからね。それができたら映画監督。それは普通のひとではできませんからね。社会に見せるものでなければ、古いのは子供のときから作ったりしています。作品としては60年代になってからだけど、自分だけで…つくりますねえ。その前はスライドをとっていましたね。うつして。写真のポジを、何枚かにして物語にしたのありますね。小学校のときプロジェクターを買ってもらって、カルーテルとかいうのはもっとあとでね、カシャッカシャっていうあれでね、それでこれ、面白いなあっていうものを撮って、マウントせずにくるくる回すのをやっていましたね。それをとにかくずーっと、中学のころからやっていました。
坂上:それに傷をつけたりとかは・??
植村:そこまでのアイデアはなかったです。それまでは映してそれがどういう風にみえるのかっていうのをやっていました。
森下:傷をつけるのは、マクラーレンから。
植村:そうそう、マクラーレン、このひといいなって思いましたねえ。
森下:マクラーレンとかアニメ3人の会とか、そういうのは京都でもわりとダイレクトに近いかたちで見れたんですか?
植村:みれました。わりかたダイレクトに。東京からだと春巡業とかが割合すぐに。シドフ、シ・ドキュメンタリーフィルムが大部分していたように思います。府立医大のひとたちがしていたんですかね。三隅研次さん、いつもシドフの会に来ていましたね。こんなにいい映画監督が京都にいるんだと思いました。
坂上:松竹とか大映とかのひとは???
植村:あのひとらはこんなの馬鹿にしていましたよ、馬鹿にされてね。

■最初の公式発表 フィルム‘67
坂上:最初の記録は67年ですね。フィルム‘67。(DMあり 1967年11月11日 京都勤労会館)
植村:この時分はねえ、やろうやないかということになって、ぽいぽいと寄ってしたんです。
坂上:ちょうどこのころの京都新聞の記事があるんですけれども。TIMMMというグループについてかかれています。寺尾、今井、真鍋、水上、松本。
植村:真鍋さんは今は大山崎の町長ですね。真鍋さんは一緒に版画もしてました。メゾチントの…。TIMMMは記憶にないですけれどもね。これね、これより前に東京のつくった…飯村さんとかの…フィルムアンデパンダンや、それよりもうひとつまえのアメリカのアンダーグラウンドシネマね、あの人らの作品を京都で見ようかというのがあって、最初に見ました。こういうころはまだTIMMMに名前が挙がっているような人らは関係なくてね。そのときにアンダーグラウンドシネマフェスティバルというのを…そういうのをしましたね。そのときは…その…ギャラリーに出入りしているひとは関係なかったですね。そのときに、要するにこういうジョナス・メカス、ブラッケージとかようみました。おもしろいのがはじまったなあっていうのがありましたね。そういうときにアメリカンセンター京都がありましてね、アメリカンセンターでようこういうアメリカの映画というものをみてました。中村敬治、なくなったけど、あの人がいたらこんなことわかりますのに。あのひとがいればこういうのわかると思うんですけれどねえ。
坂上:飯村さんなんかの東京の作家の作品をみる機会というのはどこで???
植村:場所はどこでっしゃろ。それを世話したひとがいはって(大西金之助)そのひとがいっぺん16ミリ研究会をしよう、といわはって。でも言うだけで何もしないで終わりました。そういうもんで。16ミリ映画したらどうやろって。
森下:このフィルム67に出された作品「作品」8ミリ、カラー、15分「壁の記憶」8ミリ、カラー、10分 はどんな作品ですか?
植村:「作品」ぜんぜん記憶にない。これ、なにしたんでしょうねえ。 「壁の記憶」これは落書きをずっととったものです。アニメじゃなくって、落書きの本当の姿をとりました。それが壁の記憶。落書きをずっと撮ったんです。それ、どこ行ったかわかりませんね。ポルノグラフィ的な落書きを収集しました。現像して、、そんなこともしてました。
坂上:たぶんこのフィルム67というのが、こういうタイプの、京都の作家美術家がじぶんたち手で自分たちの映像をおおっぴらに上映する一番最初なのでは?
植村:多分、その、それまではまあないと思います。関心を持っている人はいても、こんなふうに寄ってやるかっていう、こういう動きはこのあたりから出てきました。アンダーグラウンドから触発されました。でもまあ、やってやるっていうような大層なもんじゃなくって、運動っていうのまでも行かなくて、みなで持ち寄ってやった感じ。熱心でも何でもなくって、ただ僕も僕もって感じ。

