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画廊史

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アヅマギャラリー

アヅマギャラリー

寺町仏光寺の額縁屋の経営するギャラリー。1階2階のスペースがあった。田島征彦は1966年頃より3年間ディレクターとして勤務。京都では異色の顔ぶれの作家を紹介した画廊として当時、重要な位置をしめていた。
東京の日本画廊で田島が弟の征三と二人展をした際に中村正義と知り合い、中村氏周辺の作家仲間の展覧会を企画したこと、田島が小牧源太郎と出会いその理念に触れたこと、田島が特徴ある展覧会を企画し続けたこと、ギャラリーオーナーの宮城正一のアートに対する熱い思い、が融合し、アヅマギャラリーの特徴となって現れている。東京の作家が京都で展覧会を持つということや、京都の作家が東京にいくというようないわゆる東西の交流はほとんどない時代に数多くの東京の作家の展覧会を企画し、京都の美術に刺激をもたらした。田島のディレクションによる最初の展覧会は山下菊二展。以降、池田龍雄、中村宏、岡本信二郎、池田満寿夫、鶴岡政男ら東京を中心に活動する前衛作家を取り上げていく。瀬木慎一コレクションによる幕末浮世絵展、W.ヘイターとアトリエ17銅版画展(具体の松谷武判が刷っていた工房)、日和崎尊夫小口木版、染色集団無限大メンバーによる連続個展、水上旬のハプニングによる展覧会や「異色作家シリーズ」と題し、京都の市村司、石原薫、黒崎彰、林剛、柏原えつとむらをとりあげるなど、企画の特異性は特筆すべきものがある。東京の作家の展覧会開催のため運送に美術運送の丸井美術を使い、膨大な金額を注ぎ込んでいったため本業である額縁屋が傾き、画廊はやむなく閉鎖された。

 

アヅマギャラリー展覧会歴(新聞に記録があるもののみ)
アヅマギャラリー=寺町通仏光寺下る

1965年3月?日—3月25日 版画二人展 銅版の古野由男、木版の辻浩が近作小作品を展観。

1965年7月10日−7月20日 石原薫小品展 新制作油絵部協友、画家、近作小品を発表。
この作家の描く人間像は、常識的な生の喜びとか愛の賛歌ではない。人間の内奥にひそむ救いがたい“恥部”みたいなものを詩的、文学的にえぐりながら、人間への愛惜を一層強めさす−不思議な魅力をもつ画風だ。会場にはスケッチ風の小品ぞろいが並んでいるが、甘いロマンをただよわせながら、逆説的作画姿勢が何となく見えかくれしている。「愛」「男女」「樹になる人間」など、よく大作で発表する仕事のデッサンといえるもの。京都在住の新制作油絵部協友。(藤)(京都新聞 1965年7月17日)

1965年11月9日—14日 矢野正直個展(土橋画廊でも)京都在住の洋画家。柿、花と壺などの静物、山を主にした風景、墨による仏頭などを発表。個展中心作家で第六回展=土橋画廊でも同時開催(京都新聞1965年11月13日)

1965年11月15日—21日 ラガイ・ワニス個展 =エジプト、ベニースエーツ生まれ、カイロ美大卒、京都美大で日本画を研究中。人物、風景の油絵と水彩画15点を発表。(京都新聞1965年11月13日)
=エジプト、ベニースエーフ出身の若手画家。カイロ美大を卒業後、再度日本を訪れ、現在京都美大で日本画を研究中。京都では初個展で油絵、水彩などによる人物、風景画約20点を発表。(京都新聞1965年11月20日)

1965年11月22日—28日 ビル・ペイデン個展「今週の画廊から ビル・ペイデン個展」今年の京都版画家集団展に初めて、原色あざやかな作品を発表した。米インディアナ州出身の35歳の画家だ。2年前来日、いらい京都に住みつき今度が初めての個展。風景や人物群像あわせて二十数点の油絵、水彩画に共通していえることは、荒っぽい描法の中にある色感の特異さと躍動感だ。猛り狂う人物像はともかく「丘」「池」など風景画にしても、そこにはフォービックな色彩の躍動感とリズム感がある。非常に人間臭さをもつ作家だ。(京都新聞1965年11月27日)

1965年12月6日—12日 市川洋個展=東丘社?所属、画家、抽象十数点。(京都新聞1965年12月4日)
「市川洋展」堂本印象○塾「東丘社の塾生。日本画の抽象をめざす  の中でもオブジェ的な仕事をする作家は○○○な存在だ。もちろん即物的なオブジェ作家ではなく、たとえ画面に動物の毛皮やマチ針、ワッペンなどを登場させても、それらが人間とか生き物といった具象的な対象物の“装飾具”にとどまっている。会場に流れる前衛音楽?の効果もあって、一種の無気味さがただよってはいるが、この妖気があまり○○的だと不快感を○○○がち、○○から画面までの距離がより深まれば、真の妖気が生まれ、それなりに一つの美へ昇華されるのではあるまいか。(京都新聞1965年12月11日)

1965年12月15日—12月22日 版画三人展=木版の辻浩、銅版の古野由男、石版の井田照一。
「版画三人展」京都版画界の草分け的存在の古野由男と、中堅若手ホープの辻浩、井田照一の三人が組んで、それぞれ7、8点ずつを発表している。近年、注目されている若手の井田照一は石版。暖かい色調による抽象的なフォルムそのものに、セクシャルなユーモアを表現している。????などを全く??せず、純粋に“色と形”だけで勝負していく態度は、期待を抱かせる。木版の辻も明快なフォルムにささえられて、日本画風な純粋??めざす。銅版の古野は???しくエッチング、ドライポイントなどの技術を併用。小さな世界だが、青の作品などは激しい。(京都新聞1965年12月16日)

1966年1月?日—1月18日 ロレンス・オニール個展「ロレンス・オニール個展」京都市北区にある小山カトリック教会の神父さん。米ニューヨークの出身で「神父になれなかったら画家になりたかった」と語るほど、作品も余技の域を脱している。初めての個展で小品30数点。モチーフも鯉のぼり、お宮、力士、花嫁など日本的なものが多く、描法にも“墨”の世界を導入している。外人の描く“文人画”といった印象だ。和紙のにじむ墨の跡、印刷物のコラージュ(はり合わせ)さらにエッチング・・・・・・・など、いろんな技法をとりまぜての東洋的な作品だが、半面私小説的な体臭が伝わってくる。墨やインクを用いた「フクロウ」や線描の人物図などが楽しい。(京都新聞1966年1月16日)

1966年2月?日—2月8日 中井史郎作品展「今週の画廊から 中井史郎作品展」宇治市在住の二科会友、若手画家。“サーカス”をテーマにした小品15点。ピエロとか木馬、サーカス小屋などが発想にあっても、極端に抽象化されているため、具象性はあまりない。「古い木馬」「ピエロ」「タネアカシ」「旅と夜」といった小品は、シャ脱な感覚でデフォルメされ、水々しい色感で心象表現されている。(京都新聞1966年2月5日)

1966年2月9日—2月16日 位双小品展=日本画塾「東丘社」の中堅塾員9人が、日本画を展観。府ギャラリーの「位双展」の小品展。(京都新聞1966年2月12日)

1966年3月?日—3月22日 斉藤光保個展=若手抽象画家。ギャラリー16での大作点とタイアップした小品展。(京都新聞1966年3月19日)

1966年3月23日—3月29日 染色四人展 府ギャラリーで開催中の黒田聡、寺石正作、来野月乙、三浦景生四人展の第二会場。小品を展示。(26日まで)(京都新聞1966年3月26日)

1966年5月?日—5月22日 ジャック・マドソン個展=米出身の画家。(京都新聞1966年5月14日)
米ミルウォーキー出身の画家。現在、京都に住みつき“旅空”という日本名まであって、日本の風物をヒントにあざやかな抽象絵画を制作している。昨年の二紀展では「太陽の踊り」が奨励賞となった。今回の個展には小品を中心に約30点を発表。油絵の具、クレパスなどいろんな絵の具を用い、吹き付け技法も導入して、やや工芸的に小さくまとまりすぎたきらいもある。(京都新聞1966年5月21日)

1966年5月23日—6月5日 山下菊二展=東京で活躍するシュール系画家。(京都新聞1966年5月21日)
「今週の画廊から 山下菊二展」現代日本異色作家シリーズと銘打って、今週から積極的に画廊企画展を続けるという。その第一回展にシュール系の山下菊二を紹介。会場には異様な熱気を感じさす大作、小品が20点ほど並んでいる。1953年作「あけぼの村物語」は、山梨県身延山ろくの村で現実に起きた地主横暴事件を取り上げた大作。しいたげられる農民の悲惨なドラマが、一枚の画面の中で展開し、事件を知って描かずにはいられなかった作家の“悲しみと怒り”が伝わってくる。母の死をテーマにした1966年作「死んだ人がわたしを産んでくれた」花火づくりの貧しい一家を描いた1955年作「生活戦線」さらに感能的なシュールの1965年作「見られぬ祭」にしても、密教的概念とでもいうべき怪異さがチ密な描写力に裏打ちされ、ヒューマンな発言となって訴えてくる。形式は新奇なものではないが、日本の風土が生んだユニークなシュール・レアリストだといえよう。写真は「死んだ人がわたしを産んでくれた」(藤)(京都新聞1966年5月28日)

1966年6月6日—6月19日 中村宏個展=現代日本異色作家シリーズの第二弾)=日大芸術科卒。観光芸術を提起する若手画家。(京都新聞1966年6月12日)

1966年6月20日—6月26日 セト・カザン個展=1940年、レバノン・ベイルート生まれの抽象作家。アメリカの美術学校、フランスのアカデミー・ド・ボーに学び、昨年来日。現在、京都在住。(京都新聞1966年6月18日)

1966年6月27日—7月2日 中井史郎個展=二科会所属。今回もエア・ポートをテーマにした、一連の作品10点を発表。(京都新聞1966年6月25日)

1966年7月4日—7月10日 松岡宏一個展=京都アンデパンダン展に出品する新進。塗装に使用されるような石膏、ベニヤ板などによる抽象作品10点を発表。(京都新聞1966年7月2日)

1966年7月11日—7月17日 中尾一枝個展=二科会展入選7回。現無所属。ほとんど墨ばかりで制作する67歳の作家。(京都新聞1966年7月9日)

1966年7月18日—7月24日 岡本庄平個展=昨年、京都美大日本画科卒。人物をテーマにした半具象的作品26点。(京都新聞1966年7月16日)
「アヅマギャラリー賞 新人育成めざして設ける」作家の作品発表の場としての画廊で、画廊賞を制定、来年度から発足させようという計画が進められている。企画したのはアヅマギャラリー(京都市下京区寺町通仏光寺下ル)これまで現代日本異色作家展などユニークな企画を続けているが、このほど発表の場の提供にあわせて新人育成をめざそうと賞を設けた。賞は「アヅマギャラリー賞」と名付け、毎年一年間、同ギャラリーで開かれた個展を対象に優秀作家を一人選び、受賞者には同賞のほか副賞10万円。審査には乾由明、藤枝晃雄、小牧源太郎各氏があたり、第一回は昭和42年1月9日—12月末日までの個展を対象に選ぶ。(京都新聞1966年7月16日)

1966年7月24日—7月31日(8月7日?) 市村司、村上泰造展=現代日本異色さかシリーズの第三弾。市村は京都青年美術作家集団を結成、活躍する。現在、アートクラブ会員。デコラの上にマジック、油絵具などでチ密に描いた作品を発表。村上は行動美術協会所属で、木彫。(京都新聞1966年7月23日)
=現代日本異色作家シリーズの第三回展。市村は青美作家集団を結成、現在アートクラブ会員。デコラの上に油やマジックなどでチ密に描いた作品を発表。村上は行動美術協会所属で、木彫とモビール。(7日まで)(京都新聞1966年7月30日)

1966年8月8日—8月14日 田島征彦個展=京美大卒。染色集団「無限大」で活躍する若手。先に東京で開いた個展から布地や和紙に染めた白黒の型染作品を発表。(京都新聞1966年8月6日)
「“生きる”人間の姿 田島征彦個展」ドキリとした。むせかえる体臭。うごめく群像。それらが一つのかたまりになってどっとノシかかる。会場の壁面にスキ間もないばかりに並べられた作品のせいかも知れない。が、それはともかく、なんと多くの人間がひしめき合っていることか。男性と女性。大人がいる。こどももいる。そしてあるものは快楽に酔いしれ、あるものは阿鼻叫喚し、あるものは逃げまどい、あるものは胸をうって叫ぶ。姿、行動はさまざま。だが、その群衆に共通するのは一つだ。ひたすらに生きる素朴な人間の姿なのであろう。そこには善悪、真偽、正邪といった堅苦しい倫理にしばられた小児病的な深刻感、絶望感はない。むしろ、すべての人間行動のなかにひそむユーモア、人間性をくみ上げようとする作者独自のシニカルな態度が見えるようだ。渋紙にパターンを彫り抜き、ノリで防染。何度も色を重ねて染め上げて行く型染めをタブロー化した作品はユニーク。黒白一色に統一した画面が、自称“いごっそう(土佐の方言 一本気)”な作者の追求も効果的だ。が、いささか文学的な饒舌さが気になる。型染めという技法上の制約なのだろうか。ねり上げた構成の段階での整理が必要なのではあるまいか。京美大卒。現在染色集団「無限大」に所属。今回が四度目の個展である。先に開かれた現代日本美術展日本画部に入選。ベニヤ四枚の大作13点のほか小品12点を発表している。(杉)(京都新聞1966年8月13日)

1966年8月15日—8月21日 田島征三個展=多摩美大図案科卒。独特の方法による水墨画を発表。無限大の田島征彦とは双生児の兄弟。(京都新聞1966年8月13日)
「社会不安への抵抗 田島征三個展」一人の女性がそのみにくくふくれ上がったシ体をあられもなく露出して仰天。それを取りかこむハダカの人間の群れが、何んの苦しみも悲しみもない表情で、ポッカリ開いた一部分を凝視する。また一方には不気味な尾をつけた人間が尾をひきづり、分泌物を排せつしてくるったようにもだえ、さらにはハ虫類のように大きくみだらな口をあけて分身を吹き出す人間もいる—。暗い、しかも少しのはなやかさもない画面に描かれる人間はまるで、ある醜い、不潔な一部分にのみ生きている感じさえ与える。それはまた、絶望的な快楽の集まりのような印象でもある。だが、そこには巨大な現代の社会がくりひろげる不正、不公平などのよのなかで、弱々しい人間が最後の武器で示そうとする抵抗を暗示するようだ。デカダンスな意識も見える。しかし、その訴えには被害者意識はない。むしろ、アイロニーに満ちたあざ笑いであり、作者のたくましい思想がのぞくようでもある。和紙に墨で絵を描き、ゴフンを上から垂らし込ませて定着させる独特の技法。黒と白のコントラストはある種の偏質なうねりを押えて効果的に語りかける。ただところどころににじんで、ハミ出した墨に情緒的なあいまいさが残るのは否定できない。多摩美大図案科卒。現在、民話のイラストなども描いており、同展にも十数点を発表。作品としては水墨のタブローに見るべきものがあるようだ。京都での個展はこんどがはじめて。「作品」田島征三個展から。(杉)(京都新聞1966年8月20日)

1966年8月22日—8月28日 新井豊個展=栃木県在住で、日本表現派会員。100号—20号の日本画十数点を発表。(京都新聞1966年8月20日)

1966年8月29日—9月4日 近藤文雄個展=画廊企画「現代日本異色作家シリーズの四回目。愛知県立豊橋工高教諭。前衛美術会員。点描によるシュールな作品を並べる。(京都新聞1966年8月27日)
「知的なユーモア 近藤文雄個展」社会派的な発想が根底にあるのだろう。そこにはメカニカルな現代の社会機構のなかにくりひろげられるさまざまな人間の意識下の世界が強烈な風刺をともないからまってあった。軟体動物に属する生きもののように無感動な目の場合、みだらに垂れ下がった冗舌ごう慢で、虚栄にみちたみにくい鼻、そして深海魚のように内蔵を露出させるグロテスクな胸—イニシアルで説明された一連の肖像に見る怪異醜悪な表情はある意味では無益にうめき、泣き、笑い、もがいて生きる絶望的な人間の集りのようにも見える。が、それはまた、巨大な現代社会にうごめくワイ小な人間の姿のなかにいましも喪失しようとしているものに対する作者の反抗でもあるのだろう。日本画用の細い筆(面相)でかかれたはなやかさもない画面にはある種のグロテスクな意思的な傾斜を暗示させる。しかし、その訴えには陰湿な意識はない。むしろ、ユーモアに満ちた知的で、幻想的な世界であり、そこにくみ上げようとする作者のシニカルな態度がのぞくようである。愛知学芸大卒で、現在、高校教諭、前衛美術会会員。こんどの個展は先の東京展に続いて開いたもので、作品は「S氏の肖像」「A氏の肖像」など一連のシリーズをはじめ、40点を発表。(杉)(京都新聞1966年9月3日)

1966年9月5日—9月11日 広江泰明個展=昨年、京都美大専攻科卒の若手で現在浪速短大講師。石版画の近作20数点を発表。(京都新聞1966年9月3日)

1966年9月12日—9月25日 中村正義個展=現代日本異色作家シリーズの第五回展。作者は川崎市出身。元日展(日本画)審査員で、現在は無所属。油絵絵画約30点を並べる。(京都新聞1966年9月10日)
「今週の画廊から 中村正義個展」中村正義は、数年前に日展を脱退したが、その在籍当時は日展の鬼才とうたわれた。二十代で特選二回とり、三十余歳で早くも審査員におされた。その作品は大家と共に一作一作注目となり、日展ばなれがしていた。彼の画才からすれば脱退は自然であったかもしれない。近年人間をひたすらに追求している。それは姿、形ではない。その本然にひそむものである。どん底、色欲、名誉欲、その他あらゆる欲望のかたまりの中に人間のありのままの姿を見つけ出そうとする。しかしこれをおおう虚飾に得てして目をうばわれ、ゴマかされる。言葉もそうである。マサヨシはこれらを鋭く追求し、赤裸々な人間像を描き出している。しかも、赤、緑、青などの原色を使って、隠し立てやゴマカシのムードを出さずに。一見落書きのように見えるこれらの作品から人間ピエロの姿をのぞかせ、逆にあわれさを誘う。(竜((京都新聞1966年9月17日)
中村正義=現代日本異色作家シリーズの第五回。作家は豊橋市出身で、元日展審査員、特選2回、白寿賞受賞。(京都新聞1966年9月17日)

