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麻田脩二インタヴュー

麻田脩二インタヴュー(2006年9月19日)

無限大前夜 京都の状況と京都美大時代
戦後美術というとよく読売アンデパンダン前と後で別れますけれども、京都はそういう動きとは全く関係ありません。
 関西、とくに京都は独特で、他の地域と全く動きが違います。ですから、東京のものさしで京都を見てもほとんどわけがわからなくなると思います。
 染色集団無限大は1963年から10年間の活動です。
 当時、日本で染色のグループは他にはありませんでした。京都の染色は層が厚いでしょう。伝統から新しいものまで含めて。そしてやはり京都が日本で一番盛んでしょうね。私は日本だけでなく、海外いろいろな国や地域をまわりました。それで感じたのは、やはり京都はとにかく層が厚いということです。特に染色関係。私はあまり工芸という言葉は好きではないのですが、工芸という世界で言いますと、他の国、世界では、だいたい一都市一芸です。イタリアのヴェネツィアだとヴェネツィアングラスとか、有名なものはだいたいひとつですよね。ところが京都は、陶器、染織、漆、木工、金工いろいろなものがあって、それぞれがハイクオリティで、それが1ヶ所に集中している。そんなところは他にないです、世界中ありません。いろいろなところからお互いに影響を受けていて、その点において京都は特殊だという気がします。
 無限大は、工芸の枠からはみ出ているというか、工芸という面だけでは測れないスケールの大きさがあります。これは染色である、と言えないような力がある。染色といいながら、2メートル3メートル、そんな大きな型染めの仕事を僕はしてきました。又、内容もそんなもんは見たことがないというもの。こういう仕事は、京都だからこそできたような気がします。僕が東京で生まれたらきっととても伝統的な染色をしていたと思うんです。僕は西陣で育ったから、伝統というものがとにかく重たくてごっつい。だから反抗するんです。若い時は、権威に反抗するのが仕事みたいなものじゃないですか。その権威が大きければ大きい程その分反動力となって帰ってくる。それであんなことをやりはじめたと思うんです。京都のもっている伝統の重さ、大きさ、そのおかげやと思っています。
僕が京都美大(現:京都市立芸術大学)の4年間を通じて教えていただいたのは、稲垣稔次郎先生です。僕は稲垣先生を尊敬しています。僕が卒業して2年後に亡くなりました。先生は、工芸は「静」の世界、絵画やアートは「動」の世界だとおっしゃっていました。先生のことは非常に尊敬していましたが、それだけは納得いきませんでした。自分は染めを教えてもらったけれども、どうしてそれで「動」の表現の世界に入ったらいけないのかが分かりませんでした。染めというものは、かぎりない平面だと僕は思っています。絵画も平面だといいますが、それでも絵の具の盛り上がりなんかがある。しかし染色は一番限りない平面なんです、それで、勝負したれ!と、染色で「動」の世界を表現してやろう!と。それが僕が染色の仕事を本格的にしはじめた動機となりました。
 僕は美大にいっていたときは、実はぜんぜん染色しませんでした。田島征彦もそうですが、僕は美大のアトリエ座にはいっていました。当時、美大のやんちゃで馬力のある奴はみなアトリエ座でした。アトリエ座は歴史も深くて上村松篁さんの時代からあるんですよ!劇団で有名だったんですが、舞台装置が売り物で、年に一回祇園会館などの大きな場所で発表していました。僕も田島も裏方でしたから、年中トンテンカンテンやっていました。それで美大の4年間を暮らしていたようなものです。そのときの先輩に、ケラ美術協会の岩田重義さん、楠田信吾さんらがいました。わたしは一緒に山にいって、北白川芸術村の開墾もしましたよ!そのころはガンさん(岩田)や楠田信吾にあこがれていましたから、飛び出して、、、そういう時期やったんでしょうね。親戚は絵描き(おじは麻田辨自、いとこは麻田鷹司、麻田浩)。毎日校門の横のアトリエ座の作業場にいっていて、稲垣先生がお昼くらいにいらっしゃれば「先生こんにちは!」夕方には「先生さようならー」って。そして最低限の作品しか提出しませんでした。卒業してからも染色などする気はまるでなく、卒業のときのコンパで酔っぱらって小合友之助先生、稲垣先生をつかまえて「芸術家と坊主と先生ほどいやらしいものはいない」とかいって、酔っぱらって階段から転げ落ちました。陶器には富本憲吉先生もいらっしゃいました。英国紳士風で、とってもお洒落でしたね。僕が3年のときに佐野猛夫先生がいらっしゃいました。彫刻は、辻晋堂、堀内正和先生おられて、よかったですね。