ZONE展 1968年
坂上:フィルム67があり、68年にはいって、後半に、ゾーン展がありました。アヅマギャラリー主催で。(1968年11月8日、14日、19日 毎日新聞ホール)
植村:ああ、アヅマギャラリーは田島さんねえ、うん。
坂上:プレイやゼロ次元がハプニングをやったりしていたみたいです。山崎正和さん、中原佑介さんがしゃべったり。(新聞記事がのこってる)
森下:ゲストのしゃべりの方ばかりのこっていますね。それ以外の記録はぜんぜん。作品がどうだったのかとか伝わってこない。新聞によると、「植村義夫らの映像が上映されたが、映像をダブらせたのやスクリーンを二つ使うものなど新しい試みがいっぱい。」、、、
植村:ああ、それは宮井さんですよ。一時的にこれは…あのひと、宮井さん。当時のあのひと、一時的にぱっと花火のごとく出てきた。結構…あの…盛んな…宮井さんとガリバーのスイッチね。
森下:ああ、スイッチの映像がずっとうつっていて、そのスイッチがおされると、会場の電気がついてガリバーがでてくると…。
植村:わたしもあれ覚えています。宮井さんとガリバーはいつも一緒にうろうろしていました。でもすぅっと引いてしまう。それでまあウォーホルの映画っていうのがあって。それは見る見ないにかかわらず情報としてはいったんと違います?エンパイアね。見ていたり見ていなかったり。雑誌でみたり、あるところで聞くと眠るところを見た人がいたりとか、見たとかみないとか、見ても見なくても見た事になるような、まあ…。
坂上:今井さんは大丸で見たといっていました。74年。朝10時に大丸がはじまって、それと同時に上映がはじまって6時に終わるのかな?一日かけて一回を延々と上映。
森下:チェルシーガールズは京都会館第二ホール。(1971年7月)
植村:野村さん見たとか、聞いたことがあります。私、あの人すきでねえ。この世界から出てきて、体験した中で、ずーっとちゃんとその経験の上の線にのっているのは野村さんくらいで、あとの人は、こんなもんかって、少しふれた位じゃないかと思う。野村さんはしっかりと問題点を見つめてねえ。あのひとはダンディですからね。あの…ほら…なぜダンディなのかというと、8ミリみたいなの撮らないって、最初から16ミリでしょう。ダンディという言葉にすると古臭くて変な言葉だけど、それがあの人のええとこやなあと。
坂上:16ミリ、手に入れたのがすごくうれしくて持ち歩きすぎて腰を悪くいたと聞いたことあります。
植村:そりゃあねえ。うちに野村さんがCマウント借りに来たことありますよ。ちょうどビデオカメラがCマウントでしたからねえ。あの人の固定焦点のズームにつかったんじゃないかな。

1969年 映像は発言する
坂上:それで、この次にでてくるのが「映像は発言する」(1969年1月12日〜19日、2月4日〜9日 ギャラリー16、信濃橋画廊)
植村:これは結局、万博というもんがあってね。万博の球体のテント、それが結局あれをつくるののヒントになったというか。今井さんが考えたかと思う。球体のスクリーン。それも結局万博の余波というか。そのときの、その、そういう膨らましのテント的なもんを作ったりすることが入ってきたんで、まねして代用さしていただいたということだと。
坂上:皆川魔鬼子さんが白い全身タイツみたいなのをきて、そこに映像をうつしたり。
植村:皆川さん。あの有名なねえ。そんなこともしていたんですよ。子供だましみたいなことをしていたと。松本正司さんと今井さんが頑張ってねえ。
坂上:このとき植村さんはどんなことを???「紋章」8ミリ、10分
植村:これはフラッグを、バーっとうつしたんないかと思いますけれども。この冊子にのっているコラージュは「紋章」と関係ないです。これはコラージュで顔だけ切って貼り付けてますね。こんなもんも映したかもしれないけれども、私の記憶としては、「紋章」は国の国旗をとって映したといった感じ。世界の国旗を誰かにとってもらって、それをフワーッと流した記憶があります。音は…それはどうでっしゃろねえ。テープと別々でね。オープンのテープでとりました。このころカセットは入ってきていましたけれども。持っているけれども。そういえばヨシダミノルさんがカセットテープをつかっていて、かっこええなあって思ったのを覚えています。そんなことで、まだカセットが普及していなくってねえ。音は映像とあわなくて…シンクロさせる装置がありましたけれども。マグネチックの映写機で録音してやっていました。それは持っていました。フジのssで。フジのが一番いいです。フィルムは自分で装填するんです。16ミリと同じような感じでした。エンドレスにするときに自由で楽なんで。ループにして。実に楽。録音とエンドレスと両方でしょ、たくさんつくれました。これを利用してエンドレスのプロジェクト、たくさんできましたね。
坂上:この映像は発言するのとき、みんなの映像だけじゃなくって、昔のアニメとかも上映していたみたいです。なんかきびだんごがごんだびきって読めるような…文字が逆から読むような時代のものとか。
植村:それは覚えていないですねえ。
坂上:映像と名がつくあらゆるものをあつめてやっていたみたいです。
植村:いろんなことあったんですね。なるほどね。テレビというものが結局…要するに、ビデオテープはちょっとまだ近づきつつある段階で、そやけどテレビを目指しているような。河口さん「テレビジョンメディアによる映像」はテレビのところに何かを置いたみたいですね。ブラウン管に靴の何かを落としてみたり、小松辰夫「笑止」、死んだけれど、彼はテレビにプロジェクターで…これも遊びみたいだけれど、そういうことをして。実験って言うと泥臭くて大層で好かんけれども、そういう…
坂上:今井さんが、このころの映像は退屈で見るのにしんぼうがいったといっていました。
植村:辛抱はその…ウォーホルであれだけれども、辛抱か、自分が完全に中に入れんかったら苦痛でしかないもんねえ。そのビデオのメッセージを読み取ろうとして浸かったら辛抱より考えるから持続するけれども。辛抱がきかない人だったらたいくつでしょうね。そんで、結局、この人らのしている仕事があって、その仕事の延長でずっと…ということになるでしょう。作家性のきつい人だったらその人の表現がどこに出てくるかと。他のものと違うものを判断する材料というか…まあ、せやからたいしたことないっていうとおかしいけれど、たいしたことでは…
坂上:本当にこのころ、、70年くらいから美術家・作家がこぞって作り出す。60年代は一部の人だけれども、70,71年になるとほぼ全員が。
植村:関心をもちますね。それで、りんごが腐るまで撮るとかああいうことを。アイデア勝負。自分の目的にそってというのではなくアイデアというのは…でデジスタってあるでしょ、あれに似てる。あれ見ていると懐かしいなあって思ってみています。デジタル技術が、いいものが手に入るという以外は全くおんなじアイデアで。別にびっくりするようなもんないけれども。すごいハードディスクのものが入るのであんなことができるんでしょう。ただ見ていますけれども、あれが結局ああいうふうになったんだってつくづく思いますね。
坂上:このころ、だれでも写せますっていう…
植村:シングル8。みんな買ってました。シングル8というのは、今もまだあるメディアですよね。私は、最初はずっと8ミリはシングルでした。ダブルはやっていないです。

