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実験グラウンド∧(前身の「VOL 美術集団」含 1962~1965 頃)

実験グラウンド∧(前身の「VOL美術集団」含 1962〜1965頃)

1964年5月7日晩、京都の祇園会館で足立正生の「鎖陰」が上映された。この日、勤め人風の男によって「鎖陰」のフィルムが盗まれ、上映は途中で中止を余儀なくされ、会場は大混乱に陥った。「鎖陰」の京都上映を手引きした京都側の人間は誰か。「犯罪者同盟」の関係者と推察されるフィルム持ち去りの犯人は、当時京都の繁華街のゴミを這いながら回収し美術館に持ち込むなどの行為をしていた前衛美術集団「実験グラウンド∧」のメンバーの可能性が高い。
 「実験グラウンド∧」は当時、過激な反芸術的活動を展開していたが、活動期間は非常に短い。前身である「VOL美術集団」は、1962年頃からはじまった京都美術大学(現在京都市立芸術大学)の学生ら(大江正典のみは京都学芸大学出身)を中心としたグループである。
 当時、京都の『前衛グループ』のほとんどは、メンバーの他に「教えを授けてくださる顧問」のような存在がいた。「VOL美術集団」の結成当時の顧問=指導者は、メンバーの真鍋宗平の中学時代(京都市立蜂が丘中学校)の生活美術クラブの顧問であり、美術教育の研究家であった長野誠之助であった。しかし実際に指導力を持ち、グループをバックアップしたのは京都大学美学出身で、後に京都国立博物館に勤務し、さらに後には大阪大学名誉教授となった桃山障壁画研究の大家 武田恒夫である。武田は井島勉の門下生で、年齢的には木村重信より少し下である。木村が当時活躍を見せていた京都美大日本画の出身グループ「ケラ美術協会」や「北白川美術村」をバックアップしていたから、武田にはそれに対抗する気持ちがあったのではという推測もある。反面メンバーたちは、ケラに対しては「対抗」というような大それた構えではなく、むしろケラからは強いエネルギーを感じ取り、先輩格の「ケラ」や「ゼロの会」、「具体ピナコテカ」「ハイレッドセンター」などを意識していたようである。
 「VOL美術集団」のメンバーは、大体5年間の年齢層の幅の中に皆が入る。皆若く、ゆえに議論が若すぎたこともあり、求心力を持てないままに、1963年4人のメンバー(真鍋宗平、加藤美之助、大江正典、石川優)が抜け、「実験グラウンド∧」を結成。VOLはその後1964年に解散となった。
 「実験グラウンド∧」は、1964年3月の京都市のアンデパンダンを皮切りに、市内各地でハプニングを展開。大江、真鍋の2人によって「’64アンデパンダン」で引き起こされた「ホルマリン事件」は、会場にホルマリンをふりまきサイレンを鳴らすという迷惑行為。大江、真鍋、加藤による「生ゴミ集積イベント」は、毎日美術館にゴミを持って行く行為。美術館側はゴミを撤去する。すると次の日にまたゴミを持って行くといういたちごっこ。また時には全員で、時には1人2人で、京都の繁華街をゴミ袋を引きずりながら匍匐前進していったこともある。
 「実験グラウンド∧」は、1965年に大江が渡米し、東京新橋内科画廊「∧×2展」(1965年9月)を最後に分解した。ちなみに真鍋宗平は、のちの京都の大山崎町長である。

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