1966年?月?日—10月9日 池田竜雄個展「今週の画廊から 池田竜雄個展」楕円のなかにひしめき合う人間群、先鋭なテクノロジー。それぞれが息をつまらせ、もがき自己の存在をけんそうに主張でもするかのように見える。「楕円空間」と名付けられた一連の作品だ。すべてを内在して象徴的に描かれる楕円—それは円でもなければ線でもない。が逆説的にいえばあるときは円、またあるときは線としての変態のひろがりさえ持つ。ある意味では、“虚の世界”であり、現代の一側面を図式化している印象さえ与えるのだ。そして、そのなかには絶望的な快楽にうごめく、弱々しい人間の抵抗がのぞくようである。一片のはなやかさもないモノクロームな画面には一見、グロテスクな交錯が展開。デカダンスな意識も見える。が、その訴えはただ怪異醜悪という表現だけでは片付けられまい。むしろ、そこには作者のアイロニー、痛快で、知的な現代批判が露呈する。同展にはほかに「百仮面」と題しシュールな作品二十数点を発表。作品としては「楕円空間」が興味深い。京都での個展はこんどがはじめて。(杉)(京都新聞1966年10月1日)

1966年10月9日—10月16日 大島哲以個展=中村貞以塾にはいり、院展に出品したり、テレビのタイトルバック、雑誌のカットなどをかいたりしていたが、三年前、新制作出品画を羽黒洞の本村東介に認められ、作家生活にはいる。内部意識を表現することが目的だという。画廊企画の現代日本異色作家展の第七回。京都でははじめての個展。(京都新聞1966年10月8日)
「大島哲以展」なんと不意味な人間の集りなのであろう。男性がいる。女性がいる。そして子どもが・・・。しかし、それらはもはや人間の表情さえ失ってうごき、ひしめき、叫ぶのである。あるものはみだらな笑いをたたえて酔いしれ、自分の内蔵を露出してなおも追求。また一方ではハ虫類のような表情をたたえた人間が怪奇で、土俗的なセレモニーをくりひろげる。暗く、しかも不道徳な色彩にみちた画面にえがかれる人間群のすべてはまるで絶望的な快楽の一瞬のみ生きているような世界を思わせる。それはまた巨大な現代の社会構造のなかで、にげ口をふさがれた人間の限界状態での血みどろな様相の暗示を見るようだ。作者もそこに喰う極の人間の表象を見るのだろう。悲そうにみちた画面、不気味な色彩だが、その根底は健康的な視角でとらえたきびしい文明批評を感じないわけにはいかない。いささか文学的な饒舌さは気になる。たん美にすぎたあいまいさの残るものも否定できない。大阪市出身。先に東京で開かれた「これが日本画だ」展では高い評価を受けた作家である。(京都新聞1966年10月15日)

1966年10月18日—10月23日 ウィリアム・ペイデン個展=アメリカ・インジアナ州出身の作家。三年前来日、日本版画協会展に入選したこともあり、現在、京都版画家集団会員。水彩、日本画の顔料を使ってあざやかな色彩で表現した作品など27点。(京都新聞1966年10月15日)

1966年10月24日—11月6日 ヘイターとアトリエ17展「日本初のグループ展 ヘイターとアトリエ17展」国際的な版画家として知られるW.ヘイターの近作と彼の“アトリエ17”で研究中の作家の作品を集めた「ヘイターとアトリエ17銅版画展」が24日から二週間、下京区寺町仏光寺下ル、アヅマギャラリーで開かれる。ヘイターは1901年、ロンドンの東部ハクニーの出身。1927年、版画研究センターとしてアトリエ17を結成、依頼半がの芸術運動をくりひろげ、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られた作家で現在なお国際舞台の一線で活躍を続けている。版画指導にはとくに定評があり、彼のアトリエの門をたたいた作家にはピカソ、ミロ、エルンスト、アルプがいる。こんどの企画はさる7月、チェコのプラハで開かれた国際美術教育会場に出席した京都版画家集団の古野由男がたまたまパリのアトリエをたずねたのを機に、話がまとまったもの。同アトリエのグループ展が日本で開かれるのは今回がはじめて。出品されるのは先にニューヨークで開いたグループ展のなかから選抜した作品で、作家はヘイターのほか、クリシナ・レデディ(インド)ローセンス・ヘイマン(アメリカ)イシュ・デ・バウンガル(ドイツ)に、日本から吉田堅治、長谷川彰、矢切剛をふくめて7人。(京都新聞1966年10月21日)
「ヘイターとアトリエ17銅版画展」ヘイターは1901年ロンドン生まれ。1927年、版画研究センターとしてアトリエ17を結成。以来版画芸術運動を起こし、活躍する作家。今回はヘイターとアトリエ17が先にアメリカで開いた展覧会から選抜した7人の作家を集める。(京都新聞1966年10月29日)

1966年11月7日—11月13日 山本六郎個展=京美大日本画科専攻修、京都在住の若手作家。(京都新聞1966年11月5日)
「今週の画廊から 山本六郎展」きびしい自然にさらされた木立ちのゆらぎをとらえた風景画が十数点。墨とごふんで描き上げた作品である。一見、無表情にさえかえる画面。そこには暖かさ、親しみといった情緒の否定を感じたとしても不思議はあるまい。だが、そのひややかさなのに、新鮮な視覚をともなったイメージが豊かな展開を思わすようだ。それはまた、様式的な作調に固執するある種の動きに対して新しい個性をくみ上げようとする作者のシニカルな姿勢でもあるのだろう。職人的な技術で描き上げられた「晴嵐」「?」「?」などにはたしかな論理の集約が見える。だが「底」などには図式的な甘さを否定できないようだ。京美大卒。かつて新制作に出品していたこともあるが現在は無所属。(杉)(京都新聞1966年11月12日)

1966年11月14日—11月27日 岡本信治郎個展=10年前、ヨシダ・ヨシエ、尾野勝らとグループ「新制作展」を結成。先般開いた絵画のミュージカル「十人のインデアン」虫の大群を主婦にしたSF絵画「虫世界」は注目を集めた。(京都新聞1966年11月12日)
「今週の画廊から 岡本信治郎展」明解な色彩と簡潔な形体がかたまりのなかでからみ合い、もつれ、リズミカルな視覚さえともなって展開する。「モウモウドクブツダラケ」「00ボイーン」「クツオトン」・・・・・・と題した作品だ。作者は先に絵画のミュージカル「十人のインディアン」虫の大群を主題にしたSF絵画「虫世界」や「聖風景」などユニークなシリーズを発表、注目を集めたが、こんどもそのなかから選んだものである。多忙で、喧噪な現代の日常生活。全体的にいえば、いかにも生き生きとした連帯的なくりかえしで、とりまかれているようにも見える。だが、そんな集団もある側面にしらじらしたコミュニケーション、共属感を持てない集まりが存在するのは否定できない。こうした現代認識を基盤にした指向が作者の背骨になっているのだろう。グラフィックに整理された画面に明白な意識の表出がのぞくようだ。だが、それは虚無感、疎外感といったイメージ的なものではない。そんな形骸化したことばを越えて拡大化された触覚的な共感が見えるようだ。「虫世界」「聖風景」のほかに「私のちゃんばら体験記」を発表しているが、叙情的な揺らぎを感じさせ、視覚的なひろがりを規制する問題が含まれるようでもある。(京都新聞1966年11月19日)

1966年11月28日—12月4日 宮本浩二個展

1966年12月5日—12月11日 橋本竜美展=現代日本異色作家展の最終回。作家は富山県出身。新制作協所属。(京都新聞1966年12月3日)
「今週の画廊から 橋本竜美個展」無気味な妖怪変化がにぎやかな祭儀をくりひろげて並ぶ。さしずめ、化けもののマンダラとでもいえそうな画面だ。一つ目の地蔵“三つ目仏像”カリカチュア化されたタヌキがいればキツネもいる。いずれも、古典的な説話文学から抜け出してきたような主人公たちである。作者の指向もそこにあるのだろう。土俗的な祭儀、民話への回帰が背骨になっているのは見のがせない。そしてそれは、われわれの心のなかに持続する幼い“記憶”に、スキ間感のような冷たさをもってひきもどしてくれるようでもあるのだ。黒白の画面。細い線で緻密に描いた化けもの。きびきびとした高い風土性が新鮮な効果を見せる。一見、アナクロニズムな側面がのぞくのも否定できない。が、むしろそこには趣味的な発想、伝統認識をこえた、たしかな追求が、前時代的な視覚を問題としない迫力を表出させるのだ。「化狸」「化地蔵」「化寺」「祭馬」など十数点を発表している。作者は新潟県出身、現在東京在住。新制作協会協友、先の新制作展で新作家賞、現代美術展コンクール部門で優秀賞を受賞している。(京都新聞1966年12月10日)

1967年1月?日—1月15日 S.W.ヘイターとアトリエ17銅版画展

1967年1月16日—1月22日 中島光明個展=京美大日本画専攻科卒
現在加悦谷美術研究所を設け、絵画教室、演劇活動を続ける。砂をボンドでかためた「素朴な造形」などの作品。(京都新聞1967年1月14日)

1967年1月23日—1月29日 ビル・J・クレメント個展=「黒と白の絵画展」と題した作品発表。(京都新聞1967年1月21日)
黒と白の絵画展、ウイリアム・J・クレメント(オーストラリア生まれの日本留学生)(夕刊京都1967年1月20日)
「東京転任の藤枝氏にかわって森啓氏 アヅマギャラリー賞審査員」下京区寺町仏光寺下ルアヅマギャラリーでは昨年7月に、ことし1月から12月末まで同画廊で発表する作家(企画展をのぞく)を対象に、新しい創造と実験の場としての画廊の役割りからアヅマギャラリー賞を設けたが、その専攻委員三人乾由明、小牧源太郎、藤枝晃雄三氏の内、藤枝晃雄氏がこんど武蔵野芸大教授に栄転されるので、その代わりとして大阪芸大教授の森啓氏を委託した。同賞は同画廊で一年間に発表した作品中から以上の三選者によってえらばれ、賞と副賞10万円が贈られる。佳作若干名、第一回はこの1月9日から本年12月末まで。(夕刊京都1967年1月20日)

1967年1月20日—2月5日 松沢宥展
「美術 風変わりな個展 半文明の創造? 松沢宥個展V・1010」“汝はプサイの椅子に腰をおろし、無のカンバスに対面し、指示された方法によって眼によらずに虚の世界、死を創造せよ”という指示のもとに開かれた風変わりな個展である。会場にはいると紅白の布をのせた丸い九つのワライスが床に置かれ、壁面の額は白一色といった室内である。H.ウェルズによれば「これは現代美術というより未来芸術です。直接芸術(感覚を通さずに直接感応する芸術)です。絵のない美術展、音のない音楽会・・・・・・中略、この恐ろしい個展の作家松沢宥はつとに虚空間状況探知センターにこもって虚の世界の探知を指示し、1964年に非感覚絵画を発見して以来反文明を唱えまたバニシングス(消滅事)を発見した」という。目にたよらずイデーだけの絵画 未来の芸術表現というか。芸術とも哲学とも宗教ともいえぬ東洋哲学を根底とした反文明の創造の第一声とも見られる提唱で、中でもバニシングスの発見については人間を例にすれば成長期、充実期などの上昇期をきわめると下降に向かうときすでにバニシングスが始まる、といい、現象でも行為でも部分を見、部分を示す、これもまたバニシングスだと説く。松沢氏は1921年長野県諏訪生まれ、早大建築科卒、前衛詩を書き、後絵画に進んだが七年前に渡米してコロンビア大学で現代文化の講義を受けてから、とくにテレパシーについて研究を重ねた。5年前から予測絵画を提唱し、大いに非感覚絵画ととり組んでいる人。(夕刊京都1967年2月3日)

1967年2月6日—2月12日 額縁展

1967年2月13日—2月19日 現代日本異色作家展=昨年一年間にわたって続けた企画シリーズの総合展。作家は近藤文雄、中村宏、山下菊二、中村正義、橋本龍美、岡本信治郎、池田龍雄、大島哲以、市村司。(京都新聞1967年2月11日)
同ギャラリーが昨年一年間企画し、実施した一連のシリーズを総合的にまとめたもの。メンバーは中村宏、山下菊二、中村正義、橋本龍美、岡本信治郎、池田龍雄、市村司、近藤文雄、大島哲以。(夕刊京都 1966年2月17日)
「新作をそろえる “異色作家”の総合展 異色作家総合作品展=昨年一ヶ年にわたって「現代日本異色作家展」と銘打った企画展を展開してきたアヅマギャラリー—寺町仏光寺—が、そのメンバーによびかけて総合的な作品展を開いている。どの人もかき下ろしの新作を出品してきたのが大きな特徴で、なかなかおもしろい会場になった。近藤文雄は面相とよぶ日本画の細筆を克明に使って描く描法で「久しぶりに会った人」というテーマのシリーズを出している。わき出るイメージや手やツメや車のふしぎな組み合わせにだぶらせている幻想的な小品である。知的で、少々ユーモラスでおもしろい。愛知県立豊橋高校で教えている。山下菊二は東京在住、四国生まれ、ぶきみなほど時世に敏感で風刺的な絵をかくが「タマをみよ」「証言」「口で結んだ二人」などの題名でもわかるようにヒューマンな発言が多い。反修正正義集団や迷信に反対といった文句もちゃんと書き込まれている。メンバーきってのシュールリアリストというべく、その七点は暗い色で押えられている。佐賀生まれ、東京芸大卒の池田竜雄はペン画、オブジェ、イラストなど幅広い活躍をしているが、こんどの作品は怪奇的で、グロテスクでさえある。大島哲以(1点)は大阪出身、ハクを置きこまかい色彩を置く日本画調の作品。東京っ子で、しかも神田の生まれ。明るい黄色などをよく使う岡本信治郎は50号ほどの黄色地に「愚人の家」と称する線だけの二階家を描いている。まんが調といえばいえる絵だが、みつめていると視覚的なひろがりを感じるのはふしぎ。橋本竜美は人型の出身だそうだが、土俗的な民間信仰といったものに関心が深く、いつもカッパやキツネや地蔵さんが出て来る画面。こんどの作品3点も細いこまかい筆ばかりで「お地蔵さん」が主人公である。昔語りをきくようなほほえましさがある。新制作の協友。ただ一人の京都作家市村司は京都青年美術作家集団を主催するアートクラブの会員、多彩な油絵の具をこってりとかたまらせているが、さすがに明るく澄んでいる2点を出品。これに中村正義がおくれて出品する予定。現代日本異色作家の名にそむかぬ異色の展覧会だ。(夕刊京都1966年2月17日)

1967年2月20日—26日 山田彌一個展
=名古屋市出身。愛知教大卒。ニューヨークで開かれた日本14人作家展のほか、シェル美術賞展、現代日本美術展などに入賞している作家。(京都新聞1967年2月18日)
「世相をえぐり出す 山田彌一個展 現代版“餓鬼草子”」餓鬼道に落ちた諸餓鬼の話を線描きにした、平安末から鎌倉時代の絵巻き「餓鬼草子」をおもわせる作品ばかりを手がけている名古屋在住の若い作家、山田彌一の個展が、アヅマギャラリーで開かれている。ただし、この昭和の餓鬼草子(?)「太郎と花子」と銘打ったシリーズで、春陽会に出品し、会友として受賞した画歴を有している山田彌一の近作。和紙にうごめく何かの形を見て見きわめようと近づくと、どれも胎児そっくりの形をして、あちこち体をのばしたり、ちぢめたり無気味な集団となっている。No.の数字をつけたロボットのようでもあるが、その集団の動きが美しい画面となり、動感をさそう。和紙を切りにおてはってふちを絵の具でとった仕事はなかなか美しい。洗練された筆致ではないが、それがまたおもしろい線になっている。愛知教育大美術家卒、米・ニューヨークで日本の14人作家展出品。シェル美術賞受賞(佳作)国際青年美術展入選。(夕刊京都1966年2月24日)

1967年2月27日—3月5日 村田吉男=京都在住、一陽会所属作家。抽象的な作品十数点を発表。(京都新聞1967年2月25日)

1967年3月6日—3月12日 増地保男個展

1967年3月13日—3月19日 額縁展

1967年3月20日—3月26日 瀬間高角個展「均整とれた色の構成“見てほしいのは「線」・・・・・・瀬間高角との対話」
—たいへんな細密画ですね。めんそう(面相・・・一番細い筆のこと)ばかりで描くのですって・・・・・・
S 5ミリ平方のスペースがあいていれば描き込みたくなる。密度を高めたい。そう思っているのですけど、なかなか大きいものだと埋ずまらない。まだまだ足りません。
—ベニヤ板にもめんの布張って、油絵でかいたのと水性塗料で描いたのと二種ありますね。また、布や紙やコラージュ(張り絵)の部分もありますね。複雑怪奇な形をぎっしり描きこんでそれがかもし出す色感がおもしろい。
S ところが僕にとって色なんて二義的なものなんです。ただこの平たい画面が、区別しやすいから彩色しているというつもりで、ほんとに見てほしいのは、僕の場合「線」なんです。白黒でもその意味ではいいのです。
—全体として均整がとれ、いいバランスで色の構成ができていますよ。全体を考えずに、部分部分描いて行くのですか。
S まん延して行く、そんな感じなんだな。つぎからつぎへ・・・・・・。
—シミに興味があるんですって?水のこぼれた形、雨もりのシミ、すべて汚染(シミ)のかたちからイメージが発展して行くのですね。
S そうなんです.中尊寺展を見ても、他は見ない。ミイラが着ていたきものの残欠の形がおもしろくて、そればかりみてきました。
—描いている形は胎児みたい。女体もある、気味のわるいの、リアルな美人、いろいろですね。
S 森羅万象に対する愛憎のかたちが一番多いでしょうね。ぼんのう断ちがたい人間に興味があります。
—他にも胎児をモチーフにする人、いたわね。共通していますね。
S いろいろなものを省いていって究極のところへ行くとそうなるのですね。だから卵—から5体そろった人の形となり、それが二つ合わさってまた、染色体のような二つの形ができ—一つの卵のような形をとるといった発展がこの中にもよくとり上げられています。本能のおもむくままもあれば、も少し整理した形もあって、生々流転といった表現もあります。
—こうした作品をはじめてからどのくらい?
S 10年になります。甘くリリシズムを追って行きがちなのをしめてばいますが、ほんとうはもっと文学性を入れて大ロマン、大叙事詩を時がきたらかいてみたいと思います。それまでには、もっとチ密に、もっと密度を高めて、自分で満足できるこの形を追求することに集中したい。3号のチ密さで100号を描きたいと思っています。=愛知生まれ、愛知学大美術科前期終了、毎日現代美術展、毎日美術コンクール等に出品。画像 現象としての人間「桎梏の中で」(夕刊京都1967年3月24日)