■フィルム造形70
坂上:70年のフィルム造形(1970年11月14日 京都新聞ホール)。現代の造形っていっていままで野外彫刻展みたいなのを開催されていたのが、この年から映像に変わるんですよね。このときに植村さんは「shoot」s8、12分 テレビを8ミリでとらえてそれを8ミリで再撮影。撃たれる瞬間20秒をコマおくりで12分に引き伸ばした作品。(しのぶ)うめくような黒人のブルースが流れ、粒子の荒れた白っぽい画面に、ハイライト部分がとび、影の部分の黒を強調したスチール写真をコマどりしたかと思うような動きで、男の上半身がチカチカと右から左へと移動する。7分、8分これが続く。男が何者なのかわからない。このまま終わるのかと思ったとき、一瞬「昭和四十五年五月三十一日午前九時五十二分」とスーパーインポーズがあらわれ、再び男にもどる。わたしは、スクリーンの男の遅々とした動きを見ながら、その日付けを考えたが何の日であるかわからない。ひときわ黒人のブルースの調子が高くなったと同時に、男が撃たれたように倒れ、銃が手から飛び男は銃をつかもうとするが、ずるずるとすべるようにくずれ落ちる。「あっ!シージャックだ!」これは十一月十四日、京都、大阪、神戸の造形作家二十七人によってひらかれた「フィルム造形‘70」の参加者、版画作家植村義夫氏の映画「shoot」である。去る五月テレビで放映されたシージャックの、撃たれる瞬間二十秒をコマどりで十二分に引き延ばした作品だ。、、、、(夕刊京都 松本正司文より抜粋)
植村:こんな生々しいこと当時は放送したんですからねえ。これはとっさに生中継ですからね。あとしませんでした。
坂上:偶然とったのですか?
植村:カメラいつも持っていますからね、シングル8で。生中継を撮りました。お店でとりました。持ち歩いていましたから。カメラを。あっと思ったものをとって。すぐ、撮りましたねえ。それが結局…白黒で撮ったんです。あのとき半分はブラックアンドホワイトのフィルムでとりました。
森下:カラーは高かったですからね。
植村:ベースは白黒です。たくさん撮っているうちのいくつかを使おうっていって使いました。このころのフィルムありますけど、日記みたいなもんですね、まあ。
森下:これと浅間山荘事件とねえ、よく語れるんですよ、このころ。もちろん当時は再放送なんできないもん、ビデオないから。
坂上:でもシージャックってよく語られるし、画像思い浮かびますよね。
森下:みんな写真で見ているの。
植村:お昼前ですからね。午前中ですからね。うちにいてテレビみていて、やってるみたいっていって、、、それで、、、20秒でしょう。その間変わる瞬間が何べんもある。テレビをみていて、それを撮影して。これは奇跡です。こんな奇跡。人が殺されるのに立ち会って。そんなにないですね。面白いっていうか大変不思議なめぐり合わせ。
植村:著作権があるから今はもうできませんですけれども。音も変なブルース。あれも映像もNHKの映像からいただいたものだから、モニターを写したわけですから。全く今の著作権の問題なんて考えていなかったです。自分の気に入ったもの。「ゾーン」展のときの音楽も。あの時もビートルズの音楽をワーワーかけて。そんなやからね。言うても知らなかったし。こらいいな、って感じで早速つかったけれども。これもおもろいなって。人が殺されるシーンは初めて放送したんでね。私はいつもカメラを持っています。せやから撮っていたから。これは撮っておかなあかんって言って撮りましたね。それをコマどりにもどして。ひとつづつちょんちょこちょんちょこやって戻しました。当たって倒れるまで、それをゆっくりながしただけ。
植村:映写機でうつして。古い映写機ですね。
森下:お手元に映像はあるんですか?
植村:フィルムあります。音もあります。この当時の実験映像は技術がないもんですから、撮ったものを加工して…ゼロックスでコピーするとかありましたね。なにしろデータでないから。コピーしますとね、劣化して薄くなって幾分面白くなっていく。今はデータの時代になってしまったからそういう危険がない分、変な加工は別の手段でしないといけないしねえ。とりなおして時間を引き延ばして…。じっくり…私の中の大事なことは一言でいうと、ものの変わり目、変わり目が好きなんです。たとえば、カメラね。はげをカメラフィルムでうつしていてね、クローズアップしていくんです。どんどん。それがあるときまでは髪の毛ってわかるんですけれども、ある瞬間からわからんものになる。その変わる瞬間が好きでねえ。時間をのばすのも、変わる瞬間が見てみたいっていうがあるから。私もそういうことをしてみたいっていう、変わる瞬間っていうのが感じられなかったから、これはあまりよくない。ひとつの試しですね。変わるときあるんですわ。自然にごろっと変わる。ぞくっとするんです。死ぬときもそうや。一回しかない。自分のは一回しかないけれどもその瞬間ですね。それだけですわ。眺めて、じゃなくって自分で感ずるっていうのはどんなもんかと…。
坂上:難しいですね。どこからかっていうの。
植村:でも、あるんですわ。案外時間が長く感じるかもしれないし、瞬間かもしれないし。でも死んでいく本人さんは、そんなものやないと思うし、そういう気がするし、多分そうだし、それが多分今一番楽しみっていったらおかしいですけど、それは人生最高のイベントですねん。生まれたときの記憶は残念ながらはっきりしていない。確かに、記憶の断片の中に出てくるっていうんですけれども、確信をもって判断できませんでしょ。生まれたときの体験とか、長い道を通ってきたっていう…
坂上:すごく苦しいっていいますよね。
植村:とにかく苦しいし、その苦しみから逃れたいから出てくるっていうのかもしれないけれども…物事が変わる、変換の瞬間。変わるとき。変換。息っていうか振幅っていうか瞬間ですね。ぜんぜん別の姿が見たい。見たいというより感じたい。