 1961年に卒業して僕は室町にある「市田株式会社」に就職し、デザインの仕事をすることになりました。個人ではなかなかできない仕事もさせてもらえていたから、楽しかったのですが、忘れもしない、就職して1年目のある夜、河原町を歩いていたらケラの楠田信吾にあったんです。楠田さんが「脩!いま何しているんや」というから「つとめてますんや」と返事したところ「食うために過ごしているなんて犬と一緒やん!」って言われたんです。頭にきましてね、こっちは必死で食べていくために働かないといけないのに。でもそんなことを言われまして考えてみたら、会社から帰ったあとの時間なら何をしたってかまわないのだから、それなら何とか最低限の知識と技術だけは持っている染色をやろう!型染めなら自分でできる!って思ってやりはじめたんです。それからなんですよ。当時僕は南禅寺に下宿していました。南禅寺の塔頭のひとつの下宿。6畳1間。そこではじめました。禅寺の庭でいつも染めていました。よく許してもらえたといまでも不思議なくらいです。型染めをしたのは、稲垣先生の影響が強いです。絵画、油絵なんかはプラスプラスプラスいいかえればアッドアッドといった感じですが、型染めはマイナスマイナス、取り去って取り去って最後にのこったものだけなんです。切ったらおしまい。切った線の潔さや鋭さそんなものが、とても自分には向いていると思いました。一番はじめに20点くらいつくりました。大きなものをたくさん染めました。染めたところで、誰にも見せていないし、展示なんて考えていないし、僕らの時は個展なんてやるような時代じゃない。発表するなんてとんでもないしできるとも思っていない。とにかく最初に作ったときは、自分の思いをぶちまけてみただけで作品になっているかもわからない。稲垣先生に見てもらいたかったもののすでに亡くなっていました。とりあえず佐野先生のところに電話をかけて、ドンゴロスのコーヒー袋に一杯作品を詰め込み、お宅に押しかけました。先生に見せたところ途中ひとことも何もおっしゃらない。最後に「これ、発表する気はないのか?個展やったらどうや?」とおっしゃってくださったんです。びっくりしました。それで決心してはじめて展覧会をしたのがギャラリー16なんですよ!無限大での発表はその後です。
その前の段階ですが、新匠会に稲垣先生が出しておられて、富本先生も出しておられましたから、僕も実は出したことがあるんです。卒業した年と次の年(1961年と1962年)。稲垣先生は審査員でいらっしゃって、僕の作品のことをとてもほめて下さったのですが、1年目では賞をあげられないということで、2年目に賞をいただきました。その辺りが古い体質がでているところだなと思うのですが。とにかく2回目に入賞しましたので東京にいきました。受賞式にいったわけですが、とにかく古臭いんです。勢いもないし。富本先生稲垣先生がおられなかったら何の魅力もないので、結局賞金だけもらって退会しました。
 そんな折の1963年6月10日頃、稲垣先生が亡くなったとのことで、すぐ病院に駆け付けました。田島も来てました。後日お葬式にいった帰りしな、田島、中野光雄さん、ダンダラのグループのメンバーで、喫茶店にいきました。僕は、実は先輩たちがやっていたダンダラのグループ展にも一度出したことがあるんです。京都美大の染色の同窓会的なグループでしたが、稲垣先生が僕をダンダラに推薦して入れて下さったらしいです。稲垣先生が亡くなってしまい、これから自分達がその意志を継いでいかなければならないが、今後どういうふうに進めていこうかと相談することになったのが、この喫茶店です。そのときに「ダンダラは同窓会みたいなものだ。同窓会的であれなんであれ、そんなのやめよう、意味がないのではないか。