1967年3月27日—4月2日 石原薫個展=新制作油絵部協友。プラスティック性絵具による作品と戯画を発表。(京都新聞1967年3月25日)
プラスチック性絵の具とキャンバスによる(夕刊京都1967年3月24日)
「男女関係を正面切ってえぐる・・・石原薫展」先に紅画廊で個展をしたばかりの石原薫がまた個展をひらいてタフなところを見せている。こんどは米国からとりよせたというプラスチック性絵の具とキャンバスを使ったシュール調の作品に、15ミリ四角の特殊ケントにマッチの細い軸で描いた奇妙な線画の日本立て。テーマは、男と女の存在する現実のもとで、万事トラブルはここから発しているという、その男女関係を回避することなく正面きってえぐり、それによって明るく解決する一助ともしたいというので、戯画ではあるがかなりきわどい線まで行っている。しかし、あくどい、いやみなところを感じさせないのがこの人のトクというべいものであろうか。こまかに全体を見ずともまんだらのような大きい画面にハギ合わせた壁面はなかなかおもしろい。(夕刊京都1967年3月31日)

1967年4月3日—4月9日 加藤勲・三田松一郎二人展=いずれも昨年、金沢美大を卒業した若手。(京都新聞1967年4月1日)
「白の扱い方はまだ・・・加藤 三田 生かし切れてない発想 2人展」2人は加藤勲、三田松一郎で、ともに金沢美大油絵科を昨年卒業している。加藤はベニヤに厚紙を切ってはってペンキを塗りたくる手法で数字を扱っている。白く塗りつぶした画面、黒のペンキで、数字をならべ、それがだんだんに欠けて、しまいに消え去って行く過程をとらえた効果をねらっているが、惜しいことは、白の生地とか立体的な面の扱い方などがあらあらしく、ことに白の扱い方に神経が通っている。三田の方はキャンバスのもつクッションを利用してキ張面な性格そのまま刻んだり、描いたり、丹念に赤やみどりの花ビラのような形をつらねて行く。たいへん手間と時間がかかるものらしいが、まだ発想のままに展開し表現にうつすゆとりはない。まじめな仕事ぶりである。(夕刊京都1967年4月7日)

1967年4月9日—4月30日 ポーランド現代版画展「10日からポーランド現代版画展」アヅマギャラリー(寺町仏光寺)ではこのほどポーランドを代表する22人の作家による「ポーランド現代版画賞」を開催することになった。同画廊では昨年、パリのアトリエ門銅版画を催したが、これに続くこんどのポーランド現代版画展は、4月10日—16日を前期として26点の作品を展示、17日—23日を中期、24日—30日を後期の三期に分けて各26点余、計100点近い作品を展示する。この規模のポーランド現代版画展は東京で2月行われたほか、関西でははじめて。(夕刊京都1967年4月7日)
「明日からポーランド現代版画展」昨年、パリのアトリエ17銅版画展を開いたアヅマギャラリーでは9日から3週間の会期で、現代ポーランドの代表的作家を集めて「ポーランド現代版画展」を開く。同展は先に東京で開いたのに続いて公開されるもので、出陳は銅版、木版、リノリューム版、メタル・テクニック、混合技法など、さまざまの材料と技法を駆使した作品約百点。昨年、クラフク市で大掛かりな版画ビエンナーレを開くなど、ポーランドは版画のジャンルでは活発な動きを見せ、世界の美術界から注目されているが、作品はいずれも風土や歴史や社会生活そのものに根ざしてささえられているのが特徴。おもな作家はタデウシュ・ヤッコフスキー、ヤニーナ・クラウベ・シフィデルスカ、ステファン・スベルラックなど、東京国際版画ビエンナーレにもえらばれている22人。(京都新聞1967年4月8日)
昨年、クラコフ市で世界の作家を集めて版画ビエンナーレを開くなど、ポーランド共和国の版画活動は欧米各地で注目されているが、現在活躍の作家を集めて公開するのは、関西では今回がはじめて。作家はミエチスワフ・ワイマン、タデウシュ・ヤツコフスキーなど世界の版画界で高く評価されている20人。会期を三週間に分け、作品は一週間に約30点ずつ、のべ100点を展示する。(京都新聞1967年4月15日)
「現実にたいする融和的な感情 ポーランド現代版画展によせて 木村重信」わが国では、東欧諸国の美術にふれる機会が少ないので、その詳細はあまり知られていない。その意味で、相当高齢の作家から新人までを選抜して、ポーランド版画の現状を示すこの展覧会は、すこぶる意義がある。この展覧会をみて、まず気づくことは、いわゆる社会主義リアリズム一辺倒ではないことである。ソビエトにおいても、いわゆる「無葛藤理論」(現実をバラ一色にぬりつぶし、現実をひたすら讃美すること)にたいする反省と批判をへて、社会主義リアリズムはひとつの様式を意味するものではなく、それは世界観であるとされている。つまり社会主義リアリズムは「社会主義」という限定語に重点があるのであって、それは決して表現方法や形式まで制約するものではないと考えられている。ポーランドとても同様である。したがってこの展覧会に、たとえばワビニュスキーのような抽象絵やルズガ、スジェドニスキーのような超現実主義な傾向の作品があっても、決して不思議ではない。そして人びとが皮相的に社会主義リアリズム様式として考えているような作品は、むしろ希で、立体主義や表現主義的な傾向の作品が多いのである。このことは、東欧諸国の美術を、偏狭に理解している人びとの姿をひらくにちがいない。とはいうもの、この展覧会の作品には、西欧諸国の美術にみられる個人的独創のフェティシズムのアナーキーではない。スジェドニツキーやヤツコフスキーにみられる、対象の実在感をとらえた重い作品や、ギャルニャックの迫真的な細密描写のように、つねに現実的感情が息づいている。またブウチェンニック、スベルラックは、密度の高い空間をつくる。とくに新鮮な印象を与えるのは、シリヴィニュスカ、フィヤウコウスキ、クンツなどの抽象的な作品で、かれらは自由な造形によって、ナマのよろこびをうたう。これらのポーランド版画に共通する最も著しい特徴は、技術についての並々ならぬ習練がうかがわれることである。たとえば、ギュルニャックやブウチェンニックの作品は、これがリノリューム版画かと思うほどの精チである。その他、木版・銅版・リト・メタル技法など、いずれも高い技術的水準を示している。もとより、その技術が表現目的と結びつかず、ときにはセンチメンタルになったり(ミアノフスキー)単なる模様に終わったり(レシチニュスカ・グルザ)することがあり、作品の質は決して一様ではない。しかしそれは作家の才能の問題であって、イデオロギーの問題ではない。概して現実肯定的な作品が多くて、社会諷刺的なものが少ないとも注意すべきだろう。現実にたいする融和的な感情—それがこの展覧会の特色でもあるといえる。(京美大助教授)(京都新聞1967年4月22日)

1967年5月1日—5月7日 小川一稔・松本雄吉二人展 大阪教育大在学中の若手。(京都新聞1967年4月29日)

1967年5月8日—5月14日 鶴岡政男展=開設一周年を迎えた画廊の企画展。作家は現在自由美術会員。かつて井上長三郎、靉光、松本竣介らと新人会を結成し活躍、四年前の国際美術展では優秀賞、翌年の同展で近代美術館賞を受賞している。(京都新聞1967年5月6日)
画廊設立一周年記念 鶴岡政男展、自由美術の人、国際美術(夕刊京都1967年5月12日)
「鶴岡政男展」開廊一周年を迎えた画廊が企画した展覧会。鶴岡政男は現在、自由美術会員。かつて井上長三郎、靉光、松本竣介らと新人会を結成。美術運動をくりひろげた作家で、第一回に本現代美術展、国際美術展などに受賞している。会場をつめた作品は昨年の自由美術展に出品した話題作「ゴルフ」をはじめ、百号5点、小品十数点。いうまでもなく戯画化された画面に、いずれもノンシャラスな独自のエスプリが満ち満ちた作品だ。耳かきに似たクラブをふる土偶のぼうのようなゴルファーがのぞく「ゴルフ」やダブルベッドに男女の心理的な打算をくりひろげる「黒のベッド」。まぶたのない目をキョロつかせた「視点」。そして「ネジ」「シメル」の物質化された人間のマゾにもにた表情—。大げさな身ぶりや意外性の強要はそこにはない。むしろさらりとしたノンシャラスが豊かなユーモアを誘うのだ。そして、そのユーモアはただ皮相的な風刺にとどまらず、ギリギリに追いつめられた人間の極限のある状態が鋭い逆説をともなって訴えるのである。もうずい分前のことだが、作者がある座談会で作品を「自分の精神性を極力排除している。最後にどんづまりに残った物として人間、精神のない無機的な存在を見きわめたい」と話していたことがあった。つまり、人間を物質と同質化することによって、普遍的な人間の問題をハ握しようというのである。その方向は今後の取り組みにおいても例外ではない。混迷を続ける現代美術のなかで、ユニークな一つの方向と足跡を確認する意味でも注目されるのである。(杉)(京都新聞1967年5月13日)
「鶴岡政男展」(「視るNo.1」京都国立近代美術館ニュース 1967年6月くろにくる掲載)

1967年5月22日—28日 渋谷和子展 新匠会員の染色作家。型染めのタブロー十数点を発表。(京都新聞1967年5月20日)
新匠会員の染色作家で型染めのタブロー十数点をならべる(夕刊京都1967年5月26日)
「しのばれるきびしい姿勢・・・」京都市立美大染織科出身、新匠会に所属し、同会員。こんどの作品は紙で型紙を彫る。いわゆる型染めのタブロー。十数点はこの人特有のまるく、おおらかな、ときにダイナミックな作品も多い。「紙で型を彫る」ということ「染める」ということ「こんにちに息をつづけねばならぬ」ということ、気持ちに整理がつかず、とにかくならべたと作者は言っているが、それだけの作品を染料という材料を使って制作したきびしい姿勢がしのばれるようである。(夕刊京都1967年5月26日)
「渋谷和子展」(「視るNo.2」京都国立近代美術館ニュース 1967年7月くろにくる掲載)

1967年5月29日—6月4日 川内伊久作展 京美大西洋画科専攻卒。滋賀県在住。京都アンデパンダンに出品している新進。ぶらさがった風景などの作品を発表。(京都新聞1967年5月27日)
鹿児島生まれ、市美大西洋画専攻科卒業、アンデパンダン展出品者(夕刊京都1967年1967年5月26日)
「気どりのない土俗的なモチーフ」鹿児島県奄美大島出身、京都市立美術大学西洋画科専攻科卒、ここ数年、京都アンデパンダンに出品している。「ぶらさがった風景」はじめ、神社の拝殿前に下がっているワニ口をならすつなのような形を中心に祭りの道具といった種々の形をとり合わせる土俗的なモチーフ。その色も線もすべてマジックによるインクで、単純な色をよく使って気どりもなにもない。ただ村祭りのような雑然としたけん噪の中にたくましい生命力である性的な要素も含まれ、昔の武者絵に見るにぎやかさがおもしろい。(夕刊京都1967年6月2日)

1967年6月5日—6月11日 山本正彦展 大阪学芸大美術学科卒、三年前から国画展に出品。ことしの第41回展では五百号の作品で国画賞を受賞した。(京都新聞1967年6月3日)
「民話からモチーフ 山本正彦ひとり展 茨木市生まれ、大阪学芸大美術科に学ぶ、国画展に出品し国画賞(41回)など受賞している。はじめての個展。どれも100号で、11点をならべているが、そのほとんどはモチーフを日本の昔の物語りといった民話的なものにとり、一種変わったふん囲気をとらえているのが変わっている。「両性」「夢は枯野をかけめぐる」「ビート族」などは社会現象に対する批判的な目や精神性を盛り上げており、仏典に興味があるという片りんをのぞかせる。なかでも「夢は・・・」の1点が、東洋的な墨絵を思わせる黒の調子で、その表現に成功している。類型的でないところがよい。(夕刊京都1967年6月16日)

1967年6月12日—6月17日 野村久之展 京美大日本画科卒、北白川美術村在住の作家で、オブジェ十数点を発表。(京都新聞6月10日)
「足ばかりを描く“浮かぶ上体のイメージ”」足、足、足、オール足の作家である。足を追求すること約5年。3年前の昭和39年、やっぱり足の個展を画廊紅で開催したことがある。その足は太モモの丈夫の方からきてつけ根をパネルにしっかりと塗りこめられている。足というのは見るからにリアルな形で、聞けば三人の女の子の足型を直接石こうをつけてとり、それをもとにしてとったという化学的な原料。パールや銀や色をつかって塗り、パネルから出て腰かけてる足、食卓を支えている数本の足、足のウラを鏡にうつしている足など、演出もディスプレーも効果的である。足には、なるほどそれにつながる上体があり、そのイメージからその人間そのもの、自体がわかってくる、というのが作者の弁。その表現をできるだけ冷たくつきはなしていながら、それを通して、人間に及ぼしてくるところがミソかもしれぬ。市美大日本画出身。(夕刊京都1967年6月16日)
「野村久之展」(「視るNo.2」京都国立近代美術館ニュース 1967年7月くろにくる掲載)

1967年6月18日—24日 岡本庄平個展 京美大日本画科卒の新進で、昨年に続き二度目の個展。着色した型紙をコラージュした作品約12点を発表。(京都新聞1967年6月17日)
「岡本庄平展」昨年に続いて二度目の個展。作品はひと言でいえば“切り張り絵”とでもいえようか。つまり、幾色もの民芸紙からフォルムを切り抜き、麻紙や鳥の子のバックに張りつけて画面をつくっている。作品は約20点。そして「共喰い」「放浪トリオ」「眠れぬ夜」「火の鳥」などといった題で、きびきびしたユーモアをのぞかせる。はんなりした民芸紙の色調と断面に鋭い切れ味を残した形態の画面は、素朴な緊密感と清潔さの対比のなかに幼い情感を盛り上げてファンタジックなイメージを誘う。作者の純な憧景もそこにうかがうことができる。その意味では清潔な取組みはそれぞれに心あたたまる世界なのだ。その清潔さが側面において淡白で、しかも脆弱な要素を多分に含んでいるのは否定できない。さらにいえば、工芸的な臭いも濃厚だ。それはただ単に手法的な視点からばかりではない。それが形態を類型化している。発想と形態の間をうめる理知がさらに望まれるのである。今後に残された課題であろう。(杉)(京都新聞1967年6月24日)

1967年6月26日—7月2日 下高原進個展 行動美術会友、壁画集団同人の洋画家。今回が20回目の個展で、記号化した人物を描いた抽象作品十数点を発表。(京都新聞1967年6月24日)

1967年7月3日—9日 四人展 京都現代工芸会、朱玄会に所属する飯田茂男、井上英雄、服部敏夫、小川博の若手四人が漆芸作品を発表。(京都新聞1967年7月1日)
「漆芸四人展」工芸が今日的であろうとして取組んでいる試みは最近の顕著な現象である。そしてその試みはこれまでに習続してきた技術主義と素材を謳歌しながらも、かつての工芸に大きな○○を占めてきた“用”を捨て去り、純粋芸術を志向したところに求めたものにほかならない。いわゆる工芸の範ちゅうにとどまらず、純粋に鑑賞に耐えうる造形意欲を啓発することで今日的たろうとするのである。京都在住の若手漆芸四人でつくるこのグループで、こうした意図をかなり的確に打ち出している。作家は飯田茂男、井上英雄、服部敏夫、小林博。それぞれ3−4点の発表である。井上はアルミニウム板を素材に、曼荼羅あるいは紋章を思わす形態。沈みかえった画面にきびきびした感性を定着させて興味深い。ただ、手ぎわに逃げ込んだ部分的な処理は気になるが、記憶的なイメージの世界への取組みは確かだ。小林はチョウ、カブト虫のパターンを埋め込み、心理的な画面たちである。が、構成が概念的で、ぐう意の域を脱していないのではないか。「生茂」「転」などの題名で、生命の躍動をとらえた飯田。技術主義に過ぎて、形態と発想の間げきをうめる思考が希薄だ。「三春」「季春」に情感をにじませた取組みをみせる服部にも同様のことがいえよう。ともあれ、こうした工芸の新たな探求がいかに特異な工芸的素材を生かして視覚的な表現にアプローチするかにかかっている。それ以上に発想と思考により確かな昇華を必要とするのだ。技術的な思溺はかえって意図から遠ざける結果を生むといわねばなるまい。(杉)(京都新聞1967年7月8日)

1967年7月10日—7月16日 岩田信市個展 名古屋市在住、ゼロ次元会員。読売アンデパンダン、京都アンデパンダンに出品しており、今回はクールパンチと題したポップアート風の作品を発表。(京都新聞1967年7月8日)
「“現実的なものを取りさったら・・・」名古屋市在住で、名古屋で結成され、活動を続けている前衛作家のグループであるゼロ次元に属している。そのチャーターメンバーでもあって、アンデパンダン展に出品している。クール・パンチというその画風は無造作に形を描いた白または単純な色の象や、キリストを抱く聖母像や、ビーナスといった形が半分、夜光塗料に塗られたり、上に大きい数字や円をのせていたりする。簡単な文字や数字もその上に加えられているのを見かけるが、それらの字自身は別に何の意味もなく、時間や空洞をとらえ、現実的なものをとり去ってしまったらどうなろうか、という考え方を表現しているようである。すべてこうした調子で約十数点。(夕刊京都1967年7月14日)

1967年7月17日—7月23日 工藤洋司個展 京都アンデパンダンなどに作品発表を続けている新進。人間の生命をモチーフにとらえた抽象作品十数点をならべる。(京都新聞1967年7月14日)
「工藤洋司個展」アンデパンダン展を唯一の発表の場にしてきたこの作者がはじめて開いた個展である。作品は十数点。先のアンパン展でもそうだったが、今回もまた、いずれも有機的な形態のひろがりに現実的な生とか実存とかが多分に意図された取組みである。そして、そこに体質的な個性をのぞかせている。にごり切った色彩にうめられた形態、行動的な画面効果—。一見、創意に満ちて見えるのだが、よく目を凝らすと、構成はいささかあいまいで、ふん囲気的なのが否定できない。おそらく発想の凝縮、観念秩序のきびしさを経たプロセスがまだ不十分なのであろう。それが、取組みにおいて直情的な、行動的な作者の迫力を希薄にしているのではないだろうか。いいかえれば、思想的な裏付けも空まわりを避けることができないといえまいか。こうした弱点を征服したところに、段階的な飛翔が残されていると思うのである。(明)(京都新聞1967年7月22日)