1971年 映像表現‘71
坂上:で、この次が、71年の映像表現。(1971年10月30から31日 京都新聞ホール)73年のアートコアフィルムトリップにもだしてる「moving picture」8ミリ、18分
植村:これは要するに時代劇から…あ、この冊子のページのカットはねえスチールを引っ付けたつ。これは映画を総括するような感じで。ただのお遊びみたいにしてスチールをよくある手合いですわ。コラージュ。絵はひとつひとつのスチール。そして、ようは、映像もコラージュしたのです全映画史を作るって感じ。ところでゴダールの全映画史見ました?私買いました。こうとかなあかんて。全映画史です。私のは、これは。メリエスから…。この映像はもうないですねえ。時代劇も入ってます。多趣味に。コマどりばっかりでして。18分。結構撮りましたね。目がもう…つらかった。
森下:一こま1映画っていうことはないですよね?一映画につき2コマ3コマ撮ったりしていますよね?
植村:ひとつのスチールを2~3コマとるときもあったし、白味入れて、チカチカと。最後チカチカでフリッカー入れて。本当は計算して白いコマいれるんですけど、フリッカーで、きちんと計算したらベンハーのコマみたいにしたら色つくのかもしれないけれど。スライドはもうないです。人にあげまして、見られません。このフィルム、東京でしたこともありますねん。ジャンジャンですね。(1972年5月29日〜31日)そのとき、これ持っていってもろたと思います。それと、これをみて、個展せいって言われて、北白川の方でやったことあります。なにやらっていうのがありまして。
森下:京一会館
植村:京一じゃなくって、あれやなくって、なにやら知らんけれど、何本も持っていったことあります。このころ。なんとかっていう、プライベートに映画をしていました。個人でしていて、でも何回もしていないと思います。その人のたくらみは。…そういうことがありました。