これからはともに発表する場を唯一の発表とするくらいの気概でがんばらないと京都の染色界が駄目になる!やらないか!」と僕がのろしをあげました。後日改めて集まった時、田島はダンダラではなかったので陪席として来ていたのですが、話をしているうちに田島は一緒にやりたいなとなってきていたようでした。中野さんは、着物を作っていきたいというのと、稲垣先生が作られた新匠に残りたいということで、結局、このメンバーになりました。無限大という名前は、無限大に果てしなくひろがる、そういう意味です。無限大の可能性を求めるというか。結成文を書いたのは志村さん。

染色集団無限大
無限大のメンバーは型染めだけではなくいろいろです。染色の仕事をしているというのが共通点。このグループをつくって活動していくことによって、「我等ここにあり!」というか「僕らが染色をかえていかないといけないんだ!」というような気概がありました。同時代のケラがとても刺激になっていて、彼等は新しいことをやっているし、僕らは染色でやってやろう!と。それまでは染めといえば着物とか工芸屏風しかなかった時代なんです。ファイバーアートなんていうのも言葉すら存在していませんでしたし、ちなみにファイバーは70年にはいってからアメリカから輸入されてきました。
 アトリエ座の舞台装置の感覚なんかが僕と田島君の中にはありましたから、ふたりとも大きなものを作ってました。
 グループの性格ですが、無限大のメンバーはそれぞれ、志は一緒にして、作品はそれぞれ違うものにしていこう!基本的に無限大のグループ展は個展の集合体や!というふうにしていくことになりました。決まり事といえば、コンペはいいけれども派閥には属さず、発表は無限大の場でやろうということ。最初の展覧会は京都府ギャラリーからはじまり最後は京都市美術館でおわりました。毎年しんどかったです。メンバーの頭数が少ないわけですからね。京都市美術館の陳列室をいくつか借りて、僕も一人で一室つかったこともあります。毎回15~16点巨大な作品をならべないといけない。最後の展覧会は大陳列室でやりました。
 そのころの批評家といえば、木村重信さんがいらっしゃいました。木村さんは一番若かったですね、ケラの創立からかかわっておられました。上野照夫さんがパンリアル。上野さんには無限大の批評もいつも書いていただきました。井島勉さん、上野さん、木村さん、乾さんも若かったし、毎回みなさん展覧会のときに来てくれました。みなさん手帳をもっていて展覧会まわり。えんま帳みたいなもんですね、そこにずっとつけていました。毎日新聞社主催の選抜美術展が毎年ありまして、そこには、彼等が一年間あるいて見てきたなかから良いと思われる作品が選ばれて展示されるんです。ですから彼等はいつも欠かさず見にきて下さいましたし、僕らも必死。それに選ばれるのがすごく励みになりました。私が出したコンペはシェルと現代日本美術展と芸術生活誌コンクール展です。そのいずれも、工芸染色というカテゴリーではなく美術でいきました。そういう意気込みでした。それで賞もとりました。彼等は僕の作品を染色としてではなく美術としてみてくれて賞をくれました。自分で言うのもなんだけど、染色で、現代美術で勝負したのは僕が京都のみならず日本ではじめてだと思います。賞をとったときに、「俺のいっていることは間違いない!」と思いました。審査員が最後まで僕の作品を染色と気が付かなかったと言われた時には「しめた!」と思いました。平面表現として芸術の地平に立った!と。
 10年無限大を続けて、皆に認識されてきて、認められてきて、自分たちの役割の一つが終わったんじゃないかと感じるようになりました。それと自分がつとめる学校の仕事も忙しくなってきて、ひとまず終息することにしました。最初から10年たったら一区切りしようと思っていたところもありましたし。若い人たちもそれによってずいぶん僕らにインスパイアされてくれたように思いますし、自由な発想になってきていました。僕らの仕事をみて、「刺激をうけた!」とたくさんの人たちが言ってくれました。はじめはボロクソに言われましたが。

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