1967年?月?日—8月20日 額縁バーゲンセール

1967年8月21日—27日 グループ契(かい)展 大阪学芸大特殊美術(西洋画)科を卒業。国画会に所属している若手作家が集まって結成したグループで、今回がその第一回展。メンバーは山本正彦、増地保男、上野誠、増田生紀男、西出節子の5人。いずれも先の関西国展で国画賞、新人賞を受賞している。(京都新聞8月19日)

1967年8月28日—9月3日 中島光明展 花園大、京美大日本画卒の若手。現在、加悦美術研究所を設け、絵画教室、演劇活動を続ける。ことしの1月に続いての個展で、砂をボンドでかため、素朴な詩情をうたった作品十数点。(京都新聞1967年8月26日)
「中島光明個展」細かい砂をぎっしりとうめ込んだ画面。そしてその底からさまざまな形態を露出した金属的な固まり。いずれも砂のバリエーションに画面が構成された作品たちである。だが、それぞれに生々しい表情で並ぶさまは、たとえば海辺で砂山を掘り起こして、盛り上げした、幼い郷愁を思わせはしないだろうか。つまり、意図とか論理とは別に、予期できない期待に続けられた、幼い素朴な経験を連想させるのである。題して「素朴な造形」。作品はさる一月に開いた個展に続く発表で、今回もまた同様のテーマで取組まれたものであるのはいうまでもない。生々しい姿に投げ出された砂だけの世界。それは現実の刻々と変貌する日常的環境のなかですでにまっ殺されてしまった部分に対する作者のプリミティブな回帰なのだろう。肩をいからせた自己主張や手あかにまみれた論理をたち切った、その取組みからは素朴な交感が以外に深く迫ってくるようだ。砂のハダとトカゲの表皮のような冷たい皮膚感を持った形態とに構成した画面が効果的で、原始的な、しかも強じんなイメージを思わせる。ただ、ひとつひとつの作品を見ていると工芸的な処理が気にならないでもない。発想の燃焼が早急で、まだ自己の問題を出しきっていないもの足りなさを感じさせるのだ。(杉)(京都新聞1967年9月1日)

1967年9月4日—9月10日 野島佳浩個展 私立岡崎中教諭、主体美術所属の作家。(京都新聞1967年9月1日)

1967年9月11日—17日 森俊三個展  ゆがみ、からみ合いながら流れるように画面をうめた有機的なフォルム—染織集団「無限大」に所属するこの作家が好んで取り上げたトポロジかる(位相学的)な構成である。今回もこうした系譜での仕事で、従来のモノクロームな画面から、ブルー、赤、黄など多彩な色を加味した作品を発表している。だが、こんどの個展で注目すべきは、サテンという新たな材質が使用されていたことによってこれまでの観念的な探求から一つの方向が見出されたことであろう。そして、そこに新たな飛躍が準備されているように思えるのである。「空間のシンボルC」のメタリックな質感と切れのよいフォルムの輪郭。それは染色というよりもやもすれば情緒的なニュアンスを越えて、ニヒルな風景を露出して見せるようだ。トポロジーの効果も現実的な情景を表出させ、斬新なアイロニーをのぞかせている。ただ、従来のネルを素材に色彩とフォルムに変化を持たした「空間からの白」「模様風景」などには、まだ以前の形式的な構成主義で残像して視角的なレベルだけに終わってしまっている。多種な色彩も冗舌さをまぬがれていない。作者は京都市美専図案科卒、昨年は毎日選抜美術展などに選ばれている。(杉)(京都新聞1967年9月16日)
「新秋対話 個性の限界わきまえて 絵の作品として染めを」毎年個展を開いてこと8回目、ことしは大体昨年の仕事のつづきで、サテンとネルの二種を使って、100号ほどの作品約20点を計画しています。ろうを使って、染めには違いないが、これは工芸索引ではなく絵の作品として考えたいのです。日展へ出していたのに、工芸でなくては受つけないというので、以来出品を止めたのもこの理由からです。昨年同様の試みで画面の高さをくい違わせ、不安定な感じを持たせることを考えています。サテンでは中にスポンジを入れ、なだらかな高低をつけ、さらにその光沢によって金属的な鋭さといったものを存分に出してみたい。色も従来の白黒のモノクロームからブルーや黄を加えます。単純な中に不定形をいかしていきたいのが、どれほど効果を出すか、たのしみです。染めをはじめてから16年になります。着物や帯を手がけて、その間を縫っての仕事ですが、きものはあくまで体にのせて着るものゆえ、またこれをつける客があっての商品ゆえ、あんまり個性を強く出してもだめという、その限界をわきまえてやっています。ええ、まあ、全然違う世界ではなし、生活とはいえ、いい勉強になっていることはたしかです。染め 森俊三氏 無限大展個展シリーズの1(9月11日—19日まで)として11日から一週間のアヅマギャラリーで8回目の個展をひらく。目下制作中、美専図案科昭和26年の出身、36歳。(夕刊京都1967年9月1日)
「森俊三個展」森俊三、麻田脩二、寺岡岳、田島征彦、志村光広の染め5人の若手作家がつくった無限大グループ展で、一人ずつの個展を5週にわたってひらくそのトップをきった。せん細な絹地にデリケートな色を染め分ける手書き京染めの味を、新しいデザインにのせて作品とした意欲は見かけによらずたくましい。白い綿ネルに糊を使って凹凸を出し、白いサテンの光沢のある表面に美しい染め色で日本画的な発色を見せる。その対照的な生地と仕上がりの効果を立体的に組み合わせて変化を見せた画面、心にくいほど計算の上に立ったたくましさである。サテンの部分はこんもりとしんを入れてなだらかなふくらみをつくったり、面を分けて斜面をつくって合わせたりしているが、階上正面のグレーがかったブルーをシンメトリックに扱った作品のプレーンな色と造形を買おう。その他も立体を二つの長方形に分けた作品や、本もののちりめんを丸い棒に巻いて張った作品などは大いに新しいものを出そう。異質なもので、新しさを誇示しようといった気持ちがあるのかないのかわからないが、なんとなく物ほしげに見える。一つの試みとしてはおもしろい。(夕刊京都1967年9月15日)

1967年9月18日—24日 麻田脩二個展 染織集団「無限大」所属作家のシリーズ第二週。(京都新聞1967年9月16日)
「新秋対話 染色作家 麻田脩二」
=早くから作品が出来上がって、余裕しゃくしゃくの仕事ぶりですね。
・ ・・ところが、それまでにずい分苦心を重ねましたネ。早くから発想はあってまとめられたのに、それを表わす材料を捜すのに歩き回ったんです。
=こんどははじめて色をお使いになった?
・ ・・今までは植物染料の黒ばっかりでしょう。それに色を加えるというよりも、植物性の染料が持つ風土的情緒的な、むっくりした味から脱げ出したかった。そして思い切り対照的な原色を使って、やわらかさを排除し、ドライなものにしたかったんです。そんな事で染料についてはずい分走り回り、研究も重ねました。小さいためし染めが100枚知覚もできたほどです。ようやく見つかったのが樹脂染料で、顔料を樹脂で溶いたものです。これを水でうすめて使いやすくしハケで型をあてて塗るのです。後処理は熱をかけておけばよく、どんな色でも出ます。プリントのさし色に使われているだけで、こうした使い方は恐らくはじめてでしょう。
=おもしろいですね。
・・・ちょっと“のぼり”みたいな感じでしょう。まっ黒だけしか使わなかったのが、こんなに色を使って、びっくりされるでしょう。ケイ光染料も一部に使ってみました。染めの制約を克服してもっともっとわりきった仕事を追求してみたいんです。はじめてで、平面の塗り方や。線の出し方、色の重ね方などに苦心もありましたが、制約があれはあるほどおもしろくファイトがわきます。その一つの・・・・(1行判読不明)京都市立美大出身、18日〜24日の間、下京区仏光寺アヅマギャラリーで無限大シリーズ展の(1行判読不明)(夕刊京都1967年9月15日)
「白と黒がよく調和・・・牧歌的、迫力もつ」天じくもめんのさらさない布に赤、黄、みどり、オレンジ、夜行性塗料のピンクなどの強い調子を大胆に使った染めの版画といった作品約20点。どの作品にも必ずはいっている黒が黒くて、たくましくて、しかもむっくりとして画面をひき絞める。祭りの牛の頭飾りといったイメージを起こさせるととり合わせがあったり、牧歌的な感じ、祭りのはげしく燃焼するかたち、などどうにもとれる色と造形は異様なまでに迫力を持って階上にならんでいる。複雑に描きこんで希薄の弱まったのがあるが、全体に白と黒のもつ会長がたいへんよく調和していて見事である。多彩な造形がもめんの生地によくのっている。(夕刊京都1967年9月22日)

1967年9月25日—10月1日 寺岡岳展「寺岡岳個展」伝統的な分野でタブローの世界を開拓する染色集団「無限大」の所属作家が開いている個展シリーズの第三週。今回の発表は寺岡岳。出展は十数点。この作家もまた、これまで習続してきた伝統的な技法と材質を駆使しながら、純粋に造形意識を啓発しようとしていることで他のメンバーと変わりはない。作品は題して「微少—無限大」すべてが円輪や楕円形を基調にした構成である。そしてその形態は顕微鏡に拡大された細胞のように分裂し、生動して画面を支配している。だが、画面の透明度を持ったモノクロームな色感のせいであろうか。それらにはまた有機的だがひどくさめた、未分化だが営利な現実の濃厚な世界を不思議にうかがわせるのである。ことばをかえれば、透明な感触とはげしい形態に宇宙空間のきびしい響き合いを感じさせるともいえよう。とくにその印象は会場の階下の作品に強くなる。だが、こうした取組みも、多分に染色という独特の技法に惑溺したところが見えぬでもない。全体の空間処理に概念的にニュアンスが残像していて、心理的な深みをさまたげている。工芸のテクノロジーを思考の上にどう築き上げるか、が残された課題として考えねばなるまい。(京都新聞1967年9月30日)

1967年10月2日—10月8日 田島征彦個展 染色集団「無限大」の所属作家シリーズの第四週。田島は京都版画家協会員。日本版画協会友の作家。型染めで、プリミティーブな人間模様を描いたユニークな作品を例年発表している。(京都新聞1967年9月30日)
「“闘争”をきびしく直視 色の使い方が大胆に・・・」染色をタブローに扱って、新しい、すぐれた作品を見せている集団無限大の個展は森俊三、麻田脩二、寺岡岳とシリーズをすすめ、今週は田島征彦作品展となっている。天じくもめんに植物性の黒の染料を使って型染めにした以前の作品はフォルムもあるが、全く民族的とか土俗的とかいう言葉の感じが、そのままに固定したプリミティブな一連の作品であった。こんどはその情緒的なものを意識して排除し、戦国時代の混迷を現代にもってきて、その中での人間の激しい闘争や苦悩や、バイタリティーなどにきびしい直視をむけたかった。そんな作品を階下にベニヤ一枚の大きさといった型染めの大作で6点、2階に小品を交えて数品とならべている。この人の特色でもあった黒をきかせた上に、こんどは大胆な色を使い始めた。それは以前染色の仕事で配色をやり、それも商業ベースにのった色ばかりを扱った時代の反動?から出たものらしく、モノクロの世界を一歩すすめたフォルム追求の場を求めている。原色使って、それもビニール意図の水性塗料で一たん布の目をつぶして、塗装を施すような色の使い方をしている。「とび出してくる絵」と自分で表現する前向きで、手をあげ歯をむいて迫ってくる一連の人間は、現代のあらゆる苦渋に立ち向かう彼自身の強い訴えでもあるのだろう。小品はこのすさまじさこそないが、色と構図のたくみな構成で楽しく新鮮である。彼はいまカナダのトロントにある邦人一世の経営するアートギャラリーから個展を招待されており、すでに今までの大小の作品数点を一部として送っている。その1点はモントリオールの有名な百貨店のショーウィンドーに飾られていて、評判がいいという。そんな心のはずみもどこかにあるような小品で、決してアメリカ的ではないが、米国でもウケそうな小品である。(夕刊京都1967年10月6日)

1967年10月9日—15日 松原裕一個展「松原祐一個展」その発想において、その構成において知的な要素を秘めながらはげしい情念を画面に実現してきたところにユニークな個性を打ち出してきた作家である。たとえば、昨年のグループ展では、土俗信仰とか曼荼羅を思わす展開で、素朴な“生”の様相を容赦なくえぐり出して、グロテスクな、怪異な世界を切り開いて見せていた。こんどの発表では形態的には一転してチョウやサナギが全体を支配した画面だが、その取組みには従来の意識に変わりはあるまい。作品は「羽毛」「ナルシスの館」「甲皮」など15点。いずれもバイタルな構成である。「羽毛」はチョウの羽ばたきに変態して放射線状にひろがる無気味な幻想「喪羽」の未分化な生きものに浸食され、犯されるチョウの死臭、そして、みだらな内面をさらけ出した「ナルシスの館」—。そこには日なた水のような観念的な視覚、水っぽい感傷のゆらぎはもはやない。その基本をなしている変態の様相は生々しい無気味さと素朴な迫力が一つのかたまりになってのしかかってくるようだ。色彩も単なる画面を形成するのでなく、不思議な幻想の一つの効果をのぞかせる。だが、なかに変態のプロセスに心理的分析の不足からか、あまい叙情に仮託しているものがあるのも見のがせない。「羽毛3」はその例であろう。やはり対象の怪異さからかもし出される文学的情緒に構成を終わらせず無機化した目でとらえたよりシニカルな意識が望まれるのであるまいか。その意味で、より細密で、グロテスクな取組みが必要に思われる。松原は金沢美大卒、美術文化協会員。京都での個展は今回がはじめて。(杉)(京都新聞1967年10月14日)
「特異な作品 松原祐一個展」アヅマギャラリー、美術文化協会所属で前田常作について勉強、東京で活躍している特異な作家である。作品はサナギが固まって、エジプトの建て物を思わせるような形になっていたり、いろいろのおもしろい形をつくっている。それが濃く立体的に塗ったり、うす塗りだったりのちがいはあるが、色はにごらず非常に鮮明で美しく、全体にユーモラスな気分をただよわせる。サナギはやがてきれいなチョウになってそれも数多く、他の形を形成する。うす塗りの方がきれいである。100号の作品10点、50号の作品3点、大谷高校に勤務している。(夕刊京都1967年10月13日)

1967年10月16日—28日 志村光広個展 染色集団「無限大」所属の作家。型染めの技法で芯地布に多彩な有機的フォルムを飛ばしたタブローを追求している。(京都新聞1967年10月14日)

1967年10月30日—11月5日 広重明個展 新匠会員、京都青年美術家集団会員の版画家。(京都新聞1967年10月27日)

1967年11月6日—11月12日 竹中正次個展 京都青年美術家集団会員。(京都新聞1967年11月4日)

「前衛美術、ホテルへ 思わぬ“盛況”に喜び」観光シーズンでにぎわく国際ホテル(中京区油小路二条)のロビーに前衛作家の前衛作品展がこの3日から開かれ(10日まで)話題をよんだ。同ホテルの1階ロビーの3本の柱を囲んでパネルが設けられ、そこに約100点の抽象作品がかけられた。これは同ホテルの木村支配人と市内の前衛作品を扱っている三画廊、ギャラリーココ(柴谷清子)、ギャラリー16(井上道子)、アヅマギャラリー(田島征彦)とが話あって協力して開催したもの。“現代日本美術展”として各画廊がユニークな作者の作品を集めて出品し、内外の客が熱心にこれを鑑賞した。そして、さっそくに売約の赤札がはられるなど思わぬ盛況ぶりに、大いに気をよくしている。今日はその会場にい合わせた主菜のココ画廊主柴谷清子さん、アヅマギャラリーの田島征彦さんをとらえて、前衛作品をホテルのロビーに持ち込んだ展覧会についての感想や抱負を話してもらうことにした。「売るためばかりではない」と言い切る二人は、美術鑑賞を大衆の中に持って行くことの他に、世に認めっれない実力のある新進作家らのためにその価値を問いたい意欲があり、この企画を一つの試金石として春秋定期的にひらいて行きたいとハリ切っている。
田島 ぼくのところではというより、三画廊ともですが、こんどの機会に大いにユニークな作家の作品をならべよう、という意図で、シュールレアリズムを中心に作品を集めました。東京の岡本信治郎、神戸の元永定正など知名度の高い人の作品もありますが、前衛には新進の作家で実力はありながら、ジャーナリズムからまだとり上げられていない人もすくなくないのです。
柴谷 私たちがいままでやってきた仕事としては、画廊として作家の芸術的な価値を認め、協力してその紹介につとめてきました。しかし、これからはそれだけでなく、もっとすすんで大衆の中にそれらの作品を持ち出して、それを鑑賞してほしい、つまり画廊の外の人にこれらの作品を・・・という意味です。
田島 画廊へ来る人というのは、いろいろな人がいるようでも、限られていますからネ。それらの人だけでなく、ひろく前衛作品のよさを見てほしいわけです。そのため私たちはここに妥協しない、いい作品をならべようとしました。
柴谷 実際にならべて見ると、おどろいたことにいいものはよく見分けてもらえるということでした。フタをあけたら直後からいい作品にバタバタと赤札がついてしまいましたね。
田島 そうなんです。これはオドロキでしたね。外人がきていいのをこれ、これとバタバタ売約してしまったの。それも妥協しないほんものの作品でした。
柴谷 どんなものをならべていいのか、心配していたのですが、いいものはいい、という自信がついた感じです。
田島 抽象の売り絵は売る為の作品ではだめということですね。ほんものの作品は結果的に売れる作品だけど・・・。
柴谷 値だんは3ドル(1000円)の版画から19万8千円の屏風までならべて見ましたが、2−3万円のものがすでに十数点売れて大いに気をよくしています。そしてその売り上げ額よりもうれしいのは、見て下さる人が「抽象作品もいいものだナ」と思って下さったことです。
田島 画廊の展覧会で作品を見てもらっているのは、美術評論家も含めて、同じ顔ぶれの人たちで、せまい範囲で堂々めぐりをしているかんじなんですね。積極的にホテルに進出してよかったと思いますよ。
柴谷 この上はホテルとも相談して、春秋に定期的にこうした展覧会を開いて行きたいですね。
田島:そして経済的にもジャーナリスティックにも堂々と積極的にやって行きたいねがいです。そして作家としてのぼくはどんな小さい作品でも妥協のないものを描いていきたい。
—どうもありがとうございました。
なお同展はつぎのような人々の作品を中心にならべられた。
[アヅマギャラリー]金田辰弘、広重明、橋本竜美、瀬間高角、川内伊内、林道夫、杉山英雄、田島征彦、中村正義、佐々木和子、松谷武判ら。
[ギャラリー16]古田安、薮内宏一、橋本典子(彫)、西井正樹、河口竜夫、野村耕、野入康子、三島喜美代、高瀬善明、和気史郎、福沢忠夫、岩田重義、薮内弘(彫)、白田宏ら。
[ギャラリーココ]富樫実(彫)、下村良ノ介、浜田泰介、松本正司(彫)、関根勢之助、森本紀久子(彫とも)、宮永理吉(彫)、高崎元尚、不動茂弥ら。いずれも日本的な感覚の中に新しい個性を盛ったものが好評を受けたようである。(夕刊京都1967年11月10日)