1972年 映像表現‘72
坂上:その次が1972年「第5回現代の造形 映像表現’72」10月14日〜19日京都市美術館「moving picture(2)」1972年、8ミリ、エンドレス及び7分
森下:これは目黒のときやりましたね。
植村:ムーヴィングピクチャーズ(2)、これも撮ったやつですわ。これ、種あるのでお持ちしますけれどもね。これはいわゆるコマーシャルですねん。コマーシャルからいただいた。自分でセットして、演出したらもっといいもん出てくるんでしょうが。このころ一番気に入ったコマーシャルに森永キャラメルの、4次元空間的な体験をする男の話がありましてね。部屋から出たり入ったりする。映画にしてエンドレスにすると実に単調に、この人が部屋に入って、出てきて、また出てきた部屋に入るという…。8ミリから1枚ずつスチール写真フィルムにして、ポジにして紙焼きにして、それを撮影するという、それの種本があるので持ってきます。これだけはホカさんと持ってますねん。種本っていったらおかしいけれども、これはカメラのフレームが、映画用に作ったからきちんと収まっていないんです。縦横の対比が違うから。これを本に貼ったんです。これちょうどね、この本面白かった。季刊写真。この本のコマどり。フレームだけつけといたんですけどね、これがこれです。はい。これを結局エンドレスで、これを延々と続くって言う。会期中ずーっと映しっぱなしって感じでやったわけですね。このころ何べんかいろいろ手紙もろたりしましたよ。イギリス人とかね。そんなひとらに面白がられました。
森下:これに貼られたんですか。これ、大事な雑誌です。
植村:こんな変な本が日本にもあったんです。これをまた8ミリでコマどりしたんです。(ぱらぱらアニメのようにしているのを)この種本上げてもいいです。わたしここ(お腹)二つに割りましたんでね、死ぬの違うかって言われて。
坂上:でも復活。
植村:それも結局集中治療室に入ってね、何を夢で見たっていったら…けったいで…あの体験はもう…4日か5日いましたが、麻薬が効いておもしろいですねえ、なんていったらいいか…。6時間の大手術で、心臓も止めて、人工血管で…そやから面白いですよ。ええ体験をしました。そやからねえ、何にもいらんのですわ。あげますおみやげに。これがネタです。これの。これが森永キャラメルの廊下でね、花束持った男の人が来てねえ、キャラメルにしてもものすごく…変なことだと思います。ビスコンティの青年、あれですもん。北欧系のなんやらゆう名前の、それですわ。
森下:雑誌も面白いですね、ここに貼られているっていうのが面白い。
植村:これ、本当いうと、せっかく本をつくってやるのだから、きちんと自分で本をつくってやるべきなんですけれどね。面倒くさがりだしこれで済ませとこって。自分で本からつくりますよ、野村さんなら。本にしてきちっと製本に出して。完璧。生き方が。あの人は絶対…要するに…・
坂上:この表紙もおもしろいですよね。乳首。
植村:これコラージュする何やらいう人いましたよ。コラージュの写真。西洋人ですわ。アメリカ人ですかな。有名ですわ。わりあい好きなんです、こういう写真。
坂上:ところでこの頃、73年にアートコアができるころ、ギャラリー16でメカスのリトアニアの旅の追憶の上映があったみたいですが・・覚えていますか?
植村:16の改装で1階と2階が一緒になるとき。あのときにリトアニア…今リトアニアはなくなったけど、それをやりましたねえ。
坂上:リトアニアへの旅の追憶を一回上映するたびに上映権が3万円かかったみたいなんですが。
植村:フィルムアートが貸してくれてお金かからなかったと思います。原さんの映画もしました。初国の…それは朝まで。アートコアかなんかあの場所で。あそこの前のギャラリー16の建物で。原さんのは初国のパフォーマンスの上映みたいなもんですね。映画を見るというんじゃなくって、やっぱり8ミリを楽器にみたててやるというのがあれですね。いまのフィルムセッションっていうか…そういう映画でしたから長いんですわ。朝まで。その日によって違うんですけどね。

1973年 映像表現‘73
坂上:73年。9月8日〜14日第6回現代の造形映像表現73、アートコアオープニング展「Heliochrome films」1973年 8ミリ エンドレス美しい人工の虹をプリズムでつくりだした(京都新聞より)
植村:これはねえ、虹をねえ、撮りっぱなしにしてる。フィルムでずっと…。部屋を切る虹っていうのは、ずっとフィルムを置いておきますとね、角度によって、ある時間からある時間までのプリズムに入る光が動くというか、幅があるのでね、虹もうごきますので。それをじっくりと撮っている。太陽が…プリズムの入るだけの時間ですので。おいておいてフィルムを動かさずに置いておいて。カメラもこれを結局撮っているとえらいきれいでねえ、。これはフィックス。コマどりじゃない。リアルタイムで撮ってましたね。

1974年 フィルム‘74「ズーミング」フィルム74とアートコア「ビデオコミュニケーション」で…自分の体の部分をクローズアップレンズで大写しにする、、、(京都新聞)
植村:それ、自分でもびっくりするほど完成度が高い、自分でも成功したと思っています。これは映画ですねえ、。フィルムやからねえフィルムやさかいに、、、
森下:ズーミングはフィルムですよね。ということは、アートコアでのビデオコミュニケーションでの「ズーミング」はまた違うやつですね。
植村:ビデオはビデオで何かしたんですね。何をしたのかなあ。ビデオコミュニケーションで…それはそういう手合いがあるんですねえ。ぜんぜんこれは記憶がありませんねえ。それはたいしたことないってことです。はっきりと記憶に残っていくっていうのは…このころから8ミリもビデオも両方やるようになってきて。これもビデオ。。
森下:さきほどの虹、プリズムのような作品「Heliochrome films」これは3つくらいある。部屋を切る虹という名前でナンバー2もある。
植村:これは何回も撮っています。そのときそのときによって表情が違うから。

