avant-garde art 前衛美術集団

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中西康進インタヴュー

中西康進インタヴュー「和歌山の美術とA55集団の記録」(2006年)

A55集団のなりたちと当時の和歌山の前衛美術状況
1954年頃、大阪の片山昭弘ら東京美術学校出身の若手が中心になり大阪でUクラブというのがすでに結成されていました。そこへ和歌山から宮村泰彦と平松欽一という同じく東京美術学校出身の二人が参加をし、刺激をうけて和歌山に帰ってきて、和歌山でも新しい現代美術に取り組まないか!ということではじまったのがA55集団のはじまりです。アヴァンギャルドのA、アブストラクトのA、アートのA、それと1955年に結成したので、A55集団と名付けられたわけです。
 戦後の和歌山は活発で、美術グループもそれなりの数があります。(アートニュース参照)1950年代には、抽象ではA55と緑壮会というグループのふたつがありました。A55集団では結成当時、宮村泰彦、平松欽一、柳野節雄、八幡三郎、佐東計三らが中心でした。その後、いろいろなメンバーの出入りがありました。
 緑壮会は、小野教治、児島義一、小川英夫、松田利昭、有本弘、出村悦延などがメンバーで、出村氏はのちに黒川紀章氏設計の新美術館(和歌山県立近代美術館)建設準備室の次長もされました。(アートニュース参照)A55と緑壮会ふたつのグループともに、競い合うというのではなく、お互いに独自の活動をしていました。
 京都や大阪では、評論家の方々がグループの活動をサポートしたりなどしていた状況がありますが、和歌山ではありません。当時の和歌山大学の美術の教授というのは、新制作の峠原敏夫、モダンアートに出していた山口信郎、などが作家として活動をしていました。
 大学では美術教師の育成はされていましたが、現代美術を育てたり展評をする批評家のような方はおられませんでした。
 大阪では、新聞記者、たとえば朝日新聞では村松寛氏、産経新聞では高橋享氏、読売新聞は鈴木敬氏らが、それぞれ美術欄を持たれていて、若い作家を育てたり、論評をしていました。和歌山では、今は社名も変わっていますが当時発行されていた「和歌山新聞」の記者をしていた吉田孝幸氏が、「現代抽象絵画和歌山10人展」を2回にわたって企画し、和歌山の前衛美術に火をつけた時期がいっときありました。
 A55集団の和歌山以外での活動といえばグループ連合展です。1957年から59年まで3回参加、外に対しては僕が窓口をしていました。大阪の大丸の横を入ったところに「御門」(ぎょもん)という喫茶店があり、そこがグループ連合の会合場所になっていましたので顔をだし、作品の展示場所や割り振りなど打ち合わせをしました。