1967年11月13日—11月19日 水上旬個展 京都青年美術家集団所属、ハプニングを続けている若手。(京都新聞1967年11月11日)
オブジェ。(夕刊京都1967年11月10日)

1967年11月20日—11月26日 赤石逸三個展「赤石逸三個展」赤石逸三は昨年、京美大染織科専攻科を中退、従来の工芸の世界からタブローに転向した新進である。そして今回の個展が転向後の、初の発表でもある。作品は十数点を並べている。いずれも裁断したビニール・パイプの切り口を並列的に並べ、ラッカーによって彩色したビニール管でつくった構成で、パイプの断面のパターンと管の色彩によるバリエーションを見せている。パイプの無機的な表情をくぐった色彩の変ぼう、管がつくる交錯したパターン。そこに見えかくれする視角はふしぎに微妙な幻想の展開を思わせ、作者の個性的な世界を十分にうかがうことができる。それはまた、新たな叙情とでも呼べるものであろう。その印象はとくに二階に並べた作品群に強くするのである。ただ、全体的にかなり清涼な取組みだが、パネルやパイプの色彩的な処理にはまだ不十分な部分が残されているのは否定できない。やはり、こうした空間構成がみがき上げられた技法の上に成立するものであるのはいうまでもないのだ。(京都新聞1967年11月25日)
「色と質に独特の味 精密な作業でつくる 赤石逸三個展」染色にたずさわる。個展ははじめてで、作品はおどろくように精密な、はったり、巻いたりのくり返し。材料は積水などでつくっている側の合成のパイプをきれいに切ってパネルにはり、そこへビニールの細い管をたん念に巻いていく手法。管の中には色を流し込み、自然に出きたボカシが規則の???の効果を見せるといった独特の作    いま一つはピンポンタマをたん念???を巻いている(一部判読不能)(夕刊京都1967年11月24日)
「赤石逸三展」(「視るNo.8」京都国立近代美術館ニュース 1968年1月くろにくる掲載)

1967年11月27日—12月3日 阿原松太郎個展 アンデパンダンを発表の場に制作を続けている新人。(京都新聞1967年11月25日)

1967年12月4日—12月10日 辻浩個展 二紀会同人の彫刻家で、京都版画家集団に所属、木版画も制作している作家。(京都新聞1967年12月2日)
「評点 辻浩個展」辻浩は二紀会彫刻部同人で、また京都版画家協会に所属し、幅広い表現世界で活躍している。その彫刻、版画作品は立体とか平面といったワクにかかずらうことなく、有機的な形態で生命の実在を詩的にうたい上げて、きわめて個性的な構成をみせてきた。今回の個展でもこうした意図的な試みには変わりないが、作品はいずれも表現世界を新たにタブローに求めての発表である。出品は11点。名付けて「イメージ」。全体がこれまでと同様、モノトーンな色彩で、有機的な画面をつくっている。つまり形態は拡散して空間を支配しているというより、あくまで求心的な視覚で自由なかたまりを構成しているのである。そしてその形態の背景には微妙な線がとりまいて、動的な効果を盛り上げている。従来の版画などに見られた紋章的な固定した構成にくらべれば、画面のモノトーンな形態は粘着力とか張力を持った躍動を展開して、ふくらみのある幻想を思わせる。現実感もそこにうかがうことができる。しかし、なかには背景をとりまいた色彩があまりにも表面にですぎ全体の印象を散漫にあるいはけん騒にしているのは見のがせない。さらに造形と表現により緊密な交感をかなえる意味でもマチエールに考慮される部分があるのではあるまいか。(杉)(京都新聞1967年12月9日)
「タブローに流動感盛る 辻浩個展 版画を思わせる造形」辻浩といえば日本の個展の能や、歌舞伎の人の印象を、黒一色で版にした独特の作品を連想するが、おどろくことにこんどの個展は、版画ではなく、すべてタブローなのである。この人独特のやり方で、天じくもめんをベニヤに張り、白いペンキを一面に塗り付けて下地をつくる。ここに油を使って、彼の版画作品をおもわせる黒の造形を描く。それは一個の巨大な黒の、タコ坊主のような円形と、これを追うふしぎなニョロっとした曲線からなっており、全体としては彼の版画作品とよく似ているが、作者にいわせると、版画という手法でどうしても制約される感情の固定を、もっと自由に、かつ流動感を盛って表現してみたかった。このタブローにして、よっやくその目的がある程度果たせたように思える、とのこと。有機的なフォルムがたしかにある種の流動感を盛って自由にのびている。この人、本来は市立美大の彫刻科を出ているのだが、広いアトリエを必要としない版画を手がける路をとり、いままた版木ならぬ筆で平面をとって、思いをのばそうとしている異色の人。(夕刊京都1967年12月8日)
「辻浩展」(「視るNo.8」京都国立近代美術館ニュース 1968年1月くろにくる掲載)

1967年12月11日—12月17日 岡村雄一郎個展

1967年12月18日—末 額縁バーゲンセール

1968年1月8日−1月14日 第1回アズマギャラリー賞候補展 同画廊が過去一年間の発表作のなかから秀作をあつめて展示、さらに一席を選んで受賞する企画展。(京都新聞1967年12月30日)

1968年1月14日—1月21日 第1回アヅマギャラリー賞候補展「第1回アヅマギャラリー賞に山田氏」アヅマギャラリー(下京区寺町通仏光寺下ル、宮城正一社長)が過去一年間の個展、グループ展のなかからすぐれが作家を選んで与える“アヅマギャラリー賞”はこのほど、山田彌一氏(愛知県出身)に決まり、七人の候補作家の作品を含めて、その作品展を21日まで開いている。山田氏は、1960年、愛知教育大学美術科卒、現代日本美術展、フランス留学コンクール賞、シェル美術賞展などに最近入選している新鋭。受賞対象となっているのは「太郎と花子」と題するシリーズ作の一つで、巨大な現代というメカニックな状況下にあって人間存在の問いかけを主題にした作品。地獄草子を思わすひからびた人間の集積した画面にユニークな表現と個性をのぞかせている。また候補作家は赤石逸三、志村光広(佳作賞)、野村久之、石原薫、川内伊久、瀬間高角、広重明の各氏。同賞審査員は画家の小牧源太郎氏。乾由明京都国立近代美術館技官、森啓大阪芸大教授。(京都新聞1968年1月20日)
「美術 名古屋の山田氏獲得 第一回アヅマギャラリー賞 個性の強い作品」アヅマギャラリー(下京区寺町仏光寺)ではアヅマギャラリー賞を昨年設定し、話題をまいたが、その一年がすぎ、ここに期間中アヅマギャラリーで催された個展、グループ展(企画展をのぞく)を対象に、個性的で、しかも現代にふさわしい新鮮なイメージを創造した作家に与える第一回アヅマギャラリー賞(副賞10万円)を、審査の結果、名古屋市在住の山田彌一氏と決定した。専攻委員は国立近代美術館乾由明、大阪芸術大学森啓、画家小牧源太郎の三氏で公正に決定された。佳作賞二人は染色集団無限大に所属する志村光広氏、ビニールパイプを使った作品の赤石逸三氏。山田氏は名古屋生まれで、ことし29歳、ニューヨークの日本14人作家展に出品し、また現代日本美術展に入選、シェル美術展では佳作賞受賞、また第一回、第二回フランス留学コンクールに入選しているし、国際青年美術に入選、個展を5回開いたのち第6回展を昨年アヅマギャラリーで開催した。山田彌一の作品は「太郎と花子」のシリーズを追求しているが、その太郎と花子は自分の時間の大部分を生きるために消費し、自分に残されているほんの少しの自由に不安を覚えて厄介払いをするためのあらゆる手段をさがしている。そして現代の巨大な自動機械の一部と化し、集団生活を強要され、それを離れると無情にもスクラップになってしまうようなむなしい太郎と花子、そんな人間像とユニークな表現で立ち向かった絵とでもいおうか。手堅く、個性的なイメージを追った密度の高い画面、というわけで、他を抜いて専攻委員最高の点を集めた。このほかに赤石逸三氏のビニールパイプを使った作品は、初めての個展で、パイプとビニールホースといった身近にあるものを利用し、単純な作業で結びつけたオリジナリティーが好評をうけ、無表情な新しい美の表現で、票を集めた。また染色の志村光広は型染めの型をくり返して使い、多彩で緊密な美しい作風を見せ、染色家としての仕事を見事に展開することに成功した点で、赤石とともに佳作賞を受けたわけである。第二回アヅマギャラリー賞は昭和43年1月—12月末まで、同画廊で開かれる個展の作品を対象に、ことし同様厳正な専攻が乾由明氏、小牧源太郎先生方によって、されるが、いま一人大阪芸大の森啓氏が都合で降りて、新しく同志社大学助教授吉岡堅二郎氏が加わった。ことしもまた同様の規定のもとで行われる。なおアヅマギャラリー第一回アヅマギャラリー賞候補作品展は21日まで、赤石逸三、瀬間高角、石原薫、川内伊久、志村光広、野村久之、広重明、山田彌一の作品をならべている。(夕刊京都1968年1月19日)

1968年1月23日—2月4日 S.W.ヘイターとアトリエ17銅版画展 ヘイターは1910年ロンドンの東部ハクニーの出身。1927年、版画研究センター・アトリエ17をパリに結成、以来版画の芸術運動をくりひろげ、フランス政府からレジヨン・ド・ヌール勲章を送られた作家。このヘイターのほか、アトリエ17所属メンバーの作品展示。(京都新聞1968年1月20日)
「繊細な線の美しさ 日本の作家も個性出す ウィリアム・ヘイターとアトリエ17銅版画展」22日—28日までの前期を終わって後期がそれにつづいている。アヅマギャラリーのS・W・ヘイターとその主催するアトリエ17のメンバーたちの銅版画展は一昨年の秋以来二度目の開催である。ロンドン生まれのヘイターはパリに版画研究センターとしてアトリエ17を設けているが、そこには幾多の版画家がその門をたたいて参加し、版画技術の指導をうけている。また彼自身もレジヨンドヌール勲章(フランス)はじめベニスビエンナーレ、東京国際版画ビエンナーレなどに代表に選ばれたり、グランプリを受ける立派な作品を生んでいる。こんどの二回展でヘイターは前回のときも見せた画面を斜めに流れるような繊細な作品で、日本の古典的な染め柄のような趣きをたたえている。またうすい水草がゆらぐような線のうつくしさを見せ、神経の通った空間がある。インド生まれの女流作家で異色の作品をこの前の会に見せたクリシナ・レディはここでも同じ手法で、密画のようなこまかさで独特で多彩な版を展開する。その他矢柳剛は自由な構成がおもしろく、吉田堅治、長谷川彰一、松谷武判らは日本から渡仏し、アトリエ17に加わって精進している日本の作家たちだが、銅版画でなくては表現できぬ世界を追求しておのおの個性的な仕事をしているのがたのもしい。=写真はW・ヘイターの作品(夕刊京都1968年2月2日)

1968年2月5日—2月11日 和田淳一個展 京都美大日本画科専攻科二回生で、はじめての個展。20点。(京都新聞1968年2月3日)
「独自の手法を開拓 和田淳一展」市立美大日本画卒、同専攻科2回生。ここ1年間にかいた作品20余点をならべている。山や谷や花や魚や木などを使って自分の中にあるロマンティックなイメージをつくりあげている。いわくありげな、シュール調の組み合わせもあるが、どれもふしぎな陰影をもって透徹した世界を見せる。ローラーをかけた版画的な手法のもの。ペン画などもあって岩絵の具、樹脂などを使った新しい試みと独自の手法を開拓している。(夕刊京都1968年2月9日)

1968年2月12日—2月18日 太田康平個展「四つの個展開く 市民美術アトリエ出身者 ・・・太田は「欲望」を主題にブリキ板で有機的な形態を切り抜き、生々しい色彩で構成している。・・・」(京都新聞1968年2月17日)

1968年2月19日—2月25日 京都版画家集団展 銅版画の古野由男をリーダー格に集まる版画家グループ。(京都新聞1968年2月17日)
「鋭い力みせる作品 手法生かし個性的な仕事 京都版画家集団小品展」それぞれの手法を生かして個性的な仕事としている京都版画家集団がひらく第三回目の小品展。版画独特の強みで、小品にも鋭い力があり、おもしろい会場をつくっている。クリフトン・カーフは従来の家並みや船といった日本の風景から大きく転換して浮世絵調の女の顔を美しい木の色と流暢な線の版を重ねて出しており、安定した技法。ウィリアム・ペイデンもタブローの粗雑さが消えて画面はよく締まった。田島征彦は布地へノリを置きインクで押したもの。丹念なエッチングの田中良平、おもしろい造形で特色のある辻浩、ヨーロッパ帰朝来若々しく具象に戻った古野由男、するどい感覚をすらりとにげた池田青之など制約された画面によく内蔵されたデリケートなものをとらえて心親しいものばかりである。(夕刊京都1967年2月23日)

1968年2月26日—3月3日 増地保男個展「力強いタッチ 増地保男個展」大阪芸大の出身で、現在寝屋川中学校の教官をしている。国画会に出品し、今までに入賞、国画会賞などを数回にわたって受賞している。昨年8月、同じアヅマギャラリーでグループ「契」の仲間の一人として出品した20号の「漁村」風景は黒っぽい画面であったが、こんどの作品はやっぱり漁村の風景や、くびれた村などもそれもぐっとくずして、かなり厚く荒いタッチで描いていて、その調子はかなり明るい。ブルーやグリーンを使って、若さにまかせて力づよく描きなぐっている。200号2点、?号3−4点、小品数点。(夕刊京都1967年3月1日)

1968年3月4日—3月10日 瀬間高角個展 名古屋在住の若手。シュールな主題で、チ密な画面をつくっており、昨年の毎日コンクール展などに入選している。(京都新聞1968年3月2日)
「多彩でユニーク 瀬間高角展」名古屋教育大の出身、現在名古屋市内の中、高校で教えている。かなり長い間、同じ手法の、画面をたんねんに埋めて行くやり方で、昨年も個展をしたが、こんどはさらにその詰めた画面を色や形で、新しく発展させている。たとえば花をとらえた作品では子どもらに勝手に押させた円形から、本格的な絵を描き、その根本に無心に遊ぶ幼児のなわとびを書き込んだり、画面いっぱいの古人の言葉から発展した集団の子の上へ上へのびていく様子を描いたり、「蛇と遊ぶ」に見られる無気味な対談など、多彩でユニークな存在である。(夕刊京都1967年3月8日)

1968年3月11日—3月17日 梅村孝之個展 名古屋市在住、愛知学芸大芸術科卒、元創元会員で、安井賞候補にのぼったこともあるが、現在は二科に出品。個展発表はこんどがはじめて。(京都新聞1968年3月9日)
「評点 梅村孝之個展」人間をとりまいて無数の文字が重なり、ウズをまく。そして、その文字はまた、人間の肉体まで浸食し、あるいは内部からハミ出してうまる。「語海」と題したシリーズ作である。作者によれば、人間の“生”がことばの有無に存在するという仮説を設定し、そこに本質的な人間の問題をまさぐろうとするのである。つまり、われわれを取りまいていることばを純粋に視覚的な立ち場でとらえ、表象を試みている。画面の、ほとんど全部をうめた文字と文字の集積は一見、それ自体が奇怪な、異様な何かを語りあっているように見える。その語り合いは猥雑なあいまいな響きを持って深い穴ぐらからわき上がってきそうな無気味な様相ものぞかせるのだ。それはまた、もはやもっとも人間的であるはずのことばも、その本来的な意味を失って浮遊する現実的な状況が構築されているかのようにもうかがえるといえよう。だが、ことばに執着した作者の論拠が不明確で自己の問題とどうかかわり合いを持つかどうかという視点が画面に欠落しているのはいなめぬだろう。単に情念的な説明でない、論理性がのぞまれるのである。梅村は愛知学芸大卒、現在、名古屋の高蔵寺高校教諭。(京都新聞1968年3月16日)

1968年3月18日—3月24日 古川陽子個展 二紀会に出品。昨年は奨励賞。(京都新聞1968年3月16日)

1968年3月25日—3月31日 荒木一年個展

1968年4月1日—7日 斉藤寿一個展 神奈川県出身、ヘイターのアトリエ17で銅版画を学んだ版画家。果てしない空間をささえる風景のような主題を持ち、昇華された幻想と、繊細さに満ちた作品は定評があり、関西での個展はこれがはじめて。(京都新聞1968年3月30日)
「純粋造形の世界 秘めたる感性と詩魂 斉藤寿一版画展」繊細な感受性にみちた作品群である。旧作である一連の滞欧作、近作“風”の連作“青”の連作と、手法、モチーフは、かっきり三段階に分けられるが、底を流れるものは常に、作者のすきとおるような感性であり詩魂であることを感じさせる。滞欧作は、作者の資質にある叙情が少しかちすぎてはいるが、近作では、それが更に昇華される。“風”と“青”はまことに興味ある対照をなす。一階の壁面全部を占める“風”の連作は、方形のような抽象形態がはためき揺れて不定形に姿を変える、そのことによって風をとらえようとする純粋造形の世界である。“青”は黒の中の鱗(りん)”のような青が明滅しながら、ゆっくりと流れ輪をつくり、からみあい、流れてゆく、いわば動きと光りの世界である。見る方も、その光りと共に、ゆっくりと流れる思いがする。今後この作家の内部で形、動き、光りがどのように変化してゆくか興味が持たれる。作家はヘイターのアトリエ17で銅版画を学び、関西での個展ははじめてである。(夕刊京都1968年4月5日)