1975年6月10日〜20日 時 時計 人間展 アートコア「窓からの風景をビデオに撮り、十秒ごとにフィルムを磁気で消去した、、、」(京都新聞)
森下:これはビデオなんですねえ。フィルムって記事には書いてあるけれども。
植村:窓からの風景をビデオでとって、1秒19センチだから、190センチのところ10秒。そこで、しゅっしゅっと。そのビデオテープをね、寸法測って10秒っぽいところで切る、それでノイズでしゅっしゅって。それは別にたいしたことないけど、なんか雲がきれいやさかい雲とそれから…
森下:コンセプト的には窓からくると、バーっと白くなりますよね。ビデオのときはどうなるか。
植村:ホワイトノイズみたいな感じ。雑音も出るしね。
森下:穴が開いて映像が見えなくなるのと一緒のような感じがしますね。
植村:ちらっと音がします。ザっというかプツッというか、ザーっというのとか、ちょっと気色悪い音ですねん。
森下:京都新聞は、作品はビデオでとっているのに、フィルムだと勘違いしていたのだな。
植村:75年は一応ユーマチックのカセットもあったから。ビデオでできるもんはビデオでしていました。映画にこだわるひとは映画で。まだフィルムが、シングル8はなくならんよって。なくならないようにって、友達が動きました。映画っていうのは必要ですから。このときね、私は結局画面を消してく仕事をしてます。磁気じゃなくてビデオカメラで。最初はひとつ素材を撮ります。まあそれも実に原始的だけど、映すモニターに髪の毛を映しますね、これをテープに撮ります。そのテープをもどして、また映して…と繰り返すと最後真っ白になります。まったく映像がなくなってさいます。3回くらいでなくなるかなあ。
森下:僕もやったことありますけど、5回くらいかなあ。
植村:音がねえ、ゴーって。部屋の共鳴音っていうか部屋のピーっていうような音が。その部屋その部屋によって音が変わるんですけどね。そんな音になって、画面が白くなって。それを会場でしてました。アートコアのデッキつかって。ビデオデッキ2台いりますので。さしかえて再生してテープいれてつないで……ってやって。

■1976年10月23日第9回現代の造形76(KBSレーザリアムセンター)
「コマ」8ミリ、5分
円形ホールのために最初おもいついたプランは、中央に映写機を置き水平に高速で回す、360°スクリーンの映画で全周を同時に映せるほどの速さでスピンさせる計画を立てた。そして、色やパターンの静止した映像となる計算であった。後のプランは、動いている形や色が静止している時とは異なった姿ではあるがやはり静止として感じられる様子をフィルムに撮りドーム中央に映してみるつもりです。(冊子より 植村さん文章)

植村:この冊子にあるコラージュは内容と関係ないです。いつもこういうとき私はコラージュ。好きですねえ。でも関係ないんです。このレーザリアムは、円形ホールで。円形ホールのための作品です。映写機を真ん中において、360度回転させて、宣伝のくるくる回るやつみたいなのを作ったんです。その上に映写機をのせて、上に向けて、360度まわそうとしたんです。けれど接触が悪くてうまくいかなくて、結局は上に向けて固定して映したんです。360度くるくるくるくる。それは技術的に難しかった。それをすごい速さでまわすっていうのが…目論見がはずれてねえ。できませんでしたねえ。「コマ」は三原色でコマを再現したんですよ。それがねえ、荒さがねえ災いして。装置をもってたんですけれどもうまくいかなくて、実にわるかったけれど上に映しただけだったんです。しかし自分の目的は光になるということでした。ベンハムのコマの実験とかして、たしかに色がつくなあっていうので…それで面白いなあって言って。白黒のパターンだけで、くるっとまわると色が着くって言う。周りに自分がうつっているのを高速にして、色がつくんじゃないかと。それがはずれると光になるんじゃないかって。フィルム自身もはずしてチカチカするようにしたんです。でも、出来んかった。でも失敗やからのうてもいいんですが、記録として残るとカッコええもんじゃないけれども。まあそれも結構。この間発光ダイオードを点滅させてね、一種の機械的じゃなくて原始的に点滅させるので結構フリッカーおこるし実に誰でも出来る技術でね…機械がやるということは面白いんですけどね、時々ね、原始的にしてトラブルにあうけれども、トラブルの惨めさがねえどっちがええかなって。原始的にするべきかブラックボックスみたいにするべきなのか、機械でするべきなのか…。そう、それともうひとつしたことがあります。それは映画で、フィルムでしたことなんですが。3つの三原色のフィルターを…赤とブルーとグリーンで撮るんです。映写機もおんなじようにフィルターをかけますとね、風がふくと白くなったりしてねえ…白くなるときがある。原色が出たりとか。でも、それはプロジェクター3台いります。スクリーンは1枚で。それも確かやりました。京都市の美術館でしましたよ。京都ビエンナーレかな?レーザリアムはひとつの見世物小屋みたいなもんでねえ、昔の見世物ですね。このときよかったのは、今井さんのパフォーマンスがよかったですね。フラッシュを…何人かの人がフラッシュを…要するに真っ暗になったときに写真を撮るんです。シャッシャッシャって…そのとき何事か?っていうときに…それだけですけれども、目に残光が残るでしょ、グリーンとかそういう…結局、見ているひとが不思議な色が自分で発生するっていうのが面白かった。写真もそれでつくっているんじゃないかなあ。撮った写真を…そういったパフォーマンスでしたね。

