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京都青年美術作家集団

京都青年美術作家集団

京都青年美術作家集団は「青美」という名で知られている前衛美術集団である。爆撃の対象にならなかったなどの理由から戦後復興が他の地より早かった京都は、新しい美術運動を押し進めるべく戦前から活動をしてきた評論家などによる「転石会」(47年)や、「青年作陶家集団」(46年)「四耕会」(47年)「パンリアル」「走泥社」(48年)など京都の地場産業である陶芸を中心に早くもその活動は活発であった。
 その点、青美は決して新しい勢力とは言えないが、「勤労者美術」を旗印に、作家による自主アンデパンダンを1955年に京都市美術館で開催した。昔から因習や血筋といった封建制度から美術と表現を解放し、第二次大戦後の京都の作家の真の自主独立を象徴する美術集団として、青美は特筆すべき存在である。
 青美は、1954年に結成されたということが歴史化されている。結成大会は1954年に行われ、青美の「宣言書」もそのとき掲げられたが、遡る2年前の1952年にすでに青美の活動は始まっていた。この年、青美の代表人物である市村司の手によるという宣言書が書かれている。

宣言書 一九五二年ノ終期に立ツ我等勤労美術作家ハボス的性格ヲ以ツ美術団体ニ対シ不満ヲ覚エココニ現世界情勢並日本ノ国状緊縛セルヲ斯ニ真ノ勤労者美術ヲ示威セシメ中央集権ヨリ先ヅ地方文化確立ニ邁進シ諸団体従属作家ニ我々ノ行動ヲシテ自覚セシメ封建ノクサビヲ切リ真ノ画家ノ義務ヲ理解セシメ平和的諸団体ト友ニ手ヲツナギ平和線上ノ一角ヲ基クコト誓フ

 宣言書にある通り、自らを勤労美術作家であると明言した上で、美術団体が持つ権力や因習に対する不満から脱却し、真に自由な表現を獲得すべく立ち上がった青美は、封建の楔を断ち切り、真の画家の義務を理解し、平和を希求する、自主独立を目指す若き青年作家たちの集りであった。中心人物の市村司は、1922年に名古屋で生まれ、17歳のとき徴兵にとられ3年間軍事工場で働き、その後関東軍で3年、シベリアで3年抑留され、戦後命からがらシベリアから帰還すれば今度は戦前働いていた会社から「赤や、国賊だ」と敵視された人物。国の誉れと送り出された自分が、せっかく本土に帰って来たらまわりはすでに裕福に暮らしているのに、自分はしたげられる羽目に。シベリアからかえった市村は戦争中に配給されたゲートルを巻いて国の不条理を路上で国家の犯罪と不条理を訴え続けた。同時に好きだった美術がどうしてもあきらめられず、そこにこそ表現の自由があると開眼。ゲートルのかわりに「ゲバ棒を持って山城国のぬるま湯・美術界に挑戦」したれ!と青美を設立し、権力から解放された地点での真の美術革命を起こすべく挑戦を開始した。1952年に東京に転居した吉仲太造、市村司、竹中正次といった行動の若き作家たちが青美の中心。吉仲は上京後、京都の作家を東京の画廊の個展などで紹介し、京都と東京の若い前衛作家のパイプ役としても活躍する。 
 青美の宣言書が書かれた1952年当時は、絵描きだけではなく、詩人や評論家など前衛意識のある人々が各々集っていた時代。青美メンバーは行動美術が中心である。当時の行動は、組織時代に自由な雰囲気があり、伊谷賢蔵や伊藤久三郎といった指導者から中堅作家も若き作家たちもみな戦後の復興の中で、燃える想いを胸に秘めていた。行動美術研究所はそんな作家たちの出会いの場となっていた。(当時の行動美術研究所の状況については「目撃者」小名木陽一のインタヴューに詳しく掲載されている)
 青美の集会に使われる場所は、下京区下魚棚通大宮東入にあった市村司の家の2Fや四条河原町二筋目を東に入った喫茶店「キサラギ」などであった。キサラギには文学関係者や革命家、詩人、画家、陶芸家、演劇人などがたむろしていた芸術論がかわされるサロンとしてしばしば当時の活動場としてその名が登場する。青美は宣言文は発したが当初は展覧会は持たず、さかんに会合をかさね議論をし、東京で新聞社や党が主催するアンデパンダンに対抗し、自分たちの力でアンデパンダンを開催するんだ!と燃える決意を胸にした作家たちが話し合う場であったようだ。

「前進か後退か今日青年画家の悩みは一つである。それは如何にして絵画以前の人間性にもとづき新しい絵を描くかどうかということである。世界的な視野における新しき現代人の感覚に忠実な造形の真義をうち立てることを要求している。それには我々青年が全ての固定意識を超越し真剣な考えと堅実なる行動力によって自らを解放することが必要であり、ここに初めて多角な人々によって自由に研究し自由に展覧する場所と会を得ることによって絵画の純粋性は維持され発展改革することが出来る。然して京都に優位なるアンデパンダン達成の礎石になることに誇と自覚をもつ人々によって、本会は設立した。京都青年美術家集団の発足にあたって全ての良識ある美術家の参加と各方面の協力によって、この新しい仕事を時代の要求にもとづき前進することを誓う」1954年「京都青年美術家集団」