A55の活動と性格 グループ緑壮会の話もまじえながら
A55のメンバーはみな和歌山の出身です。僕だけは大阪出身で、戦争で家が焼けたので和歌山に来たのですが、先ほど話にも出たUクラブと交流のあった宮村泰彦と平松欽一は東京美大出身。橋爪靖雄は千葉のほうの漆芸の専門学校を出ています。八幡三郎は自由美術、柳野節雄は春陽会に出品していました。当時は美術系の学校も少なく、若さと情熱で独学で絵を描いていた人も多かったと思います。
 A55のメンバーの中にもそのような方がいたと思います。メンバーは展覧会で顔をあわせたり、それぞれが抽象的表現の作品を創っていてお互いに近いものを感じ合っていたり、また、面白い作品を創っている人に声をかけたりしてメンバーが構成されていきました。A55集団の結成に際して、反官展いう理念を掲げてというのではなく、若い情熱とアブストラクトを意識してやってきたグループです。しかし、心の中にはアカデミックなものに対する反発の気持ちや、新しい世界を創造するという思いを抱いていました。当時、メンバーの年齢は30歳代の人が多く僕と橋爪靖雄は20歳代の若者でした。僕がメンバーに加わったのは結成から1年後でした。
 A55の発表は和歌山では丸正百貨店のみです。そこでしか和歌山で美術を発表する場はありませんでした。その百貨店も今はもうありません。そこの特売会場の横のスペースで発表をしていたのです。1963年には和歌山県立美術館、またさらに後には白石画材がギャラリーを持つようになるのですがだいぶ先のことです。当時は、百貨店に宣伝部というのがあってA55も緑壮会も会場の予約をしていました。デパートのスペースが今でいう貸しギャラリーみたいなものだったわけです。百貨店ではよくお客さんを呼ぶために特売ショーなんかしますよね。そういう特売ショーの間にあいたスペースを貸してもらい、客よせもかねて展覧会をしたわけです。A55の場合は1月でした。
 1月4日頃にデパートが開店すると同時に展覧会をしていました。お客さんも多かったです。百貨店の方は客寄せという気持ちだし、こちらもA55が展覧会やるよ!とチラシを作ったり、案内状を送付してひろめていました。美術関係だけでなくいろいろな人達が見に来てくれました。丸正のスペースは小学校の教室よりも少し広いくらいの大きさでした。ただし特売場の横だからパネルがあって、自分たちでそのパネルをいれかえたりして会場設営をしていました。会場では誰かが会場当番にあたり芳名録も置いて、会場に来た人達に応対していました。
 その当時、作品はオート三輪で運搬していました。「おおきいことはよいことだ」というのが若者のノリで、今のように150号、200号というサイズは見られませんでしたが、それでも100号くらいの大きさの作品を作って発表していました。後の話ですが、僕は大阪の前衛グループ「デルタ」の展覧会にも出品していました。デルタ最後の美術展となりました京都市美術館では、100号の作品を36点つくりました。一人一室。巨大な作品をみなが作っていました。
 緑壮会もA55集団もみな油絵を描いていましたが、僕は油絵具はほとんど使わず、麻ヒモやセメントを多用していました。画面にそれらをボンドでつけるんです。1957年にグループ連合展にだした作品はベニヤ一枚の大きさ、90×180センチ。その支持体の上に麻布や石膏などを貼付けて、表面は油絵具で仕上げています。A55はそのように抽象絵画を描いていたメンバーのグループですが、1958年には「詩と絵画」と題した展覧会を持ったことがあります。この展覧会は和歌山の詩のグループ「現実の会」とA55との合同企画です。現実の会は、医者や教員、看護婦などの有志がメンバーだったと思います。そのメンバーが絵を描く仲間である我々と一緒に詩と絵を競合させたアンソロジーを発行しました。作家の富岡多恵子さんなんかも来てくれました。
 緑壮会のメンバーは当時皆で集まって、よく合評会をして作品について話合いをしたり、展覧会場で批判しあったりしていました。我々A55もよく合評会をしました。当時の写真も残っています。月に1回くらいしていました。展覧会にだす作品なんか持ち寄って。大体30号から50号くらいの大きさでしたから運搬できました。普段は10号、20号の作品でよく話合いをしていました。ちなみに大きな作品を作りたいときは、家も狭いですからパーツをつくって会場でつなぎあわせました。うしろをボルトで繋ぎあわせる、それでも150号くらいが限度だったんじゃないのでしょうか。