■1977年映像表現77 10月15日 京都府立文化芸術会館「phase」8ミリ、10分
植村:これは府立文化芸術会館のときですね。そのきはレンズがむすんだ映像をとりだして…人々が…位相っていう作品。フェイズという作品。これは自分がこのつもりでした、と思っているんですけれども。この裸は私。自分で撮ったんです。スチールで。たくさんスチール撮って。ポーズして自動でパチパチっと。セルフタイマーで。自分で走る姿をね。そやからね、ぎこちなさが生きているんですわ。それをコマどりして、それをまたずらすんですわ。位相でね。白を入れたりして。フリッカー的な感じになるから実にぎこちない動きになって結構生きてくるという。止まって動いている風になっている。ぱらぱら漫画みたいになっている。

■1980年映像表現‘80 ビデオで探る「The Kaleido scope」ビデオ

植村:京都市美術館大陳列室。これは、カレイドスコープ。これはねえ、ほんまにカレイドスコープなんです。左目と右目で違うカレイドスコープを見るんです。モニターが2つあってね。それがどうきを狂わすんです。友達に谷中さんて言う人がいまして、彼にギターひいてもらってそれを撮影して再生。即興の演奏だから音楽が流れて。それがカレイドスコープになっている。もう一方もカレイドスコープ。もうひとつのほうは、どうきをはずしましてね、画面から流れましてね、流れますから、それでも手の動きとかはなんとなくわかって、ずれた上でも、実に音楽とシンクロしたどうきのはずれた音なんです。いっぺんに違う目でみて。楽しい面白いものになると思う、見世物として…
坂上:いまでもそういうの見たことないです。
植村:音楽番組でも、バレーでもなんでもいいからカレイドスコープで見ますと美しい映像になって。何でも美しくなって。絵のほうで勝手にうごいてくれるから、音楽ともあって。自動車のエンジンでも、音と映像が一体化したものが見えるんです。こっち側がふつうでもう一方がどうきはずしているからそんなのと違うけど、流れた画面がでるんです。でもそれを一緒に見たら、カレイドスコープにしたら調和のとれた、、、結構その…動きになりますね。あれが面白い。ちょっとわかりにくいです?結構面白い映像になりますねん。カレイドスコープも。これレンズ鏡です。中に映像がでるっていうだけの構造です。それを両方セットしてふたつの穴から見るんです。二つモニターがあって二つの前にひとつとかじゃなくって、二つのまえに二つの鏡がある。おんなじ映像ですけれどもそれでもこっちの映像とこっちの映像がちょっとちがうんですよ。こっちから見ると不思議な感じがするという。同時に両目でみるという。見るときはここに穴、これくらいの穴あいていて、のぞきあな、ちょうど目の間に穴が二つあいていてのぞくんです。一緒にヘッドフォンがあって音が聞こえる。ギター弾いてるけれども見てもギター弾いているってわからないんだけれども、でも何かがうつっているっていう、そんな見世物ですから。デジスタ向きです。あ、それともうひとつしたのを思い出した。のぞき穴を今度は、立体につかわれることになりましてね。カメラを二台使いましてね、ステレオを再編しようということをしてみたくなって、立体テレビを作ろうということになって、立体テレビができたんですよ。覗くと3Dに見えるという。モニターも2台。よくありますでしょう、簡単な立体模型。立体にみえるという造形、ねじれているようなメビウス的な…要するにそういう造形を、彫刻みたいに自分でつくりまして、それをカメラで撮って録画しておいたら、今度はそれが立体に見える。2台でとって2台で再生して、両目でみると3D。そんなこともこのころにしたことあります。
森下:そういう発想がこの時代に何でこういう発想が出てきたのか?
植村:デジスタの世界で。で、面白いなあって。アトラクションみたいな感じですけど。悪いんですけどね。
坂上:今井さんはテープまきまきの写真が写っていますね。
植村:フィルム食べるのしたんじゃないかな。このとき、ビルヴィオラに初めて会いました。名刺を持っていましたよ。文化フェローとかいうポジションで。なんかハードウエアを目指してどうとか。
森下:マイケルもだしていますね。
植村:このときに会ったんですね。このときに彼は1週間うちにとまりました。(お礼のはがきあり)
坂上:美術家で、60年代70年代のあの関心のあったひとたちはぜんぜんいなくなりますね。
森下:学校は芸短のひと。こんな人らでてきてねえ。その前は京都工繊なんですよ。黒崎さんがいて、ここら水野山口みんなそうですよ。まあテクニックの…このひとたちの流れになってきてね、黒崎さんは版画だけど。
坂上:私が幼いころ(70年代前半)親が私を8ミリで撮ってました。残ってます。
植村:大事にしないと。大事に残したほうがいいと思いますよ。結局、映画っていうのはなんとも言えん不思議な出来事ですからね。ただ単に自分自身の問題じゃなくっても、社会性を帯びていましてね、貴重なんですよ。大事にあがめたてても困りますけど、私は結構ええもんだなって思ってます。いまはビデオで簡単になって。でも、編集はつなぐだけでも一苦労で。編集でも一苦労。当時買ったのは、85万しました。本当にずいぶんしました。いまうちにあるのはソニーのスーパーオーディオ。
森下:スーパーオーディオ持っている人はなかなかいませんよ。あれもなかなかねえ。機械に対するご興味は?
植村:機械は、別にあるもんはあるもんで、あったらあったで、使うのがやっぱり大事やしね。新しいからええってことはないけども、いいものやったら。
森下:8ミリのフィルムは今でも教育機関では実習で使っていたりしていますね。簡便だし、色が好きだというひとが多いし、それに質感がある。
植村:あれは代えがたい。映画ですねん。やはり映画ってもんは、普通にあるもんですけど…ものに対するその…なんていうかなあ…感じっていうか…。編集というものが実に単純にできる。フレームだけ数えたら時間も数えられて。実に単純で。それでできるという。まあ、素朴やけど結構おおきなものです。
坂上:昨日(2007年5月2日)偶然、今井祝夫さんと北山義夫さんが画廊にいらので、明日(つまり今日)植村さんにお会いすることをお話したんです。お二人ともよく覚えておられてびっくりでした。ところで、北山さんにきいたのですが、植村さんが虹で展覧会をしていたときに北山さんがみたビデオ。人間の眼球がアップで写されているというもので、何が目にうつっているか聞いたら、太陽が昇ってから沈んでいく姿が写されているときいて、思わず、かっこいい!と叫びましたが。北山さんがそれを見て感激して売ってくれといったら、北山さんがベニスビエンナーレにいくときだったから、お祝いだからあげるっていってプレゼントされたと言っていました。ぜひ見たいですね。
植村:虹での最初の個展のときだったと思います。ビデオは劣化が激しいし、DVDにしないとあかんけれども。音もシンクロして入れていたと思います。生はぼろぼろになったし。あのころのプレイヤーも人に貸したっきりかえってこない。ビデオフォーマットはVHSですけれども、最初のころはポータブルのビデオテープは…ゴールドバーグがなにやら変な本出していましたね、あの時分に皆西洋人がソニーの手ごろなハードウエアを皆持っていましたね。あのときビルヴィオラに初めて会ったけれども、そのときゴールドバーグも一週間ほどうちに泊まっていきまいた。放っておいたら勝手に寝とりました。どっか行って晩に帰ってきて寝とったです。
森下:ビデオをつかわれた最初のころは?
植村:ユーマチックです、最初は。録画するのにポータブルはなくって、オープンリール。7キロくらいあるモノクロデッキを担いでいました。そのときに、カラーのデッキが出ましてね。AV-?をゲットしましてね。やりました。そういうデッキももう全部ないですね。
森下:いろんな機器をおもちだったのですね
植村:ユーマチックのも持っていました。編集用のオープンリールも一応持っていましたね。2台ありました。