 1954年のこの宣言書は、作家の手によるアンデパンダン達成の為に、青美が発足したことを宣言している。1954年8月には京都大学近衛会館で、批評家中村義一司会による青美の設立総会が開催された。この時、東京の若き批評家 瀬木慎一が立ち会っている。瀬木は当時テープレコーダーを肩から下げて頻繁に関西に足を運び、若き前衛たちの現場を訪れていたと言う。瀬木によるとこの時は「議長をつとめる当時唯一の批評家中村義一の進行によって、それぞれ熱烈だが、噛み合わず、逆らう長い議論が続けられて、ともかく発足した。当時、京都新聞社の美術記者だった藤田猛(のちの京都市美術館の学芸課長)が、終止、温顔の産婆役だった」と「戦後空白期の美術」(1996年思潮社)に書いている。京都市美術館の重達夫館長、当時、京都新聞の美術記者で後に京都市美術館学芸課長となる藤田猛、評論家の井島勉、上野照夫らのバックアップのもと、1955年、青美は作家による「アンデパンダン」を設立し、京都市美術館で第一回目を開催した。この頃、青美は毎週のように会合を重ねており、市村ら作家のほか、評論家の中村義一がオブザーバーとして参加。1955年アンデパンダンの際は次のような宣言をその記念すべき第一回チラシに掲載している。
「権威と断絶した場所に、新しい前衛的な意欲がある以上、すでにアンデパンダンの成立自体が、激しい主張を明快に語っている」

 1955年3月23日〜3月31日 第一回アンデパンダン展 京都市美術館「青美」主催による絵画150点  福永久造、稲木秀臣、元広美智子、大角清次、竹中正次、大熊峻、石原薫、市村司、三浦三郎、青木義照、東繋造、田中守貴、珠数末三郎、中塚量夫、森清、小名木陽一、矢野喜久男、藤波晃、井上豊治、奥井彰夫、高橋和平、志摩篤、真山豊、嶋田米造、豊島満造、福沢忠夫、山本之夫、森康次
1955年3月最初のアンデパンダンは行動美術の作家が中心になって開催された。アンデパンダンと青美は同時であり、青美はその後の約5年、主張の違いから分裂合体を繰り返しながら、1956年の第2回アンデパンダン、1956年から1961年まで開催されるグループ連合展など、前衛美術運動を邁進させていった。アンデパンダン自体は、56年は、京都の「青美」、滋賀の膳所高校出身者が中心となって結成した「孤立地帯」、京都の「ギルクア」、「目撃者」によって評議会が結成され、京都の「パンリアル」「泥土期」、大阪の「極」「デモクラート」「リアリズム美術家集団」、東京の「制作者懇談会」前衛グループが参加し開催され、1957年からは京都市が運営することとなった。


 運営が1957年以降京都市に移行した理由としては、財政的な理由や作家が事務局をやることの難しさなどいくつか上げられるが、京都市自体が前衛美術に着目し、アンデパンダン主催に前向きであったことが大きな背景にある。青美メンバーであった稲木秀臣が京都市とのパイプ役として、京都市美術館の重館長と話を繋げたことが直接のきっかけである。この経緯については、当時の作家の発言、1974年に京都市美術館によってまとめられた「京都市美術館40年史」や1978年の「京都アンデパンダンの20年」に掲載されている文章を参照していただきたい。作家たちの本心は「公という権力にアンデパンダンを預けることへの不安」が強く、一度は物別れとなったものの、「館長が重さんだったから運営をお任せした」と市村が語る通り、京都市美術館側に信頼に足る人物がいたからこそ、この移行が現実のものとなったのである。
 1957年からのアンデパンダンは京都市主催の「京都アンデパンダン」として、井島勉、今泉篤男、中村義一、下村良之助、松浦正雄、青木義照、稲木秀臣、三宅五穂が運営委員に選ばれ、運営されることとなった。当初、市からはアンデパンダン出品者のうち優秀なものに「賞」を授与し、賞金を与えようという、アンデパンダンの理念とは全くそぐわない案が提出された。そのお金数十万は、かわりに東京から批評家を呼び、アンデパンダン開催中に批評家を囲む懇談会を開催し、批評会を行うことでつかわれることとなった。(以降のアンデパンダンについては、アンデパンダンの項に掲載)
 青美はその後、年に1−3回の「青美展」を開催し、それは現在にもわたって行われている。市村によると、青美はアンデパンダンの「目付役」として、アンデパンダンが中止されたときの受け皿として存在させてきたと言う。京都市主催のアンデパンダンは終息宣言がないまま1991年の湾岸戦争時開催された回をもって最終回となったまま現在まで続いている。アンデパンダンがなくなった今、京都の青美は、作家によるアンデパンダンとして、参加したい人すべてに門戸を開き活動を続けている。なお、青美結成当時は、公募団体に所属は禁止され、アンデパンダン、青美、個展以外の発表の場は厳禁とされ、それに反対する「目撃者」などは脱退していったが、1960年代以降は、その制約は弛み、以降は、青美展に縛られることのない作家活動が繰り広げられている。

 

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