1968年4月8日—14日 加藤勲個展 金沢美大卒、北九州市在住。(京都新聞1968年4月6日)
「清らかな印象 加藤勲個展〜数字とピカソによる〜」白という空間の中の無数の6、きれいに並んでだんだんと欠けてゆき、一斉になくなってしまう記号6。そう、それは記号であって6という特殊の意味を持つべきではない。この空間と記号は将来作者のなかで“無”に帰一するかも知れないし、あるいは他の何かが大きくとって替わるかも知れない暫定的なものであるが、その“暫定”ということのなかに、作者の切実なたたかいを見る。純粋な生のためには現在々々がたたかいであると同じ意味で。ピカソの青の時代の模写に、大きく穴をあけ、裁断する記号6。ピカソはこの場合、権威や評価や情念や、その他あらゆる自己の周囲にひしめくもの(自分も含めて)の象徴であり、意味の密林であり、それを消し去った場所に、頭で操作されたものを置きかえてゆく。「その接点にあるのが私だ」と作者はいう。壁を埋める作品の印象は清冽だ。作者は金沢美大卒。昨年第11回シェル美術展佳作賞受賞。(夕刊京都1968年4月12日)

1968年4月15日—21日 アートポスター展 赤瀬川原平、宇野亜喜良、高松次郎、横尾忠則、田名網敬一のポスター。(京都新聞1968年4月13日)

1968年4月22日—4月28日 西村隆宏個展「色彩の流動的画面 光りを放つ色の魔術 西村隆宏個展」明度の強い鮮烈な色彩、その濃密な微粒子が会場を塗りこめている。にごりない赤や青、緑、紫やピンクといったさまざまの色が、作者の色彩計画のもとにその偶然的効果をも発揮しつつ、流れ、もつれあい、小爆発を起こし、妖しい色彩の流動的画面をつくり出す。“輝く色彩を—”と追求する作者の姿勢は、いくつかの試みとなってあらわれる。プラスチックを用い、あるいは内部から照明し、油彩となれば鳥の抽象化された形体をとってくっきりと浮き出せ、色の純粋性を強めようとする。このような、ある意味では非情とさえ考えられる色彩への傾倒だが、その作者の情熱が結集して会場をかこみ、壁面から交響しあうと、サイケデリックともいうべき強烈さがかもされて、われわれをさそいこむようである。照明された絵—文字どおり“光りを放つ色彩”の魔術であろうか。作者は昭和33年同志社大学美学科卒、行動美術全国展入選5回、新人選抜展は今年で2回目。(夕刊京都1968年4月26日)

1968年4月29日—5月5日 西村精司個展

1968年5月6日—12日 林剛個展「林剛個展」ぶよぶよした、もっとも人間的な部分を持った肉体がある状態に静止して空間を支配している。その肉体は一様にからみ合い、あるものは互いにうまり合い、あるものはズリ落ちそうになりながら優柔な、けだるい症状をさらけ出しているのである。しかし同時にまた、そればいまにもそのまどろみからさめ、あたかも新鮮なエネルギーが充てんさせてよみがえってくるような幻想の極度の緊張を思わせている。題して「I氏の午後」—。いうまでもなく昨年、ことしのアンデパンダン展に続く、この作者の、一連の主題である。大ざっぱにいえば、二次元的な平面に業執しながら、そこに有機的でヒューマンな情景を発展させてきた。今展ではこうした意識がより感性的に顕示されているようだ、あわい色彩は幻想を深く内包し、パースペクティブな構成も現実と非現実の緊張したかっとうをはらんで、ひどくさめた状況を感じさせている。そして、ぶよぶよした肉体も極度に簡略化されて、もはや精神のない“もの”としてのアイロニーをさらけ出している。人間的なものを意識のうえでより証拠だてる意味で、より物質と同質化する課題に新たな幻想の問題がこの作品たちの、今後の方向に仕組まれているといえないだろうか。ともあれ絵画的な世界をより絵画的に取組んだ、注目される画面である。(京都新聞1968年5月11日)
「明るくさわやかな色感 林剛作品展」幾本かの直線と、ふわふわした肉感的な線とが結ばれあい、作用しあって画面を形づくっている。肉体の部分と部分がからみあい、もつれあって、奇妙な肉感的形態をつくり上げているのだが、それはまた、直線部と同一平面に置かれた、色面分割の部分であり、無機的な線と有機的な線との、一種の交合でもある。作者の主眼はむしろ、直線にあり、色面構成にあるという。非情に明るく、さわやかな色感をもつこれらの作品は、それを裏がきするようである。しかし、極度に対比的な有機的形態が同時共存していることにこそ、作者の必然性がありはしないかと考えるのである。これらの線の結合、あるいは色面構成はつねに成功しているわけではなく、今後が待たれるが「I氏の午後」と名付けられた6点の作品中“習作”“高飛び”は作者の意に近づいたものではないかと思われる。作者は終戦後、北鮮からの引き揚げ者で1960年京都???後京都アンデパンダン???展は昨年大阪に続きこ???目。現在宇治市在住。(一部判読不明)(夕刊京都1968年5月10日)
「林剛展」(「視るNo.13」京都国立近代美術館ニュース 1968年6月くろにくる掲載)

1968年5月13日—5月19日 松枝璃恵子個展 東京芸大卒、関西国展国画賞三席を受けたほか、日本版画協会にも所属。現在会友。今回は油絵作品を発表。(京都新聞1968年5月11日)
「評点 松枝璃恵子個展」単一の、あるいは並列的に組み合わせた同心円を主軸に描いている。しかも、その同心円は一様に、浸食されたような部分をところどころに持って、自己の情感とのかかわり合いを深く思わせる画面である。作者は東京芸大を卒業、国画会に所属し、一昨年の同関西展で三席、また日本版画協会友になった若手である。京都での個展ははじめて。従来は人物を主題に具象的な画面を作っており、こうした同心円の形態ははじめての領域だそうだが、やはり、全体的に未消化な部分の多いのはいなめないようだ。非情な円と内部にとけ込んだ青い有機的な形態のかっとうが脆弱で心理的なイメージの展開を乏しくしている。こうした画面はより緻密な、整斉な画面処理が構成の重要な要件であることが認識されていなけれあなるまい。個展ではまた、版画も同時に出品している。「グッド・ナイト」「郷愁」など四点。日常的な主題が素直な心情で吐露されていて、豊かなニュアンスをのぞかせている。硬質な筆跡が効果的だ。(杉)(京都新聞1968年5月18日)

1968年5月20日—26日 柏原えつとむ個展 モダン・アート所属の若手。ハードエッジな仕事ぶり。(京都新聞1968年5月18日)
「評点 柏原えつとむ個展」方形のパターンがいくつか組み合わされた、明快な構成である。そしてその方形はよく見ると、それぞれにだまし絵的な効果で、あるものは画面に突起して張り出し、あるものは陥没して立体的な様相を視覚化している。そかも、その情景は無気味に冷えかえっていて、イメージに心理的な緊張を思わせている。題して「サイレンサー」。昨年のモダン・アート展に出品した「エスカレーション」に続く、この作者の一連の画面である。大ざっぱに言えば、方法論として遠近法の手法を取り入れながら、二次元の平面に、時間的な推移と立体的な世界を純粋に視覚化して構築しようとするのである。今回ばこうした意識がより徹底して顕示されているようだ。昨年までの画面が大きな色彩の帯にとりかこまれていて立体の効果に乏しかったが、今度はあわい色調で、パースペクティブな手法を大胆に構成し、より立体の効果を進めている。生硬と線とさめた色彩は現実的な幻想を深く呼び起こし、緊張の高まりを感じさせるに十分といえる。ただ、こうした仕事がテクノロジーの要素を多く含んでいるだけに、今後、作者の思考とどう結びつけていくかが大きな課題として残されている。(杉)(京都新聞1968年5月28日)
「計算された冷たく美しい作品 柏原えつとむ個展」すっきりと濃淡に塗りわけられた幾何形体が、画面に“虚”のおうとつと遠近をつくる。遠近の、あるいはおうとつの、いくつかの要の個所に、色あざやかな朱や線にフチどられ黒く口を開く“虚”の小?。非常に精密に計算された遠近法により、立体作品かと見ちがえるほどの存在感をもちながら、すっきりと割り切れている。これらの作品は、冷たく美しい。それは高度に頭脳化された現代の投影図のようでもあり、実在と虚像が同価値となった世界の、画面における簡潔な再現のようでもある。そうした現代を否定することなく“その中で生きつつある人間”として鋭利な感性が、画面でのきびしい追求の途上に、白い未来の夢に似た虚像をとらえたのであろうか。作者は65年多摩美大卒、以後モダンアート展、毎日選抜美術展、ジャパン・アート・フェスティバル展ほかに出品、個展は3回目。(歳)(夕刊京都1968年5月24日)
「柏原えつとむ展」(「視るNo.14」京都国立近代美術館ニュース 1968年7月くろにくる掲載)

1968年5月27日—6月9日 池田満寿夫、加納光於、田島征彦展 日本版画会友、京都版画家集団の田島征彦が画廊一階に版画作品を並べ、国際舞台で活躍する池田と加納の版画を二階に展示する。(京都新聞1968年5月28日)
「明解な色調に効果的な配色 田島征彦個展」染めか、木版画か?と疑わせる絵画9点、いずれも多分にそのような効果を意識しての作品である。題して「愚者の風船」驚く異様な人間らしきかたちを浮きあがらす、唐草模様的に細密に塗り残された白い部分。そのギザギザした感覚は非常に自虐的であると同時に、それを笑っているようでもあり、人間のしかめっつらがじかに伝わってくるのを覚える。染めか—と疑ったように色はバッチリと明快で、黒と白を基調としながら黄、あるいは青や茶の効果的な色づかいには、作者の民族意識が色濃く感じられる。「個性美を発揮 異色の二人展 加納光於・池田満寿夫二人展」画廊の二階には高名な二人の版画家の作がぎっしり並べられた。加納光於の作品は、メタルプリントという、亜鉛板を使った注目の手法でつくられている。シュール的体質といおうか、くちびるや内蔵を思わせるかた???象徴のように、空間に配置される。記号の内部では青く白く混じり合った火が、まだめらめらと燃えている。この青白く燃える物体、空間にというより空間に置かれたようにみえる物体の、奇妙に美しい関係のなかでわれわれは詩の次元に引き込まれるであろう。池田満寿夫の9点の石版画はすべてドイツで制作された近作である。強烈な叙情性をもった人が、逆説的にそれを消し去り、他のものに置きかえるとき、なおも溢れようとするもの。ここではそれがぶつかったようだ。ともあれ、作品は“空間”に意図がこめられてるのではなかろうか。たとえば、果てしなく広がるもの—空、四角い箱にその一片が切りとられ納められる。あるいは“空”はいくつかに分断されたり、引き裂かれたりする。そしてそこにはクツをはき組みあわされた女の足が—この作家の場合、空で象徴されるものが真であり、女の足は虚なる現実への橋渡しを象徴するのではあるまいか—などと想像をめぐらせてしまうのである。両氏とも個展、国際展など数多く持っている。(夕刊京都1968年6月7日)

1968年6月10日−16日 公庄巧個展 京美大染色科卒、京都版画家集団員の若手。(京都新聞1968年6月7日)

1968年6月17日—23日 黒崎彰個展 版画「神秘的な「版画」新しい試みの彩色で効果 黒崎彰版画展」シナの木のベニヤ板を使い、鳥の子やマサという和紙に三度、四度と刷り上げた木版画で、染料や顔料、墨(スミ)水彩とその他新しい材料をつぎつぎと試みては効果を出している。古典的な手法の木版の味をうけつぎながら新しい版画の可能性を求める「浄夜」という一連の作品はそのことばのもつイメージとは逆に、歓楽のはてにくる死を暗示するガイ骨を配し蝶(ちょう)をとばし甘美な光線の中に対照的な夜を昇華させる。「哀樹」「哀華」もまた蝶が出てくる夜のイメージで、沈んだ神秘的な黒がきいている。神戸在住、京都工芸繊維大学建築科卒、近畿大学講師、個展は三度目。(A)画像 黒崎彰の版画「浄夜」(夕刊京都1968年6月21日)

1968年6月24日—30日 中島光明個展 京教大特美科卒、砂を素材にした絵画。(京都新聞1968年6月21日)

1968年7月1日—7月7日 山田彌一個展 春陽会に所属
「評点 山田彌一個展」餓鬼草子にでも登場しそうなカラカラに干からびた人間どもが押し合い、へし合いしながらぎっしりとうまる。そして、一人一人はその底のない世界からハミ出そうとするのか、あるいは安住をそこに求めるのか、それはともかく人間を集合させた画面に極限的なある状況を実現化して描き出す—この作家が昨年度の第一回アヅマギャラリー賞をうけた「太郎と花子」と題する作品であった。しかし、今回はそうした平面の仕事からうって変わって一見、プライマリー・ストラクチャー風な様式、つまり、ヤミに塗り込められた方形の立体をさまざまな角度に切断、その断面に、従来の“太郎と花子”の固まりをのぞかせている、といった構成である。平面から立体へ—そこには二次元の視覚的なボリューム、量的なかたまりはより拡大化してとらえようとする意図がもくろまれているのだろう。しかし、その転向の過程に必然が乏しく十分な効果を持っていない。いいかえれば思考のプロセスがあまりにも直裁で、手なれた自分の、これまでの仕事によりかかりを示しながら、様式的な変ぼうを見せているにすぎないのである。現代の美術に求められるものが多様で、そこに生まれる様式はまたさまざまな様相を呈している。それらへの近づきは当然としても、この作家が求める自己の思考の領域との厳密な対決がないかぎり、それは徒労に終わってしまうのではあるまいか。(杉)(京都新聞1968年7月6日)

1968年7月8日—7月14日 福田芳子個展

1968年7月15日—21日 横尾忠則個展 版画

1968年7月22日—7月28日 グループ現人展 書道「書に自己を発現 熱心な若いグループ 現人書展」「書の線と形に自己の生(いのち)を発現したい、悩みや苦しみ、叫びを自らでたしかめたい、そしてわずかなりとも自らを深めていきたい」というのがこのグループの信条。グループは6人からなっている。いずれも滋賀県下の学校に教職を持つ和解書道家たち。????京都の前衛が郎で開催ができたという。20代、30代の若いグループでこの熱心さはめずらしい。書は個々の人間の生きる心の姿勢であるとし、それはまた単なる感覚の遊戯ではなく、人間の全的な表現でなければならないとす????う行為から人間は新しい自己を発見しそれを誕生させる。そうした厳粛なものに立ち向かっている作品だといっている。墨と紙と筆という制約されたものの中での効果をあげるために質的な新しい試みを見せる人もあり、東洋の字に寄せる内省的な境地を本拠に、若さをぶっつけている姿はたのもしい。Tから強いグループとして????。(一部判読不明)(夕刊京都1968年7月26日)

1968年7月29日—8月4日 岩田信市個展 名古屋ゼロ次元の作家。(京都新聞1968年7月26日)
「評 虚無的な“足”写実から遠いがただよう“人間の影”岩田信一個展」岩田信一は名古屋の人で、前衛的な仕事をしている人の集まりであるゼロ次元のチャーターメンバーとして作品活動をしてきた。アンデパンダン展にもよく出品しているし、名古屋ではハプニングなども中心になってやっている。一年前の昨夏も個展をしたが、ことしも作風としてはあまり変わってもいない。人間の実在をひいたあとの虚無感のようなものを思わせる足の造型の作品がほとんど。発ぽうスチロールの板を単純な線に切り抜いた一本足は、薄いピンクやブルーを背景におおらかに立ったり、投げ出されたり、ヒザから下の二本足は階段を上がって行く。クール・パンチ風といおうか、極度に情念を排し、写実とはおよそ遠いそれらの姿態の造型だが、かえって人間の影をただよわせている。約10点。画像 足の作品の一つ(夕刊京都1968年8月2日)

「作家の発言の場に“ん”創刊号」関西を中心とした作家有志が集まって、前向きの、自由な発言の場をつくろうと大きな旗印をかかげ、出発を約束した同人雑誌がある。絵を描く人が文章を書く、外国ではあまりふしぎでもないことが、ふしぎなもののように好奇の目で見られ、一年前からの話がもう忘られようとしている今ごろになって、とうとうという感じでやっと実現したのはよろこばしい。1号の目次はつぎの通り。表紙 田島征彦、E=Me松本正司、’63MARCH 石原薫、素朴実在論小牧源太郎、白い女神谷厚子、TO REACT BY REACTION 水上旬、批評家と保育園 野嶋佳浩、新羅遺跡の旅 坂田明道、復活 西井正樹 現代の造形を考える 小路昌克、遠望 不動茂弥、わざわざおやめよ 原雅子。こんどは顔ぶれの紹介にとどめよう。次号に期待。スキラ判28頁、入会金500円、アヅマギャラリー内“ん”編集委員会(夕刊京都1968年8月2日)

1968年8月5日—8月18日 やすみ

1968年8月19日—8月25日 現代イタリア版画展 フォンタナ、カポグロッシらの作品。(京都新聞1968年8月23日)

1968年8月26日—9月1日 神谷厚子個展 モダンアートに出品している若手。絵画十数点。(京都新聞1968年8月23日)
モダンアート所属の新進。(京都新聞1968年8月30日)
「神谷厚子展」(「視るNo.17」京都国立近代美術館ニュース 1968年11月くろにくる掲載)

1968年9月2日—9月8日 村上香津エッチング展 「或る時やってきた者」シリーズによる銅版画。(京都新聞1968年8月30日)
「評点 村上香津個展」ロールシャッハ・テストのような形態を腕に持った“生きもの”たちが、窓の外からぞろぞろとはい出してきたり、踊っていたり。しかも、その肉体は奇妙なハ虫類を思わす無気味な様相を呈していて、画面にクローズ・アップされているのである。題してシリーズ「或る時やってきたもの」。近年、この作家が続けている主題で、今回の京都での初個展に三十点の出品である。いずれも遠近法などの手法をとり入れながら、エッチングのモノクロームな画面に心理的なイメージを形骸化し、甘美な戦りつを伴った画面を構築しようとするのだろう。パースペクティブな手法が、透明度のある効果を思わせ、生硬な線とのからみ合いに深い幻想をにじませている。シュールレアリズムの常とう手法が見られないこともないが、ただロールシャッハ・テストを思わせる形態が、あまりにも寓意にすぎて、知的な緊張に欠けるのは問題がありそうである。あまりにも常識的にありすぎるのである。作者は春陽会版画部に所属、ことし日本版画協会に初入選。京都では初の個展である。(杉)(京都新聞1968年9月6日)
「評 ドライで内面に及ぶ・・・まだ多い“ことば”村上香津エッチング展」堺市在住の女性、春陽会版画部門に66年から出し、3年連続で入選している。同会員内海純子に師事し同じくメンバーである加藤きよみの作品が好きだという。手法はハリのエッチングにアクアチントを併用しているが、以前手がけた自然主義的なものから一年程前に今の様式をとった。現代的なもの直線で現したい。ドライなものをねらって、しかも人間の内面まで掘り下げるものを・・・というのでこんどの32点のシリーズができ上がった。題して「或る時やってきた者」という。まだことばが多すぎる感じである。余分なものを整理し、はぶいていくともっと効果を高めることができよう。(K)画像「ある時やってきた者」シリーズの一つF(夕刊京都1968年9月6日)