■1982年10月5日〜10月11日 映像表現‘82「猫の生活」ビデオ、20秒
植村:猫の片目のアップ。このとき猫を拾っていましてね。キャビネットにして、猫尽くしのインスタレーションですねえ。そんなことやりましたね。こんな手合いをしてね、なんかそういうことをしてフィルムにしたと。
坂上:美術家の映像と植村さんの映像が違うのは、植村さんは細工をほどこしますよね。
植村:わたしはねえ、ジェームズタレルにまかせとこってところがあるんです。みんなしてくらはるんやから。だからタレルさえいてくれたらいいっていうか、原点は一緒っていうかね。そやからあの人がいてくれることで安心してまかせて、わたしはなにもせんといられるっていうかね、。だから自分は日常のなかでさっきいった面をね、いつもどういうことなのかなって言うのをいつも思いますよ。毎日まいにち。変換のときを、それを感じるしかない。それはあるんやから。あせらずに。

■1984年2月28日〜3月4日 点展 アートスペース虹
植村:部屋を真っ暗にした展覧会です。来る人は、暗いところには入れんという発想があって。入って目が慣れてきたら見えてくる、それだけですけどね。15分から20分くらい辛抱してもらうとものが浮かんでくるんです。つまり部屋を真っ暗にして、アルミホイルを小さく穴開けたんです。針穴。ピンホールカメラ。そうするとだんだん外の像がみえてくるんです。それが動くんですよ、あのころ虹のまえは電車が走っていて、京阪電車が走るから…。はっきりと真っ暗な部屋なんだけれども電車が走ったり、それが浮かんでくる…・そのころはタレルをしりませんでした。
タレルみたいにね、私はジェームズタレルが出て来たので、もう私は作品はつくらないでもよくなりました。あれを見たらもう何もすることなくなりました。好きですね。自分の思っていることをダイナミックにしてくれるから。やっぱりスターですね。アメリカのローデンクレーター、いいですね。私は、技術に頼ってるっていうのがあんまり好かんので、写真は電気がいらないというので。暗黒の部屋っていうのは電気がなくって、それで映像が見えるっていうのは大変よかったと思う。あの展覧会はね、電気がのうても上映ができるのがいい。

■1989年2月7日〜2月12日 sound of snow展 アートスペース虹
植村:音楽を流しただけです。ただ、聴くだけの展覧会。お香のにおいを嗅ぐだけの展覧会もしました。でも、においを感じない人もいましてね。それでもう、あかん、と。音楽のときね、それは視覚的にも雪のイメージでね、発泡スチロールを貼ったんですわ、壁とか全面に。それとからっぽのモニターをあけて。

 

 

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植村義夫インタヴュー