A55からデルタ、テムポへ
A55は和歌山のグループでしたが、発表は丸正百貨店だけでしたしもっと活動を広げたいと思い僕が大阪画廊を予約しました。ところが皆普段の仕事があり、また、大阪まで作品を運送するのも大変ということで他のメンバーの出品はなくなり、結局僕は単独で個展をしました。そして僕は、和歌山に限定された活動にしびれを切らし、A55からデルタに移りました。
 そのまえに1959年12月にA55とデルタの合同展が丸正で開かれていますが、その展覧会が和歌山で開催されたきっかけは僕が作りました。当時、僕は美術文化協会に出品していたことがあり、そこにデルタの木梨アイネや坂本昌也らも出していました。美術文化の会合が大阪であったときに彼等と知り合い、彼等に、和歌山でやらないか?と声をかけたわけです。そしてA55とデルタの合同展をA55が企画して、デルタは参加してくれたというか、作品をおくってきてそれを我々が展示をしたのです。
 1回だけでしたが、それがきっかけで僕はデルタに参加するようになりました。ところがデルタも僕が参加したのは2回だけですぐに解散してしまいました。その後のテムポも1年半で解散しましたが、それは木梨と坂本が「具体」にはいってしまったのも原因のひとつです。
 抽象作家集団テムポは、1962年に森口宏一、井原康雄、神吉定、木梨アイネ、坂本昌也、中西康進の6人で結成されました。(詳細について「テムポ」のページを参照)テムポは、当時活発に活動していた「具体」のアクションのようなものではなく、もっと理詰めの作品、物質的なもの、インパクトの強いもの、そういうものを作っていきたいということでまとまりました。
「テムポ」という名称は、当時神戸在住の毎日の英字新聞記者で批評家でもあった赤根和生氏のお宅へ、皆でお伺いし命名して頂いた由来があります。またテムポの宣言文については僕が原案を作って、それを叩き台にしてメンバーで話し合って決めました。内容は文章としてわかりにくい面もありますが、当時、僕は花田清輝の「アヴァンギャルド芸術」の影響を受けていて、またそれが僕等のバイブルでもありました。また、「美術批評」という雑誌に瀬木慎一氏、東野芳明氏、針生一郎氏の文章がよく出ていて、そこからも難解な言葉をつかうのに影響をうけました。
 テムポにでてくる「埋葬」という言葉は、絵画的尾てい骨というか、例えば作品をつくる場合、竜の顔を描いて最後に目をいれてしめくくるというじゃないですか。そういう情緒的なものを排他して、切り捨て、埋葬していって新しい地平に立って、そこから立ち上がってきたもので理念を作っていきたい。そういうところが埋葬という言葉で表現されました。パンフレットのデザインは神吉さんや井原さんらがやっていました。彼等はその方面の専門家でした。
ちなみにこのころにさかんにみていたのは、美術手帖やアトリエ。それと花田清輝のアヴァンギャルド芸術。また、美術批評や美術ジャーナルもよく読みました。それらから刺激を受けてエネルギーを作品にぶつけていったという感じが当時をふりかえるとします。それとアメリカ絵画かな。テムポ展へ東野芳明氏を招聘した時に見せてもらったジャスパージョーンズやラウシェンバーグ達のスライドでした。それでいっぺんに火がつきました。
僕は発表の当初は、90×180Cmの大きさの鉄板を焼いたり叩いたりして衝撃のエネルギーの痕跡を表現していました。それが変化してきてテムポの時代は、ベアリングとか円盤なんかを箱の中にいれるようになってきました。それらの箱パーツをボルトで繋いでひとつの巨大な作品として提示するようになってきました。別の作品では音も入れました。壊れたラジオを組み込んでガーガリガリピーピーという雑音が会場に流れるのです。音が邪魔だと言われましたけれども。また、仏壇の感じなんかも作品にとりこみました。観音開きの仏壇。死者への鎮魂歌ということでお経ならぬラジオの雑音が聞こえてくるわけです。テムポは、6人の埋葬者というキャッチフレーズをもっていて、既成のものごとを埋葬していこう、という理念ですから。
 ちなみにデルタとテムポは合評会なんか嫌いで、お互いに何をつくっているのかもわからなくて、会場ではじめてお互いの作品を見る、といった感じだったように思います。それで、「この描き方ええなあ」みたいな禅問答だけ。でもそれでも通じたんですよ。それは普段から美術をやっているからこそわかるのだと思います。残念ながら1年半で活動は終了しましたが。

和歌山の美術状況
和歌山に県立美術館ができたのは1963年でした。日本のなかでもかなりの早い時期にあたります。京都国立近代美術館もまだできていませんで、国立近代美術館京都分館として出発している年が1963年です。和歌山に美術館をつくるために後押しをしたのは美術家協会という和歌山の美術にかかわる団体です。その団体がわずかな金額ではあるのですが寄付したりバックアップをしたりしてできました。
 少しあとになりますが、1970年から80年までの10年間、和歌山の県展と美術家協会展の中に「現代造形部門」というのを私達が中心となり創設しました。洋画・日本画・彫刻・書道・写真・工芸・華道と7部門あるなかに現代造形のセクションをいれたわけです。李禹煥氏らを呼びディスカッションするなど活発に活動しました。また1971年には、乾由明氏・三木多聞氏を招聘して和歌山現代美術展を開催しました。(1971年8月19日−8月23日)10年間で現代造形はで自爆した形で終了したわけですが、近畿の離れたところに位置する場所でありながら、新進気鋭というか、そういう気風は早い時期からこの和歌山にはありました。和歌山では67年と68年と和歌山アンデパンダン展もひらかれた記録もあります。(1967年8月18日—27日 和歌山県立美術館にて開催 「視る」No.4 1967年9月 京都国立近代美術館ニュースくろにくるに内容掲載)
 A55は僕がやめて2~3年のちに解散し、和歌山では80年代以降抽象を描いているような作家は少なくなりました。時代の流れでしょうか、具象的な表現へと変わっていきました。アートニュースにある団体ではエトワール洋画会と青甲会がまだ続いています。ともに具象的な表現をしています。メンバーはもちろん昔と今では違いますが、表現は昔とほぼ変わっていないように思います。

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