1968年9月9日—9月15日 増田生紀男・小林一愛二人展

1968年9月16日—9月22日 川内伊久個展 京美大卒、マジックインクなどで、プリミティークな独自の世界を表現。昨年は同画廊賞候補にあげられた。(京都新聞1968年9月13日)

1968年9月23日—9月19日 森川忠昭個展 絵画

1968年9月30日—10月6日 岡本庄平個展

1968年10月7日—10月13日 幕末・明治ハレンチな画家展 
芳年、国芳らの浮世絵版画から戦闘・怪異など異色的な作品を選んで展示。(京都新聞1968年10月11日)
戦争と怪異、幕末明治ハレンチな画家展(夕刊京都1968年10月11日)

1968年10月14日—10月20日 日和崎尊夫版画展 日本版画協友、木版画を並べる。(京都新聞1968年10月11日)

1968年10月21日—10月27日 山本義雄個展 ペン画

1968年10月28日—11月3日 坂東青樹個展 絵画
「美術 画面ささえる丹念な仕事“タブローに執着する男”坂東青樹個展」キャンバスに油絵の具を使ったうす塗りの半具象的な花を描く作品、うす塗りはブルー系で、よく見るとしづくを垂らしたり、はねさせたり、まいたような手法、細やかなしみをしみつかせているが、これを手でたん念に作っていく行為を抜きにして、絵を制作するということはイミがないといっている。線が弱く、また甘くなりがちな画面の、調子がおちていないのはこのこまやかな仕事をうまずにくり返す根気と熱意によるものであろうか。タブローに執着する男だと自分でも言っている。美術文化協会会員。(夕刊京都1968年11月1日)

1968年11月4日—11月10日 持田総章個展 銅版画

1968年11月8日、14日、19日「ZONE」毎日新聞京都支局3階ホール 企画 (詳細は70年代映像史頁にて)

1968年11月11日—11月17日 西真個展 版画
「評展 西真個展」うしろ向きなのか、前向きなのか、シルエットに塗りつぶされた顔が一つ。実体のないその表情の上にこれまたシルエットの手が、サイコロが、カギ穴がかぶさる。表情や手にくらべてリアルにかかれたサイコロやカギ穴はいかにも虚無な印象を与えるが、画面の全体からは情感的なあたたかみがただようようだ。そして黒々と塗りつぶされた表情にはなにか石的なものを思わせる。この作者の、初個展の作品たちである。並べているのはことし春の現代日本美術展に入選した「眠りの背後」のほか「ダイス」「運命」「エヴァ」など十点。いずれも、木版で大まかな形態を彫り抜き、日本画の顔料で描きこんで画面をつくっている。シルエットに塗られた実体のない表情とリアルなものをオーバーラップさせた形態。その背後には心理的な状態が不安の相貌を持って呼びさまされているかのように見える。しかし、その相貌は、決定されないものの、安定しないものへのイメージとして投げ出されているにすぎないといえなくもない。作者のいう、事物の背後にビジョンするものの在り方—も、あくまで思想とか知性、批評精神にロ過されたものでないかぎり、現実の非情の前ではいかにも弱い。画面の観念的な探求から一つの焦点を見出す意味でも、構成に合理化した技法、さらにそれを越えた創作方法がされるべきであろう。版画と描くという行為の違和感を生じさせないためにも。(杉)(京都新聞1968年11月14日)
「評 “絶対具象のもの”探求 自由な手法で効果を強める 西真絵画展」京都市立美術大学日本画科の出身。“科学的でなく、素朴でなく、怪奇でなく、現実的でなく、物語り的でなく、オプティックでなく、環境的でなく—事物の背後にビジョンする形而上的、実存的な「絶対具象のもの」の視覚的なあり方”を追求していきたいというのが作者の弁。頭部を透視するようにして、手のシルエットを書き、これだけははっきりとサイコロを描いて中心に置くといった作風。意図は作者の弁でいいつくしているが、手法は木版を使ったり、その上にロウをのせたり、筆を加えたりして自由な方法で効果を強めている。画像 作品の一つ「ひおどし」(夕刊京都1968年11月15日)

1968年11月18日—11月24日 赤石逸三個展 京美大卒、昨年度の同画廊賞の二席に選ばれた若手で、ビニールなどを素材にした絵画。(京都新聞1968年11月14日)
「濃淡ボカシで立体感 独特・・・発展がたのしみ 赤石逸三個展」染織が専門(市美大染織科に学んだ)、個展は2回目。ビニールのパイプ(管)の中に、スプレーで塗料を吹き入れるとうまく色の濃淡が自由にきく。それをうまく使って、鉄骨を溶接したワクをつくり、これにキリリと巻き上げて行く。濃淡ボカシなどがうまく立体感を出す。それが光沢のあるビニール管だから一そう効果を高める。「まだまだこの立体は進みますか」ときくと、もう一応一くぎりだというが、質的にも独特で、色彩をかえ発展させて行くとおもしろそうな作品。(夕刊京都1968年11月22日)
「赤石逸三展」(「視るNo.20」京都国立近代美術館ニュース 1968年1月くろにくる掲載)

1968年11月25日—12月2日 石原薫個展 エロティシズムを主題にしたことし三度目の個展。(京都新聞1968年11月22日)
「評点 石原薫個展」描かれた形態が、いかにあっけらかんで、通俗的であるとしてもつねに人間の内と外との問題を発想の基盤としてプロテストしていたところに、この石原薫の独自性があったのである。画面による群像まんだら、シュールレアリズム風の作品などには、形態として奇異であっても人間の深層を容赦なくえぐり出す、グロテスクとユーモアにあふれた世界をさらけ出していた。しかし、今度の個展を見ると、対象からかもし出される分学的な情緒をたのしんでいるといった態度が見られなくもない。もっとも最近作にその印象が強く感じられるのだが、一連のエロチシズムへの志向は、無限化した目でとらえるという、従来の不ていな精神でなく、ややもすれば、楽天的な視点に支配されているところに要因があるのだろう。その取組みが概念やおもいつきでないとしても、幻想の屈折が高度な精神に裏打ちされたものでないかぎり、試みは空転して容易に趣味的なポーズにおちいることになりかねないのだ。そして、こうしたエロチシズムは自己の生とのかかわり合いのなかで、いかに還元するかに執ような態度がのぞまれるのである。新制作の出品作でもある「人間の遊戯はたのしいものだ。ときどき神が目をそむける」さらに「殿下おかたくなさいますな、祝砲でも一発」などには、少なくとも直接にある種のシニシズが感じられ、今後の仕事ぶりを予測させている。(杉)(京都新聞1968年11月29日)
「本能の世界えぐり出す エロティシズムに迫る 石原薫個展」新制作展に出品した150号の一次ぎに始まる遊戯はおもしろいものだ。神が時々顔をそむける」という題の大作を中心???スを扱った数点を並べている。大作の裸像群は上方に区切った地平線の下方いっぱいを埋めており、一つ一つをし細に見ると、???り、人間の宿命的な本能の下にあやつられる世界をえぐり出している。その一人一人、加東大輔あり、?島三郎あり、作者自身も??また仰向けに口から酒を流し込まれている。作者はここ数年エロティシズムと取り組んで、彼一流の見方と表現で、これに迫っている。数点の新作もまたそうした愛欲の世界を改めてふり返らせ業(ごう)を思わせる血や十字架はものを配したシュールな絵画。(一部判読不明)(夕刊京都1968年11月29日)

1968年12月2日—12月8日 松原祐一個展 パンリアル同人、大谷高校教諭の画家。(京都新聞1968年11月29日)

1968年12月9日—12月15日 現代パリ版画展 パリ版画ビエンナーレの出品作家アタリ、ジュラルディ、ボス、セギ、リチャード、富樫実、佐藤亜土、矢柳剛の8人の作品。(京都新聞1968年12月7日)
「気吐く日本人作家 充実した仕事ぶりに興味・・・」パリ版画ビエンナーレから、国際展での受賞歴をかず多く持ち、伝統の町パリで制作を続ける30代作家8人を選んで、現代パリ版画展をした。充実した仕事ぶりが見られる点で興味深い。モロッコ生まれのアタリはエッチング、アルジェリア生まれでパリビエンナーレに入選したジェラルディはリト、ドイツハンブルグ生まれのボスはリトを3点、アルゼンチン生まれのセギ、イギリス生まれの若手リチャードなどの他、日本人では、京美大彫刻科出身の富樫実が特異なエッチングで気を吐き、佐藤敏の息子佐藤亜土、この展覧会のプロモーターになった矢柳剛などリト、シルクスクリーンなどでいい作品をならべている。(夕刊京都1968年12月13日)

1968年12月16日—12月22日 松原美穂子個展

1969年1月13日—1月19日「たまごミニアチュール展」

1969年1月20日—1月26日 第二回アヅマギャラリー賞候補展
「アヅマ・ギャラリー賞に林、赤石両氏が選ばれる」アヅマ・ギャラリー(下京区寺町仏光寺下ル)の同ギャラリー賞にこのほど、林剛、赤石逸三の各氏が選ばれた。同ギャラリーは過去一年間の個展、グループ展を対象に独自に優秀作家を選び賞と副賞(十万円)を贈っているもので、今回が二回目。審査員は小牧源太郎氏(画家)、乾由明京都国立近代美術館事業課長、吉岡健二郎同志社大学助教授。第一回には名古屋の山田彌一が選ばれている。林氏は京美大洋画専攻卒で、無所属。アンデパンダン、個展を中心に作品発表しており、人体が交錯した画面はシニシズムをうかがわせ、高く評価されていた。一方、赤石氏は同大染織科専攻科卒の新進。作品は鉄製のワクに多彩なビニール・パイプを巻いて構成した立体。昨年度は佳作に選ばれ、今回が期待されていた。佳作は柏原えつとむ(絵画)と日和崎尊夫(版画)の両氏。候補にのぼったのは川内伊久、瀬間高角(絵画)、村上香津、西真、黒崎彰、公庄巧、持田総章(版画)の各氏。受賞作、佳作、候補作を集めて、20日から26日まで、同画廊で作品展示される。授賞式でも20日午後から同画廊で。(京都新聞1969年1月17日)
「アヅマギャラリー賞きまる 林剛 がっちり、面白い造型 ビニール管を用いた赤石」過去一年間、アヅマギャラリー(下京区寺町仏光寺下ル)で開催した個展、グループ展で、とくにすぐれた作品を占めた作家に賞と副賞を贈るというアヅマギャラリー賞は、ことし林剛、赤石逸三の二人に贈ることに決定した。この賞は昨年第一回目(名古屋の山田彌一氏が受賞)につづいて第二回目。審査員は国画会の重鎮洋画家小牧源太郎氏、京都国立近代美術館乾由明氏、同志社大学助教授吉岡健二郎の三氏で、この一年の作家33人のうちからきびしい選考が行われた。一人一人をソ上にのせて厳正な批評と審査の後、残った瀬間高角、梅村孝之、林剛、柏原えつとむ、公庄巧、黒崎彰、村上香津、日和崎尊夫、持田総章、石原薫、赤石逸三、西真の13人からさらに、林、柏原、日和崎、赤石の4人にしぼられた。そして結局林、赤石の2人が選ばれたというのがその経緯である。授賞式はこの20日、同ギャラリーで行われた。なお佳作は柏原えつとむ(絵画)日和崎尊夫(版画)。以上の受賞作、佳作、候補作は26日まで同画廊に展示されている。写真(上)の林剛の絵画は、ピンクの色感が主体になった画面、多分にエロティシズムを感じさせるおもしろい造型を、がっちりとつくり上げている。林剛は旧感興北道に生まれ、終戦に引き揚げ、美大西洋画科卒。京都アンデパンダン、毎日コンクール出品、個展は大阪京都で2回。赤石逸三の作品は、昨年につづくビニールパイプを使ったもので、ことしはしっかりした金属で作った立体に巻きつけた、効果をねらっている。赤石は京都生まれ、市美大染織科卒。同専攻科中退。アヅマギャラリーで2回個展をしている。画像 赤石逸三の作品、林剛の作品(夕刊京都1968年1月24日)
「第二回アヅマギャラリー賞 林剛、赤石逸三の両氏に」第二回アヅマギャラリーは、去る12月25日、近代美術館、乾由明、画家、小牧源太郎、京都大学、吉岡健二郎の三氏により行われた厳しい審査の結果、林剛、赤石逸三の両氏に決定した。ギャラリー賞は規定では一名であるが、今回の場合、最終的にどちらかを落とすかの点で、審査員の意見が別れ、統一できず、両者の仕事の質がかなり異なっていることもあり、二名をギャラリー賞にすることとなった。佳作は、柏原えつとむ氏と木口木版の日和崎尊夫氏である。作品発表の場として、よりよい実りへの願いを込めて設けられたアヅマギャラリー賞も4月6日で画廊閉鎖が決定したため、第二回をもって中止されることとなった。I氏の将棋 林剛 I氏は最近将棋を覚えた。近くに住んでいる一人の子供が時折さしに来る。彼はI氏より先輩であって、「おじいちゃん」と言う指南番がいて日頃鍛えられているので、彼の仲間うちでは一番強いのである。I氏は負けてばかりいる。このゲームで興味があるのはコマが「成る」と言うことである。一介の「歩兵」と言えども、「成る」ことによって「金将」の力を得ることが出来る。ある批評家が鶴岡政男のことを「成った」画家だと言ったそうだ、などと考えると色々面白い。ところで余り賢い方でないI氏はこの「成る」ことに夢中になる。なかでも小さな「歩」が成るととても嬉しい。成った「歩」が相手の「王将」にせまる時は、何か物語りめいて楽しく自分の守備など忘れてしまう。どうもそのへんに執着し過ぎて気がついた時には負けになっている。今日もどうやらそれだ。「先生は弱いなあ!」と少し驚いた様に彼は言う(この子供はI氏に絵の指導をしてもらっているのだ)。もっともだと思いながら、I氏は弁解の様に「成る」のが楽しみでやっているのだ、勝負は二の次なのだと言う意味のことを言う、と彼は言下に「阿呆くさ!」と吐いた。瞬間I氏はこの言葉の強さに少なからずショックを受けた。勝負はそんなてめえ勝手な趣味で楽しむものではない、勝つか負けるかで、強者か弱者か決るものだ。勝ったら無上の優越感に浸り、負ければ歯を食いしばって泣くものだ、と言う真理がこの一言の力である。(事実、彼は友達相手にしろ、おじいちゃん相手にしろ、負けるとくやしさの余り泣くと言うことだ)。「なるほど、その通りに違いない・・・・・・。」さっさと道具を片づけて、飛んで帰る子供の後姿を見ながら、しかしこう言う時のI氏はこの小僧を憎み始めているのである。彼を敵だと思うのだ。「やつめ、大きくなったらきっとおれをいじめるに違いない」。「赤石逸三」私は暇な時間がある時、東京、大阪、京都等の中心地、特に人通りが多く商店が軒なみに続いている繁華街を歩く事がよくある。整然と並べられている商品、首と足がなく服だけが宙に浮いているショウウィンドー。ストライプとかチェックに糸が張ってあり、中の物品はこれを通してしか見られないウィンドー。入口が黒い扉で、中に入って見ないと、何が出て来るか分からない店。この様な様々な店や遊戯場、商店の立ち並ぶ街の中を前後左右に群衆が歩き回り電車、バス、自動車、オートバイがすれ違い、騒音とも何ともつかないうなり声と成って宙へ舞い上がり、空気の中へ溶け込んでしまう。この様な街中の状態が後になって「ふ」と頭に浮んで来る時、様々の交叉し合い、各々の関係がばらばらになり、一つだけが飛び出して来たり、また全然別の環境と結びつき、訳の分からない街が出来上がり、けんとうもつかない宙を想像し、自分に都合のよい空間をつくってしまうこんな状態の中から拾い集め、気に入った物だけを選択し、作品を作るのだから、実際直感的な思いつき以外の何ものでもない。だから或る種の方法や主張を固守しようとは毛頭思ってもいないし、様々の実験や経験を経ることによって違った方法や主張が生まれ、それを自分の作品の中へ導入しようとする実験行為にこそ価値を求めたい。(アヅマギャラリー第2号 1969年2月1日発行)
「選考結果(68年度分)」アヅマギャラリー賞は第二回目を数え、今年も三十三人がこの賞に参加した。昨年にくらべ、全体的レベルはかなりあがり、とくに版画展で注目された作家が多かったようである。表面的な構成・色調・以前の問題として当然、煮つめられなければならない作家の必然性、つまり画面にいたる思考が弱いため最終的な説得力・魅力に欠ける作家が多かったというのも特徴であった。しかしこれは単にアヅマギャラリーだけの問題ではなかったようである。今回の選考は最初からギャラリー賞としてふさわしいかどうかという点をまず第一に、念頭にして厳しく線をひいて消去法をとった。和田淳一の仕事はポエジーもあり、かなりはっきりした自然感に裏づけされてはいるが、画面の堅さが指摘された。太田康平も若さをいっぱいぶちまけてふくらむイメージを定着させる意欲は買えるが、仕事にたんねんさがなく、なげやり過ぎたようだ。増知保男は、昨年に比べれば色が明るくなり、彼なりに考え、新しい地点をみいだしていることでは全員一致した意見であった。が、なにかふみきれない中途半端なものが、揺曳しているのが欠点。古川陽子は発想がおもしろく注目されたものの、画面づくりが少し安易で軽いため、弱い。個展のあとのグループ展の方が整理されていた。今後を期待したい。荒木一年の版画はフォルムそのものに必然性が弱く、強くうったえかけるものがない。九州からやってきての展覧会で消えていく数字のシリーズを続けている加藤勲は、かわいた発想に可能性は十分みとめられたが、(はっきりいって)思想性はとぼしい。それを自覚して頑張って欲しい。西村隆宏の、アクリル画面の裏側から色を流し、灯を入れた作品は、作品として、提出される点にいささか疑問が残る。単なる偶然的な美しさを追うのではなく作品と呼ぶ場合、ワンセクションおいた思考が必要なのだというのである。西村精司も素人くささが、ストレートに画面にでている。最低のテクニックは必要なのではないだろうか。油とエッチングを出品していた松枝京子は、エッチングの方がだんぜんおもしろい。堅い線が清潔で美しい。油は、内容的にも単純すぎてものたりない。昨年に続いて砂の造形を続ける中島は、作品としての完成度が低く、魅力にとぼしい。ただ地方で美術教育にはげむ努力は十分に買いたい。福田芳子の油の作品は、単純な面の構成がかなりうまく処理されていたようだ。だが、この作家にとって色ぬりの荒っぽさが気になる。カガミをはりつけた屏風もあいまいさが多く作家の意図が十分具体化されなかった。岩田信市はクールなカラーがうまく使われ、昨年より発展が見られる。後期では、神谷厚子とビニールをふくらませたオブジェは、彼女のパーソナリティーの魅力以上にはでていず、むしろ一所懸命描いた印象のタブローの方が好感が持てた。巽、小林、増田の三人の版画展も、一応小ぎれいにしてだされてはいたが、そのきれいさは、あまりに軽く、問題をあとに残した。趣味的な世界にとどまることなく、若さをぶつけるこころみが、くり返されることが望まれる。岡本庄平の作品も、同様の課題が残されていた。森川は若干19才、公募展の会友で、その素質のよさはうなずかれるだけに今後を期待したい。山本義雄はいく分おどけたペン描きのエロティシズムがユニークであるとしても緻密さにとぼしく、本人が意図しているところが充分画面にあらわれてないようである。坂東青樹は甘いの一言。テクニックは十分持っている作家だろうが、いささか感傷的な世界が鼻につく。松原祐一の画面は、前回の個展・パンリアル展から大きく飛躍はしたが、単純すぎて、面などのとり方に問題が残っている。シュール的なものと、造形的なものと二つのねらいが、どっちつかずに画面に残り、作家自身のどちらかにふみきれないいらだちが画面の弱さになっている。しかしこれはプラスにも変わり得る要素でもあるから今後も注目すべきだろう。松原美穂子も、おもしろい世界が感じられるが、決定するなにかが希薄だ。一部にその奔放さが、のびる人であろうという期待の声もあった。こうした審査の結果が各委員から指摘されたあと、残った瀬間高角、梅村孝之、林剛、柏原えつとむ、公庄巧、黒崎彰、村上香津、川内伊久、日和崎尊夫、持田総章、石原薫、赤石逸三、西真の十三人について改めて審査が検討された。活字をびっしりならべた画面で、空虚なコミュニケーションをうったえる梅村の作品は、説明しすぎて、肝心の魅力にとぼしくここでおちる。石原は、画面づくりがイージーで、発想にオリジナリティがとぼしく、才覚は敬服するものの今回の作品もまたもう一つ説得力に欠ける点が審査を決定した。この結果十一人の作家をギャラリー賞候補作品展出品作家ときめ、最終審査に入った。最終審査は落ちていくのと、ひろっていくのと両方で、候補作家をしぼっていく方法がとられた。まず川内。マジックインキでユニークな仕事を続ける彼は、昨年までの、お祭りや、ぶらさがる風景などつきはなした対象からぬけでてもっと日常的な不安それも具体性のあるものに目をそむけ、黒でその事実を描く。そうした意識の地点での可能性は高く評価されたが仕事が荒い点が問題となった。たとえばグラフの線などが作品をこわす要素になっているのが残念だという意見が最後を制した。村上香津は女性らしい珍しいシュールな世界をがっちりした銅版のテクニックの上にのせ、透明度のある不気味さを持った画面。新鮮な新人ではあるが、ギャラリー賞にはいく分弱いのではないか。瀬間は、緻密な群像が集まって、大きな人物をつくるトリックを使い、昨年より、かなり明確なイメージをつくりあげて作品はよくなってはいるようだ。しかし最終的にはいま一つ迫力にとぼしいことが弱点になった。赤、白、青と明るい色を使った持田のリトグラフ銅版併用作品は美しいが、内容的にまだ、以前のいく分甘い銅版画の世界からぬけきれていないようで、作品全体を弱くしている。西真の世界も納得である。木版という作業の上に色をさすという手法で、静まりかえった、いく分高見からみおろした人間世界を描く態度は注目された。それらの作品もなかに自分からぬけきれないような弱さが気にかかった。黒崎は芸術生活画廊賞をとるなど、活躍の年であり、作品のユニークさ、テクニックの確かさはだれもが認めるところである。ただ内容的にもう一つ彼自身がふみきれないものが、たとえば紫と金という色彩の中に感じられてしまうのが欠点。公庄は、はじめての個展ながらシルクスクリーンの特性を生かし、発色にも、型にもおもしろいものが発揮されていた。しかし、よく見ると類型的で安定感がとぼしく、自分のものが十分つかめていないのではないだろうか。この結果、林、柏原、日和崎、赤石の四人が残り、このなかからギャラリー賞がきめられることになった。日和崎は、木口木版という地味な仕事ながら安定した、職人相性みたいなものさえ感じさせられる手の込んだ画面でここまで残ってきたものだが、安易な取り組みがここで指摘されることになり、はずされた。林は造形的にはかなりがっちりした世界をつくりあげており、また多分にエロティシズムを感じさせる表面的なおもしろさが全員の意見を一致させてきたが、難をいえば、ソフィスティケイションの底があさい安易さが最後まで問題を残した。また柏原は、頭脳派の作家で、それがよい意味につけ悪い意味につけ評価の分かれるところである。彼の思考そのものは大いに買うものの、個展の作品は、行きつく所へ行きついた感が強く問題なのである。赤石は、昨年に続くビニールパイプを使った作品で、平面を意識しすぎていた去年よりはるかにいいというのが統一された意見だった。しかし色の使い方や、またいろいろな効果をねらいすぎたためはっきりしたイメージがでてこなかったことがあってもろ手をあげてギャラリー賞というわけにはいかず、ここで審査は難航した。三人のうち誰れをギャラリー賞作家にするかということで大部時間がかかったが、結局、作品本位に考え、柏原をおとし、あとの二人、林、赤石をギャラリー賞作家とした。(アヅマギャラリー第2号 1969年2月1日発行)

1969年1月27日—2月9日 「ヘイターとアトリエ17版画展」 パリの銅版画アトリエ“アトリエ17”主催のW.ヘイターの作品をはじめ、同アトリエ所属作家の作品。(京都新聞1969年1月24日)
(9日まで)ヘイターのリトグラフをはじめ、吉田賢治らの版画作品。(京都新聞1969年1月31日)
「伝わる新しい動き ヘイターの作品 細やか、静かな動感 アトリエ17版画展 第一週27—2月2日 第二週2月3日—9日」パリにあるアトリエ17は世界的に知られた偉大な作家であるS・ヘイターによって創設された版画制作の研究センター。そこには世界各国から芸術家たちが集まり、版画を勉強しているが、アヅマギャラリーでは先年から作品の交流を希望して成功、2回のアトリエ17版画展を催してきた。このほどまた同教室のメンバーによる近作の版画作品が送られてきた。こうした形で交流している画廊としては日本でただ一つ。その意味でアトリエ17の新しい動きがくみとれる版画展といえよう。送られてきた10人の作家の作品は各3点ずつ、1、2週に分けてさし替えられる。第一週、御大ヘイターのはリトグラフとエッチング。前回の繊細な紫系統を使った流動感のある線の作品と同じもので、ただこんどは赤系統の色に変わった。激動するエネルギーの表現ともいわれるが、画面はそれよりも細やかで、静かな動感にみちている。神経のこまかい美しい作品である。このヘイターのアトリエ17のアシスタント・ディレクターであるクリシナ・レディは多くの国際展、個展で活躍しているはなやかな作家である。インド国籍で、マリノ・マリーニらとともに彫刻の仕事も重ねてきている人だ。その版画作品もまた東洋的な華麗さをもち、密度の高いもの。チリの人オヘニア・テレッツは写真版とエッチングを併用して先端的な仕事をしており、アルゼンチン生まれのヘクター・サウニエルは銅版を使ったオレンジとグリーンの色調。レモン・イエロー一色を白地に施した彫りの深い作品ジェーロジの作品など一連ものは染織図案家などの注目するものらしい。シルクスクリーンと銅版の併用で、あざやかな作品の松谷武判は、先年毎日のフランス留学コンクール一席で渡仏した具体メンバー。そのとき以来ずっとこのアトリエ17にいて版画を手がけている人。他に大阪出身の吉田堅治、女流の一瀬昌子などがあり、かなり日本からもアトリエ17に行っている人が多いようだ。この多彩な顔ぶれからも、世界各国から集まってくるアトリエ17のふんい気がうかがわれる。(夕刊京都1968年1月31日)
「ヘイターとそのアトリエ17」ヘイターは1901年、イギリス生れ、1927年、版画研究センターとしてアトリエ17を結成、以来、版画の芸術運動をくりひろげ、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けている。また1960年の東京国際版画ビエンナーレではグランプリをとるなど第一線で活躍する作家でもある。彼のアトリエには世界各国から彼のテクニックを求める作家が集まり、ユニークな工房となっている。アトリエ17の動向をつたえる展覧会は、日本ではアヅマギャラリーだけが行い、今度は第三回目である。(アヅマギャラリー第二号 1969年2月1日発行)

1969年2月10日—2月16日 瑛九作品展 リトグラフ15点。エッチング7点。(京都新聞1969年2月7日)
「強烈な自己表現 瑛九個展」若くよう折した画家のタイプをかりに分けるとするなら二つに大別することができるのではないだろうか。その短い生涯に全生命を燃やし尽くし運命のまま滅びた作家と可能性を内部にうっ積させながらそのなかばで突然終止符を打たれてしまった作家と。もっともこうした二つのタイプの作家たちも、のちの時代からすればその仕事が果敢な先駆的役割を持っていたにもかかわらず、多くは生のある間、正当な評価を与えられず、のちによう折したということでは変わりないようである。そして作家でいえば前者は関根正三であり、佐伯祐三であり、後者は瑛九、靉光・・・といえよう。なかでも瑛九は最近、再認識が高まっているが、その多面的な足跡を版画に見ようとしたのが今展の企画である。作品は彼が少年のように夢を託してプレートを刻み、石にイメージした1957年前後の版画たちで、銅版画6点、石版画17点。瑛九(杉田秀夫)は明治44年、宮崎県生まれ。16歳で上京、日本美術学校に入学するが一年で退学。昭和5年、写真学校に入学、ヨーロッパのシュールレアリズム運動にひかれ、マン・レイなどに刺激をうけてフォト・モンタージュ、フォト・デッサンの分野を開拓した。「眠りの時間」などのユニークな鮮度の高い映像は時代の前衛美術の旗手として資質を十分にうかがわせたのだった。それはやがて昭和12年、既成画壇のアンチテーゼとして長谷川三郎らと結成した自由美術でのアブストラクト時代にひきつがれる。そして戦後26年には、河原温、泉茂ら才能豊かな若い人たちと「デモクラート」を結成。その理論指導者として多くの有望新人を生んだが、35年、東京で作品展を開いたあと、急性心不全で死んだ。「美術家ではない。思想家だ。」と友人に怒ったエピソードが示すように、その作品は周囲をとりまく社会との対決に根ざしながら、鋭い知性にあふれた強烈な自己表現を見ることができる。そしてそれはあくまで、思想をなまにぶつけるのではなくフォルムと色彩によって絵画として定着されているのである。こうした瑛九の世界は、今回の版画にも端的に知ることができよう。石版画の叙情的なエロティックな、無気味な、軽やかな、それらが混然と一体化した画面。銅版画に見る鋭い直感力と文明批評。生前の多面的な仕事ぶりの一部と、豊かな才能にめぐまれた一人の画家の足跡を知るうえでも意味深い。(京都新聞1969年2月14日)(瑛九 拡声器 リトグラフ画像掲載)
「豊かな想像力と表現 華麗、ほとばしるイメージ 瑛九作品展」瑛九(えい・きゅう)、本名杉田秀夫は、1960年に49歳でなくなっている。戦前戦後を通じて、先鋭な活躍をつづけた異色作家で、とくに戦後の新しい才能に与えた影響は大きいが、そのわりに一般に知られることが少なく美術界からでさえも正当な評価を与えられる機会が少なかった。しかし、その作品は、フォトデッサン、エッチング、リトグラフ、油絵、コラージュなどあらゆる手段と技法を使って、ゆたかな想像力を思うままに表現しているのである。さる1月(8日—18日)にも東京銀座文春画廊で作品展が催されたが、このアヅマギャラリーでは15点のリトグラフと、7点のエッチングがならべられて、十分瑛九のたくましくも強じんな、そして見事にゆたかな想像の展開を見ることができる。「森の中」「旅人」「大喰」「マスク」「日曜日」「青のワルツ」「赤い風船」「拡声器」とならぶ作品の内、あるものは軽妙に虚空にのび、あるものは実に繊細な点描が丹念に積まれ、あるものは複雑な色が重なり、それから華麗で動的な幻惑のイメージがあふれ出る。あくことなく、執ようなほどにわく生命の原型のイメージを追って、彼の表現は小気味のよい追い詰め方をしてゆくのである。異色の作家の異色の作品展といえよう。(夕刊京都1969年2月14日)

「4月に姿消すアヅマギャラリー 前衛を守り育てる 存続願う声しきり・・・」前衛的な作家の作品をならべる画廊が一つ、この4月はじめ、京都の町から姿を消す。前衛的な作品に展観の場を貸すだけでなく、画廊自身ざん新な企画で自主的な活動をし、前衛美術作家たちの親愛な拠点として今後の発表が嘱望されていただけに、この画廊閉鎖の声は各方面から惜しまれている。話題の画廊は、下京区寺町仏光寺アヅマギャラリー(宮城正一社長)で、大正13年に明治時代から額ぶちを扱って東京で作家たちにささえられてきたあづまやが、戦災後京都へ移ってきたという歴史を持ち、需要がふえるにつれて、額ぶち部として発展した。画廊の方は、フランス美術や地元の個展などで活躍したが、戦争で中断、復活したのは41年の春。宮城社長の委嘱で京都美大専攻科出身の田島征彦に全権がゆだねられた。以来3年、画廊が真実を追求する新しい絵画を主体に、いわゆる前衛美術とはと固苦しくなく、しかも何らかの指針となるような企画展をつぎつぎ打ち出して行ったのである。世俗的な名声にこだわらず、独自の仕事にとり組む作家を集めて「現代日本異色作家展」という企画展を一年間個展形式で行ったのもその一つで、好評をよんだし、一般鑑賞者と作家との座談会をたびたび持ったのも新鮮と評判だった。更に世界最高といわれる銅版作家S・W・ヘイターとその研究所アトリエ17との直接交流による版画展やポーランド現代版画展、さらに町の画廊でははじめての新人作家賞アヅマギャラリー賞の設定なども特筆してよいこの3年の同画廊の事績であった。閉鎖は経営方針上の都合とある。額ぶちを頼む客層と画廊を使用する客層が必ずしも一致せず、そこに経済的な破たんがあると見るむき、前衛作品だけの画廊経営のむずかしさを言い立てる向きもあるが、ここまで守り育ててきた同画廊の功績を高く評価して、なんとかして存続させようという声もあがっている。(夕刊京都1969年2月14日)

1969年2月17日—2月23日 京都版画家集団展 古野由男、田中良平、真鍋宗平、山崎央、植村義夫、坂爪厚生ら。(京都新聞1969年2月14日)

1969年2月24日—3月2日 武田雄二個展

1969年3月3日—3月9日 楢崎相個展 水彩、クレパス。(京都新聞1969年2月28日)

1969年3月10日—3月16日 上野誠彫刻個展

1969年3月17日—3月23日 長田昇個展

1969年3月24日—3月30日 梅村孝之展

1969年3月31日—4月6日 瀬間高角個展

−アヅマギャラリー 第2号 1969年2月1日発行より−「社告」今度、会社経営方針上の都合により、4月6日をもってアヅマギャラリー画廊部を閉鎖いたすことになりましたので、お知らせ致します。尚皆様方には、長い間御支援いただき、有難うございました。アヅマギャラリー額縁部は従来通りでございますので、どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。株式会社アヅマギャラリー 社長 宮城正一

ごあいさつ
4月6日でアヅマギャラリーを閉鎖することが会社の方針できめられました。1月19日社長より呼びだしがあり、突然、その話がきりだされたのです。第二回ギャラリー賞発表を明日にひかえたその日でした。問題がかなり切迫したものであることは、その場の雰囲気から感じられはしました。しかしどうしても納得がいかないので、社長を追求してみてもらちがあかず、私達自身の態度をどうもっていっていいものやら、正直、その時点で考えることもできませんでした。というのは、三年前、田島が社長より全権を委任されたかたちではじめられたこの画廊も、最近やっと、わずかながら確かな一歩をふみだしたことは、私達だけでなく、だれもが認めている事実であったからです。小さいながらも、額縁部と画廊部を持つユニークな会社として発展途上のアヅマギャラリーがなぜ強引に押しきった形で画廊部をのけさろうとするのでしょう。まず価値観の違いがありました。たとえば、私たちにとって正である作品の評価、態度が、額縁部にとって負であるというつきつけられたものの前で気のとおくなるような持続性と精神性の強い時間の中でしか生きる道のない、経済的裏づけの少ない画廊は、まず弱者でありましょう。現代日本異色作家展にはじまり、世界各国から集まった数々の版画展の成果、それに、新人作家のはげみの場として設けられた、アヅマギャラリー賞、等々の仕事が、会社全体の方針と矛盾するものであるというどうにもならない幻想の前で、私達は抵抗する意思もなく、この決定をのんだのです。すべての仕事が中途半端なまま、4月6日には、この場所をたちのかなければならないのです。私達の仕事は結局、捨石でしかなかったから私達は、もうその名にあまんじてしまい、失礼します。新しい画廊が開かれる動きを身近に聞くにつけ、そこに願いをかけることぐらいがどうやら私達にできる最後のことのようです。アヅマギャラリーを支援してくださったみなさあに心からのお礼とおわびをいたします。
原雅子、浦田恭子、田島征彦

 

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